『デンデラ』 監督・脚本:天願大介  いったい誰が見るんだ?というカルトムービー(苦笑)〜1960年代頃にはやった原始共産制への思いをどう料理したか?

評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★星2つ)

映画「デンデラ
作品解説・紹介 - goo映画より
姥捨山”の物語を描き、1983年のカンヌ国際映画祭にてグランプリを受賞した、今村昌平監督の映画『楢山節考』。本作は、その今村昌平の息子である天願大介が監督を務めた、捨てられた老婆たちの“その後”を描いた物語。彼女たちは“共同体の理論”を受け入れて素直に死んでいくのではなく、逞しく生き抜き、あまつさえ自分を捨てた共同体に復讐しようとする。自らの頭で考え“個人の意思”のもとに行動する彼女たちは、今だからこそ描けた、しっかりとした個を持つ現代的な人間と言えるだろう。老婆を演じる浅丘ルリ子草笛光子らは、雪山という過酷な環境の中で、ボロをまとい、老けメイクで撮影に挑んだ。その女優魂には感服の一言だ。

式サイト:http://dendera.jp/index.html

友人のお勧めで見に行ったが、、、、すごかった。映画を娯楽として癒しとしてみるのならば、絶対に見る必要のない(笑)話だった。とはいえ、実は全体の「問いかけ」というかテーマを考えると、僕にとってはとても馴染み深く、かつ今後の「絆」を考える上で重要なものだったので、かなり興味深かった。そして、映画の出来もいろいろ文句はつけられようが、演出自体はしっかりしたものだったので、途中で見るの勘弁してくれよ、という気も起きなかった・・・・が、違う意味で、このエンタメ性のなさに勘弁してくれよと思った(笑)。個人としては絶対見ない作品なので、★2ですねー。単純にエンタメ的におもしろくないもん。けど、にもかかわらずテーマやモンドムービー的に演出をうまくまとめたのは、ある意味、制作陣の才能なんだろうなー。評価としては高いんですよ。珍しい組み合わせの評価になりました。

■誰を対象に作られた映画なのだろうか?〜シルバー世代を取り込むことがこれからの日本映画のカギの一つか?
マーケティング・・・・どの層を対象としてこの映画を作ったのか?って言うのが、僕には全く分からなかった。有楽町のTOEI丸の内で見たんですが、映画館には、ほとんど老人・・・シルバー世代しかいなかったのです。これは、場所柄もあるだろうし、前の竹野内豊主演の戦争映画(『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-(2011年、東宝)』)でもそうだったんですが、シルバー世代というのは、今後重要な映画顧客なんだろうと思います。うちの父も団塊の世代ですが、映画なんか見たこともなかったはずなのに、いまは毎週ぐらいのペースで母と行きますもんね。あれって、団塊の世代くらいの世代には、映画って重要な娯楽だったんで、余裕が出たので行きます。というケースが多い見たいです。とはいえ、、、まぁ、草笛光子、浅岡ルリ子など熟年円熟の女優を使いまくっていることからしても、それなりの上の世代をターゲットにしたのでしょうが、熊のシーンとかグロテスクすぎて、途中退室したおばあちゃんとか数人いました(笑)。けれども、逆に、この映画、自分では確実にいかない系統のものを見ていると、シルバー世代特に団塊の世代が、後20年くらいはかなりおいしいそうなんだろうな、というのがわかってきて興味深かったです。『ALWAYS 三丁目の夕日』で西岸良平の映画化なんかも、その流れなんですよね。こういう層を狙うのならば、『小さな恋の物語』のチッチとサリーなんか、いいかもなー。とにかく、ノスタルジーによって非日常(=日常からの脱出)効果を演出するという手法は、成熟社会になった場合には、ほぼすべての世代に通用する魔法の業なので、この辺の金鉱をうまく見つけ出してくれる人が出ると、日本映画やドラマの復興になると思うんだよね。アニメーションの領域では、この部分をかなり意識した商品開発が進んでいると僕は思う。まっ、この『デンデラ』は、そういう意味では、僕はさっぱり誰に向けて作ったのが、わかりませんでした(笑)。ただ、原始共産主義への回帰の部分など、団塊の世代・・・全共闘安保闘争を経験した世代に、非常に理解しやすい社会問題提起になっているので、そこは狙ったのかな、と思います。その問いかけ自体は、あまり進展していないと思うけれども。・・・けど、僕は見ていないんだけれども、本当はこの作品の全体像を見るには、監督の父親が撮った『楢山節考』から見ないとだめなのかもしれないですけれども。それを見た世代が、見に来ているのは確実でしょうから。

