『true tears』 西村純二監督 「断念の肯定」を描く作家 (1) 寓話の現実昇華機能

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全体構想の、一部しかかけていないんですが、いつまでたっても書く余裕がないので、まずは、(1)だけ掲載します。

■日常の関係性を描く人々は、いったい「何」を表現したいと考えているのか?


僕は、基本的には「日常の関係性」を描いた作品は、嫌いです、と前提を置いてみよう(実は微妙に違うのだが・・・)。ただ僕が、SFで描く人類や銀河系の視点、それに政治や経済など、人の目には具体的に見えない、この世界を支配するマクロの構造とミクロの動機がリンクし、「世界を動かし変える・翻弄される」という物語を、とびきり偏愛しています。凄く単純化すると英雄端的な物語類型ですね。この世界と自分のミクロの動機や行動がリンクする瞬間が好きというわけですから。

なので、その対比として、「日常の関係性」というものにフレームアップしたものにひどく鈍感になってしまうのです。(精確にいうと、僕は、そういう作品も好きなのですが、好きの感覚がかなりひねくれているので、、、ってその話は長くなるので、置いておく)より精確にいうと、「日常の関係性」にフレームアップした物語に対して、説明する「言葉」をあまり持たないのです。だから、実は、そのあたりの物語への言及は少ないし、そういったものへの「言葉」は、概ね「感想」に出してしまっています。「〜が好きだ」とか「〜が嫌いだ」の次元ですね。枝葉や断片では言いたいことや分析のツールは少しはあるのですが、こういった傾向の作品を偏愛して作る人たちが、何を現前(リプレゼント)したいか?なにをそんなに偏愛的に人に見せつけたいのか?その本質が、今に至るまでどうもはっきりしていないんです。


その流れの一つで、西村純二監督のアニメーションで『シムーン』という作品があって、この作品が、なかなか胸に残る作品だったけど、うまく説明できなかった、という思いがいまに至るまで残っていました。何か偏執的な(--いいかえれば本質的なところを突く異様なエネルギーがある)作品で、最終的にはこの試みは失敗に終わっているとは思いますが、といって、何をどう説明すればいいのかが、よくわからなかったんです。ダメと言っても、何がダメかを言えなければ、なんか好きではないというしかないんですが、、、でも、何か大事なものを「志している」ような感じがあって、それがなんなのか?もやもやしていたんです。

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ある時、漫研のチャットで、ルイさんから、それは監督の西村純二さんを知らないと分からないと思いますよ、というようなことを言われて、それには『true tears』を見なければなりません、という話の流れになりました。これは、大正解でした。まだ100%明確とは言えませんが、かなり分析のツールが開けました。

ちなみに、これは、アニメーションですが、僕はここで「日常の関係性にフレームアップしたもの」とい呼んでいるものは、別にジャンルは問いません。フジテレビの月9的なもの、つまりドラマ作品も、アメリカのソープドラマ的なものも、一般的なエロゲーとか述べるゲームのジャンルもほとんど日常の関係性のみで成り立っていますよね。そういったもの「すべて」に対して開かれている基準とは何か?って事を知りたいんです。たとえば、この辺、韓国のホ・ジノ監督の『八月のクリスマス』や日本映画だと小津安二郎監督や溝口健二監督とか、最近であれば岩井俊二監督とか、このへんのものって、どういう動機でつくられ、「具体的に何を目指して」、どんな感興を受け手に与えれば成功といえるのか?というようなことを知りたいんです。

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この手の話は、今後も続けるので、僕がテーマとしているものは何かというのを上記で、なんとなく、感じていただけると、この手のジャンルに、僕が何を求めて、テーマを見出して、それを受容しているか、が分かってもらえると思います(いや分かってもらえなくていもいいのですが(汗)・・・そういうのが知りたいのです)。僕が「日常」とか「日常の関係性にフレームアップ」した、とかこの辺の用語を使うときには、漠然とこのテーマが頭に思いう浮かんでいます。


そもそもSFとか政治経済小説とか英雄譚が好きな側の人から見ると、ただ単に「日常にあり得ること」を現前させて再現することに何の意味があるんだ?という問いは、正しいというか、わかりやすい問いですよね?。


