『RETAKE』『ねぎまる』ドラゴンクエストの同人誌など  きみまる著  この腐った世界で、汚れても戦い抜け。楽園に安住することは人として間違っている。


評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ傑作)


■言いたいことは一つだけ〜この世界の唾棄すべきか日常の嘘と欺瞞を破壊せよ(笑)


同人誌を、かなり手に入れたので(全部で10冊以上)一気に読んみました・・・。素晴らしいです。はっきりいって重すぎるほど重いけれども(苦笑)、この人の目指すべき主張すべきポイントは、とてもとても共感します。ドラゴンクエストの同人誌。平成17年(2005年)初版ですね。最終巻が平成20年(2008年)ですから、案外新しいですね。これが今回は一番心に残りました。


ちなみに、この人の全作品に共通すること、それは


この腐った世界で、汚れても戦い抜け!


です。


構造的に分解すると、この世界のパラダイス的な業都合主義の真綿に包まれた「快感原則」にしたがった世界を「壊す」ことからこの人の作品はすべて成立しています。まずはこの世界のご都合主義の世界が、「ウソだ!」という告発から入り、「構造的に汚れなければ生きていけない現実」を我々に突き付けることで、「選択肢のなさ」を主張します。


いい例が、『ひぐらしのなく様に』。この作品は、竜騎士07の根幹の主張であった「殺人は最低の行為でそこに至ることを回避しよう」というメッセージを真逆に、北条悟史を中心に「みんなで話し合った結果、殺人を選択した」という世界について物語が展開していきます。この選択肢は、確かにアリなんですよ。なぜならば、現実は、そんなにご都合よくハッピーエンドにならないし、現実の圧倒的な「抗いようのなさ」というのは事実であって、それこそ何万回も繰り返すような奇跡でもない限り、壊れたり間違った選択肢を選ぶことは回避できないものなんです。普通に考えてそうじゃないですか?。また現実だって、地球のどこかで殺し合いや悲惨な地獄は普通に存在しているんです。

オリジナルの『JOG』も。あずまんがのメンバーが殺し合う『あずまんが漂流教室。』も、ケロロ軍曹の母星が実際に地球を武力進攻し始めて周りの日常が破壊されて友人が殺されまくる『ひかりのくに』も、全部構造的には同じです。・・・こう書くととんでもなく危険なにおいにする作家性ですね(笑)。抽象的にみると、言っていることはすべて同じです。90年代に謳歌した「終わりなき日常」、緩慢に続く真綿に包まれたような安楽さに浸る日常の否定です。きみまる氏の作家性は、原点にそこがあります。


ちなみに、結論もすべて同じです。この安楽な日常の否定から、世界の厳しさを痛感させて「自分が汚れることしか生き残る道も人を救う道もない」ところまで自覚させられたのちに、その自覚を持って日常の世界に「戻る」ということです。オリジナルな世界として成立している『ドラゴンクエスト』『RETAKE』『ねぎまる』の結論はそうでした。その他の作品との違いは、「自らが汚れることを自覚して」もう一度日常を奪い返すという構造になっていて、その結論に特に自覚的なのが、『RETAKE』でした。『RETAKE』素晴らしいですよ、Youtubeに宣伝?らしきものがあったんで、気になる人はぜひ見てみてください。まぁ読むべき作品だと思いますが、僕は。

おいくつかわかりませんが・・・きみまる氏は、年代的には90年代のテイストが非常に強いと思います。80年代のバブル期の裏返しとして(というか地下水脈)、90年代はトラウマやアダルトチルドレンなどの話のオンパレードでした。この90年代のアダルトチルドレンの最高峰が庵野秀明監督の『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメーションで、世界が内面に閉じていくメタ的な物語に収束していきました。これは、僕は80年代の高度成長の達成による大衆の知的水準の向上による大衆による「自己の発見」のせいだと僕は思っています。ってなに?って思われるでしょう(笑)が、えっとね、ようはね、みんなお金持ちになって(=食うに困らない&高等教育の普及)ヒマになったんで、「おれってなんなんだろう?」「私ってこれでいいのかな?」と、自己を相対的に観る余裕が出てきたってことなんです。自己を相対化するってのは、「自分」を外側から観察する自分(=メタの自己)がいるってことですよね。食うに困っている時は、サバイブ(=生き残る)のに必死で、そんなメタ的なこと考えないんですよ、現実は唯一現実のみ。