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■これってモンドムービーなの?(苦笑)〜熊と老婆の血しぶき跳びまくりのバトル
あとねー観客の見世物的好奇心に訴える猟奇系であるモンドムビー的な匂いがぷんぷんでした。というか、これってものすごい、カルトムービーだよねっ!て思います。熊とアマゾネス?(苦笑)のおばあちゃんたちとの大格闘シーンがあるんですが、あきらかに予算がなくて暗闇の中でズームしてごまかしているんだろうなーという演出が、多発していました。けれども、多分作り手の演出力が高いんだろうなー、さかしらに通ぶって評価すれば、ダメ出しできるんだろうけれども、僕は意外に奇麗なつなぎで、うまいなーと思いました。60−70年代のアニマルものみたいな映画を見た経験がほとんどないので、以外に、なるほどそうやって演出するのか、といろいろ思いました。



原始共産制の発生はカリスマによって〜その先は?
この作品を、見に行ってみようと思ったのは、姥捨て山の後、、、、捨てられた老婆たちが山の中で村を作るというくだりが、興味深かったからです。リソース(=生産力)がほとんどない中で、共同体を構築することは、ほぼストレートに原始共産性への移行を意味するので、現代の成熟した後期資本制社会に突入した現代日本人が、そういった1960年代の古きテーマをどう処理するのか?、というのが興味深かったんです。少なくとも、2010年代の僕は、「絆」を描く物語が軸になると予測しているんですが、それって、仲間内だけの小さいナルシシズムの関係に閉じてしまわなければ、確実に、コミュニティの復活とリベラリズムとの戦いという構図を生むからです。

原始共産制
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%A7%8B%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%88%B6

原始共産制のモデルは人類の初期の社会である狩猟採集社会に見られ、そこには階級支配は無く、富の余剰も作成されない[2]。更にいくつかの原始社会では食料や衣服などの全てが共有され、「共産主義」の目標に関連した特徴が含まれている。それは私有制以前の社会の自発性であり、共産主義が焦点とする平等主義の系列でもある。

原始共産制の社会では、健全な身体を持つ全ての人間は食料の獲得に従事し、狩猟や収集により産み出されたものを全員が共有する。原始的な社会では産み出されたものは即座に消費されるため、余剰は産み出されず、衣服などの個人的な物品を除けば私有財産はほとんど存在しなかったであろう。長い時間存在したものは道具や家などわずかであり、それらは共同で保持された[3]。そして国家は存在しなかったであろう。

動物の家畜化と植物の栽培などの新石器革命(Neolithic Revolution)で開始された牧畜と農業は、原始共産制から階級社会への転換点とみられており、私的所有権と奴隷が発生し、必然的に不平等が発生した。更に人々の一部は加工、文化、哲学、科学などの異なった活動に専門化され、それらは社会階級に発展していったと言われている[3]。

なお、狩猟採集社会への回帰を提唱する、あるいは狩猟採集社会への感銘を受けた思想や運動には、無政府原始主義(アナルコ・プリミティビズム、anarcho-primitivism)がある。

