『Angel Beats!』 岸誠二監督 麻枝准脚本 これってセカイ系の否定への助走かも!?

Angel Beats!2 【完全生産限定版】 [Blu-ray]

評価:★★★☆3つ半
(僕的主観:★★★3つ)


最終回を昨日視聴終了。終わり方はとても良くて、ぐっときました。いい話だったなー。最後は、妙に物悲しく、、、しかも希望が持てて。


うーんとね、講評を言うと、「期待を裏切らない」話だった。というか、最初の頃から想定している仮説通りだったし。まさに思った通りという感じ。ブログの過去の記事を読んでくれれば、


1)この作品が、並行世界のからの脱出の一類型で「謎解きをしながらこの世界の秘密を探る」という部分

2)読者の感情を揺り動かす「報われなかった悲劇」を、完成されたエピソード毎に示す


という二つの構造から成り立っていると考えられると思います。


この系統のオチを考えた時に、あまりメタ的にひねることをしなければ、非常に単純すぎるけれども「報われなかった悲劇」を「自分の中に受け入れる」ということと、そのご褒美として、「もう一度人生をやり直す(=別人だけどね)」というご褒美+代償が、もっとも物語的にバランスが取れてカタルシスがあると思います。


カタルシスというのは、何もひねることなく、説教垂れることもなく、単純に「報われない人生を送った登場人物たち」がそれでもその身も蓋もない現実を受け入れていくという、とても倫理にかなった(それは世界の基本的法則だもん、仕方がないよね、納得できなくても)形で、しかしながら彼らの記憶は消えても魂は転生するというラストシーンを見せることで、観ている観客に「納得」をもたらすという形です。とても素直な終わり方だと思います。カタルシスのバランスは、ひねってなくて素直に僕は泣けましたよ。


が、逆に言うと、メタ的に批評的な視点でいえば、新しい構造もなければ何のひねりもないので、「そこ」につまらなさを感じる人や違和感(=最近の感受の類型とパターンが違うので)をは多かろうと思います。しかし基本的には、物語として、一話完結(30分!)のオリジナル・アニメーションを12話でやる話として、まずまずの出来だったと思います、僕的には。なによりも水準を超えている。残念ながら「ひねり」がないから、もう一度見る、とかDVDのセールスが驚異的になるとか、メディアミックスで大きな展開が訪れるとかそういうことはあまり期待できるレベルにはないけれども、でも、僕のようにそれほどアニメファンでもないけれども、まー仕事とか日常で疲れている一時の息抜きとして30分時間を使うには、いい作品だったと思います。・・・いい方や感情が伝わらないので、どうとられるかわからにですが僕は「非常に肯定的にプラスの意味」でこれを書いています。あのね、観ていてフツーに楽しいというのが、一番大事なことなのだと僕は思います。大事なのは、アベレージだから。

この作品は、泣かせる感情を動かすエピソードの羅列によって成り立っています。だからほとんど頭を使わないし、謎解きがある割に、キャラクターに世界観をメタ的にひっくり返すような能動的な行動の選択肢がない「=受け入れることしかできない)」モノなので、シンプルに安心して見れる構造でした。それは、ある種の「特化型」として、上手い演出の選択だったと思いますよ。もちろん、そう言え演出を「いまこの時代」に選んだのはなぜか?という問題もありますが、それは作品論ではなくて時代の話なってしまうので今回はさておいておき・・・。


批評的に見ると、この作品のシンプルなまとめ方というのは実に大きな示唆を持っていると思いました。というのは、これまでのこういった「閉じ込められた世界からの脱出」の脚本類型を描く時に、ほぼ必ず使われる問題点の追求とかがいともあっさり放棄されているからです。