この傾向が、同じく現実を告発する写実主義(リアリズム)の手法、社会主義リアリズムの『蟹工船』などと異なっている点は、「誰かどこかに悪のラスボスがいて、そいつが悪いんだ」というような責任を外部性に帰属することが封じられたのが現代だという部分です。社会主義共産主義が神話だといわれるのは、こういった悪を外部に帰属してしまう仕組み故にですね。近代資本主義社会、モダンな社会は、「自分の意志によって世界は変えていける」という「自由意志」によって支えられている社会です。だから、悪(もちろん善も)とは自分たちのことで、自分たちが自分たちで世界を変えていくしかない社会です。非常に実も蓋もない社会なんですが(笑)、これって非常に重いことなんですよ個人にとって。自由意志を担保するのは、個人なんですが、、、、この個人というのは、「すべての責任は自分にある」と考える主体です。

えっと、こういう社会ではですね、「自己」の「役割の重さ」という命題に注目するんですよ。僕がよくいう話ですね。『ランドリオール』の解説の時に少し書きました。「本当の自分」と「役割の自分」の違いに敏感になる、ということでもあります。このドラゴンクエストの主題は、母親から(アダルトチルドレン!)、王様から、大衆から、「勇者」という唯一転職できない「役割」を強制され続けた悲惨な少年の物語です。はっきりいって、母親とか王様の「勇者、勇者」と他人に責任を押しつけるさまの醜いこと不気味なこと苦しいことこの上ありません。このへんの類型的な作品としては、庵野秀明監督の実写映画『式日』なんかがお勧めです。漫画では、津田雅美さんの『彼氏彼女の事情』とかとか。


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いままでは、役割の自明性・・・・たとえば、軍人は疑問を持たずに敵を倒すとか、正義の耳かたは疑問を持たずに悪を倒す!!みたいな、自分が与えられている役割に疑問を持たないのが当たりまの世界でした。それが近代前期・・・・与えられた機能をまっとうすることで、世界がよくなると素朴に信じることができた時代。


けど、その役割の正しさが保証されなくなった不透明な現代では、「ほんとうにこれでいいのか?」って、


(1)役割で求められていること





(2)自分自身のナチュラルな感情の動き


が、相反するようになってきました。

これは、近代前期という大きな物語(=近代の発展による成長の輝かしい時代)の解体が勿論相関しているものです。善悪二元論の解体も同じものの類推(アナロジー)です。

んでもって、80〜00年代の最初までは・・・・アニメで言えば、『新世紀エヴァンゲリオン』がそのベースというか類型の基本にあるのですが、すべての作品が、(1)よりも(2)のほうが正統・正当性があり、正しいものだ!!という暗黙の了解がありました。エヴァの主人公であるシンジ君が、けっきょく内面世界に逃避した(特にTV版)のが特徴的なんだけれども、前に云ったんですが、セカイ系ってアホみたいなんですよね。だって、シンジくんが、内面世界で「おめでとう!」と自己解放しても、そんなの滅びかかっている人類にとっては何の関係もないことなんです(苦笑)。いいのかよっ、それでっ!?って(苦笑)。

自己と世界は別物なんだ!って云う成熟した大人であったら当たり前のことが、広汎に「共有されていない!」ってことなんですよね、現代は。すげー時代だよ。

もともと近代1920年代から50年代くらい迄は、アメリカの50年代のコンフォーミズム(=順応主義)を見るまでもなく、逆に役割をまっとうすることが、過剰に求められた道徳的な社会で、この社会の反動として、与えられた役割に、人間の人格を押し込めて、記号化して、その人独自の感情やオリジナリティを抑圧する非常に嫌な社会でした。その反動として、②の自己の内面と個の権利の復権というのは、よくわかります。この②を最優先する自己内面の豊饒さの追求と個の権利の復権という現象をよく僕は、「役割論への反発」とか、役割の押し込められることの反発などのいいかたでいいます。


が・・・・なんで、近代1920年代から50年代くらい迄は、そんな窮屈でよかったかというと、それは、、、それをぶっ飛ばすぐらいに近代の生産性の上昇による社会そのものの物質的発展が、それまで農奴とか選択の自由なんか皆無の世界に、核弾頭のような自由を与え続けたからなんですよね。ようは、ものすごい不自由な奴隷に、ガンガン自由を与えまくっていたんで、そのために①の役割に適応して我慢するなんて程度のことは、全体からみると、大した負荷にならなかったんですよね。比較の問題ということです。


