『っポイ! 』 やまざき貴子著 充実した密度の濃い時間の中で

っポイ! 29 (花とゆめCOMICS)

評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★★★4つ)


先程読了。20年越しだなー。久しぶりに読んだ。



一読して感想は、「ああー万里の悩みというのは消化されずに終わるんだな」ってこと。



実は、ずっと思っていた。彼の抱える『闇』こそが、僕が一番答えが欲しい問題点で、けど、この中学生の「無邪気な時間」を描いている作品では、このような近代人的な生きる実存の悩みはクローズアップされないだろうなーって。そして、それだけではなく万里は、この「闇」の抱える「解決しようもない複雑さ」に対して、非常に成熟したタイで出直視し続けていて、こいつは、へーがいるかぎり、きっと道を誤ることはないんだろう、いい出会いだったなあ、、と思っていた覚えがある。


この万里のテーマというのの類型は、この羅川さんの駿くんのテーマと同じものだと僕は思っています。条件や環境などいろいろなモノは違うが、非常の本質は似ている。ちなみにこのへのテーマは、ずっと追っているので、このへんの僕の記事を全部ではないけど、テキトーに下にピックアップしておきます。


『しゃにむにGO』 27巻 羅川真里茂著 駿くんにしあわせをあげてほしい!
http://ameblo.jp/petronius/entry-10051986002.html

『しゃにむにGO』 27巻 羅川 真里茂著 負パワーを正のパワーへ
http://ameblo.jp/petronius/entry-10052586422.html

『しゃにむにGO』25巻 本当に大事なものは、なかなか見えないものだ、けれど人生は美しい②http://ameblo.jp/petronius/entry-10028227071.html

『しゃにむにGO』25巻 本当に大事なものは、なかなか見えないものだ、けれど人生は美しい①http://ameblo.jp/petronius/entry-10028227026.html


『ヴィンランドサガ』 幸村誠著 まだ見ぬどこかへ〜なにを幸せと呼ぶか?

http://ameblo.jp/petronius/entry-10027058894.html

万里って、本当になんでもできる上に、物凄く成熟し視線を持っていて、それはそれは恵まれたやつです。けど、たぶんこれだけの「なんでもあり」の設定をしても、とても成熟して安定しています。しかも、まー家庭で大好きな父親と暮らていないという寂しさはあるものの、トラウマ級というには小さすぎるもんです。ネグレクトも虐待を受けているような暗い過去を設定されているわけでもないので。でも、たぶん彼は、へーのような存在がそばにいなければ、自分を見失ってしまうタイプの人間だと思います。万里が凄いところは、そういった自分の弱さや本質的な欠陥さえも、ちゃんとバランスよく見えていて、だからこそ、へーに凄くかまって距離をジリジリ観察しながら、そばに入れるように、周りを戦略的に埋めていきます。いやーいい男だ。けど、運よくそばにへーがいて、そのへーに対して比較して嫉妬するという破壊衝動にならなかったという運の良さと、、、『っポイ! 』自体のテーマである『無時間的な時間の充実』という、、、それで、ほとんど1年くらいの期間を、20年にわたって描写することになるんですが(笑)、、、『フィネガンズ・ウェイク』か『失われた時を求めて』かよとか言いたくなりますが、志向は似ているものなんだろうと思います、、、このテーマが故に、このある種無時間的な・・・いいかえれば時間が並行的にくるくるまわっている「まったき充溢の時間」に、それを破ってしまう直線的な時間感覚の持ち主である万里のテーマは追われなかったこと思います。。。。残念だか、テーマ上正しいし、そもそも「へーの傍にいる」という彼の覚悟と行動力は、確実に「この問題」を解決させるので、読者の方もたぶんそれほど疑問を持たないでしょう。まーなんといっても、中高生の女の子が読むものであれば、そこまでうざく考える人はまれでしょう(笑)。



ああ、話がわけわかんなくなった。ようは、僕は万里の将来の姿が見たいし、彼がもっと苦しんで、もっと自分の問題点をえぐる話が見たかっただけです(笑)。万ちゃんのファンなんでしょーね♪。



もう一つは、相当頑張ってシンクロしないと、入りにくい(=感情移入しにくい)ってことです。一つは、まーそりゃー20年もたっているし、中学3年生や高校1年生を想定しているだけで、30代のおじさんには、いかに中学の頃に読んでいたといっても、なかなか感情移入しにくい。けど、それ以上に、たぶんここで描かれている関係性や時間感覚って、ある種の理想的な世界なんだろうなーと思うのです。


なんといっていいのだろう、凄く説明に困るのだが、先日渡辺京二さんの『逝きし世の面影』を読んでいて、「心から幸福そうな笑顔を振りまく古き日本人」が、なぜそういうふうに欧米人観察者から見えたのか、という徳川期から明治中期までの日本話を扱った話で、共同体の自治権がありコモンズが成立していた、その当時の日本の民衆とりわけ下層階級は、上層階級の武士階級(数は凄く少ない)よりも、遥かな自由と生きる喜びを感受していたことが説明されていて、そうしたなかにヨーロッパ近代の「直線的時間感覚」、、労働を、賃金に置き換える思想を持ち込み工業社会化することが本当にいいことなのか?と疑問を覚えるオールコックなどの観察者の意見が書かれていたのだが、彼らの笑顔ってのは、まさにまさに、なんというのだろうなぁーああこの本の言葉でいえば、「生活世界の充溢さ」ってやつなんだと思う。近代社会は、全てがマクロにリンクされ、それが賃金、、、貨幣という名の計量可能なモノによって換算され、自分の内的な時間や共同体の時間の流れを超える、普遍的な「時」によって、管理される強烈なオブセッションのある社会。生産性は極大化されていく社会ではあるが、それによって人間は非常に複雑な感情を抱え、「自然な時間感覚」からかけ離れて自分を飛躍し続けることを要求される。そではなく、「自然な時間の流れ」の中で、自分の目に見える範囲での(=生活世界)の関係性の中で、自尊と自由を感じて、仲間との時間をシェアしていくことが、真に幸せをもたらすのだろう。こうした「自然への回帰志向」の言説は、・・・これってワンダーフォーゲルとかナチズムなどの、近代ヨーロッパの思想と同型ですねー(苦笑)。


逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)
逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

じゃあ、本当は戻れない「自然な時間」へ回帰するというある種の、ありうることはないロマンチシズムが、近代社会の中で成立するのはどこか?というと、ギムナジウムものなんだろうなーと思うんですよ(『風と木の詩』とか『けいおん』とか『究極超人あーる』とかそうーいうの・・・って全然違う(苦笑))、ようは学校空間というのは、こうしたものを再現しやすい空間なんだろと思います。


ただ、学校空間には、アンビバレンツな仕組みがあって、それは、これは上記の近代人を育て上げるためのトレーニングのための装置なんです。自分の内的な「時間」や「仲間たちとの時間」をぶっぎって、産業社会に適応する時間を(=労働)軽量可能なモノとして販売するという産業人のトレーニングをする場所でもあるということです。このへんストレスは、フーコがいうような監視装置なわけだからさー。ああ、鶴見済の『檻のなかのダンス』とか思い出す。 そうするとさー、そこには物凄い歪みも発生するわけですよねー。ほんとーは、そこには陰湿ないじめとかいろいろなモノが出てくるわけです。


けど、やっぱりそうはいっても、近代産業社会「そのもの」ではないわけで、モラトリアムの時間なわけでもあるわけですよね。そこで・・・・というようなことを、つらつらおもいました。。。。疲れてきたので、ここで打ち切り。。。