生きる世界が違う人と友達になること〜コミュニケーションのレベルを上げるためには?

特別講義 コミュニケーション学

■コミュニケーションは、表層の関係の維持とそれを壊して本質へと至る技術のバランスからなる


ふと手にとって、コミニケーションベタな人へのアドバイスで僕がよくいっていることと似ているところがあるので購入して、友人とかにプレゼントした。よく後輩や部下とかにも質問を受けるんですよ。僕のカウンセリング?は、いや実際、長期間付き合うと、かなり効果を上げるようなので、非常にいいもののようだと、自分で自負しております(笑)。


どうしたらコミュニケーション力があがるのか?


どうしたら友達が、人脈が増えるのか?


正直僕のような、会話べたの人間がこんなこと聞かれるのが不思議で仕方がないのですが・・・。というのは、小学校のころから僕の通信簿には「思い込みが強く他人の言うことを聞かない」とか「人の話をもっと聞きましょう」といわれる人で、とにかくしゃべることに夢中になって我を忘れるタイプで、、、(笑)、この性癖は30を超えた今でもまだ一向に治りません。治る見込みもありません&直す気もありません。。。「人の話を聞かない」のも、基本的な部分では全く変わりません(笑)。なぜならば、僕はそういう人!だからなんです。自分のナチュラルに楽な生き方の姿勢って、変わらないものなんだと思いますよ。いいんです、それもでいいという仲間と仕事に恵まれているんだから。そしてそうやって生きるのが楽な「場」を自ら勝ち取って作ってきているのだから。「自分のわがままが通じるところ」で人は生きるべきだと思います(難しいですが)。



でもね、、、その代わりに、ほとんどの表面の話は聞いていないですが、「その人が本当に何を思っているか?」「何を実存のベースに生きていて」「なに喜びと怒りを感じるか?」には、耳ではなく心で聞くようには努力しています。というか、表層の話は興味ないんです。そんなもの、技術でするための「構え」というか、そういった鎧みたいなものでのお互いの力量を測る威嚇みたいなもので、本当は意味がないんです。まぁ、そこを突破できないと、何も始まらないのも事実ですが。。。。僕が分析好きや動機の解明にこだわるのは、多少うわべの社交辞令なんか聞いていていなくても、「本質が何か?」を理解していれば、結局はそっちの方「だけ」が大事なのではあって、KYとか言われるような「空気を読む」とかいうのは所詮上辺の社会的なスキルであって、スキルはスキルに過ぎないと思うんですよ。僕は、正直言って空気を読むのが下手だと思うし(笑)、要領もいいとは言い難いともいますが、それでもその「場」のマクロの流れや、個々の人間の「動機」が理解できていて、長期間のスパンで自分や自分とその人との関係がおかしくなることはあり得ません。ビジネスだって、なんだって同じです。人生で一番大事なモノは、そこだと思うんですよね、僕は。



短期で仲良くやる・・・「空気を読む」というのは、しょせん短期のスキルであって、僕には興味はありません。そういうのにうつつを抜かしていると、限りある人生を損してしまうように僕は思います。もちろん表層の表面のコミュニケーションを超えて、内部に入ることは、非常に大変で難しモノではありますが。まっ、僕は、表層の部分は、もともと下手なんで、そんなところのレベルを上げても意味はないです。もちろん、その場をうまく要領よくやるスキルは、社会で生きていく限り必須であるので、「表面だけのうまさ」ならば僕も相当努力して、身につけています。それは社会人の常識だし、、、いや学校空間でもこれがないと、生きづらいでしょうねぇ。確かに、こういうのが苦手な僕は、なかなかなんで周りと自分がなじめないのか、なんで自分が浮いているのか?って子供の時から非常に不思議に思っていました。まるで地球に一人残された異星人のように。ああ、これは、中島梓さんの言葉だし、イギリスの有名な博物学者が、人生について語った本にあった言葉ですねぇ。周りの表層を超えて本質を見ようとすると、「周りからとても浮く」なんですねぇ、、、真面目に真剣に、深刻に世界を眺めると、なんか変人みたいな扱いを受けます。会社でも、なんでそう物事を厳しくとらえるのか?って、みんな不思議がるんですがねぇ…みんな「ものが見えていない」だけだと思いますよ…実際そういった甘いこと言っていたやつは、見事に消えていったりビジネスを悪くしていきました・・・。世界はそんな甘かねーんだよ。・・・といいつつも、みんな表面だけの関係性の維持にきゅうきゅうとしているんですよねぇ、、、。けど、そういう「表面の関係性の維持のスキル」は、自分を不幸にするだけで、一向に幸せにはなれませんし、新しい世界も開かれないし、人との関係も深めてくれません。


なぜならば「空気を読む」というのは周りのバランスをとる行為であって、それ以上でもそれ以下でもない、社会人の基礎みたいなもので、、、できないと話になりません、、、が・・・そもそも、人と人が「信頼残高を積み重ねる」ということにおいては、ほとんど役に立たないんです。だって、信頼される…信用を得ることは、ガチバトルで喧嘩しているような関係の中でも傷つけあう寸前までいかないと、なかなか得られるものではありません。リスクにコミットすることでしか得られないものなんですよ。そこを、空気を読んでスルーしていたら、本当の信用、本当の人間関係を知らずに、孤独のうちに死んで行くだけですよ?。


まぁ何が言いたいかというと、コミュニケーションスキルには、グラデーションがあって、、、、まぁわかりやすく二つに分けましょうか。「空気を読む」という周りの環境や雰囲気に適応・同化するための技術と、それをぶち壊して「本質に至る」という二つの相反する技術が同時に必要でないと、深い関係は築けないと思うんですよ。まぁ技術を学ぶ必要はないとうような「韜晦」は、僕のように、そうはいってもそれを苦しんで、研鑽積んで努力してきた果てに言う話であって、若者(どこを若者と云うかはありますが・・・)が、表面の関係を維持するスキルを学ばなくていいというわけではないんですいがね。言いたいのは、力点とバランスの問題。


■本質に至ることとは?


