『インビクタス/負けざる者たち』(原題:Invictus/2009年アメリカ) クリント・イーストウッド監督 古き良きアメリカ人から人類への遺言

評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★☆4つ半)

ノラネコさんの評価も高かったし、ずっと見たかったのだが、やっと時間がとれて鑑賞。素晴らしかったです。晩年も最晩年になってこの怒涛の名作のラッシュに、信じられない思いがします。こんなことがありうるんですね。さて一言でいえば、この作品は、これまでイーストウッド監督が言いたかったことの集大成にして結論の一つだと感じました。

もともとは、マンデラ南アフリカ大統領が自伝を映画化するならだれに演じてほしいか?との問いにモーガン・フリーマンと答えたところから始まったことで、この映画化権をモーガンフリーマンが取得して、その後、イーストウッドに監督を依頼したという経緯がある。それ故か、全体的に脚本が理詰めで構成されており、イーストウッドらしさ(たとえばラジオ中継を聞く白人警官と黒人少年のエピソード)が弱かった気がする。もともと実話の映画化であることから、事実に忠実に描くために裏方的な監督に徹した感じがする。とはいえ、2時間以上の132分という超大作であるにもかかわらず、見事なスポーツ映画で、見るものを飽きさせない力量には感心します。強いて言えば、ネルソン・マンデラ氏がどういう人物か、南アフリカアパルトヘイトの歴史はどういうものなのか?といった基礎的知識は、当然前提にあるという作品の作りなので、それが分からない人には少々不親切なものかもしれない。


この作品は、アメリカ社会のおける苦悩と問題点を、深く深く抉ってきたイーストウッド監督の答えだと思えます。


これまで『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』『グラントリノ』と、アメリカ社会における問題点と次々に告発解体してきました。せっかくなので、この文脈の流れを少し整理して見直してみようと思います。僕が『インビクタス』を見て思ったことは、これらの果てにあるものであり、同時にこれらを総合して浮かび上がってくる「全体」だからです。

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まず、大日本帝国との戦争を描いた二部作は、歴史に残る戦争映画の傑作で、最高の戦争映画であるにもかかわらず「戦争映画の敵の記号化」を解体した100年後の映画史に残る傑作です。

第二弾となる「硫黄島からの手紙」で、アメリカ人である彼が描き出したのは、「私たちは一体誰と戦ったのか?」という一点につきる。

戦場で戦う相手は、勿論「敵(ENEMY)」である。

しかし、映画はこの極端に単純化された単語の裏に、何千、何万という生身の人間がいる事を赤裸々に描き出す。
登場する日本軍のキャラクターが将軍から兵卒、主戦論者から反戦論者までバラエティに富んでいるのも、敵という言葉によって掻き消されてしまった個人を強調したかったからだろう。
映画は2時間20分の間、硫黄島で戦った人間としての日本人を徹底的に描写する。

この映画はアメリカ人にとっては、記号化された敵を人間として再認識する作品となり、日本人にとっては、結果的に当時の日本人像を極めてニュートラルな立場から丁寧に描いた稀有な「日本映画」となっている。


硫黄島からの手紙・・・・・評価額1800円/ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-114.html

ノラネコさんはこう書いている。僕も全く持って賛成。物語三昧の文脈でいうのならば、この「戦争映画による人間の記号化」というのは、善悪二元論による「世界を善と悪の二元的対立で片一方に感情移入することによって」観客を物語世界に誘う演出方法のことです。僕はこれまで、この演出手法を主に漫画やアニメーションの物語類型としてずっと批判してきました。そして同時に、この演出手法が、人に感情移入させて沢山の人に物事を伝える(=感情移入させる)のに適していることも同時に説明してきました。この善悪二元的な構造、言い換えれば、敵と明確に指示して対象化することによって一方の存在に自己をアイデンティファイ(自己同一化)するというものは、マスに物事を伝える形式としては、つまりマーケティングボリュームゾーンを獲得するためには、ほぼ必須の導入口になるものなんです。なかなか両義的です。


