『お家さん』 玉木かおる著 明治7年から昭和2年の約半世紀の間に世界に君臨した鈴木商店

お家さん〈上〉 (新潮文庫)お家さん〈下〉 (新潮文庫)


評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★★★★5つ)


金子直吉の歯を食いしばってオーナーのいじめにしか見えない暴虐にじっと耐える姿に日本の徒弟制度の世界を見る
伝説の総合商社、鈴木商店のオーナーのことを書いた小説『お家さん』を読む。素晴らしかった。これ、まじで素晴らしい小説だった。物語としても、とてもいい。金子直吉が、本当に底辺から商売に熱中してのし上がっていく様を見て、、、、自分も、もっとかんばらなにゃーな、としみじみ思った。ほんとはわき目もふらないくらい集中することが、大事なんだよな。とかおもう。初代オーナーに殴るけるの暴行と罵倒の嵐の中、歯をくいしばって耐える姿に、胸が熱くなったよ。鈴木商店の本道の小脳は扱わせてもらえないので、他の商材をコツコツ得意分野にして発言権を獲得しようとする、そのポジティブというか、そこしか逃げ道ないぜ的な追い込まれ方は、「生き残る」ってのはこういうことなんだなーとしみじみ思わされたよ。

鈴木商店――。もはや経済史の教科書にしか出てこない名前である。現代にその痕跡を探すとすれば、神戸製鋼所日商岩井などに認められる。この鈴木商店は明治7年から昭和2年の約半世紀の間、まだ「総合商社」という呼称がなかった時代に、世界をまたにかけて大活躍したビッグ・ビジネスである。当主は鈴木よねという女主人で、その番頭を務めたのが、金子直吉だった。より正確に言うなら、鈴木商店とは金子直吉が育て、世界のビッグ・ビジネスとして活躍した企業だ。鈴木商店は昭和2年の金融恐慌で、市場から退場した。しかし、金子が育て残した総合商社、製鉄業、化学、繊維など各種事業は姿を変えながらも今に生きている。つまり金子直吉は工業化のもっとも優れたオルグナイザーであると同時に、ベンチャーキャピタルでもあった。もう一つ金子直吉の事績を上げておくならば、彼が残した人材のことである。紙数に限りがあるので詳述は避けるが、代表的な人物を上げておくなら、戦後の産業復興公団総裁を務めた長崎英造、帝人大屋晋三神戸製鋼所の田宮嘉右衛門、日商高畑誠一などがいる。

 さて、金子直吉のことである。読者の中には城山三郎の小説『鼠』を読み、ご存じの方も多いかもしれない。けれども、これほど評価の別れる人物も珍しいことだ。神戸の小さな個人商店林兼を、世界的な大商社に発展させた、その経営手腕に着目し、天才的で非凡な事業家と評価される一方で、組織を無視したワンマン経営を敷き、結局は鈴木商店を破産させた張本人と断罪する向きもある。他方では数多くの企業を創業し、育成したという旺盛な事業家としての評価だ。さらにもう一方では比類なき主家に対する忠誠心や、私生活における無欲恬淡な態度を評価する向きもある。つまり金子直吉は見る人の立場で評価が大きく別れる人物なのだ。


金子直吉――鼠と呼ばれた名番頭」
http://j-net21.jp/establish/column/20040220.html
鼠―鈴木商店焼打ち事件 (文春文庫 し 2-1)
鼠―鈴木商店焼打ち事件 (文春文庫 し 2-1)