けど、、、、物質的基盤や成長がある程度限界になり・・・・・GNP3%程度(それも凄いレベルだ!)の持続的成長性がパラダイムの時代になると、みんなもうそれなりに自由もあり物質的豊かさも選択の自由も確保されているので、みんな我慢がきかなくなったんですね。明日も明後日も状況が劇的に変わることもない永遠の日常が続く、退屈でだれた持続的成長の世界(=ヨーロッパ病!!!・フランス映画!!!)で、なんでそんなに我慢しなきゃならないの???と思うようになったわけだ。



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ランドリオール』10巻 セリフに凝縮された深み(・・深すぎる(笑))
http://ameblo.jp/petronius/entry-10034681174.html


さまざまな作品は、すべてこの自己についての欺瞞を暴くことが中心にまわっています。世界の欺瞞の告発が、外部性(=ラスボス)ではなく、内面に収斂していくのは現代の作品の特徴的傾向で、上記にも書きましたが、それは60-7-年代以降の日本社会は、GNPが1万ドルを超え、ストックで生きるような(金融資産を見よ!)真の意味でのアングロサクソンが到達した先進近代国家へ到達しているからなんだと思います。つまり個人が個人として尊重される(傾向が昔より少しちゃんとしている)社会。だから、個人が、社会よりも価値が思いような、ある種の倒錯した、これまでの人類数万年の歴史ではあり得なかった
特殊な幻想(=物語)が発生している。その中で、個人の価値がクローズアップされた結果、「内面の自由」という部分が肥大化していったんだと思います。


■この日常を告発せよ!〜日常と非日常の中で試される人格


マブラヴ(全年齢版)

先日、『マブラヴ』のやっていなかった彩峰編(紗霧大尉の出て来る話ね)をやってみたんです。もともと紗霧大尉のクーデターの話は、深く胸にあったので、漫画がそちらをクローズアップし始めてこれは見なければ、と何とか時間をやりくりして(かなり早送りでしたが)観てみたんです。

えっと、僕のブログの長文を読みこむような人で知らない人はいないと思うけれども、アージュというエロゲーメーカー(と云ったらもう失礼かな?)の出している『マブラヴオルタネイティヴ』という超弩級の傑作シナリオゲーム(やっていない人は日本人でエンタメを楽しんでいるとは言えない!といえるほどの傑作)の前の前篇?というかな、ものなんですが、、、ちょっと説明すると、この作品は、大きく二つのソフトからなっていて。1枚目は、日常編(マブラヴ)で、もう1枚目は非日常編(オルタ)なんです。その構造は、1枚目は、なんというかエロゲーでも恋愛シュミレーションゲームでもどう言い方でもいいのですが、かつての『ときめきメモリアル』のような一世を風靡した恋愛を軸にしたゲームの正統後継者難ですね。言い方を言えば、もう超ワンパターンの話。エロゲー界隈や恋愛シュミレーションゲームってのは、もうそのカテゴリーの歴史も古く、正直言ってテンプレートの部分はもうすでに類型が出尽くしていると思う。だから、その類型をベースとして逸脱することで、ニトロプラスアージュタイプムーンなどのカテゴリーキラーとも言うべき、とんでもない作品が排出されたわけなんですが・・・ヲタク業界に詳しくない人には、日活ロマンポルノのシリーズ出身の監督が、日本映画を支えるような監督になっていた経緯を思い出してもらえれば、それと同じことです。

この典型的類型的なテンプレートを持つエロゲーの日常性、、、「永遠に繰り返される日常」が演出される関係性の停止した世界、という構造の指摘は、僕のブログではもすでに定番なので、過去の記事を読んでもらえれば、沢山あると思います。書いていると本論のきみまるさんの話からずれて、長くなるので、一気に(よく見ていないんですがまーこれでしょう)書きを引用しておきます。これは、赤松健さんの『魔法先生ネギま!』についてまだほとんど巻数が出ていないころに書いた記事です(我ながら予測の正しさに感心します(笑))。

連載初期に『ラブひな』で確立した典型的パターンだけでなく、考えているじゃん赤松健さん(偉そうでスミマセン)と思った。 アニメやPS2のソフトを見ると分かるが、男性オタク層を対象にした「たくさんの可愛い女の子と少しのH」というパターンに堕している。メディア戦略としては妥当だが、原作マンガの仕掛けや品性が抜け落ちているのは、残念。元を取るためには、原作の潜在力を取り入れるのは難しいとは思いますが。