この善悪二元論を「超える」ようなメタな視点を持ち込んだ作品は、ほぼ例外なく難解になり感情移入の契機を失って、何が言いたいかわからない支離滅裂な作品になります。典型的な例として、アニメーションでは、『機動戦士ガンダムシード』(福田己津央監督2002-2003)についてこの話をしました。この作品は、強い問題意識によって、敵と味方に分かれるというエンターテイメントの常識的な演出方法を超えようとして、その結果大迷走に陥っていく過程を余すところなく描ききっていて、僕はその迷走っぷりを本当にあっぱれだと思いました。いや、揶揄ではなく。この気合い入った迷走っぷりには、作り手の気概を見て感動しました。この作品には、この演出方法が陥る問題点や解決の方向性など、様々なモノがあふれ出ており、批判も多い代わりにかなり人気を博した作品だったことからもそれは窺えるでしょう。見る価値がある、といまでも僕は思います。

二元論の超克〜三国志のパワーポリテクス/数字は2よりも3がすごい!
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100429/p2

ちなみにこの系譜は、善悪二元論を超えようという志向が強く出てきた富野由悠季監督の『海のトリトン』『無敵超人ザンボット3』らの流れの果ての『機動戦士ガンダム』『機動戦士Zガンダム』の流れの果てにあるもので、この流れの00年代版といえるでしょう。系譜を抑えておくと、こういったテーマを追う観賞の仕方は、深みを増しますでのぜひ機会があれば。あっと、蛇足ですが、この善悪二元論を解決するのではなく、「突き抜ける!!!!」という解決策を選んだ豪胆な人が、永井豪さんで、傑作『デビルマン』ですね。この問題の立て方の究極の果てまで行った作品です。これと同じような志向は、聖書の黙示録ですね。さらにその先が『バイオレンスジャック』。二元論的思考は、物語の類型を考える時も、人類の歴史を考える時も基礎だと思うので、全体像を知っていると、とても興味深いです。ちなみにもう少し固い本で知りたい場合は、フランスの哲学者アンドレ・グリュックスマンの『思想の首領たち』がおすすめです。

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こうした流れの文脈で、2006年の『硫黄島からの手紙』を見た時に、僕は衝撃を受けました。というのは、「これ」をエンターテイメントの世界ではなく、現実の重くリアルな題材を選んでとらしようとしたこと、さらには、戦勝国として戦時中の日本人を記号化しているアメリカにとって都合のいい幻想の部分を、アメリカ人自らの手で粉砕することに挑戦した行為だったからです。まさに、アメリカ人の保守の中の保守だ、と僕は感心しました。過去の大日本帝国と東アジアでの歴史認識が成熟化できない我々日本に比較して、なんと大人な、と。


サンダーバード』とか信じちゃっているアングロサクソン的な正義の信奉者であるアメリカ人の中から、それも保守本流の思想を持つ人の中で、且つ善悪二元論のオリジナルの一つでもある西部劇のスターであったクリント・イーストウッドから!、、、、と僕は、驚きを隠せませんでした。そして、それがアメリカ人の幻想への告発であり素晴らしい日本映画(ハリウッド映画なんだぜ!)であり、また素晴らしく面白いエンターテイメント作品であった日には、、、、イーストウッド監督の才能に眩暈がするようでした。ちなみに、マカロニウエスタンのスターであったということを、クリントイーストウッドを語る上での文脈では外せませんでの、ぜひ機会があればトライを。僕自身も、時間が確保できていませんが、偉大なイーストウッド監督の系譜はすべて押さえたいな、と見ようと思っていおります。

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そして、構想的な問題点が、非常に見事な形で止揚されていることにも驚きました。上記のガンダムシリーズ富野由悠季監督の系譜を追いながら、このテーマは物語類型的に物事を二元的に分けないと観客が感情移入する契機を失って、(1)「人気を失いやすい」という問題点があること、また同時に(2)この問題点を第三軸と挿入で解決策を模索すると(=それしか解決の方法はない!)、物語が凄まじく長くないと描けなくなってしまい(栗本薫グインサーガ!)大河ロマン的な形式にしないと面白さを維持できない、ということがわかっていました。つまり時空を長く引き伸ばすとこの矛盾を解決しやすいのです。時間的には、親子孫の3代を描くパターンが良く、空間的には3軸・3勢力というのもわかっています。つまりは大河ロマンですね。典型的な成功例は『三国志』。