■観賞のポイント(1)〜鈴木商店のオーナーであった鈴木よねという女性の目
金子直吉の話は、城山三郎の『鼠』で有名なのだが、この作品は、鈴木商店のオーナーであった鈴木よねという女性の目で描かれている。そこが一風変わった日本近代資本主義の「共同体的経営」の姿を、実は深く抉っていると思う。鈴木よねという人は、当時のアメリカのフォーブス誌の世界長者番付で男性部門の第一位がロックフェラーで、女性部門のトップを飾った人です。大正時代に、三井、三菱をしのぐ大商社、大財閥の鈴木商店のオーナーですからね。そんな会社があったことすら知らない人が多いと思いますが、現代の大会社のいくつもがこの金子直吉によって生み出された、日本の産業の父の一人と言っても過言ではない人です。また鈴木商店は、特に穀物取引で世界的な名声を得、当時の小説に「スエズ運河を航行する船舶の10隻に1隻は日本の鈴木に属すといわれ、そのシンボルマークは世界中の海で見ることができる」といわれました。読むにあたって面白い視点は2点。一点は、オーナーである鈴木よねに絶大な信頼を得て、辣腕をふるった希代の名経営者金子直吉との「関係」です。信頼と愛情という、現代の力のバランスによって制御する株主資本主義ではあり得ないような日本的共同体の真髄が見ることができます。またそういった同族経営のオーナー志向が、産業の育成と凄まじいスピードの対応力と次世代のリーダーの育成に非常に効果があったが、故に大恐慌期に近代的経営システムがなく、経営的に優良な企業をたくさん持ちながら、つぶれてしまったことです。現代の日本社会には、スピードと新しい世界を切り開いていく推進力がありません。硬直した官僚主義と過度なコンプライアンス志向は、成熟した国家の持つ分別と洗練さをもたらしましたが、同時に、「前へ進む」という気概と推進力を失ってしまっています。故に、なぜ、鈴木商店が、この荒々しく危なくともわずか数十年で様々な新産業を興し、世界の頂点に上り詰めることが出来たのかは、とても興味あるテーマだと思います。


ちなみに、旧日商岩井の初代社長の高畑誠一の20代でのロンドンでの活躍は、もはや伝説です。いくつものエピソードがありますが、第一次世界大戦の背景に凄まじい取引を誇った鈴木商店の力を存分にふるった活躍は、当時のイギリスで凄まじかったそうです。辺境の小国のそれも、三井三菱に入れなかった(最初の頃はやはり格は財閥の方が上だった)若造が、それも20代で!ヨーロッパ列強の高官たちを手玉に取っていくのです!!!。超かっこいいぜ!。「坂の上の雲」を目指す当時の日本の若者の、まさに立身出世の極みですよね。商人として生きたならば、ビジネスマンとして生きたのならば、こんな取引をしてみたいものです。

桁外れの取扱量「日本で初めて」の数々 高畑は神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業後、当時、中堅商社だった鈴木商店に入社、直ちに頭角を現す。その名を広く知られるようになったのは1912年、25歳のときにロンドン支店に赴任してからだ。当時はロンドンが世界の商業の中心であり、世界中の精鋭がロンドンに集っていたが、その中でも高畑の活躍は群を抜いていた。第一次大戦が勃発したと見るや食料や鋼材を大量に買い付け、ヨーロッパの列強に売りつけた。ライバルの大手商社が二の足を踏む中、彼等とは一桁も二桁も異なる量を扱い、現在の価値で数百億円にも及ぶ取引を次々と成立させていった。この活躍が認められ、高畑は4年後の1916年、20歳代の若さでロンドン支店長に就任する。その時には既に、つい数年前には「無名」に近かった鈴木商店は売上高日本一の商社になっていた。高畑には数多くの「日本人で始めて」の冠がつく。たとえば、本国を介さない三国間貿易を日本人で初めて行ったのは高畑である。当時は、積荷を降ろした船は、そのまま積荷を積まずに元の港に帰っていた。高畑はそこに目をつけ、積荷を降ろした船に新しい積荷を載せた。しかも、元の港に戻すのではなく、別の目的地に向かわせるというアイデアを発案、実践した。これにより、取引量は急増する。また時には、出航時点では目的地を決めず、航海中に売り先を探すという芸当もやってのけた。積荷に加え、船まで売却してしまうという荒業を演じたことも一度や二度ではない。これは高畑という人物の、枠にとらわれない思考の柔軟性、好機と見るや果敢にリスクをとる大胆さ、抜群の行動力の賜物と言えよう。


ベンチャーの源流 「貿易立国日本」に捧げた一生〜高畑誠一(1887〜1978)
http://www.globis.jp/public/home/index.php?module=front&action=view&object=content&id=67


■観賞のポイント(2)〜新植民地台湾を近代的資本主義システムに組み入れていく過程
もう一つは、金子直吉後藤新平の関係です。鈴木商店が、後藤新平をバックにつけた台湾銀行を背景にしていたことから、非常に「国家にとって価値のある産業の育成」という視点をを持って事業を運営していた点、そして、新植民地台湾を、近代的資本主義システムに組み入れていく過程です。これにはぞくぞくします。新領土の獲得が、商売人にとってどれほどのゾクゾクする面白さをもたらすかを、まざまざと見せつけてくれます。このへんのテーマは、近代国家建設の高揚感やネイションステイツの確立とそれに伴う「統一市場の形成」という「坂の上の雲」を目指す意識ときっても切り離せません。