「対幻想(=2者間の関係)」には、ある種の理想形のモデルのようなステップがあって、一番これが深くまで入れるのは、「学生時代のころ(なにも社会的な肩書がないころの)同性同士の親友との関係」と「異性との関係(これもできればあまり自分の社会的立場が固まっていないほうが有利でしょうねぇ)」の二つであって、それ以外の関係は、そもそも対等になりづらいし、しかもあまり年をとるとそもそもコミュニケーションにかけるコストや時間が大きすぎて、できなくなるんですよね。社会人になると、こんな丁寧に、相手は付き合ってくれません。駄目だとともったら、即切られます。限りない人生、自分と本質的なところで関われない場合は、その人は「人生で残ってく友達」じゃーないんだもの。


だから、この「モデル」を一通り体験していないと、社会にでて「出会いが減って」かつ「時間がない」中で、このモデルを最終ステップまで、とぎれとぎれに進めることは、本当に難しい。大学を出るくらいまでにこの一通りを経験しておかないと、ある種、世の中の関係性が、どういう始まりから終わりまでがあるのかってことが、わかんないまま生きることになってしまいます。そういうのは悲惨ですねぇ、、、。ちなみに、男性同士とか同性同士でもかまわないんですよ、そうやってガチで本音でしゃべった関係性を知っている人は、時間のない社会人でもちゃんと好きな人を見つけて、異性ともうまいくもんです。これ経験値がものをいうスキルだから。正直社会にでてこれを勉強するのは非常に難しい。なぜならば、純粋に「人間関係(=好き嫌い)」だけではなくて、利害と生活がかかってしまうからです。コミュニケーションの前提に、巨大な変数が二つ入ってしまうからです。その前に一通り経験していないの、「相手にどこまで踏み込んで傷つけていいのか?(=相手からその分傷つき返される)」とかの、距離感の訓練ができなくなるからですね。これは、ある種のトレーニングと経験値でレベルを上げるしかないもので、物凄く距離感のいい、素晴らしい家庭で育った特別に恵まれているナチュラルボーンなやつ以外(物凄い少ないです、いるにはいるけど)は、自分で意識して経験値とスキルを上げていかないと、世界を目隠しで生きているような不毛感覚になりますよ。



もうちょっと具体的に言うと、親友だと、とにかく相手の心に土足で踏み込んで、その返しが棚で踏み込まれ返されて、川原での喧嘩(笑)とはいわないですが、ようはお互いの自尊心の解体をし合う喧嘩をしたことがあるかどうかで、「その後」その相手と、何か一緒にモノを為すことができたら(何でもいいんですがね、小さなことでも)完ぺきです。女の子とは、まずはやっぱり告白から始まって、Hさせてもらえるところまで口説けるかどうか(とくに若いまだ経験がない時に、そこまで許してもらえることは凄い経験値ですよねー)、そして、その後、一通りのイベントが終わった後の「飽きる日常」をどう解決するか?まで経験できると最高です。女性であったら、単にその逆です。良くフランス映画なんかのモチーフで、凄いダンディのおじさんが少女を育てるような話がありますが、ここに年齢差や社会的経験の差を持ちこむと、非常によくないもようです。こと異性は非常によろしくない。ちゃんと対等でさえあれば、そういった上辺の差は意味を為さないんですが、そもそも上辺の差を超えるような「本質のコミュニケーション」ができる人が、凄く少ない。だから経験値を武器に非対称の状況になってしまうんだよね。そうやって若くして急速に経験値を持つと、自尊心の肥大化を招いて、、、、そう考えると、対等である構造を得るのには、非常に慎重がいるんですよねぇ・・・。そういう意味では、学校空間というのは、良くできているのかもしれない・・・。でもまー実際は、そこまで理論的に考えるのは不可能かもしれないが・・・だって世界は多様で、沢山の人に囲まれて暮らしているという現実は無視できないもの。現実は現実だし。


まっ、これって、ファーストステップに過ぎないことなんですがね。こういう「始まりから終わりまで」のコミュニケーションで相手の本質にぶつかった経験を一通り経験すると、、、、「宿題」のようなものが見えてくるんですよ。僕が、、、そして、僕がかかわる大事な人が、「生きていくためにとかなければならない本質の宿題」。それを解くことを求めて生きることが、もっともその人を輝かせ、その人を自由と輝きに導くもの。僕はこれを、本質、とか実存とか言っています。けど、その「自分の本質を目指す戦い」のフェイズに入るには、準備が要ります。もちろん、人生は準備不足が基本で、その準備がそろった時点で勝負に出れるような幸運はまずありません。実地で失敗しながら獲得していくしかないでしょう。けれども、たとえば、上で書いたファーストステップの部分の経験値を沢山持っていないと、そもそも勝負にすらなりません。あれは、対幻想(=2者間の関係)の技術と課題ですから、もちろんその前には、「個幻想」というナルシシズムの檻との戦いがあります。個幻想のける、自分の心の問題を解決していないと、そもそも対幻想の2者間の、、、誰かに関わるなどという高等技術は成り立ちません。



・・・この記事も打ち捨ててあった記事で、コミュニケーションのレベルを上げるためには?というようなことをつらつら考えたいた時の、思考の残がい。Basic Skillの記事は需要があるようなので、内容は途中ですが、あげておくことにしました。