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物語読みとして、こうした(1)と(2)の構造的問題点を、どう料理するか?というのが、批評というか、楽しみのポイントとなってきます。そうした時、非常に単純な解決策ですが、アメリカ側の「視点」の映画と、日本側の「視点」の映画の二つを作ってしまおうとイーストウッド監督は決断したわけです。これは、素晴らしい。視点の差(別々の視点で構成して対比構造を作る)を利用した作品は、沢山あるのですが、映画でこれだけ大規模にエンターテイメント化したものは、僕は初めて見ました。実際の演出の効果はノラネコさんの記事が十二分に書いてくださっているので、そこに譲るとして、とにかく構造的に、大河ロマンにすることも、人気を無視してメタに走ることもせず、「これまでの単品の戦争映画」を作るということを一切変えずに、劇的にこの問題点を止揚した素晴らしい作品でした。ここで言いたかったことは単純に一つだけです。それは、敵だと思っていた日本人という記号を徹底的に解体することによって、そこには血の通った同じ人間がいるんだ!ということです。善悪二元論という物語・幻想は、人をして自己の共同体を守るという大義のもとに、同じ人間を敵として対象化して記号化していきます。

硫黄島からの手紙』 アメリカの神話の解体
http://ameblo.jp/petronius/entry-10021292764.html

硫黄島からの手紙』 日本映画における戦争という題材
http://ameblo.jp/petronius/entry-10021294517.html

父親たちの星条旗/Flags of Our Fathers』 
http://ameblo.jp/petronius/theme-10000381975.html


さて、作品単体でいえば、また日本人から見れば、なるほどそうか、と上の解釈で終わりです。ただ、過去のそしてその後の作品を見れば、クリント・イーストウッド監督が、これをアメリカ社会への遺産として描いていることがはっきりわかってきます。その文脈から読むと、この『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』の2作品は、明確にアメリカ人に対して向けられたメッセージとして読むべきだと思います。すぐれたメッセージは、徹底的にローカルでドメスティックであるにもかかわらず、普遍性を帯びるものですが、ここはアメリカ人に限定してこの意味を問うてみましょう。

実験国家アメリカの履歴書―社会・文化・歴史にみる統合と多元化の軌跡
実験国家アメリカの履歴書―社会・文化・歴史にみる統合と多元化の軌跡

それは、1960年代以降のリベラリズムの洗礼を受けたアメリカ社会は極端な分裂の傾向を示しています。もともと分権的なばらばらになる傾向が強い(統合集権型の日本社会とは真逆)上に、リベラリズムの極端な浸透による個人及びその個人が属する民族集団・コミュニティの権利を強烈に自己主張することによって国としての統合が危ぶまれているのがアメリカ社会です。アメリカ社会というのは、分裂と統合の振り子バランスによって成り立つ稀有な人工的近代国家である、とは、研究者の中でよく言われる言葉ですが、ようはもともと分裂的な資質が強い風土の中で、それだからこそ、統合のシステムを作ろうという意思が働き連邦政府によって強権的な中央集権システムがか確立されました。歴史を勉強するとよくわかります。このへんの議論は、建国の父であるハミルトンやマディソンの『ザ・フェデラリスト』を読むと、その苦悩と意思が分かります。これが行き過ぎて赤狩りや監視社会になるところは、実に極端なアメリカらしいのです(笑)。アメリカはこういった正反対の運動力学が働く国なので、どちらか片方を持ってアメリカの全体だ!という誤解をしては、彼らの凄さを見誤ります。彼らの凄さは、この真逆の運動を、一国の中に同時に抱え込めることなのですから。さて、とはいえ、ゲイのミルク・ハーヴェィや公民権運動のマーティン・ルーサー・キングJr、マルコムX、伝説のブラックパンサーなどなど、それぞれの共同体と個人の権利と自由を獲得していく戦略的な様は、まさに人工的な近代国家なんだなという感じを強く感じさせます。アメリカが、きわめて人工的な国家であるのは、こうしたある種の権利の主張の最終目的が、「憲法改正」というところに、戦略目標が置かれるところです。この合目的性と冷徹さは、見ていて、すげぇなーアメリカ人といつも思います。そして、それほどに近代的で合理的な行動をするくせに、それを主張したリーダーがほぼ例外なく暗殺されるというとても野蛮な国でもあります。これも、凄い。こうもバカバカ近代国家で人が暗殺されないだろう?普通、といつも思います。・・・・こういったものはすべて映画になっているので、系譜として歴史として読んでみると、面白いと思うのです。アメリカの歴史を一通りわかりやすく体感するには、『フォレスト・ガンプ』なんかがお勧めです。僕は、あの差別が厳しかった時代に、友人の黒人兵を助けるために、命を捨てて救出に行くガンプのシーンを見るたびに、ほんとにそこのシーン一瞬だけで、止まらないほど涙が出ます。


