『神の子どもたちはみな踊る』村上春樹 単純な「母なるもの」ではないなにかへ触れる感覚

テーマ:物語:W村上を通してみる現代日本

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)


評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★星5つ)



村上春樹は、分かりにくい作家です。いやそういう風に言うのではなく、歯応えのある文学性を持っている「にもかかわらず」エンターテイメントとして人をひきつける力のある、現代日本の稀有な、、、ほとんど唯一といっていい作家であるといっていいと思います。難解なだけのブンガクはたくさんありますが、それは分かりにくいとは評されません。理由は「人々が分かりたい」とは思わないからです(笑)。そういうものを書いていてはだめなんだと僕は思います。

さて文章に読みなれていない人が。『羊をめぐる冒険』『ねじまき鳥クロニクル』などを読むと、チンプンカンプンでしょう。やはり、まずは筋があって分かりやすく短い『回転木馬のデットヒート』『ノルウェイの森』あたりから始めるのが妥当だと思う。それに村上春樹は、はっきりとした境のある成長をしている人なので、僕は『ノルウェイの森』から、読めるのならば順序よく読んだ方がいいと思っています。このころの初期の作品には、シンプルに村上春樹の本質が表れています。

Badlandのぼのぼのさんが見事にい当てていて感動したのですが、村上春樹が非常に支持される理由は、『共同体幻想の否定(大きな救済の否定)と、「死と喪失」に代表される「個」の苦悩、およびそこから最も大切な人間と真のつながりを持とうとする思い(小さな救済の希求)』が読み手と共有されているからだと言われてしましたが、まさにその通りだと思います。疎外された個人の違和感を語る作家だと評されるのは、全共闘世代への嫌悪感から、共同体幻想の持つロマンチシズムから自由であり、それが故に一人であることの「個」の孤独を引き受け中ればならなくなったという部分が、まさにその通りの人生を、この後期資本制のシステムに絡めとられた都市文明社会を生きる我々の「生きる」ということと共振するんだと思うんです。

さて、基本的に全共闘的なロマンチシズムを解体してしまっているところからスタートしているというあの世代にしては非常にクレバーかつ冷静なスタートを切った村上春樹ですが、「それがゆえに」基本的に「ではどうするのか?一人でグジグジ悩んでいればいいのか?逃げてしまって妄想の世界に閉じこもっていればいいのか?」・・・・その外にある「国家や組織やをづしていくべきなのか?歴史とどう向き合うのか?」という、、、、まぁ全共闘世代に全く答えられていないくせに失礼な質問だとは思いますが、ただそういう質問が来るのは思想史的に当たり前の話で、そういう質問にぶつかることになります。それに対して真っ正面から向かい始めたのが、『アフターダーク』や『神の子どもたちはみな踊る』『ねじまき鳥クロニクル』なんですよね。だから、リアルタイムで村上春樹の「世界と向き合う姿勢」を読んでいる人には、ちゃんと読み込めてさえいれば、徐々にステップアップしてゆき視野が広がっていくのが分かるんですが、そうでない人が途中から読むといきなり難解で複雑なものに足がすくんでしまうというのは、わからないでもありません。ちなみに、この文脈を感じている上で、エルサレム賞の受賞スピーチを聞くと、なぜそこへ到達したか?が非常によく分かって感動するはずです。非常に誠実な人だと思います。


とはいえ、いきなり春樹初心者には良く分からないと思うので、本質を理解するために、まずは原点の部分を再度確認してみたいと思います。


ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)
ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

羊をめぐる冒険〈上〉 (講談社文庫)
羊をめぐる冒険〈上〉 (講談社文庫)


村上春樹は、世界的な現代作家であり、日本を代表する小説家です。それは、アメリカ20年代のフィッツジェラルドらロストジェネレーションの世代を受け継ぐ正統な後継者であり、都市文明の中に住む人間の孤独を扱う大きな流れに即しているだからだと思います。個の喪失感を直視し、大きな物語や救済を拒否する姿勢は、世界の文学テーマの根幹です。


彼は、一言でいうと「喪失感」を描く作家といわれます。



「喪失感」とは何か?



