『獣の奏者』 上橋菜穂子著 帰るところがない人は、より純粋なものを求めるようになる

獣の奏者 I 闘蛇編


闘蛇編を読んで、わかった。これは大傑作だ。脚本の構造も素晴らしくいい。二巻の王獣編まで行くところは、その哀しみが基調になったベースではあるが、ハリーポッターと非常に似ている構造で、子供にはとても受けがいいワクワクしたダイナミズムがある。何を持って児童文学というかは、知見がないが、子供に読ませるのにも最高のものだ。素晴らしい。僕は、これを、絶対に子供に読ませるよ。子供が読めるように構成されているし、にもかかわらずその深さは、この前見たクリント・イーストウッド監督の『チェインジリング』や『ミリオンダラーベイビー』など晩年の傑作作品群に繋がる世界の層の深さを感じさせる。もう一度繰り返すが、特別に素晴らしい作品だと思う。


一見で、アニメと異なる印象を。


一つは、今までのところ、エリンが「霧の民」として受けてきた差別意識「階級の違いによる人間へのランク付け」が、小説では、かなり強調されている。それは、当然でこの物語の本質である、人と人に交われない「獣」との共存についてが本質のテーマの一つであるので、それと平行で語られるテーマだからだ。


どちらも、「存在がそのようである」こと自体は、その存在のせいではなく、ただあるがままにそうあるだけであるにもかかわらず、世界には仕組みができ共存するためには、なんらかの仕組み・・・それはランクでも差別でもどういっても本質は変わらないが、「構造」のようなもの「掟」のようなものができてしまう。そういうものに縛られていきたくないと思うのが真の純粋さかもしれないが、それは、「この世界自体がそうある」ということ無視してしまうことでもあり、人の中で、世界の中で生きられない、ということでもある。


このテーマは深い。それとエリンが、ソヨンが、獣ノ医師を目指すということは、このテーマの本質と一直線に重なる。またもちろんそれの、分岐のテーマである、エリンが霧の民という排斥されている異民族の出自であることが一発で分かることは、彼女の精神に大きな影響を及ぼさないはずがない。


そして、小説の中で、エリンの純粋さは、いやソヨンから受け継がれた、「掟」の先にあるものを大事にしようとする純粋さ・・・僕は、あえてこれを傲慢な純粋さ、と呼びたい、それが何度も繰り返される。小説は、内面世界をとても強調して追えるので、僕には、小説版でのエリンの強烈な純粋性を求める志向、妥協を許容できないまっしぐらな志向には、強烈な印象が残っている。


「くだらない・・・なんてくだならい・・・」


そうエリンは何度も、苛立ちとともに反芻する。ああ、この子は、世界で生きていくのが難しく、孤立するだろうなぁ・・・ととても感じました。それは「獣がそうであること」を、政治や権力に結び付けていく「大人」たちへのいらだちだ。ただ、僕はこの風の谷のナウシカや古典の虫愛ずる姫のいつのように、そのすべての掟や世界の在り方にとらわれない純粋に「獣が、それが、それであること」を愛する純粋さは、切なく美しいものだと思う。けれども、それは、間違ったものだと思うのだ。だって、僕らは人間だもの。そんな純粋に生きることはできないもの。


しかし、エリンは、ソヨンは、たとえばナウシカは、どう考えるのだろうか?。


そのような「掟」の権力の世界でしか生きられない平凡な、僕らの一般人たちのことを・・・僕は、物語の主人公になりたいとは思うが、そんなものになはれない普通の人である断念を抱えて生きている・・・そして、かりに僕がエリンの世界に生きていたとしても、よしんば最高に才能がある人材として、その生まれとして育っても、「その世界の理」自体を覆すだけの力はあるまい。


そういう「特別」な存在というのは、本当に特別なのだ。


仮に僕が霧の民の技能者であっても、大公の戦略指揮官でも、真王に仕える最高行政官であったとしても、普通の村に住む領民であったとしても、どんな存在であったとしても、エリンや、ソヨンのような、「掟を超えること」をなさしめることはできないんだ。


ソヨンですら、彼女の人生は、その狭間で苦悩しながらも、掟を選んだ人生であった。


そう、「この世界がこうであるること」・・・・我々寄る辺ない無力な人間もまた、この広大無辺とルールに貫かれた世界に「投げ込まれた存在であること」を、それを無視しては生きられない、、、それを無視することは、自分と世界を破滅に導くことでもあるということを、それを本当にわかって、彼女は「くだらない・・・」と、それでも言えるだろうか?僕は、非常に感慨深くこの物語を読んだ。


そして、それでも、また人間というものは、純粋なもの、、、何かを追い求めて、焦がれてやまないものだとも思う。


子供のころから徹底的に、エリンというのは、孤独な存在なんだな・・・と感慨深く読んだ。このことは、小説の描写で際立っている様に僕は思える。


大きな差のポイントは、エリンの祖父、闘蛇衆の長が、エリンをひどく蔑視していたことだ。このシーンは、小説版では、強烈にエリンの心を抑え込んでおり、母がいないい限り「自分には帰るところはないんだ」という意識をエリンは強く強く持っている。エリンには、祖父や母親以外の肉親には捨てられ、見殺しにされた、という恨みが深く心に残っている。もちろんそれは、「霧の民」である自分と母への差別故だ。祖父は、息子のアッソンを深く愛しており、技術者としてのプライドが非常に高い人だったので、ソヨンの才能を、偏見と差別と息子と結婚したことに強い怒りと嫌悪を感じながらも、それでもソヨンの才能を評価しているという、非常に屈折している人であった。祖母にほうはあからさまにエリンを差別していたようだ。


ちなみに、余裕があれば書きたいのだが、アニメ版、小説版、マンガ版は、それぞれに、微妙に演出が違うので、かなり受ける印象が違う。特に、ソヨンがアウォーロウ(戒律の民)としての掟と、自分の命と、娘の命に、はっきりと優先順位つけているさまが、明確になるのは、1)マンガ版>2)小説版>3)アニメ版のような印象を受ける。それにしてもマンガ版はいい。絵柄の差が激しいというのもあるが、そのどれも、僕はちゃんと生きていて、感心してしまった。特にマンガ版は、まったくこれまでアニメで積み上げていた絵と違っていたので、非常にすっと入れて、全く同じ設定で違うキャラクターを見ているような気がして感心してしまった。とてもこの絵柄大好きです。


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