『日清戦争-「国民」の誕生 佐谷眞木人著  国民国家・近代国家意識もつ「日本人」を形成してきたメディアの履歴

日清戦争─「国民」の誕生 (講談社現代新書)

評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★★★星4つ)


非常に面白いです。池田信夫さんのブログのお薦めの本は、どうもヒットするものが多い。これは、日清戦争を契機に、日本という国が、依然とどうかかわったか?を扱った本です。一言で言うと、それまで「国民国家」の概念や「対外戦争」の概念がなかった日本に、国民一人一人がコミットして結集する近代国家の、その集大成としての対外征服戦争が、どのように、人々に浸透していったかを追ったものです。これを読むと、単純な司馬史観や日本の歴史認識では、「日清、日露戦争まで素晴らしく気高かった近代国家の優等生である日本がどうして、その後暴走したか?」といわれる発想が、いかに嘘であるかが良くわかります。

この発想は「日露戦争以後と以前に境界線がある」ということなんですが、この丁寧な日清戦争時のメディアの展開を読むと、全く境界線がないことがはっきり分かる。むしろ日清戦争の時代に堆積したメディア(=国民を巻き込んだ一体感の創出)の在り方が、その後の日本を方向付けた、と言えるでしょう。対外征服戦争へのきざしを、著者は、西郷隆盛の「征韓論」にまで遡りますが、もちろん、「それ」が原因といっているわけではなく、もともと対外膨張を通して国民を創出していくプロセスがまず最初に「結論」としてあって、それにふさわしい物語を、探し出すという逆のプロセスを、この本は丁寧に描いている。その結果、教科書に、朝鮮半島を支配するのが正統であるという、神話時代の神功皇后のエピソード(これも、最近日本の神話関係の本で、、、って関裕二さんとか吉田武彦さんとかで読んでいたので、おおっ!ておもったよ)を持ち出すことになっている。これは、「そういうエピソードがあったから」ではなくて、それを利用したというルートがちゃんと示されているところが重要だと思う。


こうして見ると、そもそも司馬史観なんかの、日清・日露戦争以後と以前を峻別するという概念は、、、良くない効果の在る発想だったんだ、、、ということを思うようになってきた。というか、そもそもよくよく考えてみると、戦後の日本を肯定するための、「中国とアメリカと戦争をしていたころの日本は悪であった」という善悪二元論を正当化するための神話であった、ということが分かってくる。というのは、僕には、戦前の教科書・・・特に、日清戦争時に生まれた対外戦争を肯定する「国民国家」を誕生させていく物語群と、ほとんど質的に連続性を感じたからです。いや、誇り高き日本の話は、結局同じことをいっているんだよね。この誇り高きという部分が、「国として強い」・・・それは経済でも武力でもそうで、という部分になってしまって、たとえば、ベトナム戦争に反対することとか、公民権運動を主宰する国民とか、そういうものを苦みを抑え込んで愛国者の在り方としてきたという伝統がないんだなぁ…。だから「誇り高き」という部分が、薄っぺらい。他者と比較して強い・・・言い換えれば他者を貶めることで強いと思う発想って、やっぱり自信とやプライドの在り方としては、レベルの一段低いものだよなぁ。自身やプライドは大切で根拠もいらないし、それこそ神話でもいいんだけれども、「それが行き過ぎた形になり」他者を見下す優越感になると、国の政策を過つ・・・しかし、「それ」以外のナショナリズムの結集なくして、近代国家はテイクオフしない・・・。まぁはっきり言えるのは、プライドや自信は、「内発的」であるべきで、「外発的」・・・いいかえれば、何かとの比較や優越によるものは、最終的には自分を滅ぼす醜く軽いものなんだと、僕は思う。・・・なるほどー。


そもそも、徳川時代にバラバラで「統一国家日本」という概念がなかったところに、対外戦争を通して「国民国家」形成していく・・・つまりは、戦争体験をメディアを通して国民に一体感を持たせることで、「俺たちは同じ民族なんだぜ!フィクション(=幻想)を作り上げていく」ことは、遅れてきた近代国家の日本が、脱亜入欧・・・・先進国、列強パワーズになっていくためには、そもそも必要なプロセスなんだ。そこに善も悪もない。その後、同じプロセスを、各国の近代化では踏襲している。ただ、遅れてきた近代国家なだけに資本蓄積・リソースがなかったことを除けば、「そもそもその国民国家」の「国民」を誕生させていく教育課程・・・メディアによる洗脳過程で、「対外戦争による富国強兵策」以外の誇りある国家像を提示することができなかったことが問題だった気がする。もう時代的なことからも、またその他の列強からの植民地化を退けるためにも、国民の一体感のある近代国家・・・そしてそれが遠征軍を想定することは、もう不可避だったと思うんだ。けど、さっき書いたように、アメリカがベトナム戦争で自国の中が真っぷたつに割れたように、ある一つの極端な価値観が支配された時に、「自由」や国としての理性とか、、、なんというのかなぁ、今後も1000年続いていく国家としてのバランスの在る歴史観や価値観が作動して、暴走のバランスをとるというストッパーを国家運営システムの中に作り出せなかったことが、問題なんだ。たとえば、フランスの兵学校では、市民に銃を向けるな、ということが徹底して教え込まれるらしい。また、イギリスの兵学校でも、政府じゃない、女王に忠誠うを誓うんだ!とか、アメリカが星条旗(つまりは概念、理念に)忠誠を誓うとかいうエピソードがあるのは、本当は、国の運営や指揮権的には、それって違法だし矛盾しているんだけど、何を言いたいのかといえば、ようは、「自らの国の過ちは自らで糺そう!たとえそれが内戦を生んでも」という、時の政府や権力に盲従しない価値観が市民や国民軍には必要だって言っているんだよね。日本やアジア諸国を見ると、遅れてきた近代化国家には、、、集権的に近代化を成し遂げなきゃいけなかった「やむにやまれない事情」があるにせよ、そもそも教育によって価値観の多様化を図るだけのリソースがなく、全力でまずは、列強からの植民地獲得戦争に対する防衛能力が求められるために、高度な中央集権を形成するようになるんぢゃおね。その過程で最も必須な、納税と徴兵の概念を刷り込むのに、「時の権力(一時期のモノ)」に対して、盲従せよって教え込んでしまうんだ。それ以外のモデルがあるか?といわれると、難しいところがあるが・・・ただそういう「仕組みが働いている」ことは見えてきた・・・。なるほど。封建国家やその他の国家モデルから近代国民国家モデルに転換するときには、こういう問題点を抱え込むんだな・・・。


なんか、おもしろいです・・・いま2/3まで読みました。これと同時に浅田次郎さんの『蒼穹の昴』と『中原の虹』を読むと、素晴らしく感慨深いです。全く同時期のモノを別の視点から見ているものだから。

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