33話『キュアムーンライト、ついに復活ですっ!!』

11-12巻を見る。もう明らかに子供より僕の方がはまっています(笑)。いま娘はどちらかと言えば、海賊戦隊ゴウカイジャーやゴセイジャーにご執心ですから(笑)。

ちなみに、33−34話は、僕は号泣してみていました。それにしても、これで4人がそろったわけだけれども、4人ともキャラクターが凄くいい。僕は本当にはまってしまったよ。他の作品は、いま放映中のスイートプリキュアしか見ていないので、比べようもないが、これは、素晴らしいなぁ。歴代の中でどういう位置づけなんだろう。僕はとても傑作だと思う。魔法少女系統の物語って、既にこのような戦闘魔法少女系統のがはじまったセーラームーンから僕は全く見ていないので、メタ的な視点が全くないので、様式美に関する評価が全然できないし、全体の位置づけという視点がないんで、何とも言えないけど。

じゃあ、僕がどんな視点で見ているかと言えば、たぶん、子供が見ている視点とそうは変わらない部分と、もう一つは「一周した」視点だろうなー。この「一周した」というのは、僕のように30年以上生きていると、それなりのエンターテイメントの世代が移り変わっていくのを体験しており、どんな系統の作品を見ても「いつかどこかで見たことがある」ような気がする。最初の頃は、これが「飽き」と「退屈」を誘い、どんな新しいものを体験しても「見たことがある」という倦怠感なしには見れないようになる。一回性が失われるからですね。あと人間は、体験できなくても「知っている」と思っただけで感受性が磨滅して一回性の世界を新鮮に見る感受性が磨滅してしまう生きものなんですよね。けれども、僕のように、30年(ようは一世代分ね)を経験して次の回に入った人や、また結婚して家庭を持ったり、子供を持ったり、会社で責任ある立場について「部下」や「後続世代」に責任ができてきたり、後は例えば、人に寄生することなく自分の実力で金を稼ぎ生活をまわし始めたりすると、明らかに、「ステージ」が変わって、過去の自分と物事の受け取り方がかなりのレベルで変わってきてしまう。そういった時に、もう一度「一度は体験したパターン」を見ても、受け取り方がまったく違ってしまうため、その差異の大きさ故に、一回性の感動が戻ってくることを指しています。そしてもう一つこの「一周した」体感には、それを年齢にふさわしい知恵と知識の基礎ベースがあって、メタ的に「理解できる」という部分もあります。


