『とある科学の超電磁砲』 長井龍雪 監督 才能のなさへの劣等感と選ばれたものの孤独、、、そのどれもを超えた所に仲間はある

レールガンとてもよかったんだよね。映像を軽く見直しても、ぐっとくる。何がって、非常に陳腐な青春物語の日常に起きるテーマが、ちゃんと描かれて軸になっていると思ったんですよ。それは、佐天さんと美琴の立ち位置の立ち位置に全てが現れているんだけれども、この二人って「才能を持たないもの(佐天)」と「才能をもつもの(美琴)」の対比で描かれているんですよね。この物語の軸がとっても類型的な青春物語なのは、この二人の同等の成長する手目の「超えるべき壁」が用意されるんだよね。


端的に行ってしまうと、佐天にとっては、「能力あるものへの嫉妬とその裏返しである劣等感」をどう克服するか?ってこと。美琴は、「選ばれたものの孤独」をどう理解していくか?ってこと。これだれかが、佐天さんが香山リカさんで、美琴が勝間さんだって対比をツイッターで書いていたけれども、あまりにその通りで笑ってしまった。なぜ、スピンオフで、とある魔術シリーズの根幹の謎は前に進むわけでもないような作品でありながら、これほど面白く完成度を感じたかといえば、上の青春もののテーマが完全に消化できているからなんだと思う。構造的にシンプルでわかりやすい。そういう意味で、全体の脚本構造が小説の著者自身が監修している故か全体の謎と基本の脚本との同期が非常にうまくいっており、また演出面でこういった心理プロセスの演出がうまい長井龍雪監督起用とか、非常に上手い作品だったと思う。だから観賞後の感覚がとてもすがすがしい。

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佐天さんは、わかりやすいよね。劣等感で必要以上に自分を低く見積もっていく心理のスパイラルからどう抜け出すかってこと。けど、これはとてもきついことなんだよね。はっきりと事実として「能力がない」ということを実感したうえで前に進まなければいけないわけだから。でもね、これ凄くいい青春ものだなーと思うのは、彼女にとって「初春」という友人がいることによって、「彼女と対等の友人であること」をベースに物事を考えていくと、「能力があるなし」ではその関係性の本質は、損なわれないんだという高みまで到達できるんですよね。

これを「高み」と評したのは、実際は、こういうことはまずないからです。能力や世界観の差は、人を平等にはしてくれません。本質的な関係を築かない限り、そういう思い出が共有されていない限り、、、、たとえば、人間なんて年収や働いている場所の価値観で、ほとんど支配されてしまうものです。人間は動的な生き物で、「場」によってすぐ染まるものですからね。その「差」というものは圧倒的であって、なかなか超えられません。そうでないという人は、物凄く恵まれているか、それに気づかないバカかのどちらかです。社会にでるとよくわかりますよ、、、、本質的な人間関係性を構築する特殊な(←これが特殊になってしまうのか・・・・日本の教育は腐っているな・・・)無い限り、基本は自分の社会的レベルと年収ですべての交友関係や安心できる空間は決まってしまいます。社会はそんなに甘くありません。夢や好きなモノで繋がれるのは、基本的に「ベーシックな衣食住を自分で確保しているかモラトリアムで甘えているか」によっているだけです。その余技というかあまったメモリーの部分で、好きなモノが重要と云っているだけ。好きなモノで開けで繋がれるほど、社会は甘くないと僕は思うよ。いまのところ。もちろん。そういう方向に社会が進んでいるのは事実だけれども。

