『放浪息子』 あおきえい監督 気持ちのシンクロ率

放浪息子 1 [Blu-ray]

前に少女漫画について書いた記事の中で、読むには「時」ってのがあると書いたことがある。もう少し分解すると、「乙女モード」と「オヤジモード」では、受け取り方が全然違うって書いたんだけど、、、、いまですね、仕事が忙しいことは忙しいのですが、非常に安定している状態なんですよ。ここ数カ月で珍しく、「憂いがない」状態。故に、時間がない割に通勤の中だけでも膨大な小説が読めている・・・・「異なる物語」を自分の中に「入れる」余裕があるからなんだと思います。読書とか物語を体験するというのは、いろいろな方法がありますが、1)「自分」を変えずに外かならがめる方法(評論家スタイルですね)と、2)感情移入しきって「自分」を変える、壊すっていう体験方法と、おおざっぱにいって二つあると僕は思います。本当の読書や物語体験の素晴らしさは「没入」なんだと思います。自分の「自分」を消し去って、物語世界の「違う存在」にシンクロしきる時に、その主人公や感情移入の対象が受ける、苦悩や喜び、感動悲しみを、「まるで自分のことのように追体験する」・・・・。

けど、これってとても難しい。特に社会人をやって現実に強固な「自分」が存在している人は、これを常時やれる「モード」であることは自殺行為です。人に利用されやすかったり、感じすぎて凄まじいストレスが自分にかかって処理しきれなくなるからです。また「自分」がぶれる人は、社会で機能や役割を演じきれないので、目的志向のもとでは邪魔な存在です。なかなか「自分」を消し去るような追体験の仕方は難しい。理想は、「自分」を消し去ったらり、取り戻したりスイッチのオンオフが入れるように、意識的にできることですが、これがなかなか難しい。仮にできるとしても、日常が非常に「ニュートラル」で「憂い」や「悩み」が非常に少ない状況でないと、なかなかこういう、素晴らしい形での追体験はしにくいです。特に僕のように、それなりに年齢が上がっている管理職の人間が、いつも「軸がぶれる」ような新鮮な変わりやすい心でいられたら、部下も組織もたまったもんじゃないでしょう(笑)。目的志向という生き方は、目的が達成するまで、「自分は変わらない」という前提を立てないと、なかなか達成できません。いちいち軸がぶれている人に、何事も為せないのはわかりますよね?。だから、特に、社会人の「オヤジモード」である時は、とてもシニカルで期待しない目的志向で物事を見ているので、そういう時に、とりわけ、少女漫画やこういう「その時の繊細な関係性のやり取りや、そのことで揺れ動く微細な気持ちひだ」を扱う物語は、アホらしくて意味のない空虚なものに見えてしまいます。だって、もし自分が女の子ったら?とか、女の子が男の子になりたかった気持ち、とか、そういう現実味のない感覚は、意味がない!とバッサリ切って捨てしまうでしょう。簡単にいえば、シンクロ(=感情移入)できないんですよね。けど、それはなかなか悲しいこと。人間の素晴らしさとは、本当は「変わっていけること」だからだと僕は時々思うのです。こういう感情の揺れ動きは、人間が持つ「変わっていける」「いまここにいるところからどこかへ行ってしまいたい、異なる存在に変身してしまいたい」という人間の原初の欲望を宿しているものですから。なかなか矛盾する命題です。というわけで、普段はとても難しい。けど、逆に、ある種の作法とか手順を踏む意識があって、上手く気持ちがニュートラルな状況で、こういう非常に良くできた「空気」を感じることができる作品に出会えると、ぐっとひきこまれます。前にも書いたけれども、見る価値があるか?と問えば、やっぱり原作本の持つ見事な「空気の質感」を、ものの見事に再現している!という「だけ」の作品だと思うので、それはそれで見事だけれども、どうしても、見るという動機にはつながらない。特に僕のようにすれて様々な物語を見ているし時間がないという意識がある人にとっては。。。。

けど、やっぱり出会いってのはあって、気持ちに余裕がある時に、ちょっと酔っぱらってて眠くてまどろみながら、ボーっと見ていると、、、なんか、こう胸がぐっとします。目的もよくわからないし、オヤジモードの自分的には、だからなんなんだ?とか突っ込みたいのだろうけれども、でもいいよなー、、、と。結局、この物語って、、、、この「揺れ動く微細な気持ち」ってのを、楽しむ、、、というか、シンクロして感じる物語で、それができない人は、原作もこのアニメも、全然面白くないと思う・・・もしくは、この物語の本当の面白さがさっぱりわかっていないんだと思う。目的だって特に存在しているわけでもないので、そういうふうにマクロの側から読み解くこともほとんどできないしね。

放浪息子 11 (ビームコミックス)