というのは、まず第一に、僕が言う並行世界もの、「閉じ込められた世界からの脱出」の脚本は、「個人の内面からの脱出=ナルシシズムの破壊」という90年代的なテーマとシンクロして描かれるのが普通でした。ところが、このアニメーションABって、個々のエピソードの羅列なんで、そもそも主人公がいないんですよね。言い換えれば、一人称として感情移入の対象が収束されていない。これが、意味するところは、物語が「個人の内面の世界」になることをがありえないということです。


おおっ!これって!!。まぁ新しいとは言えず、過去に戻った(つーか、三人称もしくは神の視点は、物語空間の基本ですけどね)だけなんですが、時代的にはとっても新しい感じです。温故知新。


ただこれって、一人称的に収束された主人公の内面が、解放される解決される、、、もしくは「それそのものが世界と同じ重さを持つ」というこれまでの形式に慣れた人からすると、なんじゃこれ?と思う人も多いかもしれないなー。というのは、これって、セカイ系といわれたものの否定なっちゃうんじゃないかな、と思うんです(ほんとか?(笑))。世界と内面が等しい重さを持つということを否定していますから。

故に、このABの世界には、天使も神もいませんでした。世界のルールうんぬんとか言っているけれども、そこに存在する人間の「意志」以外に、世界の理の根幹に触れることはできません。えっと、つまり、「そもそもこの世界がなんであるのか?」ということに対して答えがないんですよね。物語世界のキャラクターたちは、何一つ世界の理を変えられない(=現実には報われていない)ですね。

えっと、意味うまく伝わる文章になっているかなぁ?。ようはね、ゆりっぺたちのSSSという戦線は、「この世界の上位者がいることを想定している」組織なんですよ。つまりね、「報われない悲惨な現実で死を迎えた」ということに対して、「そんな現実は許せない!」というといや意思に意味があるのは、「その現実を誰かがもたらした可能性がある(=この世界は誰かがつくった)」という上位存在(=メタ的な存在)を仮定してなければなら人ですよ。だって、誰かが意思的にやったことでなければ、「現実を許せない!」とか「復讐してやる!」といったところで、意味を持たないじゃないですか。いかに報われないのが許せないといっても、世界とはそういうところなんです、ということで終わってしまう。

だから『天使』という神のみ使いの存在がいることがこの話の前半で大きなポイントになったのは、「上位存在がいるかいないか?」という問題の分岐点だった、ということがよくわかります。いまにして思うと。あのときは、さっぱりわかりませんでしたが(笑)。

リーダのゆりっぺものトラウマも、ぜんぜん報われていません。最終的な意味での「そういう現実を起こした世界そのもの(=神)への復讐」が成り立たないからです。だって、「神はいない」ことが分かってしまったじゃないですか。ここでのSSSやゆりっぺたちが、「報われた」のは二つのことが条件になっています。

ひとつめは、

1)ずっと戦うことで、「神はいないんだ!」ということにあきらめがついた!(苦笑)


これ大事なんですよね、。。。現実の世界でも、このへんの割り切りが、ちゃんと考えたり体験したうえでないと、なかなか行動や決断力に重しが持てません。


もう一つは、


2)戦いを通すことで、そこに集った仲間自体が、充実と生きる目的に転嫁した!んです。


ようは、目的と手段が入れ替わったのです。これ、そういえば、ファーストガンダムとかガンダムの、、、あれ、なんだっけ?ソーマちゃんとスメラギさんの話を書いた時に、書いたなー。帰るところがないやつらが集まって、放浪しいているうちに、そこにあつまってきた仲間が「帰るところ」になりました、チャンチャン♪。これも、現実でもよくある事実です(笑)。


