【映画版エヴァ破考察 その弐】 庵野秀明は、やっぱり宮崎駿の正統なる後継者か!?〜「意味」と「強度」を操るエンターテイメントの魔術師

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【映画版ヱヴァ破考察 その壱】僕たちが見たかった「理想のヱヴァ」とは?〜心の問題から解き放たれた時、「世界の謎」がその姿を現す
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090710/p2


続きです。


■そこに世界があるという群衆シーンと世界の風景の精密さが、そこに「ある」というリアル感を再現する

もう一つ、この新映画版が、テレビシリーズと大きく異なるところは、


(1)人物・群衆シーンの大幅な挿入と細かい演出


(2)世界の緻密な描写〜モノそのもののリアル〜得る強度


です。(1)は特に感動した人も多々いると思うんですが、予算の問題をクリアーして技術(CG)のレベルが上がっているからできることなのですが、群衆が非常に多く細かく書き込まれているいますね。いってみれば、その他、無名の人々。たとえば、テレビ版では、「その他のクラスメート」というのは非常に影の薄い(=全体の比率がからいえばないに等しい)ものでしたが、新・映画版では、詳細に描かれて頻度が上がっている感じがするのですが、たぶん短い尺の中で描けばそれだけ相対的に存在感が増すんだと思います。「ああ、エヴァの世界でも、他のクラスメートがいて、そいつらとああいう風に仲良く絡んだり会話しているんだな・・・」というのがまざまざと感じられて、僕はぐっときました。LDさんもまさにといっていました。これは、後での壮大な妄想の謎解きに関連するのですが、テレビシリーズ・旧映画版が、まるでシンジの内面世界「のみ」だけの「閉じた世界」に感じることから比較すると、この新映画版の世界の描写は、それとはまるで違う、他者がこの世界にちゃんと「ある」ような躍動感と広がりを感じさせます。予算が取れて自由に描けるだけになっただけだ、といううがった見方もあるかもしれませんが、これは僕は明確に演出だ、と思っています。LDさんも指摘していましたが、とりわけ「序」のヤシマ作戦の日本中の電源を集めるシーンでは、それが非常に細かく丁寧に描かれていることもあって、「ああこの電源には本当に日本中の人々から集めているんだな」という風な実感を強く感じました。量・質ともに世界の背景を、細かく丁寧に演出しているからこそ起きる感覚だと思うのです。

いまテレビシリーズを、一挙にテレビで放映中で見直しているんですが、もう圧倒的なクオリティの差がある。そしてこのクオリティの差が、ほとんど同じ話であるにもかかわらず、新映画版の世界の方が、「本当の世界だ」というような強烈なリアル感を与えている、と僕は感じる。けっしてカヲル君が並行世界云々をつぶやかなくても、まさにこの「差」が、物語でも意味でもなく、「感覚」で・・・まぁ強度といった方がいいかな、この世界がトゥルーエンドであり、リアルん何だという手ごたえを感じさせます。そう「感じた」人は多いんじゃないかな?、、、これって、凄い表現の勝利ですよね。


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(2)については、アニメーションの世界では、もちろんエヴァのテレビシリーズもその起源の一つなのですが、僕は明確にクリエイターが意識した起源の一つは、新海誠監督だと思うのです。要は「あの感覚」ということで連想してもらえばいいのですが(←説明になっていない・笑)、背景を高密度に描くとそこに意味論的な物語を凌駕する強度が生まれるんですよね。この辺の演出を実写で意識的に使用しているのは映画監督は岩井俊二だと思います。彼は、人々が見たい「理想の風景」を映画のカットにするためには、空気の演出のために様々な技術を駆使して「その感じ」を作り出している、という風に、語っていました。リアル感を強烈に感じさせる高密度な絵というのは、ただ単に高密度に描けばいいわけではなく、カットの角度や空気の質感なども含めて、実は非常にセンスが問われるものなのですが、いやー庵野監督って「これ」が描ける人なんですよねー。僕は背景の人間関係や、今回の演出がどれくらい監督の二人とかのテイストが入っているか分からないですが、新海誠監督以前で、「この演出」だできたのは、ガイナックスだけで、それは『王立宇宙軍オネアミスの翼』や『トップをねらえ!』の時代にもはっきりと見られるものでした。もちろん無意識的にワンシーンだけあるというのはあったと思いますが、継続的に、かつ物語世界の強度が上がってしまったという意味では、やっぱりがイナックスでしょうね。ちなみに、スタジオジブリの『もののけ姫』の森も全く同じ意図をしていると思っています。ちなみにパトレイバーの映画版も同じなのですが・・・なぜか押井守さんの作品には、あれほど高密度でも、強度を感じない・・・・。なぜだろう?。ここにも秘密があるような気がする。