だって、こういえませんか?。「日常が好きなら日常で体験すればいい!」と。過去の倫理や道徳が激しかった時代、中産階級に広範な権利が得られていなかった100年以上前ならともかく、このリベラリズムが浸透し、大衆が政治権力を担う後期資本主義社会の、それも最先進国の一つである日本の都市部に生まれて(都市でなければわかるが)、いったい、なんで「日常にあり得ること」なんか、受容するんだ?と。まぁ恋愛は非日常だ、といえないことはないでしょうし、恋愛など「濃い」人間関係を作り出すには才能とリソースが必要で、それがない人には需要があるという、モテ・非モテの議論はあるかもしれませんが、それは比率からいって僕は、全人類社会で考えると、つまり一般の平均値というか分布で考えると、ニッチな議論だと思うのです。やはり、何かここを表現したいという情動があるんですよ、人類には。この辺の全体像を確認しないと、その反対物である、英雄譚というかマクロの物語を、どう位置づけるのか?ってのも難しくなるので。ということで、そういう「前提」で読んでいただけると、うれしいです。(前置きが長過ぎ・・・・)


ちなみに長々と書いていたんですが、この「疑問」を前提にしないと、何を細々この作品を分析するのかが意味が不明になってしまうので、、、というか、そんな細かい心情を考えてどうするんだ・・・・とかいう疑問になってしまうので、「上記の問いの構造の派生の問い」であるというふうに考えてください。僕の大きなテーマに、「人間の実存とは何か(=生きる歓びとは何か?幸福とは何か?)?という問い」があって、そのパラフレーズ(言い換え)で、「人間の表現衝動の本質はどういうものか?」「何を人間は本質的に求めているのか?」というものがあって、その時にマクロとミクロの構造分けがあって、この構造の派生として「日常と非日常」があります。・・・この辺でやめておきましょう(苦笑)。



■気に入ったアニメーションは、なぜか例外なく、OPが素晴らしいケースが多い

この『リフレクティア』も、良かった。この「良さ」が、アニメーションという物語が記憶にあって参照できるよう良さなのか、映像とのリンクによる良さなのか、それとも「歌」単体での良さなのか、それはいつも悩むところではあるが・・・。けれども、「ナツメロ」があるということ、自分の若い世代に時に聞いたものは強烈に記憶に残ってしまうということが、ほぼ誰にでもあてはまる事実であることをあらわしているとすれば、僕のようなアニメーションを好きな層は、同じくらい強烈な「ナツメロ」が、アニメの主題歌にはたくさんあるんだよなぁ、と思う。

ちなみに、この作品の主題歌を聞いていると、なぜか強烈に『めぞん一刻』のOP「悲しみ世こんにちわ」を思い出して仕方がなかった。たぶん、どっちの作品も、歌も、感興というか情緒というか、そういった感情のひだの部分を揺さぶることを目指している系統だからなんだと思う。SF的な壮大な英知でもなく、世界の悲しみを憂える政治的なことでもなく、ただミクロに、人の心の動きを追っているものに現れてくるものだと思う。それは「なに?」といわれると、端的に答えにくいけれども、そういうもの。

そういえば、友人のイタリア人が、『めぞん一刻』が好き(イタリアではかなり売れていたそうだ)と聞いて、「ラテン系のイタリア人には、五代君のナイーブさは分からないでしょう?」と聞いたら、「あんな激しいのは南のやつらぐらいだ・・・北部のイタリア人はナイーブで五代君の方がよほどシンパシーを感じるよ。グランマ(祖母)に甘えるところもよくわかる。」といわれて、イタリアが北部と南部で全然気質が違うことを強烈に実感したのを覚えていて、本題に関係ないが、めぞんは、それが印象的な思い出なんだよなぁ。ちなみに、日常を描いた作品という意味で、この高橋留美子さんの『めぞん一刻』は、彼女の『うる星やつら』と並んで、時代を変えた偉大な傑作だと僕は思います。まーそういった歴史的位置づけは置いても、ものごっつ素晴らしい大傑作であることは、否定する人はいないでしょう。

文脈とは関係ないけれども、このtrue tears』は、西村純二監督の『シムーン』を理解するためには?という動機で見ているものなので、せっかくなので、シムーンのOPである「美しければそれでいい」も載せておきます。・・・このタイトルも、割り切っているタイトルだよなぁ(笑)。美しくたって、それじゃーダメじゃんと思う僕は、現実主義者なのかも???。






■現実を寓話化することによって、フィルターをかける演出手法

昨日、漫研でルイさんとチャットしている時に書いたんだけれども、とるてあ(*注意:トゥルーティアーズの略)の主人公である仲上眞一郎というのは、絵本作家を目指しているという設定があって、自分の心境や物語の進行状況と、彼の書いている絵本が同時進行するというスタイルをとっています。


これは何を意味するか?