はさておき、彼の小説に出てくる主人公は、一人っ子で、ナルシシズムの殻から脱出できず、いつも世界から距離を置いて眺めているため、その「距離」の分だけ疎外されて孤独感にさいなまれて生きている。これは、不毛な現代社会に生きる僕たちそのままの姿です。喪失感とは、「何かが足りない」と思っていること、と考えていいと思います。けど、「その何かが、何なのかが分からない」のがこの苦しいところ。個の「何かが足りない」という感覚が、この世界に対する違和感になって立ち現れてきます。『回転木馬のデットヒート』の短編集は、「この何か」が個人にとって立ち現れてくるときをよく描写しています。この「世界に対する違和感」が、村上春樹の原点であり、同時に彼が信じうる最後のものなんだと思うんです。徹頭徹尾、彼は、共同体主義的なものや大きな救済のロマンチシズムを信じていません。なぜならば、それはしょせんフィクションであり外部から来るものですが、この違和感・・・・「何かが足りない」という喪失感は、自分の心の内から来る実感だからです。このうちからの実感しか彼は信じません。まぁ実存主義者なんですよね。

近代後期資本制社会の都市文明に生きる僕たちは、群集でこれほどの人数で群れながらも、なにか「大きなもの」や「仲間」とつながることを忘れて生きています。繋がりたいけれども、個としての苦悩を知った我々近代人は、もう素直に過去に戻れません。繋がるということは、「個」の否定であり、「全体」の優先になってしまうからです。その渇望がノスタルジーとなり、ファシズムの狂気に利用されたりましてきました。現代では、単純な「母なるものへの回帰」は、基本的にすぐにファシズムや政治権力に利用されてしまうことも証明されています。たとえば『海辺のカフカ』ではその母なるものへの回帰を描いていますが、テーマとしては後退ではないでしょうか。単純な大いなるものへの回帰は、既に笑い話にもならない時代だからです。もちろん単純にそうであるわけではないですがね。

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)
海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

この『神の子どもたちはみな踊る』は、6つの短編から構成されるオムニバス形式で様々な登場人物の小さな(一見関係ないような断片的な)ストーリーが、いくつも重なり合って一つの大きな物語に収斂したり、大きなテーマを浮かびあがらせています。話の流れは、関西の大震災で大事なものを失ってしまった人々の喪失感を、丹念に追っていく形式になっています。それまでの村上春樹は、『ノルウェイの森』のどこにも行けないで電話ボックスで「どこでもないところにいる僕」という表現に見られるように、この個としての喪失感に直面することによる孤独によって、どこにも行きようがない(=もう大きな救済も物語も信じられない)ことをクローズアップして描いてきました。ちょっとわかりやすく言えば、新世紀エヴァンゲリオンのテレビシリーズや旧映画版のシンジ君や、『式日』のアダルトチルドレンの「みんな親のせいなんだ!」という叫びの部分を告発し続ける形式です。世界を守るためという大義(=共同体の幻想)、、、こういった究極の目的に対してさえも、NOといってしまう感性が、後半に日本に広がっていたんだと思います。ちなみに、それへの答えが出かかっているこの作品は、2000年の刊行作品。基本的に文学の領域、、、といっても今は、日本で語るべきに足る作家は、事実上彼一人だと思いますが、、、では、10年近くエンターテイメント(漫画や映画)よりも先に答えを見出す傾向があり、そのタイムスパンはそれほど変わっていない気が僕はします。エヴァンゲリオンが1995-1996年にテレビシリーズが放映されて、それをさらに先鋭させた旧劇場版が1997年。その答えが肯定的に描かれたのが、序だと考えても、2007年ですから、7年ぐらいのスパンがあるわけです。

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この失ってしまった喪失感の大きさと、その喪失感を「埋めるものは何なのだろうか?」という問いが、全編を通して問いかけられます。この作品を春樹の最高傑作級のものだと思う理由は、『風の歌を聞け』『ノルウェイの森』での著者が抱いた疑問への答えがはっきり表現されているからです。えっと、言葉足らずですね、「答えがこうである!」と抽象化一般化して答えているのではありません。そうではなくて、個別に喪失感を抱えた人々が、「自分は喪失感をあ書けているんだ」ということを肯定的に受け入れています。言い換えれば、「何か足りないものがある」ということを自明として認識したということで、自明として認識したということはつまり、この問いがきちっとした形で内面に織り込まれたということを指します。答えを出すことでなはくて、このというの構造が内面に織り込まれて意識化されることこそが、答えなんですよ。基本的に、自分の問題点が認識できないからこそ、苦しいのであって、認識できているということは、その問いへ向かってちゃんと立ち向かっているということだからです。「蜂蜜パイ」などに包まれる聖なる温かさは、不思議な癒しすら感じました。最後の「これまでの小説とは違うものを書こう」と主人公が決意するシーンは、作者の宣言にも聞こえました。そして、とりわけ「アイロンのある風景」は、短編であるにもかかわらず「焚き火」を通して、なにか大いなるもの、



単純な「母なるもの」ではないなにかへ触れる感覚



が表現されていて、唸りました。喪失感は個人的なもので、個人的なものへの一般的な回答は存在しません。けれども、個別の解決方法や認識を通して、それを超えた何かに触れる瞬間をんを描けることが、文学の、そして小説という物語世界の素晴らしさだと思います。そしてこの小説は、見事にそれを成し遂げている。


村上春樹ファン必見の傑作だと僕は思います。