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精確に言うのならば、意識してそういう絵を演出していたというよりは、トップの頃の岡田斗司夫さんのロケット好きなんかに代表されるように、あの初期のころのガイナックスには、SFマインドの本質の一つであるところの「科学を宗教のように熱烈に信じて世界が変わっていく信仰」のようなものを、表現できるセンスオブワンダーに満ち満ちていたと思うんですよ。この科学を盲信する、、、科学が開く「新しい未来」というやつには、モノそのもののリアル・・・・物質に、、、その表れである近代の巨大建造物に対する偏執狂的な興味と感動があって、それが、この「モノそのもののリアル」という感覚を生み出していたと思うのです。その一つの具体例が、新第三東京市のような土木工学のテクノロジーによって支えられる建築や大規模構造物の詳細で執拗な描写です。あのへんのちょっと近未来の映像を描かせたらもうピカ一ですよね。なんというのかなー近未来の感じって、たとえば浜松町から羽田空港に向かうモノレールから建築中の新滑走路群を見る時とか、大規模集積場があってもとアメリカ空軍の駐屯地があった立川周辺を高いモノレールの上から眺めている時とか、そういう感じです。


このロストフューチャーの様式についての感覚は、下記の本がよく説明しています。その背景にある世界観は『ぼくたちの洗脳社会』を読むとよく分かると思います。この世代の原ヲタク(岡田さんが自らを指す言葉)たちの思考様式の根底にあるものの一つだと思っていてるんですが。どう思います?。基本的にね、SFのオリジナルってのは、科学への盲信なんですよ。そして、なぜか?この我々の住むヲタク業界というかヲタクワールド(笑)のお祖父さん世代(苦笑)は、どうもイギリス系のSFの系譜を引き継ぐコアなマニアたちのようですね〜。いや僕もよくわかりませんが、栗本薫とか小松左京とか、星新一とか、僕よりもちょっと前の世代、、、1940−60年に生まれた世代のクリエイターは、そういう感じだったみたい。エッセイとかで読んでいると、そんな印象がある。

ちなみに、これは、未だ深く近代人の心をとらえ続ける科学への信仰なので、系譜を追っていくとなかなか面白いですよ。今も、深く、広く、根付いている感覚ですからね。もちろん、僕が知る限りのオリジネイター(起源の人々)は、イギリスのSF作家たちだと思います。たとえば、アイザック・アシモフとかアーサー・C・クラークとか、そういう感じの人々。アシモフは、ロシア系(ユダヤ系?)のアメリカ人だけど(苦笑)。これらの作品を読んでその果てに、『トップをねらえ』や『不思議の海のナディア』を読むと感無量な気持ちになりますよ。何事も系譜とか歴史的な文脈を抑えると、楽しさが倍増して、しかも長続きするようになります。この科学が世界と人の未来を変えるという信仰なくして、近代人の壮大な夢と希望とワクワク感はわかりません。未だ僕ら近代を建設する近代人の最も有力な夢ですからね。そして、それが60−70年代に、ロスト(=覇権的なパラダイムから引き釣り下ろされた)したという系譜、歴史を感じていると、庵野秀明押井守、そして御大、宮崎駿の流れの志向を理解するのが容易になると思います。

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ファウンデーション ―銀河帝国興亡史〈1〉 ハヤカワ文庫SF
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ぼくたちの洗脳社会 (朝日文庫)



庵野秀明さんは、やっぱり宮崎駿さんの正統なる後継者だった!?〜「意味」と「強度」を操るエンターテイメントの魔術師


今回のエヴァンゲリオンの新映画版の、この強度の演出は、実は物語類型の変遷の歴史に非常にはまっていると、と僕は考えています。というのは、僕はずっと「善悪の二元論の対立」という物語類型は、人を感情移入に誘うのに都合のいい型式で、このメッセージ方法を、人類は大衆動員にずっと使ってきたんだ、と喚いてきました(笑)。ようは「敵がいるから団結できる」というやつですね。おお『日暮しがなく頃に』の解体したテーマだ!。ようは、罪を外部に帰属させるということです。しかし成熟した物語を描こうと考えて突き詰めていくと、「悪とは何か?」という問題が発生します。これが、エンターテイメント業界で言う「ラスボスとは何か?」という問いです。

それで、たいていの究極な悪というのは、

1)実は自分自身の内面だった!