またフロンティアという概念は、中世化(=停滞)したがる人類を前に進ませる推進剤でもあり、たぶんこの概念を理解しなければ、SFの偉人達、特に古典SFの文脈は、真の意味では理解できないのだろうと昨今では思っています。アメリカ社会や経済なんかも、フロンティアの概念抜きには、絶対にわからない。1945年以降、このあたりに過度の罪悪感を持たされて、アメリカの帝国の辺境防衛のための衛星同盟国として位置づけられている日本には、この文脈を、善悪という価値基準でしか見れないために、ニュートラルにことを見ることができなくなっています。とりわけ、子供時代に、ソ連アメリカという二大超大国が、善と悪を押し付け合った終末の二元論の世界で、世界を体験した僕らのような世代にはね。これも変わっていくのだろうと思いますが・・・。

そういう意味では、僕のような団塊のJrからそれ以前にとっては、このような文脈で歴史を見なおしてみるのは、非常に面白い経験に感じます。ちなみに、日本におけるフロンティア獲得や新しい世界の開拓などの概念は、現実に適用することを禁じているが故に、強烈にファンタジーや物語の世界に屈折して現れた、というのが僕の実感です。また、こうした「坂の上の雲」を目指す近代の構築には、ある種の倫理観、ナショナリズムの持つ「国益」「公益」という「正しさ」が、技術(=テクノロジー)に裏付けられて存在しているはずなんですが、日本のファンタジーにこうした「国益」「公益」、言い換えれば万人に適用可能な「正義」、特に「泥臭い正義」とでもいうのかなぁ、理想論の空論ではない、地道な「同胞も守る」といかいった次元の意識がすぽっとの抜け落ちている気がしますねぇ。言い換えれば、「国家」というものへの信頼や、それを通して正義を実現しようとする近代ナショナリズムの基本が抜けているケースが多い。そうすると、いきなり世界平和とか「愛は地球を救う」とか、ちょっちまって?、どういう意味それ?見たいな飛躍が起きやすいんだよね。このへんがセカイ系みたいに、世界と個人がいきなり接続しやすい土壌なのかもしれません。まぁこじつけですが(笑)。


琉球処分』にみる近代国家を作ることの面白さ〜フロンティアを前にした時の商人の高揚感
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110114/p3
小説 琉球処分(上) (講談社文庫)小説 琉球処分(下) (講談社文庫)

ちなみに、本当は引用すれば一番わかりやすいんですが、ちょっとしんどいので省略しますが、台湾の開拓に捧げた鈴木商店の社員たちやその奥さんなどが、台湾を訪れるシーンがあるのですが、たとえば出来たばかりの阿里山鉄道に乗るシーンなどは、そこに豊富にあるヒノキを見て、この森林資源の開拓が!!と目をキラキラさせるシーンや、金子直吉が、開拓がうまくできていない台北の平野にダムを作り、大サトウキビ畑と製糖工場を建てて、日本の硬直化した砂糖市場をぶち壊すことを夢見るシーンなど(後日、実際に本当にそうなり、台湾の近代化の資本蓄積の基礎となった)、既に当たり前の事実として、、、たとえば、日本の大神社、明治神宮などの鳥居はすべて台湾の亜熱帯の巨大ヒノキで作られていることや、日本の砂糖市場の近代化はまともに作物のできなかった大平野にサトウキビ畑を作ったことによって(これは最初に新渡戸稲造を札幌の農学校から後藤新平が引き抜いて計画を立てさせ、かつ金子直吉に砂糖工場を台北に作らせたこと)なされたことなど、「結果」は何となく僕も知っていたんですが、それが「ここ」からきていたのか!!と思わせることの連続で、何度もすげーすげーと唸ってしまいました。台湾の新領土経営に関するシーンは、ほんの少しなんですが、それだけでも、もともとそういうテーマが自分の中にあったからだろう、凄まじい衝撃を受けました。たしかに、これは夢を、人生を賭けるだけの面白さのある大事業だな、と思うんですよね。だって何もないところに大プランテーションや大工場群、巨大港湾施設、巨大大都市を建設していくんですよ!!!、事の善悪はおいておいて考えれば、これほど興奮することってないと思いませんか?。またある鈴木商店の社員は、子供のころに両親が飢饉で死んで苦労したが故に、日本に豊かなコメを!と思いこんで仕事に打ち込むのですが、ああ、こういう気持ちが重なって、近代の「生産力の向上」というのはなされたのだなーとまざまざと感じました。ちなみに、この新領土獲得と市場の広がりと世界市場へ打って出る高揚感と同時に、神戸の街が都市化して労働者が流れ込むようになり、資本家と労働者の対立、失業者による社会不安が増大して鈴木商店が焼打ちにあっていく様は、まさに!まさに!この時代の近代というもののダイナミズムの縮図で、素晴らしいマクロの流れだった。凄まじいかけ上る成長に夢を抱いた人々の、その夢の崩れるさまがまた、僕には美しく悲しく、素晴らしいものに思えました。



