志を持って勝負の世界に挑むこと

3月のライオン (1) (ジェッツコミックス)


あずにゃん問題(笑)〜日常をたゆたい「いまこの時の幸せをかみしめる」か、それとも志と夢を持ってつらく茨の道をかけのぼるか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090628/p1


けいおん』・・・というかたゆたう日常のフレームアップを得意とした京都アニメーションの描く世界とは、真逆なものを描いているので連想するのがこれ。まさに勝負の世界で生きることの厳しさと苦しさ、そして切ないほどの美しさを描き続けている作品。ここには、明示的な「志」はない。でも、やっぱり、それは、「父の背中」なんだろうと思うし、、、あと、人間というのは「一度選んだもの」を簡単に変えることはできないんだ。人生は一度きりで、時間は二度と戻らない。どんな小さな決断でも、若くて情報がない中の決断でも、選択したモノは、もう戻らない。「その中で」、、、その限られた選択肢の中で、戦っていくしか、人生という名の戦いは、生き抜くことができないんだと思う。そこに言い訳はない。言い訳したって、自分の今いるところは何もかわりゃーしないんだから。それが正しい、とは言うつもりはない。けど、それが美しい、それこそが人間が歩むべき人生だ、とは思う。


追記

あずにゃん問題は、おお、反響あるなー。まぁ「わかりやすい対比」なんだよね。実際のところは、『けいおん』の作品内だって、そんな単純ではなく、いろいろなものがグラデーションになって、あずにゃんは、あそこを居場所に選んだのではあると思うけれども。けど、世界はけっこうシンプルで、「どっちが大事か?」と感じる価値観によって、感じ方がかなり変わってしまうんだと思うんだよね。僕は、そもそもが、勝たない人生には意味がない(=本当はそんなことはないことは重々承知)という生き方を選択している人なので、それ以外の物語が受けつけにくい体質なんだってことだけ。『けいおん』のコンセプトやそもそも内部にいる唯ちゃんたち自身を素直に肯定的に見れば、あずにゃんが「あそこ」に居場所を見出した理由は十分想像できるんだけれども、、、それでも、、、とは思ってしまう。これは、ある種の我がまま&体質であるんだろう。もちろん、何も考えずに「ゆるさ」を肯定してしまうのだって同じく我がまま&体質だと思うけれどもね。・・・・つまりはね、類は友を呼ぶんだ。なんとなく、似た価値観の人同士が友達となっていくものなんだよね。いろんな、多様な生き方が、少なくともこの国では許されているんだから、好きに生きればいい。そして、好きに生きるというのは、多様性の次元の違いがある中で(=勝ち負けの基準が常にひっくり返る)、競争している世界であることには変わらない・・・・・って、いってみれば、勝ち負けはないっているに等しいんだけれども(笑)。

ちなみに、「どっち側」の比率が多いのかな?とマーケティング的には思ってしまうわけ。京都アニメーションが見出したこの「ゆるい日常もの」系統が金鉱であるとすれば、つまりずっと似た系統がヒットし続けているよね?、だとすれば、やはり世の中はどちらかというとゆるいものを求めているのかな???とか思うが、まぁーアニメや漫画の一部で、社会を代表するわけにはいかないけどねぇ。僕のビジネスの感覚からすると、「ゆるさ」と同居する形で、その「ゆるさ」を嫌悪して競争に駆り立てられてそれを楽しむ層というのも、実は結構00年代以降出てきている気がするのだ。ただ、エンタメの世界では、それをリプレゼンテイト(表象)するものがあまり見当たらないのはなぜかなーとか思ったりして。

ちなみに、ああ断定口調で書いていたんだが(苦笑)、大人ってのは、二重思考ができる人をいうんだと僕は思うんだよなー。つまり「ゆるさ」と「勝つこと」を同時に許容して、穏やかに眺めることができる人。価値観は「自分で守るもの」であって「他人に強制するもの」ではないからね。まっ、こうかくと、じゃーいうなという話になるんだが、それは違う。自由とは、自分の信ずることを主張して、それを貫いて現実に示すこという、とジョン・シュチュアート・ミルが『自由論』で語るように、いいたいことは云えばいいんだと思うんだよ。それを受け入れるかどうかは、その人次第。岡田斗司夫さんの『自由洗脳社会』ってそういうことさ。なにがいいたいのかよくわからなくなった(苦笑)