観ていて発見だったのですが、原始共産制の、、、ようはムラの発生には、カリスマが必要だというのはマックス・ウェーバーの教科書的な意見ですが、デンデラ創始者で100歳の長老・三ツ屋メイ役の草笛光子の輝くようなエネルギーには、まさにカリスマがいないと共同体は発生しないんだということを強く印象付けられました。そういう理解をベースに脚本を作ったのかもしれないですが、なにもないところに、共同体が生まれるには、やはり「それ」がないとだめだなって物語の展開ですごく思いましたもの。そして、村が軌道に乗っていない、いいかえれば、メイのカリスマによって支えられているうちには、それはカルト教団とほぼ同じというか、そもそも国家や共同体の発生は、カリスマによる別次元のエネルギーの流入がなければ発生しないという発想は、まさにそうなんだなぁと見ていて感じました。制度的には、原始共産制の平等な分配社会を志向しているように見えるんだけれども、結局それを支えているのは、メイの狂信とカリスマによる、宗教共同体の熱狂なんだな、というのは、「デンデラーーー」と叫びながら死んでいく、婆さん達を見れば、よくわかります。全共闘などの帰結が、連合赤軍浅間山荘事件につながった歴史の帰結をしっている我々から見れば、非常に皮肉に思えました。少なくとも、団塊Jrの僕は。これは、団塊の世代、言い換えれば僕の父親の世代はどう見るんだろう?。



この系統のテーマは、僕には、いくつか原体験があって、一つは『もののけ姫』です。エボシが、差別されている弱きものたちのために山を拓き森を壊して、タタラ場という村をつくっていたことは、このメイの目指しているものとほぼ同じ事です。エボシが構築している村も、原始共産制をベースにするカルト集団ですから。

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たとえば、『未来少年コナン』にせよ『もののけ姫』にせよ、ある種の原始共産性的なユートピアを描こうとしているんでしょうが、『もののけ姫』は、ある種の解放区であるんだろうけど、たとえばあそこでどう子供を育てているの?といった再生産部分が無視されていたり、コナンのハイ・ハーバーには、本来必要である農耕以外の牧畜や肉生産、加工、流通といった楽園ユートピアを維持するには、それを壊してしまう存在を隠ぺいするような描き方をします。こういうのって、宮崎駿さんというよりは、その究極の形として「ロジックとサイエンスで世界を正しい形に作り替えることができる!」という具体例としてのコミュニズム共産主義)、そのすべてに対していうことのできる批判なんだと思うんですよ。ちなみに近代思想の根本は、すべて共通の基礎を持っていて、それは「世界は可視化でき計量できる!」というサイエンスの思想です。言い換えれば、人間が「神」の代わりにこの世界を再創造できるのだ!という人間本位(ヒューマニズム)に貫かれている思想のことです。僕は、これを「設計主義的なもの」と呼んでいます。つまり、世界は、自分たちの手でよくできるんだ!という指向性です。この究極の具体例が、コミュニズム共産主義)であることには異論がないと思います。



崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(1)/ポニョ編
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080822


たぶんエボシが、目指していた原始共産制的な解放区は、歴史の帰結としてはソビエトやクメールルージュ、中国の紅衛兵などに帰結して、設計主義的な、計算したことから外れるものを大量殺戮することになるんだと思います。もしくは、エボシが死ねば、近くの大名によって形成されている「世俗の権力」にからめとられて融合させられて行くんだろうと思います。エボシというカリスマがいて初めて存立する共同体ですから。けれども、彼女がその胸に秘めた思い・・・弱きものが自立して平等に生きてい受ける空間を作りたいというスタート地点の思い自体の気高さと美しさは、世俗にまみれた汚濁からは批判していいものではないと思うのです。共産主義・・・とくに原始共産主義へのユートピア思想は、その原初の思いの気高さ美しさと、その帰結のグロテスクさという意味で、とてもアンビバレンツな存在だと思います。



