『モテキ』 久保ミツロウ著 物語が散漫に終わって何が言いたかったかわからなくなるのはどこからくるのか?

モテキ 2 (イブニングKC)

評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★★★4つ)


おもしろかった。凄い引き込まれて、楽しめた。。。久保ミツロウ先生の作品は、どれも面白いんだよね。実は、地味にファンなおかもしれないと思う今日この頃。『アゲイン』も楽しみ。


ただなんというか評価というのもおこがましいが、自分の中での位置づけがいつも悩ましい。・・・読んでいる最中は凄く夢中になれる。『3.3.7ビョーシ!!』の時も、よくある応援団モノの系列に思えながらも、なんか微妙に深さが違う、、、と思いつづけながら、最後まで読むと、「何が言いたかったのか?」と、???ってなって印象に残らない。特に最後まで読むと、「結局この漫画はなんだったのか}というと、散漫に終わったなーという印象を抱くんだよね。『モテキ』を読んでいて、こりゃー!おもしろい、とおもったのだけれども、4.5はまだ読んでいないので、なんともいえないが、4巻で全く同じ印象になった。『トッキュー』見たいにストレートな少年漫画でさえ、同じなんだよね。


ここでは、「散漫に終わる」というネガティヴな言い回しににしているけれども、僕の中で位置づけが難しいと思うのは、だからといってダメとは全然思えないんだけど、、、というところなんだよね。つまり魅力のポイントが違うんじゃないかなーと思う。この謎がいまだ解けない、、、。たぶん僕が分解しやすい作品じゃないんだよね。ミクロの関係性の部分やキャラクターの類型化を拒否しているところとか、このへんの視点の抽象化は、ルイさんが得意な視点なので、こんどきいてみるかなー。


ちなみに、自分の中の仮説は(まだルイさんtwitterで質問していない時点でこれを書いている)、きっとキャラクター造形が非常に肉厚で、物語のマクロの流れに「沿わない」エピソードや性格をかなり盛り込むので、その「熱さ」が魅力になるんだけど、物語としてはわかりやすい着地点がなくなって、全体として散漫な印象になるんだと思うんだ。イメージとしては、LDさんが、ルシオラ事件などの流れで「サブヒロインの下克上」を扱っているんだけれども、サブヒロインがメインヒロインを食ってしまうと、物語として何が言いたいことが混乱して分からなくなってしまう、という『君のいる町』的な「外し」と同じ効果なんだと思う。「すかし」とでもいおうか。けど、ここのエピソードレベルで類型化を拒む、、、ようはよくある風景じゃないものを選ぶことを積み重ねるので、分かりやすいろう類型化したオチに落ちないんだよね。


君のいる町(1) (少年マガジンコミックス)



ちなみに、ルイさんとの話は、recklesstalkingさんがまとめてくれたので、ありがとう!、で、見てください。


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