『劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド・パール アルセウス 超克の時空へ』 湯山邦彦監督

劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド・パール アルセウス 超克の時空へ [DVD]

評価:★★★☆3つ半
(僕的主観:★★★☆星3つ半)


先日、ダイヤモンドパールの回が最終回を迎えた。なんかちょっと、さびしい。このヒカリって女の子、もうたぶん次のシリーズでは出ないんだよね?、、、仕組みというかストーリーがいまだよくわかっていないのだが、、、いやーなんか「終わり」ってさびしいねぇ。最終回を、もう10回ぐらい見ている・・・って、まぁどの道、毎週何回も繰り返してみるんですけどね、子供と。ああ・・・でも、別かれっていのうは、どんなものでもすごく悲しいですねー、、、胸がぐっときます。


うちの子供たちがはまって、まだ半年ぐらいなのだが、僕はさっぱりストーリーが分からないなりに、いったい何回繰り返して見たことか・・・。テレビでこのアルセイスの映画があったので、、、、録画を通算20回は繰り返して見た(笑)。とにかく子供は繰り返すのが好きなので、好きになると、何度も何度も見返させられる。あんまりテレビばかり見せるのもなんだなぁーとは思うのだが、泣き叫ぶので、どーにも(苦笑)。


ちなみに息子は『けいおん』の主題歌が好きで(今に2歳)、「だいすきぃ!!」とせがまれる。歌のあの言葉が好きらしい。娘は、『ストライクウイッチーズ2』のバトルシーンがお気に入りのようだ(苦笑)。。。。そういえば、いくみさんに「それは教育に悪すぎます」って怒られたっけー(苦笑)。


とはいえ、ポケモンを見せていると、アンパンマンとトトロと並ぶすさまじい喰いつきの良さで、やっぱすげぇーなーこのアニメと感心する。いま娘の中で、『TOYSTORY』(娘はこれを、舌ったらずでオットトトーリー!!!と呼ぶ)とポケモンが二大双璧で、何かあると「おっととーりー」か「ピカチュウ見るの!」が口癖だ。


さて、しかしながら、、、、このアニメーション見ていて思ったんだけど、この映画、、、子供に本当に意味がわかるんだろうか?って思うほど、複雑なんだよね。タイムパラドクスの話なんだけどさー。僕も集中して見ていないとさっぱりわからん。・・・・でも、他のアニメのダイヤモンドパールの作品を繰り返して見ているうちに、これって正直言ってストーリーはあまり重要じゃないのかなもなーと思ってきた。というのはアンパンマンでもそうだったんだけど、、、、先日、休日に子供たちを連れて本屋の子供コーナーでフラフラしていたら、娘が、食い入るようにポケモン図鑑を見ているんだよね。そんで、字は読めないんだろうけど、、、どーも、ダイヤモンドパールに出てくる見たことのあるポケモンを区別しているみたいなんだよね。「これ、これ!!」って指差して、「私はわかっているぞ!」と主張するんだよね。そんで、そうだねーとか言って僕も見ていたら、、、、たしかに、繰り返し見ているので、何となく判別がつくようになっているんだよね、、、ああっ、これってコレクター的な収集のマインドを確かに感じさせるなぁ、、、と思った。人間の根源的な喜びの一つだよなーと思った。というのは、ユニバースを実感するには、物事の単体(=断片)を認識(=覚える)していって、それらのつながりを理解していくことだからさー。世界の再構成をやっているわけだ。子供が電車とか来るかにはまるのと同じ。


逆にいうと、ポケモンの違いを判別していく「楽しみ方」をしないと、何が楽しいのかさっぱり分からない作品かもしれないとは思った。僕が星が低いのは、僕の主観なので、これは世界観を子供の視点で見ると全然違うのかもしれない・・・・。そして、それは僕には、うっすらとしか分からない。頭で理解することと、心が理解することは別だからね。・・・・断片ではあるが、映画とか毎週のアニメとか相当の数を見ているはずだが、いまだ言ったいストーリー的に何が目的なのかさっぱりわからないもん。ということはドラマツゥルギーを前面に押し出して評価する作品じゃないってことなんだろうなーと思う。アンパンマンは、それなりに勧善懲悪の基本形なので物語的オチがいつもつくが、この作品は、そういった類型もないし、、、と思ったんだが、子供の食いつきというか集中力を保たせる魅力って、「そこ」じゃないんだなーと思った。自分の物語を見る視点は、ほとんど動機を軸としたストーリー性にあるので、なるほど、「こういう」見方があるのかと感心。まぁ自分は、子供無くして、個人として好きかというと、あまり好きなモノじゃないので、子供が見なくなれば僕も見なくなるものだとは思うけれども、なかなかこういう体験や発見は、口で言われてもわかるものではなくて、強制的に拷問のように見せられ続けて(笑)、しかも自分が大切にしている心の距離が近い(つまりはアイデェンティファイしやすい)関係の人がそばにいないと(この場合は子供ね)なかなか、世界を見る姿勢というのはチューニングされないので、なかなか良い経験であった。


人は、ナルシシズムというか、「自分が見たいように世界を見る」というある種のフィルターから自由ではいられない。それを意識的に取り払うのは、僕はほとんど不可能に近いぐらい無理なことだと思っている。人間はそういうものだ。そういうのを越境したいという想いは抱いて生きてきているが、実際は、凄く難しい。なぜならば、人間は自分の「記憶」と「経験」とそして「いま生きている現実」の動物的脊髄反射で生きる生き物だから。けど、いろいろ偶然(本当に訪れてくるものだと思う)によって、そういうのを少し破る時もある、そういうのっていのは、とても幸せなことだと思う。自分の自力でなかなか訪れないものだからね。そういう意味では、ある種のストッパーを外して感情移入したりできる、子供という存在は、もしくはたぶん家族という存在は、人生をもう一度やり直す、もう一度体験を一回性として生きるために、とても価値のあることなのかもしれない、と思う。