■失われた日本近代〜明治から大正期にかけての歴史を知るためには、商人の小説を読むといい!?さて、近代の日本を知りたければ、実は、このあたりの企業家の小説を読むといいというのが分かってきた気がします。軍人や政治家の視点からだけでは分からない、地に足のついた、世界が見えるんですよ。城山三郎の『雄気堂々』も素晴らしかった。これは、日本近代資本主義の父といわれる渋沢栄一の半生。ともすれば、一企業家ではなかなかマクロを描ききれないし、何よりも経済は非常に複雑なマクロメカニズムなので小説に描写にそぐわない。個人の主観で捉えきるのが難しいと思うんだ。けれども、近代以降というのは、商人が企業家が主人公であった時代であって、橙乃ままれさんの『まおゆう魔王勇者』にで出てくる青年の商人のように、お金とモノの取引が世界を変えると信じる人々によって、新しい世界(=資本主義社会)が拓かれていった、ということをよく理解するべきなんだろうと思う。その「果て」にいまの僕らの日常があるわけだから。このへんの商人を扱った物語って、どんなものがあるんだろう?。ライトノベルとかで読みやすいものは、『狼と香辛料』が最近では大収穫の作品だよなーわかりやすいし。

狼と香辛料』 支倉凍砂著 見事に実った麦穂が風に揺られることを狼が走るという
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080805/p2

狼と香辛料Ⅱ』 支倉凍砂著 商人が最も恐れるのは?
http://ameblo.jp/petronius/entry-10024840637.html

狼と香辛料Ⅲ』 支倉凍砂著 信用の値段
http://ameblo.jp/petronius/entry-10025498236.html

狼と香辛料 Ⅴ』 支倉 凍砂著 倦怠期の夫婦の脱出方法(笑)
http://ameblo.jp/petronius/entry-10049347635.html

狼と香辛料 side colors Ⅶ』 支倉凍砂著 男の子が女の子を守ること 
http://ameblo.jp/petronius/theme-10002785003.html


エンターテイメント系では、橙乃ままれさんの『まおゆう魔王勇者』に出てくる青年商人かな。経済小説では、やはり山崎豊子の『不毛地帯』『華麗なる一族』などが素晴らしかった。もう少し時代が僕らに近くなれば、高杉良などが面白い。ただ、1945年以降の時代を対象としているものは、いわゆる「経済小説」になってしまうので、江戸から昭和初期に、近代化を担った時代の組織の創設者や中興の祖を扱った作品が、まだまだマクロと個人が両立しえた時代の香りを残していて、いまの僕には興味が合う。ちなみに、近代の日本が貿易立国を目指すべきという「志」の部分は、きっと、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で自由貿易構想を気夢見ていた坂本竜馬岩崎弥太郎、それに産業育成を追求した渋沢栄一金子直吉後藤新平らを追うと、非常にシンプルにその目的が分かる、と思う。この土台の部分が分かっていないと、江戸徳川期の安定した社会が、何を坂の上の雲として目指したかがぶれてしまう。やっぱりある種の幻想ではあるとどちらかというと批判的な解体視線でさらされがちな、司馬史観だけど、「この幻想」という軸なくしてまた、近代日本の夢は語れないわけで、まずは解体するためにもこれは必須だと思うなー。・・・きっと、このへんの日本近代資本主義の創設期がある程度理解できたら、次は、松下幸之助井深大などへ向かうのだろうな、と最近思う今日のこの頃。アメリカでいえば、ビルゲイツやガースナー、カルロスゴーン、スティーブ・ジョブスを知る前には、ロックフェラーとかを学べといっている感じだろう。