とか、


2)人類そのものが悪だったのだ!(=天使という絶対善との最終戦争)


というものになってしまいます。その辺の系譜、歴史は、下記でLDさんが書いてくれていますね。あとは何と言っても、岡田斗司夫さんの『不思議の海のナディア』を製作中にぶつかった壁を書いた『「世界征服」は可能か?』ですね。これは、悪が悪として成り立つ不可能性を描いています。いやー読んだ時笑いました・・・がんばって世界征服しても、それに見合うメリットが全然ないぞ!という意見には。

悪の化身編
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/26fcde56a318ee8ac05975c93cde11b1

善悪逆転編
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a58f2370c3f40af6e878fcdc2c97b64a

悪の終焉編
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/8aa3fcc617eed515159fc4903fc82b67



今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)

「世界征服」は可能か? (ちくまプリマー新書 61)
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これ以外の結論は、真摯に考えればあり得ないからですね。この思考方法の現時点での最高の到達点です。古典でいえば、聖書の黙示録です。もしくは、ロシア文学の文豪たちかなー。エンタメでいえば、『デビルマン』『バイオレンスジャック』に『風の谷のナウシカ』(漫画版)でしょうねー。ちなみに、このことをよく分かっていたなーと思うのは、宗教史についての古典ウィリアム・ジェイムスの『宗教的経験の諸相』とコリンウィルソンの『アウトサイダー』でしょう。人にとっての「悪」とは、個人の心の中に起きる「ヴァスティション(=実存が崩壊してバラならになっている状態)」なのだという、喝破だと思います。それ以上の悪は、人間にとって存在しないと、どちらも明快に明言しています。

バイオレンスジャック―完全版 (1) (中公文庫―コミック版)
バイオレンスジャック―完全版 (1) (中公文庫―コミック版)

デビルマン (1) (講談社漫画文庫)
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そして、この流れは、聖書でいうところの「終末論的な物語類型」にからめとられていくことになります。そう、善悪二元論で感情移入を誘うエンタメの類型は「悪はだれか?」という問いにはじまり、最終的には、新興宗教がよくはまる罠と同じ「終末論の罠」に取り込まれていくものなのです。「世直し救済」を思考すると、どうしても二元的な現世の否定につながるんです。聖書作ったキリスト教界の重鎮たちを悩ませた、あの問題です。彼らは、終末論の幻視を描いたアポカリュプス(=ヨハネの黙示録)を聖書に入れるか最後まで悩んだそうです。それは善と悪を二つに分けるという二元のダイナミズムが、時間を一直線に前へ進めていく物語であるからで、「その果て」に最終地点がどうしても想定されてしまうからです。これが拙速な界の破滅を願う集団に浸透し、利用され、社会騒乱のためになるのではないか?と。それでもなぜ、これを最終的に入れたかは、僕はよく知りませんが、なんとなくわかります。それは、人間が現状肯定して、現実に埋没して堕落しないためには、人を「未来「へ」向かって駆り立てる」動機の感染をさせる必要があり、、、、社会が正しく進化するために(正しい進化なんてものがあれば)必要だったのだと思います。この話は別途詳しく書くのでこの辺でまとめますが、つまりは現代のエンタメの物語類型は「敵を倒す(=仲間で団結)」ということで大衆動員をかけるのですが、それの行きつく果ては、自己否定でしかあり得ないのです。あまりにマクロになりすぎて、具体的な世界に生きる我々には、理解不能な地点まで、物語を押す進めてしまうので、物語のレベル・・・少なくともエンターテイメントのレベルでは、理解しがたいのでしょう。あえていうならば、ミクロ(=個人の内面)でも、マクロ(=人類)ともに、自己否定もしくは自己崩壊するしかありえないのです。非常に、エヴァンゲリオンのこれまでの流れを彷彿させるでしょう?。


言い換えれば、この類型の流れのみで書く限り、自己否定・崩壊を回避することができないのです。このことは宮崎駿さんが『出発点―1979〜1996』ではっきり語っていますね。そしてその話通りに、彼は「敵を倒して成長していく」という「男の子的な価値観」を描くことができなくなり、以後、主人公はすべて女の子に収斂していくことになりました。またこの世界が「あまりに絶望に満ちていて生きるに値しない」とわかってしまった!(笑)がために、「次の世代のこどもたちに何を伝えていいのか?」と混乱し始めることになりました。