もうひとつは、大江健三郎の『洪水はわが魂に及び』です。この中で、ある新興宗教の教団が、宇宙だっけ?もう細かい構図は忘れてしまったのですが、ようは宇宙船で宇宙に脱出するみたいな、確実にばれるウソに盛り上がって、仲間うちで大騒ぎするシーンがあったんですよね。1999年に地球が滅びる見たいなやつです。そのシーンが、あまりに切ないほど美しくて、僕は落涙したんですよ。そんな、現実的にはありえないウソを信じ込むぐらいだから、メンバーのほとんどは純粋で、そもそも社会に居場所を失った人々なんですよ。その人たちが、信じ込んだ唯一の思い・・・・まぁ、あきらかに、それは反社会的だし、現実性がないものなんですが・・・それでも、「それ」がなかったらそもそも社会の底辺で生きている彼らには居場所も生きる意味も何もないんですよ。人間には誰しも幸福になる権利があり、その権利を等しく認めるならば、命を賭してその嘘にコミットする彼らに、何が言えようか・・・と。もちろんより大きな社会を脅かす彼らは、その後、公共の利益のために政府によって抹殺されるでしょう。パブリック・・・その他に生きる人々の権利を奪おうとしているからです・・・。けれど、、、その最初の思い自体は、原初の思い自体は、なかなか否定できないと思うのです。だって、自分が同じ立場になってみれば、わかると思うのです。

洪水はわが魂に及び (下) (新潮文庫)
洪水はわが魂に及び (下) (新潮文庫)


だから、僕は、このテーマが、どこへオチを付けるのかについては、とても興味を持っています。それは日本社会の成熟度など、社会が、国家や制度に何を求めているかのバロメーターになると思うからです。歴史的な結論も、思想的な結論も、後期資本制・・・資本主義社会に変わるオルタナティヴなものは、ないことは今のところはっきりしています。いうなれば、宮崎駿監督が、漫画版の『風の谷のナウシカ』で出した結論を上回ることはできません。それは。最終的な設計主義的なものへの「否定」。しかしながら、人間は「今ある世界から脱出したい」「もっとより良い選択肢を選びたい」という脱出の願望・ユートピア幻想を持ち続けるものです。それなくして、社会の進化・進歩はないからです。だが後期資本制の成熟社会では、ある意味、拙速なそれへの対処や動機や願望が封じられるという、かなり「熱くなりにくい」・・・言い換えれば動機が失われてしまいやすい仕組みを持っています。その中で、人々の理想への「過剰なまでの、過激なまでの暴発する思い」をどう飼い馴らすか、どのようにそのエネルギーに方向を与えるのか?というのは、今後ものを作るクリエイターに課せられた大きな課題だと思うのです。というか、この先が見えない「終わりなき日常」の中で、、、きっと、311だって、個々に取り込まれていくんだろうと思います。日本の戦後の思想家の中では、代表的と言っていいぐらい射程の広い宮崎駿が、すでに『On Your Mark』という作品で、原発メルトダウンして放射能にまみれた地上で病気になりながら人類は生きていくだろうとはっきり予言しています。そして、そこでは、新興宗教プロスポーツ(スポーツナショナリズム)による大衆に対するパンが広がり、、、、って、まさに現代そのままの予言です。もう10年近く前の話です。ものが見える人は、そこまで見ていたんだろうと思います。

宮崎駿が描いた原発メルトダウン後の世界 - On Your Mark
http://abemasato.com/memo/ghibli/onyourmark/

ジブリ実験劇場 ON YOUR MARK [VHS]
ジブリ実験劇場 ON YOUR MARK [VHS]

ロンドンのテロリズムも、911の悲劇的なテロリズムも、みんな、後期資本制の成熟社会の中に取り込まれていくはずなんです。だって「新しい人類の目標」というものがないんだもの。まぁ、宇宙開発があれば、その玉座につけるかもしれないですが、それだって今の開発状況じゃ、お寒い限りだ。そして、フランス革命でも、産業革命でも、共産主義でも、、、人類の目標というやつがもたらした凄まじい悲劇を考えると、、、本当にそんなものがあるほうがいいのかさえ疑わしい。ユートピア主義が、楽園への脱出願望が、どれだけの悲劇を人類にもたらしたかを考えれば。。。。