つまりは、学校共同体の空間は、そういう「身も蓋もない現実」をかなりのレベルで平等幻想に覆い隠してくれることと、、、、こうしたモラトリアムの時期には、実は「お互いの成長」の時間を、、、その「一度しかない時間」その唯一性を共有することによって、「思い出」・・・・唯一性の思い出を共有することによって、そういった超えるのが非常に難しい社会的な差、能力の差、そういったモノを超えられる紐帯を、、、その難しさはあるにしても、それでも得る可能性がある時間なんですよね。これに、在学中に築けた人は幸せだと思う。自分がモラトリアムの時間に得た友達は、メンテナンスをさえすれば、生涯の唯一性を伴った得難い友になるからです。もちろん、社会の年収や生きるところの差は圧倒的で、メンテナンスに非常に手間がかかるけれども、それでも同じものを、社会人になってから得られるかというとほぼ不可能です。この唯一性の希少さに早めに気づけるかどうかで、いかにベタな学生生活をやって、河原で殴り合ったり(笑)、お前を信じてたと言って裏切られて泣いたり、告白して玉砕したり、、、とかとか、べたでバカじゃないの?というようなベタベタなことの価値の深さに、、、あとで、あれ俺ってこんな素晴らしいものを持っていたんだ、、という宝ものになるので。何もない時のモラトリアムの時間で行ったこっぱずかしい「ベタベタな行動」の集積は、そのままその人の唯一性の「思い出」になって人生を彩るからです。

そしてこの「思い出」が、人に自信と「今を生きることの大切さ」を気づかせます。「これ」なくして、人生は豊かにならないんですよ。そして、自意識が強くなったり、社会的な関係性にがんじがらめになる社会人で、これをベタベタにやるのは難しい。社会人には「責任」が伴うので、ベタに振る舞えない意思と規律が要求されるので、なかなか、、、難しいのですよ。そういった社会人としての責任を引き受けながら、同時にベタに生きることを同時にできる人が、本当に社会で「自分オリジナルな人生を生きている」人になるわけです。けど、それは、なかなか小さいころからの集積がないと、一足飛びにできるものではありません。だから、早く気付けるかどうかが勝負です。

そこで、佐天さんは、初春という友人に出会えたということなんです。これだって、能力の差があるわけで(学園都市が能力基準によって運営されているのならば、それは社会での年収や階層の差と同じ機能を果たす大きな壁なはずなんです)そんな簡単に超えることができません。特に、レベルアッパーの話は、事実として「能力がない」という劣等感にさいなまれる立場の人間の気持ちを良く描いていたと思う。人間誰しも、自信満々に生きているわけではなく、同じように劣等感を何とか飼いならしてたたきのめして生きていくものでしょう・・・お題目や成長物語はそうやって抽象的にいえば簡単かもしれないですが、、、劣等感を飼いならすってのは、、、ものごっつキツいよ!これは、どんなに自信がある人間にとっても、物凄くつらく苦しい心理的なプロセスなんですよ。彼女が、そういったモノに振り回されて取り合えしがつかないことをしてしまって、、、、というレベルアッパーの脚本は、いやー本当にぐっとくる。もともと朗らかで物事を気にしない姉御肌の彼女が、こういった心理に落ちていく様は、苦しいよね・・・・。本来は、そういう劣等感のスパイラルには落ちて生きにくいタイプなんだもの。それが堕ちるって、、、。

そういった負のスパイラルへからの脱却は、「それでもちゃん友人であろう」とした初春のおかげで、、、というのは、陳腐も陳腐な話だけれでおも、陳腐というの本当のことでもあると思うんだ。僕は良かったと思う。特に、長井龍雪監督は、『トラどら!』もそうだったけれども、このへの心理劇を丁寧に描くのがうまい監督だと思うので、この辺りはドンピシャだったと思います。

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そしてもう一つは、御坂美琴のテーマ。それは「選ばれたものの孤独」です。


能力があるもの、それには、責任がついてまわります。「あなたにしかできない」という唯一性が、責任を要求するのです。彼女には、そういった全体から要請される、能力あるものの責任、ということに自覚的な高貴な少女です。しかしそれは、同時に「能力がないものを見下す・・・・仮に見下さなくても体感的に理解できない(=結果的に見下すと同じ事になる)」という致命的な問題て点が彼女について回ります。そして、そのことと隔絶した能力が、彼女に「物事を解決する責務」と相まって、孤独をもたらします。僕も自分が責任ある立場である時や、チームのリーダーである時に、、、いやたとえば、子どもの「父親」である時に、好きな女の子の「夫」である時に、この孤独は感じます。わかりますかねぇ???、、、、責任は人に強い孤独をもたらすんですよ。自分自身の意思決断と行動、振る舞いによって、世界が、物事が、関係性が簡単に変わったり壊れたりしてしまうからです。