このへんは、物語を成り立たせるうえでの基本みたいなもんですねー。


しかしながら、この「世界を作った神(=上位存在)がいない」というのは、とても大きなポイントのようです(←今回初めて気づいた)。というのは、並行世界とか、メタ的な世界がありうる分岐世界を想定した時点で、「その構造を作ったのは誰か?」「どういう意図があるのか?」という問題は、必然的に生まれてしますからです。ああ・・・この世界には神がいるか?の疑いについての文章は、荻原規子さんだっけ?あの人の小説『西の善き魔女』についての記事で長々書いたなー。おおっ、そうか、、、、これって「この世界の手触りを疑う」という僕の読みのテーマと繋がるものだ!。興味ある人は、探してみてください(めんどくさいのでリンクはるパワーない・・・いま仕事の逃避で書いているので(苦笑))。


えっとですねー「神がいない」と想定することは、世界の成り立ちの「意図」を認めるか認めないかについての分岐になるので、もし意図があるのならば、「この世界から脱出する」ことに意義があるわけです。だって、誰だって支配なんか受け付けらんねーもん。この「脱出することの肯定」と「誰かがこの世界を作った」という謎ときがセットにする物語が、とても物語的には相性がいいものなんですよね。また、セカイ系的な「世界と自分が等分の重さを持つ」という現実感覚にとても合っていた。これまで。


ここが、あっさりこのABでは、「いや神いないっしょ!」と、スルーされている(笑)。というか、そもそも神がいないことを納得させるというテーマが基調低音にあるんだよね。だから現実は「自分の力では変えられない」「ただ受け入れるだけ」という設定になっている。おおっ!なんて、あきらめきった考え方だ!。

この何の説明もないスルーは、「世界と自分が等しい」物語を読みなれている人には、違和感があるかもなーと思った。だって、これは言い換えれば「世界は、君ら一人一人なんかよりはるかに重いんだぜ!」といっていることだから。自分を解決するとか、そんなことに悩む暇なく、人って死んじゃうんだぜ、そしてそれはさけられないんだよ?ってこと。三人称の舞台というのは、「個」の重さや決断で世界は変えられない、というごく当たり前の現実。。。。けど、これって、「セカイは変えられる!」という近代の理念にも個人主義(=個人が地球より重いと思うような幻想)にも、合わない、、、、


ちょっとABの構造からあまりに、走りすぎたけれども、、、、こうしてみると、とっても「これまで」の90年代から続く系統の、このブログでずっと書いている「ナルシシズムの檻から出る」という類型からは凄く外れる作品なんだなーと思った。「ナルシシズムから脱出して、『解決』を目指す」というよりは、「世界の残酷な理(ことわり)を見せつける&受け入れて昇華する」という話だから。これが時代の新しいものなのか、得意な作品名尾か、とかそういうは僕には、語れないけど、僕的な内面では、カタルシスという意味では、普通のいい作品。構造的には、なかなか興味深いものだった。これ、賛否両論あるだろうなーと思う。




あっ、わけわかんなくなったんで、まとめ。

AB面白かったっす。個人的に。かなでちゃんの話、唐突ではあったが、いい話ではあった。ラストもいいねー。

そこから引いて少し客観的に見ると、この話は徹底的に「神がいない(=上位存在がない)」話だった。だから、この世界の謎を解くとか脱出するということに対して、動機づけが得られない。故に、個々の一人称に収束することはなく、ひたすら第三者の視点で外から眺める、それを受け入れるという観賞構造になる。解決よりも昇華を志向した物語といえよう。感情移入は、個々のエピソードごとに成り立ってしまうので、感想はバラバラになるはず。これって僕がよく言う「ナルシシズムの檻から抜け出て個人が成長するビルドゥングスロマン」という系統からは、一線を画すもの。また世界が個人より重い話なので、セカイ系の構造の否定とも取れてしまう(ほんとにそうかどうかはまだ未検証)。そういう意味では、特に新しい「ひねり」というか「解決」を見せたわけではないので語ることはあまりないように見えて、「いままでの技」を全く使わないで放棄する興味深い作品だった。これが何を意味するかは、まだわからないけど、とにかく興味深かった。

おわり。

追記

かなでちゃんかわいいです。妹に欲しいです。って、あれ、絶対妹キャラだともうんですけど?