僕は「永遠の日常もの」と呼んでいますが、いわゆるこの作品は「落もの」と同じで、空から女の子が降ってきて一緒に暮らす等という男の子にとって夢の世界の典型です。

原点は『うる星やつら』『究極超人あ〜る』で最近だと『ああっ女神さま』や『ラブひな』などですが、付き合うか付き合わないか微妙な関係で、ハーレム状態での日常が淡々と続きます。ほんとに無害な共同体です。ナルシシズムの極地ですね(笑)。

目的意識のない緩い日常と人間関係のみにフレームアップした平和な空間で、多分これが男の子の欲望の最終形態なんではないかな、と思います。

恋愛コミュニケーションに習熟し、深い恋愛を経験すると、男女共に「飽き」てきます。

人間は日常の退屈に取り込まれる生き物ですから、より強い刺激を求める方向に行きますが、逆によくゲイの世界なんかではバニラになるといって遊びまくった後は今度は逆にとても普通の関係がよくなったりします。



そういう意味で、大多数の日本マザコンヲタク男性の圧倒的支持を得る『うる星やつら』のような



「永遠に女の子と戯れている恋愛以上恋愛未満」



は、一番安心できる「いい」ポイントなのかもしれません。全編おあずけプレイ状態。「ここ」を巫女のように救い上げる元祖高橋留美子さんは、超がつく天才ですね。赤松健作品は、その正統な末裔という感じがします。



設定は、麻帆良学園中等部3-Aの女子中学生31名との「永遠の日常」ものであるが、その戯れる日常を破る仕掛けとして「血の宿命と出生の謎」という目的意識をストーリーの中に仕掛けてあるところが秀逸。永遠の日常は、パターンが出尽くしてしまいやすく早い巻数で終わってしまうが、目的意識が紡ぎだす直線的時間感覚をスパイスのように入れると、相当長く持たせかつ読者に飽きられない構造を作れる可能性が強い。練った脚本だ。


□65〜66時間目:『僕だけのスーパーマン』『雪の日の真実』①・②

http://ameblo.jp/petronius/entry-10001918480.html

http://ameblo.jp/petronius/entry-10001918889.html


□少年の成長物語(ビルドゥングスロマン)としてのネギま@114時間目
http://ameblo.jp/petronius/entry-10005849574.html


□永遠に続く日常〜目的意識のない緩い日常と人間関係のみにフレームアップした平和な空間
http://ameblo.jp/petronius/entry-10001762193.html


ちなみに、ネギまという作品は、本当に素晴らしい作品で、設計当初から、ラブひなスタイルと呼ばれる(僕が読んでいる(笑))日常の延々性がずっと続く男の子のハーレムもの完成形態の一つを作者自らが、そこから抜け出ようとしたものです。しかしながらその止揚の方法が、楽園を壊さずにそこから骨物の少年漫画にシフトさせて、同時に包括的に世界観を維持するというとんでもない離れ業をやっている超ド級の作品です。これは、連載経過や構造を確認しながら見ると、はっきりいってビックリするぐらい、深く悩んで分析されて構築されている作品です。楽園を壊さないで、かつ少年漫画にシフトする、、、というのには非常に簡単なポイントがあって、これまでの「ただ男につき従うだけの女の子」を他者として認識してその自立と、成長をフレームアップすればいいだけなんです、本当は。けれども、楽園の人間関係というのは、「男の子にとって」であって、そもそも女の子を人間として認識していないでモノとしてみているので、それができないという構造になるわけです。それをどう回避するか?というのが、平等な恋愛の不可能性という近代社会の核家族前提社会で、どう考えるか?って実は凄い重い課題な気がします。ちなみに、女の子を平等な権利乗る他者として、その本質を・・・彼女の本質をまっとうさせてあげようとすると、男性側に凄まじいストレスと、そもそも仕事をやりきるだけの時間的余裕がなくなります。これができる男は、本当に器が大きくて、且つ金と権力がある特赦な男だけで、だから昔の社会では一夫多妻制が現実味を帯びたんです。象の成体と同じですね。ウイナーテイクオール。象も、メスの群れに男が一人で、交尾できる権利はその雄にしかないそうです(笑)。あっ、ちなみに、女性側の自立と成長で素晴らしかったのが、まだ公開しておりませんが、、、昨年アメリカで公開したアメリカの伝説的なパイロットを描いた、『アメリア』です。これ最高ですよ。