つまりは現実を暗喩として寓意化しているんですね。よくよく考えれば、映像で、言葉で説明している現状や心境を、わざわざ暗喩化する必要があるか?という質問はあるんですが、とても演出効果が高い技法のようです。というのは、人間は、同じ現実を見ていても、記憶や自分の新的状況や、強く意識するテーマや目標など、さまざまな解釈を可能とする「キー」や「マテリアル」を心の中に基準として持っています。だから、何かを見る時は単純に見るだけではなくて、「自分の心のテーマで解釈して重ね合わせて」現実を見ています。その重層構造を、あえて表現に、露出させて、その重層感覚を視聴者に追体験させようとしているんですね。


そうすると、これは特に「絵本」の持つ機能のようですが、(機能:1)ドロドロで厳しく苦しい複雑な現実を、いったんフィルターをかますことで濾過して、受け取りやすい形に仕立て直すことができるようなのです。

また、同様に、(機能:2)本当は目の前の出来事は、家出した女の子を探すことであったり、事故にあってけがした人を手術室の前で待つなどの「直截的な現実」を表現しながら、「その結果」が、単に「見つかった」とか「助かった」だけではなく、重ねあわされて、「その結果こういう心の課題が解決(動いた)した」などの心理的な変化と重ね合わせることが、演出上可能になるわけです。


眞一郎は、『雷轟丸と地べたの物語』という絵本を書いています。これは実はそのまま、彼自身の内面の動きをあらわしているんですが、それを石動乃絵に報告するという形をとっているのは、この物語がすなわち、乃絵と眞一郎の二人の関係の物語でもあるということを同時にあらわしています。ということは、この絵本が出てきた途端、主軸は、乃絵と眞一郎の「お話」なんだと考えればいいわけです。(・・・とここで、少し本題からずれたことを言っているのは、この本を「見せて」とライバルである湯浅比呂美がいうのですが、結局、この本の中身を彼女は見れません。それはすなわち、乃絵と眞一郎の物語には一切立ち入れなかったということになると僕は思うんです)これ、重要な鑑賞ポイントで、後で語る、この作品が、建物や家といった構造物に、強烈な境界線をひいて、そこを超えると、その他の物語は絶対に入ってこれない、という強烈な峻厳さを作り出しています。この作品は、小さな一つ一つの表現が、ほとんどかなり深い意味を持って、しかも、それを明示的にセリフで語らないので、この辺は、読み説く面白さが最高ですが、わかってからが、より深く物語世界を体感して、楽しめます。言い換えれば、何度か鑑賞するほうが、次々に発見があって、感興があるんですね。


話を戻して、もっともこの機能2の象徴的なのは、「おなかが、ぐぅ」というアレです。崖から空を飛ぼうとした雷轟丸(ニワトリ)が、腹も減ったし、まぁやめるか、と臆病にも逃げるんですよね。これは、乃絵と比呂美を選べない彼の心情とか、「全部ちゃんとする」と宣言していながら動くのが遅い彼の心情をよぉぉぉく表しています。一言でいうと、ヘタレ状況ですね(笑)。これ、直接的に表現するよりも、いっそう鋭くその情けなさを容赦なくえぐれます。なぜかというと、こういう場合のヘタレ状況は、第三者から告発されなければ、なかなか自己告発できません。自分で自分に厳しくできる人はそうはいないからです。けれども、寓話化することで、第三者の「もうひとり自分」が、非常に問いかけ安くなるわけです。それって、「おなかが、ぐぅ」だよね?って。見ている人にとっても、同じような、「逃げ」の体験を容赦なく、リフレクト(反射)されることになり、より一層、感受は高まります。もちろんうまく「はまれば」という条件付きですが。


