並行世界は、不死性とインプロヴィゼーションの話でもある

ひぐらしのなく頃に解 第三話~皆殺し編(下) (講談社BOX)

ああ、凄い面白い。並行世界の物語の王道だ。しかし、それ以前にそれぞれのエピソードが、非常に面白い。素晴らしいなー。読み出したら止まらない。特にこの解決編は、見事だ・・・。個人の内面から、組織を動かしていくに至る前でのプロセスは、、、今下巻の最初なんだけれども、素晴らしい。


ちなみに、分かってきたんだが、並行世界の物語世界を構築すると、その全体像を見渡す「観察者」のポイントが生まれて、これって僕がよく言っている「不死性とインプロビゼーション」の話になるんだよな。世界を甘受する力が、「退屈」によって摩滅していくって話。


そうか・・・・並行世界の物語という物語類型は、現代の最大の病気である、「退屈」による「精神のバスティション(byウィリアム・ジェイムス)」の回避にあるんだと思う。それがこの物語の本質。


「世界」は、本当は多選択肢を重包する非常に複雑で多様なものなんだが、人間は感受性と想像力の摩滅によって、「退屈」に陥って世界を「あるがまま」に感じられなくなっていく。王道の物語を陳腐に感じて、飽きてしまうという心も、そういう精神構造に由来するんだと思う。そして、それが極まった時に、もう一度世界のその複雑な多様性を、眼前に転換して甘受させることで、いま目の前の選択肢が「たくさんの選択肢の束」になっているという輝きをも出ださせるために、この物語類型は生まれてきたんだと思う。


この並行世界が、正しい形で展開した場合には、「人生はそう都合よくやりなおせるわけではない」というような陳腐な批判は、的外れになってしまうんだと思う。なぜならば、この類型の出自を見れば、それが筋の悪い物語に該当する批判であって(たとえば代紋エンブレムとかあれは最低だった・・・)、この類型の持つ本当の核心を考えるならば、「自己のナルシシズムに陥る個人の倫理性を詰問する」というのは、非常に局所の批判でしかあり得ない。だって、この物語の代表例である『マブラブオルタネイティヴ』もこの『日暮しのなく頃に』も、どっちも、多選択肢の意義は、「そういった個人の非倫理的な都合のよさを近っぱみじんに粉砕する」ことをその目的としている・・・・言い換えれば、この類型の正しい使い方は、自分の都合のいい未来を獲得させるために非倫理的なことをできることにあるのではなく、「本来選ぶべき陳腐で王道で正当な手段」を、、、、「自らのナルシシズムを否定して」採用すること・・・・そこに眼目がある。

そのことによって、この世界の「あるべき選択肢」のなかで、もっとも、王道でまっとな手段を「選ぶことのヴィヴィッド感」を取り戻すことこそが、この物語の究極の目的であるとおもうのだ・・・・この類型をして、「人生が何度でもやり直せるような多層構造」という部分を批判する人は、人間がそんな陳腐んはものを求めているとでも本当におもっいているのだろうか?。いつの時代であって、僕らは、みんなは馬鹿じゃない、、、そう思うよ。それは、構造上そういうバッドエンドのループも存在しているだけで、その袋小路逃げた作品はたくさんあるが、それは、やはり正しい形でこの類型を展開したとはいえないだろう。


・・・・ちなみに、そういう意味では、『マブラブオルタネイティヴ』もこの『日暮しのなく頃に』は、冗長ともいえるぐらいこのことに自覚的で、物凄いレベルのビルドゥングスロマンだ。・・・それにしても、現代人の心の病はでかいんだなぁ、、と思う、、「ここまで」のしなりをと世界を見渡せるパースペクティヴを持たないと、「正しい選択肢」を陳腐に選んで、前へ進もことの素晴らしさと価値が分からないなんて・・・・。