世界の残酷さを抱きしめて

キラ☆キラ

評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★★★★星5つ)

■この、くそったれな世界に、精一杯の愛をこめて

キラキラ。いまほぼ終わり。明日休みだからって、ほぼ徹夜です(笑)←バカ過ぎて、泣ける。キラリルートの最初のやつまで。。。「もう一回やる勇気がないなぁ・・・」と海燕さんが言っていた意味が凄くよくわかる。僕も、二度はやれない・・・。僕は学校の屋上に上るシーンで、『バニラスカイ』を思い出しました。いや、、、、もう、なんというか、素晴らしいです。。。。ああ、『SWANSONG』と同じ脚本家だ!と、死ぬほどよくわかります。うんうん。めちゃめちゃらしい。


なんというのだろう・・・僕は、言葉が選べなくていつもだめだなぁ・・・と思うんですが、こういう感情が胸を渦巻く時は、やっぱり何か言いたい・・・。えっと、意味不明になると思うけれども・・・物語的には、たぶん大した話じゃないんですよ。人間の不幸は、貧・病・苦と、よく宗教とかでいは言います。確かに、それはたとえようもな悲劇です・・・けど、物質的に豊かな世界に来ている僕はもう知っている・・・実は、そういった「不幸の物語」は、とてもありふれたよくある話で、、、極端な話「大した話ではないんです」。だって、普通にある話だもの。


まぁこの脚本家を支える伝えたい根幹は、ヴァスティション(精神の崩壊)と再生なんだと思うんだけれども、、、だから、この鹿之助君、その後のハッピーサイクルの話が、そもそも語りたいことの本義で、それを表現するために、前段の素晴らしい青春物語である第二文芸部バンドの話と、キラリのエピソードがあるだけにすぎない・・・と構造的には、鳥瞰できると思う。


けど、、、、結局は、その「大した話ではない」ことが、主観の世界にとってはすべてなんだ・・・と思うんだよなぁ・・・。いや、この僕らの生きる世界で起きる日常のすべての出来事は、陳腐で無意味で価値のないものなんですが・・・けど、結局、「それだけがやっぱり世界のすべてなんですよね」、その人の主観にとっては・・・・。個別具体なものを抱きしめてしか人は生きていけない・・・そして、それは、もうマクロの構造のような大きな「流れ」みたいなものに乗っていて、簡単に壊れて消えてしまうんだよな・・・。


うーん、なんだろう、うまく言えない(苦笑)。・・・・ああそうか、たぶん個別のエピソードに言及したくないんだ・・・個別のエピソードは、例えば物語の登場人物の気持ちに同化していたら、あまりにつらくて言及できない、、、、けれども、その組み合わせすべてから見えてくるものは、「このくそったれな世界の残酷さと愛おしさ」なんだよね、、、、それは、もうなんというか、受け入れるとかそういう意志的な話ではなく、、、「訪れて来てしまうもの」なんだ・・・。

うん、、、凄いねぇ、前にも書いたけど、こういう感覚を、陳腐な物語の組み合わせで、ちゃんと受け手に伝えるんだもの・・・。この作家、素晴らしいよ。特に得意なエピソードがあるわけでもないのに。・・・うーん、だめだ、個別のキャラクターには、思い入れがある分ショックで、語れない(苦笑)。まぁ、、僕も洞察力というか文脈読みですれているので、ああこの手の子だと抱えているのは、、、そして未来は、、、って、見た瞬間におもったとおりだったので、、、、凹んだ・・・。やっぱそうか・・って。どうにもならない「流れ」というものは、この世にあるものなんだ、、、、。僕は、こういう手が届かないものがなくなってほしくて、頑張って働くんだなぁ、、、と思う。誰かを守りたいと思った時に、本当に守れる力がほしい、といつも思います。・・・そうか、普通の生活や成長を求める気持ちって、「ヴァステイション」からの回復経験があるかどうかで、決まるんだな・・・当たり前だけどいまさらながらに思った。

いやーいい作品でした。


追記


■「一つのボタンの掛け違いによる偶然」で、世界はこんなにも揺れてしまう

ラストエピソード終わりました・・・(仮眠少しした後(笑))。うん、ほっとしたよ、そうでないと(笑)。と思うが、やっぱり、この物語の本当のルートは、僕にとっては、上で感想を書いたキラリの話だと思うんだよなぁ・・・こういうシナリオ・ゲームのメディア的特徴は、マルチ・シナリオで、物事って「一つのボタンの掛け違いによる偶然」で、世界はこんなにも揺れてしまうという、「偶発性の恐怖」を表現できてしまうことにあると思うんだ。