おっと話すがずれてきた、、、、そうそうマブラヴの彩峰とか委員長の話なんですが、まーなんちゅーか、、、あっそうそうLITTLEWITCHのピリオドの主人公と幼馴染の話もそうだったんだけど、、、エロゲーと侮るなかれ、、、シナリオが凄く進化しているこれらの作品は、いや結構いいんですよ。人間にはドラマが必要な生き物で、あまり持つと不幸になるのはわかっていながらも、そういうものなしには生きられません。そういう意味では、、、、人間の求めるドラマってけぅこうパターンがあって、、、、そういうのの典型が、ソープドラマとか日本でいえばフジテレビ月9のドラマとかああいったモノに結実していくわけなんですよね。まぁ陳腐で、どこにでもある話。実際には、少しの美化とドラマテイストがあるものですが、基本的には「よくある話です」。日常の話は、どれほどのドラマな話も、実はけっこうあるものなんですよ。記憶喪失とかまぁドラマエッセンスなものそのままはともかくね、、、現実って、圧倒的なモノで、信じられないことは実はよく起きているんです。そういう「抱えているモノ」は人は、表には話さないで、なかなかわからないだけです。この『マブラヴ』の彩峰の話も委員長の話も(どっちもやっていなかった)やっていて、ぐっとひきこまれて、よかったなー。まぁアージュ作品には、恋愛モノにおける究極のポイントが・・・倫理がちゃんとあるので、、、、って、それは、女の子がその本質を全うさせるためにサポートすることなしには、恋愛は成り立たないんだ、という人として当たり前の話なんですが・・・まぁこれがないものが多いよね、世の中。そういうものは残らないし、非常に有害だと僕は思いますが。えっと、つまりね、恋愛を描く話にはパターンがあって、それをそれなりに感情移入させるに足る物語類型に落とし込むことは難しくないんですよ。

しかしながら、消費者の求めるものが、ある種の表面的な「快感原則」にしたがっていることもあって、恋愛の「初期」もしくは「成就に至るまで」の物語なんですね、全ては。『アメリア』で素晴らしいと思ったのは、あれは、「結婚してから後の話」に「彼女が全人生で求めたものをサポートするということはどういうことか?」という「恋愛に至る成就」が一局面でしかあり得ないような、男と女の関係を包括的に時系列で最後まで追いきっているから感動しているんです。どういう意味かというと、エンターテイメントの領域では、「本来に男と女の関係」の持つポテンシャルや時系列的な全領域の、ごく一部しか扱わないんですよ。そういう意味では、これも時系列のプロセスの一部しか扱っていない・・・・その告発のために、エクストラでありオルタが存在するわけですねー。

ピリオド


えっとね、、、話が微妙に分けわからなくなっているんですが何が言いたいかというと、僕の数少ないエロゲーの話を見ても、「日常を描く」話は、関係性を描く恋愛の話は、結構良くできているものが多いと思うんですよ。そもそも、僕のいつも言っている分類では、個幻想、対幻想、共同幻想のうちの2番目である対幻想の世界で、これって二人だけ(2者)で完結するものなので、これってパターンが決まっているんだと思うんですよ。こういうのって、実は恋愛を描くパターンを描いていけば、それなりのレベルに到達せざるを得ないんですね。特にエロゲーがとてもよい脚本になっているのは、理由はわかる。それは、Hをしようとすれば、「それ似た対する対価」を主人公は差し出さなければなりません。この世の中は等価交換。もちろんタダのポルノとしてそういうことを考えない作り手もいるでしょうが、真面目な脚本は、やっぱり相手に自我を感じて、「この子が身体を許すにふさわしい価値は何か?」って考えちゃうはずなんですよ。

そこで僕は、ハーレムメイカーは、女の子の実存を救ってあげることで、自分を特別と感じさせるという公式を出しました。つまり「差し出す価値」というのは、その女の子を救うこと、であるということです。ただし、レベルの低いハーレムメイカー脚本は、「ただ救えばいい」と思ったようですが、それは違います。その子の「心(=実存)」を、救うというオリジナル性は、他と代替のできないタイミングで行われるものでそのオリジナルな出会い(=ボーイミーツガール)は、その男側の「求めている本質」と「女の子側が求めている本質」が、補完関係や同質のものであって、「他との代替がきかない」ものでなければ、発生しません。そして、それは発生してしまうと、唯一性の輝きを帯びるのです。「タイミング」という言葉を使ったのは、こういう実存が重なる関係というのは、、、いくらでも演出可能なので、いいかえれば、僕らは、60億も人口がいるのだから、それこそ無数に選択肢はあるんです。別に他の女の子でも男の子でもいいはずなんです。けれども、「その時」にその選択肢を選んだことに唯一性が発生してしまうんですね。人間が死という時間に縛られた存在であることの最も価値あることは、この無限選択肢に唯一性を宿らせることなんだと僕は思います。