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ちなみに、僕のブログやラジオ的に分かりやすいえば、このアメリカ社会の分裂の傾向=個と自分の民族や性的嗜好などの共同体の権利を認めさせていく運動のエネルギーは、日本では90-00年代の『新世紀エヴァンゲリオン』で主人公の碇シンジくんが、「僕は人類なんか守りたくない!」とエヴァンゲリオンに「乗ろうとしない」意志を強く示すのと似たものだと僕は考えています(笑)。抽象的な次元でいえば「個の権利と自由を認めろ」ということですから。根本的では、似た動機ですよね。まぁもちろん、現実では、日本の安保闘争全共闘が、実際の社会運動で該当しますが、いまは表現の世界の話に区切っています。さて、日本社会では、個の権利は認めてほしいけど、でもマクロにはコミットしません(=国を守るために戦争には行きたくないです!)と高らかに宣言できてしまうところが、常識的な近代国家を運営するアメリカと、戦争にぼろ負けして国の基盤が骨抜きになってしまった日本との差でしょうね。日本社会は、こうしたなんらかの政治運動が、基本的に「自己の居場所確保」で共同体転嫁・変化になりやすく、最後には、ただ単に感情のフラストレーションの開放の場になってしまいやすく、明確な政治的目的を達成しようとする合目的性や戦略性にかけます。このあたりを見事に描写したのが、小林よしのりさんの『新ゴーマニズム宣言スペシャル脱正義論』ですね。これは素晴らしかった。日本社会の「運動」が、どういった展開するかをその結論まで見事に描き切っている。これと、ミルク・ハーベイでもベティ・フリーダムでもマーティンルーサーキングJr、マルコムXでも、なんでもいいのですが、彼らの運動の戦略性と比較してみると、その差に愕然とします。まったくもって、目的意識が違う。また国が歴史の浅い人工国家であるが故だと思いますが、権力は自らが書き換えるものという、リテラシーの高さには驚きます。教育水準は、絶対平均は日本の方がはるかに上だろう!って思うんですが(笑)、このあたりの政治に対する感度の違いはまったく違う。権力をコントロールすることを、命がけで正しい法的プロセスに則って強奪するということが常に明確に意識されています。過去の幾多の政治運動をみると、まるで物語のように、こうした権利の拡張が進められていきます。だからこそ、映画になりやすいんですがね。明確に起承転結があるんだもん。

新ゴーマニズム宣言スペシャル脱正義論
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とはいえ、これらの国家において自己の権利と自由を獲得していくという方向性は、非常に矛盾をはらむテーマなのです。というのは、全体と個のバランスをどうとるのか?という話だからです。これは、古典的SFの基本テーマの一つでもあります。もちろん、国家や組織の運営の基本でもあります。そして、答えの出ない問題提起でもあります(笑)。個々の具体的な状況で、条件で、結論が変わりやすいんだもん。ああ、そういえば、これは、僕、ネギま超鈴音編の時にめちゃめちゃ語っていたなー。ガイナックスの『トップをねらえ!』の話にも絡めましたねー。このテーマは普遍的なモノなんですよねー。ちなみに、日本社会では、個の自由と権利が、、、、ストレートに「個人」に向かって引きこもり現象を起こしやすいこと、アメリカ社会ではそれがストレートに民族人種差別による殺し合いや差別に結びつくところが、国柄の違いですね。ちなみに、「個人」の引きこもり状態に向かう傾向はアメリカでも、東部そしてと大都市に強烈にある傾向で、村上春樹につながるロストジェネレーションの世代のアメリカ文学者はがこれに当たると僕は思っています。たとえば、『華麗なるギャッツビー』のフィッツジェラルドとかですね。