たとえば、僕は中学生から会社の新入社員時代くらいまで、12歳くらいから20代後半くらいまでは、戦隊ものやライダーシリーズや魔法少女モノを見たことがありませんでした。まず一言でいって、幼稚で見るに堪えないと感じていたんだと思います。もちろん、僕もバカではないので、これらの作品の持つ奥深さやメッセージ性の価値などは、良くわかってはいました。けれども、こんなものを見ている暇があれば、成熟した大人としてふさわしいものをもっと勉強するなり体感する方が優先順位が先だ、と思っていたんでしょうね。こういう感覚が起きるのは、つまりは自分が幼稚で成熟していない「子供」なので、背伸びしないとダメだって自覚があるからなんでしょう。そういう感覚はわからんでもありません。どんなにその価値があったとしても、この作品が、子供のために作られていることは否定できません。子供の楽しみや学びのためにあるものを、大人が楽しむのは、ある種の高等な趣味の姿勢であり、成長にある種の序列や階層意識があれば、おかしいと思うものでしょうものね。こういうのがオーソドックスなカルチャーに対するカウンターカルチャーのような西欧近代的な概念だと思います。まぁ、近代社会では広範な発想ですよね。とはいえ日本社会は、もともととても趣味的な伝統がある社会であるので、ある種の高等的な趣味の視点で見ることは可能でしょうが、感情として情感のレベルでこれをベタで楽しんでいては、ちょっと待て、といいたくなります。もちろん、ほんとうは、ベタに楽しむことこそ重要なのですが、やっぱり大人が子供のカルチャーを楽しむ時は、どうしても、視点が二重でないと、少なくとも僕は、頭が悪いなーと思ってしまいます。視点が二重というのは、本当は子供が楽しめるような勧善懲悪や「相手のことを好きと素直にいえる」ことや「相手に何か悪いことをしたら謝る」なんて言う素直な行動では社会は機能していませんし生きていけません(笑)。僕らは複雑な利害関係や対立を孕む難しい大規模な社会にいるので、その中で、正しく人間らしくあるためには、そんなストレートでベタな純粋な気持ち「だけ」では、害こそあって僕はダメだと思う。まぁそのへんは、スノッブなエリート志向な発想かもしれないけれども、、、。弱いことは間違いではないけれども、強くなければ、なかなか正しくはあれないよ、、、。話がそれた、というような大人としての視点は、そうですねー青年期・・・20代くらいまでは、まだ子供がやっと大人になろうとする時期なので、こういうベタなものに対して、非常に軽蔑的な気持ちが巻き起こります。ガキであってはいけない!と思うからなんでしょうねー。いや、たぶんおこらない人もいますよ?。LDさんおような、解脱というかせんいん的な情感の安定さと知的な視点で、そんなのは高校生ぐらいで卒業したぜ的な人はいることはいますが、いや、そーいうのは仙人(笑)なので、除外です。けど、、、これがね、ある程度ステージが変わってきて、本当に「もう子供ではいられない」立場になってくると、「後続世代に何を伝えていくか?」という大人の責任視点が必ず、生まれてきます。年齢が上がれば確実に生まれます。仮に組織に属さなくても、まっとうに金を稼いで社会に関連して生きていれば、自分の経験が豊かになっていく過程で、それを自分が所属している社会やコミュニティーに何を返せるか?って考えると思うんですよ。経験が豊か(=年齢をへる)であることは、それは能力でありスキルであり知ですからね。もちろん、ちゃんと順番に成熟した場合は?ですよ(笑)。世の中には全く成熟しない成長しない人もそれなりの率でいるので(笑)。まぁ大部分にはなれないとおもいますがね。そうした、「後続世代に何を伝えていくか?」という視点になった時に、実は、伝えるべきことの本質は、昔、仮面ライダーがいって体現していたことと実はあまり変わらない(笑)ってのが分かるんですね。もちろん僕らの住む大規模で複雑な社会では、ストレートベタにそれは機能しませんので、様々なスキルや裏技、抜け道など表面的な表層のサバイバルスキルは必要です。たとえば、肩書や金やそういったものもそれに含まれるでしょう。けど、それは、やっぱり表面の複雑さを緩和するための技術に過ぎなくて、ほんとうのほんとうの本質は、やっぱり変わらないんですよね。と、、それを体感した時に、こういう物語群を、大抵は子供を持った親が一緒に見ると、ぐっと来るんですよ。それを僕は「一周した」と呼んでいます。それはただのベタに感動しているだけではなくて、たとえば、勇気を持つことが、実社会ではとてもむずかしくすぐ欲や見栄などにのみこまれていくものであって、それが発揮されることは凄くリスクがあり難しいことなのです。が、それでも、あえてそれが「正しいと思うことだから」と行動する主人公を、子供番組のヒーローたちを見ると、ぐっときます。それは、その困難さを知った大人だけが持てる感慨だと思うのです。そんなふうに、思う最近でした。


あれ、なんか違う話になってしまった。まぁ、いつものことですけど。



キュアムーンライト。かっこいなー。それぞれのキャラクターって、コンプレックスやトラウマみたいなものを抱えながらも、それをちゃんと抱きしめつつ生きているので、ほんとに好きです。主役の二人に比べると、キャサンシャインもムーンライトも、どっちも影がある設定で、それにも負けづ、覚悟があるところがいい。ゆりって子は、母子家庭で、お父さんが行方不明で、一人でプリキュアの責務をひきうけていたって設定なんだよね。ある種真面目すぎるんだろうと思うけれども、魔法少女が「一人で普通の日常を続けながら命を賭けて戦うこと」という意味を、たぶんはっきりとわかっている人で、その重責故に一人で背負おうという意思を持っているんだよね。中学生のえりか達の視点で描かれているからお姉さんキャラに見えるけれども、まだ彼女だって16歳の高校生に過ぎない。はっきりと、自分の要求されている責務を認識するクレバーさと気真面目さは、ぐっときます。系統的にキャサンシャインも同じだけれども、気真面目すぎると、なんでも自分で背負ってしまうんだよね。それが、強さやカッコよさでもあるし、最も危ない欠点でもある。けど、そんな彼女と一緒にずっといた妖精のコロンを失って心が折れてしまっている・・・・こういう精神的にとても負荷に強く気高いタイプが、涙したりする姿は、ほんとぐっときます(笑)。