女の子が男の子を好きになる理由

ノルウェイの森〈上〉 (講談社文庫)


化物語』で、うーんと思うのは、単純なハーレムメイカーではないなーと思うんだよねぇー。いや定義にもよるんだけれども。暦ってさー男の俺から見ても、かわいいもの。そして、たまらなくかっこいいもの。別に女の子でなくてもだれでも、自分をさっそうと救ってくれるヒーローにはあこがれるものだと思うんだよね。でも「救ってくれるから」という物理的な、直截的な理由で「好き」になるものか?って思う。もちろん、そりゃー一番それが効果はあるさ。でも、そうじゃないともう・・・・魂の伴侶は、そういうことでは見つけられない唯一性のものなんだって思う。だからそれをどうにも汚しているというか軽んじているように感じるので、この系統の単純なものは、どうしてもうーんと思ってしまうのだ。だって、問題を解決したからって、その人を好きになるわけではないだろう・・・と思う。それってストックホルムシンドロームにすぎないと思うんだ。


こう考えるのは、最近は村上春樹の本を、ぼのぼのさんの影響で読み返しているからだと思う。村上春樹のもっとも大きなテーマの一つは「個人の救済」でありそれを具体的に展開したのが、自分の唯一の伴侶・・・・ベターハーフを探す物語だ。

村上春樹の小説には、いつも「損なわれてしまった」という言葉が出てくる。それは、正しくない関係は、それがどんなに大事なものに見えても、人の自己を損なってしまい、取り返しがつかないことを示している。また仮にそれが、ベターハーフに出会えたとしても、その関係の「正しさ」がちゃんとした形で到達できなければ、、、途中で自己が損なわれてしまう。『ノルウェイの森』が最も原初的な形で、それは、愛する人の「自死」という形で表現される。愛する人の自殺は、それが最終的な形での救済の拒否であり、関係性の拒絶であるが故に、残されたものは、それを抱えて生きていかねばならない・・・・「いったい何が間違っていたのか?」と。

このテーマは苦しいものだが、しかし、真の意味は、「その関係の新の意味と価値はどういうものだったのか?」「何が自己を損ねさせてしまうことになったのか?」という大きく、そして問かなければいけない究極の問いを、後悔とともに考え続けさせることになるから。ハーレムメーカーの在り方とこのベターハーフの問題は、エンターテイメントと文学を結ぶ大きなブリッジになるのではないか、と僕は最近思い始めてきている(ウソかも?(笑))

偽物語(上) (講談社BOX)