ちなみに、なんで、美琴がイマジンブレイカー上条当麻に惚れちゃうのかって言うのは、ものすごく単純。選ばれたものの孤独を付与された属性のキャラクターには、「対等に相手に見てもらうという体験」に非常に飢えており、そこを突かれるとアウトなんですよ(笑)。

昔、合コンを頑張ってやっていたことに、実は凄く美人で高めの女の子ほど、押せば落ちるケースが多くて、なんでだ?って思っていたんですが、そういう子は、下から見上げられる経験には慣れているけど、上から見られたり、対等に扱われるコミュニケーションに不慣れだからなんですね。人間って面白いなーと思いましたよ。僕ら男子からすると、高めの女の子って、こわいじゃないですか、、、声をかけ方ら「虫けら!」みたいに見られそうとかおもって(笑)。でも、なかなか世の中は面白いですよ。何もスペックだけで物事が決まるほど、物事の関係性って強固じゃないんだもの。

ただちなみに、彼女がサブヒロインポジションだなーと思うのは、「対等に相手に見てもらうという体験」が根拠である場合には、「対等であればだれでもいいんでしょう?」という個別認識問題(と僕はよんでいる)で、ひっかかってはねられるんですね。僕が言う、個別認識問題とは、「その人がそうであることの本質を愛しているのか?」それとも、その人の関係性が外部環境から構造的に決まるからオートマチックに「気になってしまうのか」の差異に敏感ではないこと、です。意味が伝わるでしょうか?。つまり、美琴に、「対等である態度をとるやつであれば、当麻でなくてもだれでもよかったんじゃないの?」と質問した時に、彼が彼でなければいけなかった理由を用意できるかどうかってことです。ここを描かなければ、どうしてもインデックスには構造上勝てないですよね、、、、なぜならば、インデックスには、自分のために記憶を失わせてしまったという部分と、プラス一緒に住んで日常を積み重ねている部分が、唯一性を作ってしまっている。だよね、、、美琴にとっては当麻でなければならないエピソードは沢山あるが、当麻にとって美琴でなければいけないという絶対的な条件が存在しないんだよなー悲しいことに。

インデックスに対して、自らがかかわって彼女の人生を変えており、そのことで彼自身の人生も変わってしまっており、、、、それでも、その前提込みでインデックスとの日常を保持することを当麻が「選んでしまった」という唯一性には、なかなか勝てないんだよねー。当麻とインデックスだって「お互いに助けてくれれば/助けられれば」だれでもよかったんだろう?」という個別認識問題は、発生するんだけれども、それによってお互いの人生が変わってしまって、構造上一緒に生きていくという人生を選んでしまった部分は、それはある種の、越え難いメインヒロインが持つ固有の関係性なんだよね。美琴は、一人で生きて行けちゃうもの(苦笑)。

まっもちろん、インデックスが、魔術書のアーカイブとしての機能を無くして、当麻が記憶を取り戻す(=できないと言明しているよね)ことができれば、美琴と同等の立場になるんだけれどもね。


えっと話がずれた、彼女には、「選ばれたものの孤独」という属性というか物語の類型が付与されています。これを解決することが、主人公の責務なんですよね。けどその過程で、こういう属性には「できないもののことが理解できない」という問題点が、あるんですよ。

なかなか世界というのが難しいのは、彼女の責務がどこにあるのか?、というと、彼女が「出来ない人との圧倒的な才能の差」による「特権」をこの世界に返しなさいとい圧力が働いているんだよ。美琴の能力は、ある種ギフト(天から降ってきた才能)ではありません、、、が、それでも、「そこにある隔絶した才能」には、それを使えない人の分も、使用しなければならないというドラマツゥルギーが働くようなんだよね。才能ある、能力のある人のところには、物語のような出来事が起きるのは、そういうことなんだと思う。ところがね、この「特権」は、何によって生まれているかというと、「できるもの」と「できないもの」の差によってできているわけだよね。それは「出来ないものへの責任」というある種の「上から目線」になる構造になっているんだ。けれども、なかなか難しいのは、ここで発生する物語の類型として「選ばれたものみ人では、全ては救えない」ということと、この「上から目線」の自尊心を転換できないと、自分がそこにコミットする(=選ばれた力を世界に返す)ことの意義や意味感が失われて、自分の居場所や存在意義が失われてしまい怪物になっていくんですね。そのためには、「自分が理解できないもの」を理解するというプロセスが要求されるんです。そのプロセスの中で、チームで動くという、能力ではなく「役割分担」の、、、分業とチームによって、人類が前に進んできたその最も正しい形に至るんです。監督は、よくわかっているようで、最終回24話の『DEAR MY FREIDNS』で、能力キャンセラーで能力者たちが動けなくなった時、それでも動けて彼女たちを救えたのは佐天さんでした。これは、この世界には、役割があること、、、、「その時その時で仲間が輝く場所はいろいろあって」、その時に目的に合わせて、それに応じた動きをすることが、チームなんだったことなんだと思います。