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)
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ちなみに、アメリカというのは天の大都市と広大な田舎という二つの側面から構成されている空間なので、「その文化」がどっちの空間から出ているかというのが重要な干渉ポイントになります。都市から出たアップダイクやフィッジェラルドと、南部の田舎をベースにするウィリアム・フォークナーを一緒には語れないのです。このへんの南部の文化もわかってくると、めちゃおもしろいのです。アメリカ南部は、アフリカ大陸から持ち込まれた黒人の文化と美しい風景、それになんといっても、ヨーロッパから引き継がれたチルバリー(騎士道)の文化が根付いています。まぁもちろん、同時に、KKKの伝統なんかも根付いてちゃっているんですけどね。あと、フォークナーなんか、ずっと田舎の町を出なかった感じとかは、僕は宮沢賢治を思い来させて仕方がない。あと、『夜の大捜査線』とかあの名作の意味は、このへんの南部の文化的土壌が理解できていないと、実はよくわからないのです。蛇足でした。

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さて違うように見えるけど、けれども、やっぱり傾向としては似ていると思うんですよ。90年代の黒人の監督であるジョン・シングルトン監督によってとられた『ハイヤー・ラーニング』(1995)って映画があるんですが、僕はこの作品が、死ぬほど好きなんですが・・・VHSでしかなくて、10年くらい前にレンタルで借りて何度も見返した後もう見つからないんです・・・(涙)。でも見れないからこそ心に深く残っているのかもしれないのですが、大学に入学してきたフツーの黒人の男の子が、大学内での人種抗争に巻き込まれていくのですが、、、、、、ここには特に政治意識も人種偏見もない大学入りたての純真な青年の男の子や女の子が、あれよあれよという間に、銃を乱射して友人の彼女を殺して自分で自殺しまうまでが描かれています。かつて宮台真司さんが、オウム真理教などについてのコメントを、たしか高橋和巳さんの『邪宗門』に寄せてのコメントが(うろ覚え)印象的だったんですが、自己改造セミナでも、右翼でも、左翼でも、過激派でも、テロリストでも、新興宗教でも、ボランティアでも、ただ単に偶然「そこ」の門を開いたことによって人ははまっていくものだ。みんな自分の寂しさを抱えているだけで、それから逃げられるのならば、なんでもいいんだ。だから「それ」が選ばれるのはすべて偶然なんだ、といっていたのを思い出すのですが・・・・

初めは、奨学金で入学してきた、なんの色もついていない学生だったのに、、、ポール・ハギス監督の『クラッシュ』と似た感じかもしれませんが、アメリカ社会の個を共同体の自由を認めようという気持ちが、分裂と対立を生み、強烈に他者を記号化して排除していこうとする運動になっていく様を、よく描けていると思うんです。こうしたアメリカ社会のこの権利を要求する運動が、移民やマイノリティごとに共同体で徒党を組んで殺しし合うってのは、人種のサラダボウルたるアメリカ社会の縮図みたいなもので、「この」文脈を知っていると、、、


ハイヤー・ラーニング 【字幕版】 [VHS]
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さてさて、やっとイーストウッド監督の話に戻るんですが(笑)、アメリカ社会が、個の権利や自由を求める気持ちが、敵を記号化することによってすぐ人種や民族、共同体ごとの対立を招いてしまいやすいとなっている現状を踏まえると、『硫黄島からの手紙』の日本人という敵の記号化を徹底的に解体していくことは、アメリカの中の幻想を打ち破るためにスタート地点になるのです。なぜならば、第二次世界大戦、そしてドイツと日本の屈服は、正しいアメリカ!世界の警察官足るアメリカ!という物語の原初にして根源だからです。この根源を解体されると、直ぐにベトナム戦争のトラウマによって、アメリカは自分たちの偏狭な「正しさ」を見失うんです。アメリカの思想は、第二次世界大戦の日本とドイツを倒した正しいアメリカ!、そしてベトナム戦争で自分たちの正しさが失われて何やっているかわからなくなった、それが第一次湾岸戦争でちょっと癒されて、911でさらに粉砕される、という流れになっています。・・・いや、そういった政治的イデオロギー的なことは、本当は違うのかもしれません。