と同時に、これが面白い機能で、機能1で考えると、これをいったん時間や距離を置いて、全体的に眺めると、直截的な現実が張り付いていない状況もあって、非常に過去をノスタルジックに「全体的&冷静」に眺めることが可能なんですね。この機能を見事に使ったのが、アージュの『君が望む永遠』の水月シナリオのラストのシーンだと僕は思います。分からない人のために説明してしまうと、単純に言うと、孝之、遙、水月の3角関係で、ものごっついドロドロでどっちも選べない中で、孝之が水月を選んだというのが水月シナリオなんです。その最後のシーンで、それから何年も過ぎ去って、というシーンがあって、町の本屋で二人にとっては音信不通であったらしい遙が書いた絵本を見つけるというのがあるんです。それで過去の話を、物語として肯定的に昇華してあるんです。これがなかなか感動的なんですが、ものすっごいドロドロだったんだけど、何年もたって、かつこういう形で寓話化されると、突き放して見れる分だけ、本来はできるはずがない「過去の肯定」が、綺麗に昇華して描けるんですね。ああ、寓話化ってこういう結晶化機能があるのか、と感心した覚えがあります。

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君が望む永遠』 BY アージュ この脚本そのままでフジテレビの月9になるよ!
http://ameblo.jp/petronius/entry-10032669858.html


まとめるのが大変なので、漫研のチャットアーカイブから引用します(手抜き)。

ペトロニウス >> 絵本作家…って、そういえば、アージュ君が望む永遠の最後もそうじゃなかったけ?。日常の恋愛を演出していくと、絵本のような形で寓話化すると、うまく演出しやすいのかもしれないね。寓話化しないと、どろどろな気もするし。


ルイ >> そういえば http://www.tsphinx.net/manken/info/note.php?rq=true tears&lbgn=0 ←この放送当時の感想で、僕も「こじんまり」って言っちゃってるんですよね。だから受け入れられるか心配してたんですけどw。ああ、水月シナリオはそういう描かれ方をしていますね。絵本でもって、年月と、そこに積もったドロッとしたものを結晶化してますよね。だから、あれは残念ですけどw水月シナリオが「正道」なんだよなあw


ペトロニウス >> うん、あれが実は一番印象に残っていて、正しい終わり方だった・・・と思っているんだ…倫理的にも出し、物語の演出の終わらせ方にしても…
ペトロニウス >> 残念とは?
ペトロニウス >> マクロ的にはこじんまりはしかたがないですよね。でもいいものはいい!。プロセスに入ることができれば、いいですよ、絶対。


ルイ >> 遙にとって「出会った日々に意味はあった」と言い切れる作りになってますからね。遙シナリオだと、正直な話主人公の想いだけは完遂されるけど、水月にとってはとんだとばっちり止まりといいますか・・・悲恋を背負って生きていく話になっちゃうんですよね。いや、僕はペトロニウスさんと逆で「俺は遙だなあ」と想ってしまった人間なので。でも多分、それは主人公を読みきれていない。それを徹底できるなら、水月と何年もの時を歩んじゃいけないんですよね。病室に通い続けながら、自分の生活を確立できる人だけが遙を選べるのだと思います。物語的には。


ペトロニウス >> いや、遥が純粋だと思うんですが・・・でも、それならば、水月を拒否すべきだと僕も思いました・・・けど、遥との思い出をキープするには、それを共有できる水月と一緒にいないと、維持できなくいて壊れたと思うんですよね・・・・


ルイ >> ですね。だから孝之を糾弾しようという気は、あまり起こらないんです>壊れた 当時三大ヘタレとか言われてましたけど・・・「理由のあるヘタレを理由のないヘタレと一緒にすんな!」とかw。ヘタレはヘタレと言ってしまえば、それはその通りなんですけどね。


ペトロニウス >> だから、遥を一番い思っているんだけれども、現実には水月が大きくなってしまって選べない・・・・というか想いの質が違うものなんで、、、その「不可能性の断念」がある方が僕は物語的にいいと思うんすよ。変な言葉だな…不可能性の断念…ではなくて西村監督の越えられない峻厳さと同じものです。


ルイ >> そうですね。言葉が悪かった。つまり、現実の水月を大きくしないで遙を選べてしまう主人公は「超人」なんですよね。そこで水月を大きくしてしまった上で比べる段、として物語を眺めた時、遙と水月では、どうしても天秤は水月に傾いてしまうことが、物語の美しさにも現れているし、それは遙好きとして「残念」だな、という話ですね。