えっと、僕もこの辺うまく整理できていないんですが、仲間とともにあることは、二つの構造から成り立っていて、一つは、う物理的に一人で「同時にすべて」を見ることはできないので組織で適材適所で役割で動かないと、物事ってそもそも解決できないんですよ。これは、ある種の論理性と、目的志向の権化によって考えればいいことですね。それと、第二に、必然的に組織で、、、仲間と動こうとすると、その力関係で、お互いのセルフエスティーム(=自尊心)の感情的共有をどう行うかってのが重要になるんです。これって、組織論で言うダイヴァーシティー(=多様性)の問題ですね。世の中ってそれが高度になろうが陳腐などこかのダベリ仲間レベルであろうが、人が集まるところに、この問題は常にあります。さっきの話ではないですが、ベタにこの問題で直球ど真ん中ストレートで戦って悩んできた人が、組織で強い力を発揮するのは、もちろん当然でしょうね。それを成熟とか「大人」って言うんでしょうから。


んでもって、結論的に言うと、この二つの観点を、とってもベタに素直に二軸で書いているので、見ていてとてもすがすがしかった。彼女たちは、友達でいることを優先して、お互いの劣等感や孤独感を解決していったんです。とても青春な物語ですよね。このテーマが物語とよく絡まっているがゆえに、とても面白かったんだと思います。基本的に、それほどオリジナルでも内容は、日常の普通の話・テーマなんで、『とらドラ!』のアニメと同じで、見る価値が「特別にあるオリジナルせいか?」と問われれば、いや別にないと僕は答えるかもしれませんが、とても好きな物語で、そしてよくできているおはなしだと思います。美琴も佐天さんも僕は、とても好感が持てるキャラクターでした。・・・ちなみに、この中で最も覚悟がある人間は、言い換えれば、最も成熟して大人である人間は、実は白井黒子なのかもしれない、と僕は思いました。彼女の覚悟が一番、迷いがない。凄いいい女になるな、こいつ、と思いました。

ちなみに、小説版でのうろ覚えだが、美琴を慕う理由は、結標という小説にでてくるキャラクターに問われて「お姉様は優しすぎる。だからこそ私は慕っている」といっていたが、これは、「力ある物・才能あるもの」は健全な傲慢さは持つべきという、ある種に開き直りが弱い部分が美琴にはあって、自分の天賦の才能について、それを「所与のものとして受け入れる」うぬぼれが弱い。これは、ある種に、才能を持つ者には、持つととても足かせになるマイナスポイントで、、、才能をもつものとしてはは、すぐ後ろを振りかえってしまうところがあるんだよね。
後ろを振り返るのではなく、所与の才能を使いきることが使命であることを忘れて。けど、その弱さの部分の「支え」として、自分がありたいという黒子は素晴らしい炯眼の持ち主。たぶん彼女って、物凄くいいところのお嬢様で、「上からの視線」「健全な自惚れ」についてあまり疑問を持たない、タイプで、、というか、そういう上下の葛藤を超えたところまですでに自分の視線を移動させている、とても成熟した考えの持ち主で、、、、だからこそお姉さまのサポートとして必要な存在であるという自覚があるんだよね。そして、それは、多分一生。。。彼女は、本当によくわかっている。こういう女は、物凄いいい女になるよ、将来。


とある魔術の禁書目録(インデックス)〈8〉 (電撃文庫)