出発点―1979~1996
出発点―1979~1996


動機の喪失

シャーロック・ホームズのある話に、ワトソン博士が「君は人類の恩人だ!!」と叫ぶくだりがある。こんな風に世界を考えられたらどんなに楽だろう。愛は至上のものだ、と断定できたら物語を作るのはどんなに楽だろう。正義が自分の側にあり、悪は全て他民族や他人や、他の家に属していると決められたら活劇映画を作るのはどんなに簡単だろう。

人間は崇高な理想のためと、いかなる自己犠牲も献身もひるんではならぬと言えたら、いやそんな理想が存在すると思えるだけで、仕事はずっとやりやすくなる。

一方、人間というものはどいつもこいつも同じように愚劣で、信ずべきものなど方便以外になくて、大儀や信条などすべてうさんくさくて、自己犠牲も裏がえせばすべて計算ずくだと決められたら、それもやっぱり楽なのだ。みっともない、汚いものを探すなら、こんなにたやすい社会はないのだから…。


「日本のアニメーションについて」1988.1.28より


この話はもう少し煮詰めたいのですが、ようはね「この世界が生きるに当たらないくだらない」とわかってしまったとすると、いったい何をメッセージとして物語るのだろう?ってことです。宮崎駿さんは、この問題は、男の子を主人公にするという問題の正面突破ではなく、搦め手から攻めることになりました(逃げともいう?)。それはつまり、こんな絶望に満ちた腐った世界なんだけれども、、、


でも、世界ってこんなに美しくてキレイなんだぜ!


って叫ぶのです。



What a Wonderful World - Louis Armstrong(こんな感じ?(笑))

実はこの流れのロジックは、友人に丸ごと教えてもらったものなんですが、全く同じ連想をして、この曲も思い出したんですが・・・・並行世界のなかで、「失われた者」を思って世界の美しさに涙するというのは、テリーギリアム監督の『12モンキーズ』という僕が大好きな映画いに全く同じシーンがありましたね。


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つまり、宮崎駿さんは「世界ってなんてキレイなんだ!」ってことを、高らかに歌い上げて「実感できる」「手ごたえ」を現前させようとしたのです。意味ではなく強度(感覚)に訴えるんです。具体的には、僕はいつも、世界の美しさを感じる時に思い出すシーンがあって、飛行機で町の工場から抜け出してチェイスやらかして、それを抜けた後、アドリア海に向かって飛ぶピッコロとフィオのシーンです。ここで、フィオは、飛行機の上から見る世界の豊かさ、広大さを見てこう呟きます


「世界ってキレイ・・・・」


このセリフ、一本!!!!と僕は唸ったんですが、それは上記に文脈からなんです。フィオも、世界大戦に傾斜していく時代のきな臭いファシストたちの中での現実を生きている健気な女の子です。そして、まだましとはいえ空賊たちの争いだって、それだって「争い」には違いありません。親も確かいなかった(でかせぎだっけ?)し、おじちゃんを助けて工場の技術者であり経営者でもある彼女には、この世界で生きる厳しさ、醜さをまざまざと感じていたことでしょう。けど、ミクロの社会の中での網の目を飛び越えて、大空の上から「この世界全てを包括的に鳥瞰した時」、、、それでも、たとえそうだとして、これほどまに「世界はきれいで美しいのだ!」ということが彼女には感じられたんです。そして、ああ、、、youtubeでそのシーンの映像がなかったのが残念ですが、その言葉に嘘がないほどに至りの平原からアドリア海にかけての、空カの風景は、美しく描かれており、、、この「風景の美しさ」「視点の鳥瞰」は、まさに「モノそのもののリアル」と、視点と情報量の豊饒さから感じられる「強度」が、我々を打ちのめすんです。