というのは、これは「都市の中で孤立する個人への処方箋」であって、イデオロギー解体ではないと思うんですよ。アメリカ社会の中でよく起きる善悪二元論による敵の記号化をする「物事の受け取り方」を解体することになると思うのです。イーストウッド監督が言いたかったのは、これだと思うのです。そしてこの文脈は、日本とアメリカということではなくて、アメリカの社会で起きている、人種間やグループ間による島宇宙化とそれによる個人の孤独化に対して、敵を記号化して逃げるような見方をやめるんだ!宣言したことだと思うのです。これは、ポールハギスが描いた、都市社会の中での孤立する孤独な個人が、様々な対立の原因であるという『クラッシュ』の主張に対する明確な処方箋です。


そして、この文脈はすぐに、アメリカの家庭における「古き良きアメリカの価値観の継承」という問題に移ります。


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『グラントリノ』。この上記の文脈を抑えながら見ると、、、、この素晴らしい作品を、78歳で作成し、しかも主役まで!!!やったイーストウッドの素晴らしさに、ただただ頭が下がります。あらすじを含めた全体の話は、いつものとおり、ノラネコさんの以下の記事を見てもらえるといいのですが、上記の文脈、自由を主張して分裂して社会がバラバラになりつつあるアメリカへの警鐘と遺言という文脈からこの作品を見ると、その深さにぐっときます。

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http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-301.html

この『グラントリノ』の主人公ウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)は、年老いた白人の老人で、朝鮮戦争に出陣した元アメリカ軍兵士であり、1972年製フォード社であるグラントリノをこよなく愛する元フォード社の組立工。長年連れ添った妻に先立たれて、子供たちとはほとんど没交渉、ずっと住んでいた町は白人の町からアジア系とヒスパニックの町になってしまっており、友達もいない。それ故かひねくれて人種主義的な発言を繰り返す、いやなジジイだ。彼が例えばアジア人を嫌いな理由は、非常に良くわかる。朝鮮戦争でアジア人を殺したトラウマゆえに、素直になれない。自分が愛し過ごしたフォードは、日本車によって壊滅させられ、自分と折り合いの良くない息子はトヨタ車のセールスマンとして人生を成功させつつある、、、そりゃ、アジア人嫌いになるよね(苦笑)。しかも、自分の愛した街はヒスパニックやアジア系などの有色人種にの若者らが集まるギャングによってどんどん荒廃していく。・・・ああ、これが、命を賭して守ったアメリカの未来か!と絶望したくなる気持ちもよくわかる。これは、何を指しているかといえば、典型的なオールドアメリカンの姿だと思うのだ。年老いてしまった白人のアメリカ人は、過去の栄光に満ちていた自分たちのアメリカとは全く変わっしまった、と思うだろう。60年代以降のリベラリズムの嵐は、家族の分裂を生み、既に家長としての威厳も失われている。もうひねくれて人種主義差別で(行動に起こすほどエネルギーもない)隣人(当然アジア人)を嫌って偏屈になって孤立して静かに死ぬのを待つだけ。


こうしたウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)という白人じいさんのひねくれる気持ちは分からなくもないですか?(笑)。


この絶望と諦めと、未来がなくなったことを嘆息しつつ死ぬだけだと思っていた白人のオールドアメリカ人の隣人に、アジア系移民モン族の家族が移り住んできたことによって彼の人生が変わります。上記の状況下で、極端なこと言えば、いろいろな背景画があるとはいえ、有色人種が嫌いで自分の夢や価値を継承する子供とも家族がバラバラになって没交渉なオールドアメリカンが、人生の最後に見出した最もアメリカらしい価値観と正しさの継承先として、隣に越してきた移民であるアジア人の男の子を見出して、そのために命を捨てるという話!!!なんと、なんと、、書いていて、涙が出てきます。