えっと、ところが、「永遠の日常」を志向する甘えたナルシシズム社会では、この関係性を、全て等値にとって「すべての女の子といい感じの状態」のハーレムを形成する、さきほどいったラブひなスタイルを極致に試行していきます。現在の萌え漫画や日常癒し系(けいおんとかあずまきよひこさん)も、この路線の延長線上にあります。ようは、唯一性を宿らせるのが、時間は戻らないという縛りであることであるならば、時間自体を止めてしまえ!ということになったわけです。これを最もはっきり描いているのは、押井守監督の『うる星やつら』の映画ですね。この時間を止めるという行為は、いくつかの現象を生みます。一つは、相手方の女の子の「本質的な問い」がずっと宙ぶらりんになることです。これは、その女の子の自立と成長を奪っていることになりますし、「そこ」に関わった男は、よほどの大きなもう一つのものがない限り、そのことの「唯一性」の関係にはいっていってしまうところを、止めてしまいます。

そして、このことに対して、90-00年代の作家やクリエイター達は、非常にアンビバレンツな感情を抱いたようです。この世代のエンターテイメントには、ラブひなスタイルを極める「永遠の日常」、、、ハーレムメイカーによる「永遠の日常とう楽園」を完成形に持っていく大きなダイナミズムがありました。けれども、同時にこの世代には、「それを破壊し尽くしたい」という衝動が同時に生まれていったようです。その代表例ともいえる作家が、『RETAKE』『ねぎまる』『JOG』『あずまんが漂流教室』など同人誌作家のきみまるさんでありエロゲーの『君が望む永遠』や『マブラヴオルタネイティヴ』を製作したアージュです。いや、ライターの吉宗氏だと言った方がいいかもしれません。

というのは、傾向を見るに、産業としてのエンターテイメントは、マーケティングの果てにリスクを回避するためにハーレムメイカーによる「永遠の日常とう楽園」と、メディアミックスによる「祭り」の現出を志向した(=これがマイナーキャラによる個別セグメントの幻想を許容するハーレムメイカー脚本にマッチしていたのは前に書いたとおりです)ので、組織としては例外なく楽園の破壊を避けたんです。けどそれが許せなくなったのは、クリエイター個人、、、作り手が自身がそれに強い破壊衝動を持ったというのが、見ていて起きている現象に僕は思えます。この二人は、非常に強烈なストレートな、楽園破壊願望の持ち主で、破壊したいがた為にひたすらその衝動に想像力を傾けたというような(笑)情熱の入れようです。それが、楽園からの追放、楽園の破壊というモチーフを持ったのは、それだけ「破壊すべき楽園」がビジネスの世界でも成果物の世界にも覆われていた時代だったからだといえましょう。

しかし実際に、よくよく見れば、各クリエーターはこの、ハーレムメイカーの形成(による自己ナルシシズムの肥大化)という大きなマクロのダイナミズムに強く抗っています。まさにその創始者である『ラブひな』の次作品として赤松健は『魔法先生ネギま』という、31人のクラスメイトというマーケティングの権化でまさにラブひなスタイルの到達地点から物語構造をスタートさせて、「それを同時に描きながら」骨太の教養主義ビルドゥングスロマンを描くという構想を、連載最初期から持ちながら(=つまりはこの構造を破壊とは言わなくても否定超克するために)物語を構築していたことが、29巻まで到達した我々にはよくわかります。アージュの諸作品も、初めはまさにエロゲーエロゲーしたのから、次第に、主人公の倫理を問う傾向を強めてゆき、オルタネイティヴでは、その倫理的欠陥を、徹底追及する形式に到達していきます。