えっと、偶発性ってのは、「そうでもありえたけれども、こうでもありえたこと」・・・そして「その差は実は偶然であってなんら論理も合理もないこと」です。人間は、主観的には「理由のない世界の偶発性に耐えられない生き物」なんです。それを馴致するために宗教は生まれました。

たとえば、「愛する人が死んでしまう」ことは、はっきりいって科学的に考えれば当たり前なことです。だって「人間は死ぬ生き物ですから」。けれども、それが「なぜいったいどうして、僕の身に?私の身に?」という、その現実を引き受けなきゃいけなかったのが「自分」であるということに、理由はありません。そして、それが愛する人だったとしたら、、、、その現実を受け入れるための「理路」が存在しないのは、最悪なんです。

そして、そこに「理路」がない以上、合理的な説明は一切できません。そこに信仰が入る余地があるんですね。なぜならば、説明できないんだもの、「なぜ、僕だけが、私だけが?」ということは。現実は科学的に起きることしかおきないかもしれないが、「それを個人が体験してしまうこと」の理由は、わからない。なぜ僕だけが病にかかる?なぜ私だけが恋人が死ぬ?なぜこのように生まれたか?ってのは、理由はない、としか言いようがないもの。

ああ・・・そしてきらりの父親のエピソードというのは、この物語の主人公である前島鹿之助君の人生とほぼ、ニアリイコールなんですよね?。僕はそう思いました。ほとんど同じですよね?。これは「いったん心の気力が崩れて」そして「生きて現実に強くかかわる意欲と動機が壊れてしまった人」がどういうもの?ってことでしょう。きらりの父親は、もうどうしようもないクズだけど、こういう精神のバスティションの状態って、多かれ少なかれみんな体験あると思うし、こういう人のほうが世界には多い、と僕は思う。こういった「負のモチヴェーション・サイクル」をまわすことは、「正のモチヴェーション・サイクル」である成長のサイクルよりも、簡単に落ち込みやすいものだからです。

ああいう人間は、うん、、、結論から言って、こういった動機のサイクルが壊れている人間は、無視するか殺すしかないでしょう。だって抜けないんだもの、あのスパイラルから。ほぼ90%くらいの確率で抜け出ることはできない。特に、そうだなー高校生以降でなった人は、もう無理ですねぇ、今までの見た感じでは。・・・これは、マッチョには結局かなわないという話と、人間は成長したり変わったりはほとんどできないくらい難しいという意見と表裏一体です。僕は、年齢の境としては、もう中学を超えたくらいで、人格を入れ替えることは、ほとんど不可能な感触をもっています。それが変わるきっかけがあれば、それは確率任せの「運」に過ぎない、と僕は思う。とても運がいいだけ。逆に言うと、ほとんどありえないようなことだからこそ、「人が変わっていく瞬間」というのは、素晴らしいものなんだけどね。

瀬戸口廉也さんという人は、この「壊れた負のモチヴェーションサイクル」中にいると見えてくる世界の不合理な偶発性の恐怖・・・・世界の残酷さを直視しながら、「それを直視しているのが常態な人物を主人公」にして、心理描写を丁寧にする、という、なんともはや、、、(苦笑)暗いことこの上のない舞台設定や人格設計をする人ですね。SWANSONGもキラキラも、同じですものね。そして、そのどちらも、「世界の越えられない峻厳な壁」に直面しながらも、生きることを放棄しないで、ギリギリで人間であり続けるんですね・・・だから、世界への愛しさを、あんなにも残酷なものを描きながら、世界への愛しさを感じる。けれど切ない愛しさです・・・だって、絶望的なんだもの世界は。でも、世界がいかに絶望的でも、自分が自分に絶望しないかぎりヴァスティションは、起きないんですよ。いやーこの人の描く世界は、考えさせられます。


だから同じルートに入っても、鹿之助とキラリの父親は、異なる人生を歩むんです。世界はいつまでも残酷だし、そして自分の中のモチベーションサイクルは壊れたままでも、、、それでも、人は、生きていけるんです。。。。