このシーンは「意味(=物語の類型)」から「強度(=この世界の美しさそのもの)」、物事の見方を強引にスライドさせているシーンなんです。


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もう少し噛み砕くと、「意味」と言っていうのは、ようは「物語のドラマトゥルギー」のことです。フィオとピッコロの関係や、ピッコロの過去の軍人としての働きや、マンマユート団と対立など、、、社会の中にある「関係性」のことです。この関係性が、圧力になって、「人間関係」を「物語」を進めていきます。こうした「展開の圧力」のことを僕は、ドラマトゥルギーと、かっこつけてよんでいます。動的なものという意味です。しかし、これは、物語の類型で考えると「意味」なんですね。どうかな?伝わっているかな?・・・・日本語下手なんでねぇ・・・これって記号の組み合わせなんですよ、物語世界では。たとえば、ツンデレキャラのルイスという女の子=Aが出てきて、そんでその従者の「男の子」のサイト=Bが出てきた時点で、この物語は、AとBの恋愛ものなんだな?って分かってしまうじゃないですか。分からなければ、そもそも「小説や文学を読むという作法」がないということです。この作法が、何度何度も繰り返されると、受け手つまり消費者は、その類型を「前もってわかってしまう」という既視感に襲われるようになります。良くいえば、受け手・消費者が教育され訓練されたのです。

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マーケティングなどの領域ではなしてみましょう。たとえば化粧品は、もともと訪問販売や対面販売といった「使い方を一対一で教える」というのが基本でした。近代の始まりでは、化粧品の正しい使い方を知っている人が少なかったからですね。トイレタリーも医薬、農薬もそうです。医薬部外品などの薬事法の対象であったり再販売価格維持制度の適用を受けていたのは、こうした「適正に使用されることを教えるためのコストがメーカー側にかかるのでそれを担保しよう」という考え方が法にあったためです。けれど、時代が過ぎ去ると、そもそも化粧品の使い方なんか説明されなくともよく分かっていう人々が出てきます。そういう人にとっては、無駄に説明されてコストが高くなるよりは、より安く簡易に買える方が便宜にかなったことになります。ここにおいて、薬事法や再販売価格維持制度の、法の適用の「前提」がかなり変わってくるのですね。そこで、それを壊すカテゴリリーキラーであるマツモトキヨシなどのドラッグストアーが現れ、、さらにコンビニで薬が買えるようになり・・・、、などなどいろいろな経済のダイナミックな動きがあって、そもそも現代の形態になっています。これと同じです。リテラシーが浸透した結果、「コミュニケーションコスト」が劇的に下がった集団が現れることによって、その「ヘリテージ(=遺産)」を利用することによる新しい形態が現れるのです。これを利用したのが、漫研のLDさんがいうところの「情報圧縮論」や「モジュール論」です。こうした物語の類型に、受け手が慣れ過ぎることによる「退屈」「飽き」をどう回避するかというのは、現代の、特に90年代以降のクリエイターにとっては重要な課題です。なぜならば、ベタな王道をベタにやると、それがどんない素晴らしい出来でも、受け手が飽きて継続して見る気力を失ってしまうからなんですね。いまだらだらと書いている中に、既に3つの回避方法が出てきています。まとめると


1)世界の美しさを、高密度の背景を描くことによって実感させる演出(新海誠!)


2)情報圧縮論:ある程度、読者に類型の知識を先取りするリテラシーがある前提で、話すっとばして前へ進める(コードギアス!)


3)並行世界の多選択性を作り上げることによって「一度しかない選択肢の重み」を実感として感じさせる(マブラブオルタ、Fate、ひぐらしのなく頃!)

などです。(3)はまだちゃんと説明していませんが、次章に譲ることにしましょう。これがないと、1)も2)もあまり意味を持ちにくいようなのです。いってみれば、最終兵器とか必殺技に当たるものです。


話が先に行きすぎたんですが、この記事の結論としては、宮崎駿は「男の子の実存を描けない」ことで意味的な物語を放棄した先に、感覚の強度をアニメーションの世界で表現して「世界の美しさを感じさせること」で、物語の最終的な目的であり価値である、この世界と自分を肯定すること!を受け手に喚起するという荒業を行いました。僕の宮崎駿の、作品、、、特に『もののけ姫』で到達した地点だと思っています。それ以後は、その断片(パターンのずらし)にすぎません。それは、スタジオジブリの圧倒的なクオリティを維持するメンバーを恒常的に確保することができたからでしょう。