きみまる氏は、その中で最も破壊衝動が強く、基本的に、一番極端な作品を構築しています。理由は簡単です(笑)。商業的な制約にとらわれていないからです。

この話とか、なんで、あの最初の楽園の雰囲気丸出しのネギま見て、こんな深刻な話を思いつけるんだ、と理解に苦しむほどシビアな話です(笑)。サクラ大戦の同人誌も『JOG』も『あずまんが漂流教室』、ケロロ軍曹の同人誌『ひかりのまち』も、すべて、力点として、この世界の甘っちょろい楽園をぶち壊そう!という意思にあふれていて、かつそれが最優先で、時には物語ることを放棄しているレベルで、そこを追求しています。えっと、この辺の作品は、やっぱり同人誌「この楽園からの追放」というモチーフとしては、非常に初期の問いかけの類型だな、と思います。だから「問いかけだけ」に終わっていて、それに対する答えがちゃんと描かれていない。

そういう意味で、最もそれが物語的な納得性を持って解決策を見出しているのは、『ねぎまる』だと思う。それは、ある種現実と自分の妄想で壊れ得て追い詰められて世界を拒否した時に、、、つまり、楽園から追放されるときに、「もう一度日常に戻る」という選択を持つことです。たしかに千雨は記憶を失っているかもしれませんが、感情移入する側である読み手のわれわれは、その日常が、楽園から追放される可能性や、楽園を壊された記憶とともに体験する日常であることを、、、二重に世界を見ること知っている、という構造をとります。これは、この楽園の追放を描くも物語類型の最終的な答えの一つだと思います。そういう意味では、その萌芽は、『あずまんが漂流教室』でも描かれています。答えの方向性としては、これが正しいんだとおいます。禅の十牛図という概念というか物語がありますが、この最終的な悟りへの道は、「日常へ戻ってくる=山を下りて俗世に戻る」ということで完成します。どんな悟りも、それを人に知らしめてこそ、ということがこの宗教概念の中には込められています。それと同じ。楽園の追放とは、いったい、読み手に何を伝えたいのか?。この世界の苦しさを、なぜ強く認識させ刻みつけたいのか?それは、このだれた退屈な日常の中で、この腐った世界で、汚れても戦い抜け、楽園の安住することは人として間違っている、ということを言いたいためでしょう?。であれば、楽園から追放されて、この世界の厳しさを知ったのならば、その「厳しさを知って上で」日常に戻らなければならないのです。もちろん、その最終的な結実が、『RETAKE』となるわけです。



■00年代の決断主義とは、所詮、「この中の孤独な意思決断」に過ぎず、それは現実に踏み出すという意思決断だった!


さて、、、、『RETAKE』については、並行世界の概念や村上春樹の書評に寄せていくつか書いているが、ここ部分を書くとまた長くなりすぎるので、それは村上春樹の『1Q84』の3巻の時の書評に譲ろう。けれども、お分かりいただいたと思うが、きみまる氏の、あの執拗なまでの現実の厳しさと、個人の甘さを追求して心を壊していくことが、ゆるすぎる日常を拒否して世界に対峙して、ちゃんと立って生きろ!というメッセージに結実するわけで、それに至るまでの道具立てとして、世界の厳しさを追求するという構造になっているのが分かったと思います。そう考えると、過去の同人誌の作品がすべて一直線に同じテーマを扱っていることがはっきりとわかります。そう考えると、非常に「言いたいこと」がはっきりしていて、それを極限まで追求する誠実な作家だと僕は思います。

そして、『きみまる』『RETAKE』と同人誌で描いていた最終結論の作品が、どれも並行世界によって「今生きている自分の甘さ」「世界の過酷さ」を主人公にたたきつけることによって、自己崩壊すれすれまで追いつめられるのだが、自分自身の甘えと、自分自身のすべてを捨て去っても、他者のためにという自己犠牲を払うと決めた時に(=他者を認識したその時に)、もう一度世界をやり直す権利が与えられるという構造をとっています。そして、そのやり直す権利には、自己の甘えが許されない(=記憶を引き継がない)という戒めが条件についてきます。

これは何をいっているのか?。僕は以前、ハーレムメイカーが行き着いて並行世界に分岐した世界に迷い込み、そこから最終的に日常に戻るということは、それはすなわち、一人の人間の「心の中の迷いがある種の決断によって翻り、現実に生きる覚悟を促すその過程のプロセスを描いているのだ!」と喝破したことがあります。かつて00年年代は、決断主義によってそれまでのあいまいな物語を彫刻しようとしているというような言説がありましたが、僕的には、それは超克でもなんでもなく、まさにこれまで80-90年代に綿々と描かれてきた、自己肥大した個人の心の中である種の現実に対する、そこが抜けた実感を感じることによって「抜ける」・・・・現実の世界へ再アクセスする、その瞬間を決断と呼んでいるに過ぎず、、、、すなわち「決断」も、それは、やっぱり一個人の心の中での動きであって、3人称の世界の(=他者がいる世界)の出来事ではないというところが重要ポイントだと僕は思います。