アメリカの現代の90-00年代の巨大な問題点の一つは家族の崩壊です。何を持って崩壊かといえば、個人の権利が先鋭化しすぎて、家族という絆が意味を持たなくなったんですね。ちなみにアメリカ社会は、女性の自立に伴う激しい離婚率の上昇や子育て放棄やDV、家庭内虐待、離婚した親による子供の誘拐の多発などを経て、何を見出したかというと、「正しい家族」というモノはなくて、「良い家族」があるんだという方向へ、家族の構成のあり方がかわりました。具体的にいえば、ゲイやレズビアンカップルの容認などがまずあります。大きな流れとして、子供の前で殴り合いやDVを繰り返す普通の男女の夫婦よりも、「愛によって結ばれた」家族の方がはるかに価値が高いじゃないか!という価値の転換です。そして、離婚率の上昇も女性の社会進出が経済的状況の悪化によって「当たり前」化した時点で、実は止まり、上昇に転じます。その場合は、離婚自体は常態化しますが、離婚した男女同士の連れ子結婚などが、当たり前の日常として定着していきます。もちろん、この流れには、人工国家、人種統合の世界のフロントランナーとして自負する風土か、人種の違いを超えての養子制度の広範な定着もあります(ブラッドピット夫妻やトムクルーズ夫妻などが有名ですよね)。


現実を認め始めたって感じなんですが、ようは「こうあるべきだ!」っていう思い込みは、所詮思い込みに過ぎなかったってことがみんな痛切に感じ始めるんですね。このウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)ってじーさんは、人生に何も見出していなかったんですが、実は隣に越してきたモン族のアジア人少年の中に、彼が「正しい」と信じるアメリカ的な正義を見出すんですね。そして、それはひどくもろく壊れやすい。都市の中で、民族集団のギャングに所属しないで、生きていくというのはよほど金がある高級子弟でなければ難しいでしょう。自衛の問題もありますしね。けど、そのことを拒否する少年は、いつ殺されても抗争に巻き込まれてもおかしくありません。それは構造的な問題。気持ちだけではどうにもならないのです。その輪を断ち切るために、ウォルトは、自分の命を捧げるのです。それは、過去の贖罪の気持ちもスタートにはあったと思いますが、それは最後には彼の動機ではなくなっています。最後にカソリックの神父(これが珍しく素晴らしい男だ!)にウォルトが懺悔する時に、朝鮮での行為に全く言及していないのは、彼のその後の行為が、モン族の少年の、言い換えれば、未来のアメリカに対する貢献(=アメリカ的価値の継承)であって、既に罪を償いことではないとい確信しているからなんだと思います。このへんは芸が細かい。心理描写を細かく丁寧に積み上げているからこそできることです。

まとめておくと、『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』の二作品で、「敵を記号化して排除する」ということ解体することをイーストウッド監督は目指しました。そして、バラバラになったアメリカ人に対して、本当にアメリカの未来を託す相手は、人種などの対立の先にあるんだ、ということを示しました。

家族という神話―アメリカン・ファミリーの夢と現実
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そして、ついに『インビクタス』です。

ラグビーのワールドカップ開催が、一年後に迫る南アフリカ
就任したばかりのマンデラ大統領(モーガン・フリーマン)の目の前には、アパルトヘイトが廃止されても、相変わらず白人と黒人に分断され、経済は低迷し、治安は悪化の一途を辿る、崩壊した祖国が横たわる。
白人に人気のスポーツだったラグビーと、白人主体の代表チーム・スプリングボクスは、アパルトヘイトの象徴として、黒人たちには忌み嫌われており、成績も低迷していた。
だが、ラグビーが白人のスポーツだからこそ、国民の和解の象徴になりえると考えたマンデラは、反対派の声を抑え、国を挙げてワールドカップの支援に乗り出す。
マンデラと面会したスプリングボクスのフランソワ・ピナール主将(マット・デイモン)は、スポーツに国の未来を象徴させようとする大統領の理想を心に感じ、バラバラのチームを纏め上げてゆく・・・・


http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-363.html


これは、アパルトヘイトの後での、国家の再建と人間同士の和解がテーマになっています。アパルトヘイト(人種隔離政策)によって、これまで白人によって支配されは白人によって差別政策が行われた国のリーダーに政権交代によって黒人の大統領が就任する、という話です。もちろん、実話です(さすがに知っていますよね?)。どっかで聞いたことがある感じがしませんか?(笑)。これが、アメリカへの遺産を残そうと素晴らしい映像作品を撮影し続けるイーストウッド監督にとって、アメリカ社会の現実を打つ格好のメタファーであり、具体的なロールモデルであることが分かります。もともとは、映画化の権利をモーガンフリーマンが持っていたそうですが、まさに、イーストウッドがとるべくして取った作品だと思います。なぜならば、これまでのテーマの集大成となるからです。