ちなみに、男の子がマジで描けなくなった一番悩みの頂点の時期の作品が『耳をすませば』ですね。この作品は画期的でした。脚本自体は、大した話ではありませんでしたが、背景の高密度の描写と演出がこれほどまでに世界を美しく見せるのか?と驚いたことを覚えています。しかも聖蹟桜ヶ丘周辺によく遊びに行くことがあって、同じ風景をあれほど見ているのに、宮崎駿さんは世界をこんなに美しく観ているのか!と衝撃を受けた覚えがあります。同じものを見ていても、見方で、世界は何倍も違ってみるんです。あれは、鳥瞰する視点があるかどうかに違いがあると僕は思っていますが、さすが死ぬほどの飛行気づきだと唸った覚えがあります。そして、重要なのは『On your Mark』。これほどの傑作の脚本をなんで、数分の短編でまとめたのか!と当時の僕は嘆き悲しんでいましたが、それはいま思い返せば、物語ること(=On your Mark)ではなく、世界の再現をしてその美しさで人を感動させること=耳をすませば)を宮崎駿さんが選択した結果!だったということなのでしょう。そしてそれは見事なほどに正しかった。

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もちろん、これまでは、これを見事に同時に使用する作家はまれでした。どっちかに寄っているものです。新海誠監督は、そういった実在感にこだわる作家なので、作風を体験した人なら分かるのですが、物語る力が弱い。岩井俊二監督もそうでした。物語として、ミクロの次元でも、マクロの次元でも、一体何があったのか?という整合性がとれにくいんのです。彼らが志向しているのが、「この世界の実在感を再現する」ことが主目的であって、嘘くさくても勧善懲悪等の意味ある物語を描くことではないからです。逆に物語たる人は、意味ある物語のカタルシスを作るのはうまいが、こういった造形や再現性の段階で、人に与える実在かに鈍感な人が多いものです。これは、つまり、「感性」と「意味」の対立なので、同じ人の中に同時に成立することはまれだと思うんです。また大がかりなエンターテイメントで、、、つまりは映画でこのクオリティを維持するには、CGの技術的向上や予算の確保など、実在感を維持する物語を作ろうとすると相当思いこんでやらないと難しいと思うのです。作家主義的な人には、どうしても自分の実存(=物語ること)が強い人が多く、特に日本社会にはその傾向が強いので、なかなか両立するクリエイターというのは出てこなかったんですね。 


しかし、この劇場版は、見事にそれが両立している。だからあれほどの血わき肉躍る感が生まれたんだと思います。これは、御大宮崎駿さんの『もののけ姫』以来の快挙で、しかも「まだ次がありそうだ」ということを考えると、この「意味」と「強度」をバランスよくエンターテイメントに結集できるクリエイターである庵野秀明・・・・というか、個人に集約するというよりは、エヴァを作っている制作集団チームには期待をせざるをえません。そういう意味では、宮崎駿さんの正統なる後継者としての、まさに作品による結果をたたき出しているといえるでしょう。次で比較を書きますが、最近の宮崎駿さんの『崖の上のポニョ』や押井守さの『スカイクロラ』よりも、はるかに前へ踏み出しているからです。

しかし、、、、流石だなーーー庵野秀明さんとその制作チーム。ここまで来ると、彼一人の力ではあり得ないと思うのだが、それにしても「意味」と「強度」をバランスよく操りエンターテイメントに集約するこの技巧!!!見事としかいえません。

崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(2)/スカイ・クロラ
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080823/p4

崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(1)/ポニョ編
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080822/p5

ちなみに、いまかいている壱〜参は、いまこの時にこの作品を持ってきたこと・・・・10年放置プレイしてきたエヴァンゲリオンに終止符を打とうとする時に、世界と自分の否定から、王道の物語へシフトしようとしていることの賞賛なんで、井汲さんのいうように個別の作品分析に入れば、いろいろうーん?という部分もないわけではないんですが、まずは、この「凄さ」の部分を語りきってしまいたいので、もう少しお待ちを。・・・ちなみに、ラジオをどこかでやりたいなーと思います・・・この話は、LDさんとかいずみのさんやもう一人の友人と話した中で出てきているものなので・・・。いやー無駄な深読みとかって最高に面白いですよね。1円にもならないこういうのを無駄に、しゃべりまくるのって、人生の至福です(笑)。



下に続く(まだタイトル仮です)

【映画版エヴァ破考察 その参】 僕たちが見たかった「理想のエヴァ」とは?(2)〜エヴァテレビシリーズと旧劇場版は、エロゲーのバットエンドだったのだ!さあぁ、トゥルーエンドのはじまりだ!

【映画版エヴァ破考察 その四】 並行世界の物語類型とは?〜マリ・イラストリアスという外部からの他者の参入が何を意味するのか?



たぶん、、、このへんで終わると思う・・・・たぶん・・・。ちなみに参はほとんど書けているので、近日中には・・・・たぶん・・・・。


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