雄気堂々〈上〉 (新潮文庫)竜馬がゆく〈1〉 (文春文庫)暁の群像〈上〉―豪商岩崎弥太郎の生涯 (文春文庫)
暁の群像〈上〉―豪商岩崎弥太郎の生涯 (文春文庫)狼と香辛料 (電撃文庫)
狼と香辛料 (電撃文庫)


■2010年代に以降の物語はどこへ行くのか?〜やっぱりいったん中間集団を通して組織と絆を描く話になるんじゃないかなぁ?
さて、セカイ系の問題点は、中間集団を描けないという定義を考えたとすると、中間集団、、、つまり組織を描けている物語が、これから2010年代以降に売れるんではないかなーと思うのだが、それってようは企業小説なんだけど、高杉良とか黒木亮とか好きなんだけど、、、、、どこか違う。何が違うのだろう。企業小説は企業小説で僕はもちろん大好きなのだが、上記のセカイ系の欠点の果てに「中間集団」を描かなければ面白くないはずという「読みの文脈」からは外れている気がするんだよね。これらは、マクロを主人公として扱う物語群になってしまうからだと思う。戦後の経済小説はそのほとんどが、そうなりやすいんだよなー。個人的に、山崎豊子さんは例外で、組織と個人がちゃんと描けていると思うのだが、何が違い差別化ポイントなのかうまく言語化できていない。

エネルギー(上) (講談社文庫)新装版 バンダルの塔 (講談社文庫)

組織やマクロを描く物語を読み漁っていると、「組織やマクロ」を浮かび上がらせようとするが故に、、、、というか、そもそもの著者の志向として、マクロがが好きで「ミクロの人間や関係性に興味がない」というケースが多い。それでは、きっと「世界」は描けない。僕は、この状況を「マクロが一人称の主人公になってしまった」と表現するんですが、それはそれで、しょせんは、「一人称の主観視点によるセカイの把握」という近代小説が発達してきた流れの果てにある、現代の日本の小説のメソッドの一変形に過ぎないと思うんだよね。えっと、たとえば、大銀行の合併を描いた高杉良の作品なんかを読むと、これって主人公が人なんではなくて「銀の大合併という出来事」が主人公なんですよね。大きなメカニズムを描くときにはどうしてもそうなりがちなんですが、それだと、そこに登場する人間たちの思いや営みが、ただのマクロのパーツ「駒」として描かれてしまう。もちろんそれは、一面の真実なんだけれども、僕らが生きている「現実」ってのは、それだけでは語りきれない多層性があるはずであって、そうい一面の真理の単純化は、ある種の世界をわかりやすくするための把握方法に過ぎないと思うんですよ。経済学で、マクロを記述する時の、モデルによる捨象と同じ効果を持つ。そういう流れで見ると、経済小説の世界は、ミクロとマクロが、マクロに寄り切ってしまっている。けれども、現実の僕らの生きる多層世界ってミクロとマクロの交わらない混交なんだと思うんだよね。そういう意味では、企業小説になってしまうと、マクロにシフトしすぎて、個人や関係性が消失する。。近代の戦争映画もそうなんだが、マクロが複雑怪奇化した僕らの現代文明では個人が個人として存立しにくいのかもしれない、、、、。


そういう意味で、戦前の日本近代資本主義の時代には、まだ「個人が存立しつつ」マクロへの影響が及ぼせた時代だからこそ、素晴らしい物語が成り立つのかもしれない。そして、それが成り立たなくなる「その後」には、ナショナリズムとフロンティアへの憧れ(=新領土の開拓)と景気循環による都市社会の変貌、社会主義の登場がはっきりと刻まれる。このへんは、まさにこの小説の展開そのもの。それにしても台湾のサトウキビ畑や深い山々へのロマンチシズムあふれる描写と現実の復讐、、、LDさんの指摘ではないが、やっぱり「ここ」が一番物語的には魅力的だった。やっぱり後藤新平は好きだなー。。。やっぱりフロンティアというキーワードで、物事を追っていくのは重要な視点だな、と思う。しかし、、、このへんは、大陸浪人満州馬賊、、、とかとか、、大正浪漫だなぁ。。。こういうの大好き。そして、それを思うたびに栗本薫さんの小説を思い出す。『大導寺一族の滅亡』とか。ああ、続きが見たかった。


六道ケ辻 大導寺一族の滅亡 (角川文庫)
六道ケ辻 大導寺一族の滅亡 (角川文庫)