ペトロニウス >> あれは、「ああ」しかなりようがなかった。おもいっきり遥を愛すれば、ああするしか現実的な選択肢がなくて・・・・というところに悲しいほどの現実がある。。。あれは、否定できない浮気だもの。ああ・・その「残念」は僕も至極同意です。その残念さとどろどろさを、絵本という寓話に閉じ込めることで青春に昇華した、、、しかも遥も異なる人と結婚していますよね・・・それが素晴らしくて、やるせなくて、感動したんです。それが、生き切った人生。純粋さだけでは生きていけない・・・・だから、翠玉のリマージョンがいるんですね…うーむそう考えるとわかるなぁ。それが、生き切った人生。純粋さだけでは生きていけない・・・・。そういえば、同じ主題で、ペ・ヨンジュンの映画ありましたねぇ。『四月の雪』。

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ルイ >> 水月シナリオの遥が一番輝いているであろう事が、切ないですよね。そういえば最近、OVAで「君が望む永遠ネクストシーズン」というものをやっているようなんですが・・遥を選び取った物語を描いているんだけど、1話はちょっと、秀逸でしたね。以降は淀んでいて、まだ終わっていないから評価は下せないんですが。

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ペトロニウス >> 理由があるへたれを一緒にするな・・・・うんうんわかるわかる・・・ああ、、、この原理で、三角形ドロドロものの解釈が相当うまくできそうだな…ネクスト???まぁ人生は続くからねぇ。。。。でもそこまでダイナミックなことが起きていると、生きていけ無いよ…人生(苦笑)


ルイ >> 2人で、駅のホームの「ミートパイ記念日」などを再現しながら、失われた日常を取り戻そうとしているんですよ。それは本当に仲むつまじく映るんだけど、いみじくも水月が指摘したとおり「この街での思い出は水月の方が強い」から、孝之は焦っちゃって、生活崩してまで遥に時間の総量を捧げようとするんですよね。それを観ていた遥が、電車が出る瞬間「別れよう」という。。。先が面白くなりそうですよねw


ペトロニウス >> ああ・・・・なるほど(笑)でも、それって同じことの繰り返しですよね。水月シナリオで設定された構造と。


ルイ >> そうです。でも遥を選んじゃって、水月は街を離れてしまったわけで。今度は、2人でこの構造を自浄するしかないと想うんですけどね。そこをどうするのかな、という点だけ注目してますね。


ペトロニウス >> もう三人で一緒にくらそう的なものは、プロセスを秀逸にしない限り落ちとしては、なれたしねぇ。なるほど、漫研的な読み方ですね。そう思うと、凄く面白い。


ルイ >> ああ、それは厳しいですね。「フタコイオルタナティブ」で成立していて・・・「マクロスF」では成立しているように見えて、あれは運動体を写真で捉えたからそう見えるだけでしょうしね。


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ルイ >> >3人で〜


ペトロニウス >> 自浄か・・・・言い得て妙なセリフですね…。確かに、前の彼女とHした場所を狙って新しい彼女とするとか、そういうマーキング的なことはわかるなぁ。。。記憶は重ねないと、強度が残ってしまうのでね。まず消えないけど。


ルイ >> 消えないですねぇw特に女性はどうかわからないけど、男はそのへん、なかなかどうにもw


ペトロニウス >> アニメはあまりしらないですが、少女漫画では、割とよくあるパターン。いちばんは、『BBB』かな、最近だと、『さくらんぼシンドローム』が、熟女巨乳と貧乳ロリの組み合わせで頑張っていましたが(笑)

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タイトルの「断念の肯定」にまで全然行きつかないで、その演出をするためのベースのアイテムを紹介するところでまず力つきました(苦笑)。えっと、僕は、この『truetears』に、日常を物語空間に現出させる手法の極北のパターンを見出していて、そのためのありうる様々な演出技法が、宝箱のように詰まっていると思っています。それがいくつかあって、地方の「匂い」を演出すること、建物の空間と心理的な空間を重ね合わせること、その他いろいろあって、それが、合わさった上で、この作品の匂いたつような「匂い」が現出されています。まだまだ書くのに、物凄い時間がかかるでしょうが、頑張って書きます。それくらいいい作品でした。とりあえず、書いてずぅぅぅぅっっと寝かせておいて、(2)に行きつかないので、もったいないので、掲載しておきます。

(私信)渡辺さん、だめっす、、、パワーなくて、続きが書けません(涙)。許して、、、まだ数か月ぐらいかかりそう。