■その後は、物語の復権が!〜楽園崩壊から現実への再アクセスを1人称ではなく3人称で描くと少年漫画に回帰する


さて、その後同人誌作家きみまる氏は、書き終えたとばかりに、商業作家、少年漫画の作家東毅氏となります。これはねーーー僕の目から見ると、きみまるさんという人の見事なビィルドゥングスロマン(=旅を通しての成長)ですよ。その生き様が。同人から商業へというのもそうだし、何よりも、非常に陳腐なまでの、、、言い換えれば骨太で王道の少年漫画に回帰しているんですよね。僕は、90年代に絶対に、心の問題が解決したら(=並行世界から抜け出す物語類型が生まれたら)次は、骨太の王道の物語が復権するであろうと予測していましたが、まさにその格好の具体例です。

というのは、そもそも80年代から始まる萌えや、日常だらだらストーリーや時間が止まった楽園(-ハーレムメーカー)に安住したがる選択肢を僕らがしたのはなぜでしょうか?。それは、60-70年までの、「頑張れば世界は変えらられる!」とかいう男の子的、、男的価値観の幻想に疲れたからではなかったからでしょうか。いいかえれば、『巨人の星』などに代表される、それ来るってねぇ?と言えるような、夢や未来を信じきる、特別の才能やエネルギーに満ち満ちた主人公に疲れからではなかったでしょうか。もうそういうのは疲れたよ、、、もしくはそんな世界は楽ではないよ、、、と。そのアンチテーゼとして、80−00年代の一世代は、時が止まった楽園の日常に埋没するようになりました。そして、00年代では、その一人称の世界で、、、内的な内語の世界で、自分の象徴的な心的世界の会話を繰り広げるという。他者がいない世界で、「現実って生きる価値があるのかな?」とかいう不毛な問いを繰り返してきて、その果てに、それでも「外に出ようぜ!」と僕らはいま語り始めています。村上春樹もそうですよね。『1Q84』で、なぜ今まで一度もなかった「女性側からの視点」が生まれたのかは、簡単ですよね、他者を認める勇気を一人称を放棄する勇気を遂に我々持ち得ているのです。ライトノベルの領域も、僕はセカイ系から、物語の豊饒さを信じる系統の物語が非常に増えてきていると思います。過去の楽園が崩壊した、その先が続くという物語構造をもっている新井円侍さんの『シュガーダーク』も入江君人さんの『神さまのいない日曜日』も、これが大賞をとった理由は、わかります。これって、この話をスタート地点に描くと、世界が終ってしまった「後」の再生の物語になるしかないから、次の世代にとってとても都合のいい基盤をしているんで、可能性が大きいのですよ。編集サイドはそれを考えていると僕は思っています。

えっと話がずれました・・・・というような過去の物語の変遷と歴史を追うと、きみまるさんが、商業誌でそれも少年漫画をストレートに描くといチャレンジは、僕は素晴らしく正しい成長の階段を上って、より高みを目指しているのだなと感心します。この少年漫画、、、もちろん本当に少年ぐらいの世代が理解できて人気が出るにはティピカリーなフォーマットを使用して陳腐にしなければなりません。そしてしかしそれは、過去の単純な少年漫画ではあり得ないし、そうする気もないでしょう。なぜならば、『きみまる』で『RETAKE』で、日常に戻る!!!どんな犠牲を払ったとしても!!!という決断をした主人公たちが、他者がいる世界でのその後どう生きるか?をちゃんと背景に織り込んだ物語にならざるを得ないからです。

ここまで考えると、、、、すげー面白くなりませんか?。そう、彼の描く世界は、次の世界の物語、にならざるを得ないのです。できるかどうかはわかりません。けど、そのための仕掛けはすべて施しているのは構造上わかります。これだけ過酷な現実突き付け告白(=楽園の追放)を背景に織り込みながら、少年にわかるように、そして動機を失わせないで奮い立たせるような物語を描くのは至難の技でしょう。けど、、、それは、素晴らしいチャレンジだと思いますよ。楽しみです!!!。


凄いはしょりましたが、とりあえず、ひとまず結論。


もうちょっと個別の作品の丁寧な分析をしたかったが、エネルギーなくて、、、、、すんません、、。今度ラジオででも説明します。



超弩級少女4946 1 (少年サンデーコミックス)