もう一度繰り返しましょう。現代アメリカという個々の人間の権利が先鋭化した個人主義によって島宇宙のように分裂して憎しみ合う後期近代社会に対して、1)『硫黄島からの手紙』で「敵を記号化して排除すること」の愚かしさを感じさせ、2)『グラントリノ』で、人種対立を超えて「継承させるべき正しいもの継承させるべきは誰に対してか?」ということを問いかけるという、処方箋を提示してきました。これらは、ある意味、個人の視点の転換でした。1)も2)も個人のモノの見方を変換を要請するものでした。


しかし、この『インビクタス』は、それをマクロの国家レベル指導者の視点を描いています。全編にわたって、アパルトヘイト後の崩壊した南アフリカで、「国家の統合と再建」と「憎み合う個人と集団同士」をいかにバランスをとって解決すべきか、という極めて重い重責がマンデラ大統領(モーガンフリーマン)にのしかかります。


非常に端的なのは、マンデラ大統領が、家族と非常に折り合いが悪くてうまくいっていない、というシーンです。彼の娘との会話が印象的なのですが、国家の統合と運営のために、旧政府の白人を次々に登用するマンデラ大統領に対して、子供時代に家に押し入ってきて父親を逮捕して行った暴力警官のトラウマから、娘はそんな父の姿勢が許せません。その溝は圧倒的であり、たぶんこの家族が和解することは永遠にないでしょう。彼は、家族との融和ができないんです。しかし個人としての喜びよりも優先して、国家の再建と憎み合う人々の融和に、自分を駆り立てていきます。結局は、身近な家族との関係すら、敵をぶちのめすという感情的共有をしなければなかなか難しいのです。だって、家族ってそういうものでしょう?。確かに。自分を殺そうとした人を倒さない父親とかって、信じられないに決まっているじゃないですか「感情的に」。けど、そこで、『グラントリノ』を思い出すわけです。本当に未来にとって、自分の直接の子供だけではなく、孫や友人や、まだ見ない見えないこの世界の仲間のために、「本当に残すべき遺産は何か?」ということを、個人の葛藤や感情的カタルシスを乗り越えて、やらなければいけないことはやるしかないんです。それこそが、真の指導者であり、リーダーなんです!。もちろん、スポーツによって統合を促す手法は、非常に全体主義的手法で、オリジナルはナチスドイツに求められます。レニ・リーフェンシュタールの『意思の勝利』の高揚感は、いまだ衰えることはありません。

民族の祭典【淀川長治解説映像付き】 [DVD]
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けれども、その同じ手法も、リーダーの超人的な克己(己のミクロの感情を押し殺し人間的打算を求めること)と、その「思い」に感染した人々によって、これだけのものを生み出すのです。イーストウッドがここで言いたかったのは、最後には、「国家の統合」が必要なのですが、そのためにそこに関わるリーダーがどのような意識を持つべきなのか?と、そのリーダーを攻め立てる「我々民衆」はいったい何を求めているのか?ってことを、ちゃんと理解しようってことだと思います。自分を虐げたものを、家族や大切な人を奪った人々を憎むのは、当然の感情です。でも、どこかで「赦し」がなければ、世界は変わりません。ただただ、敵を記号化して殺し合っていく、善悪二元的な世界へ逆戻りです。それでいいのですか?って。初めて気づいたのだが、南アフリカ共和国というのは、アメリカの先を行く人種の混交した近代国家なんだな、ということ。それは、アメリカにとってもロールモデル。そして、それが、一人の偉大な政治家の意思によって数々の危険を乗り越えた、ということを知ることは、非常に価値があることだと思いました。もちろん、現実はそんなに単純じゃない部分もあるんでしょうが、すくなくとも、全く知りもしなかった僕らにああいう世界があったことを示してくれたことには価値があると思います。