というような文脈を考えると、この311以降の世界で、もう一度、社会を設計主義的に見直そうという主張は、なかなかに野心的かもしれない。その原初の姿をクローズアップすることは、とても興味深い映画だった。というのは、今更1960年代の共産主義の焼き直しかよって、僕はそもそもこのテイストが嫌いなので思ってしまうが、逆に言うと、僕ら成熟社会に生まれて青春時代を過ごした人には、共産主義的なロジックの、社会をすべて設計してしまおう、ゼロから考えたらどんな風にすべきなのか?という、思考実験の視点は、まったく経験のないものなので、後期資本制の「社会は変えられない、システムから出られない」という諦めと無気力の日常が続く中で、もしかしたら一つのカンフル剤になると思うのです。共産主義というパッケージではだめだと思いますが、この理路、脚本は、どれくらい若い世代に受け入れられるのだろう?と、ふと思った。


ノラネコさんが、下記のような視点を分析してくれています。

物語のラストで、雌熊に追われたカユは、山を走り抜けて村へと舞い戻る。
そして、そこに更に巨大な雄の熊が現れ、村人を次々に食い殺してゆくのである。
この唐突にも思える雄熊の出現は、テーマ的に極めて重要だ。
婆たちが、村の男を皆殺しにすると決めた時点で、もう彼女たちの生は自分だけのものとなり、脈々と受け継がれて来た人という種の、生命の循環からは外れた存在だ。
これが婆たちと子を殺された雌熊の対決だけなら、単に種を超えた女の戦いになってしまうところだが、雄熊の存在によって、所詮人間の道理でしか生きられない婆たちと、ただただ生命をつなぐ壮大な自然のサイクルとのコントラストとなっている。
婆たちが女を捨てようが、村へ復讐しようが、ちっぽけな人間の目論見など、“世界”という巨大なシステムの中では、ほんの些細などうでも良い事で、人間だろうが、熊だろうが、一つ一つの生命が出来る事は、究極的に言えば頑張って生きる事、そして命を未来につなげる事しかない。


ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-465.html

たしかに。最後の自然の摂理から見て「社会の設計主義的な視点をあざ笑う」という大きな包括的な視点になっているのは、さすが、2000年代の脚本だと思わせます。分析的にみれば。けれども、僕はそれが、映画としてというか物語として、エネルギーをもって伝わってこなかった。やっぱり、メイのカリスマ的な情熱・・・・それが、無意味であっても、村に復讐してやるという非合理的な情熱を持つ三ツ屋メイ(草笛光子)、平和主義を説く椎名マサリ(倍賞美津子)と、その間で、悩み続ける斎藤カユ(浅丘ルリ子)が、それぞれに、社会を運営する権力者としての抽象的なメタファーになっていて、どのような社会を構築するのが正しいのか?という理詰めのゲームをしているようにみえる、、、、やはり共産主義華やかしころの映画の脚本の典型的な部分が、今この時代にやるのかよ!というような新鮮さが、凄いエネルギーに感じました。


これって社会思想の教科書みたいに分析できる。メイの立場は、戦争を目指して国民を高揚させ続けなければ、社会の求心力が失われて、生きる気力を無くしてしまう愚民どもを率いなければならなくなったリーダーの悲哀。マサリは、リソース(=生産力や子供による再生産)がなければただ滅びに向かって行くだけの中で平和主義を説くことの惨めさがわかりながらも、衆愚を目的にに駆り立てることの愚かさを説く視点。そして、そのはざまで苦しむカユは、「あの山の向こうの新しい土地を探そう」と、リソース(=生産力・再生産の手段)が失われた世界では、外部にその答えを探しに行こうとする・・・・この辺はアメリカ大陸に外部を見たジョンロックの思想そのまんま・・・・ヨーロッパ文明の社会思想の基本のような記号です。この、過剰に記号的な、分析すれば、それぞれの立場がすぐ浮かびあがる、とっても共産主義アジテーション的な部分が、僕は過剰さを感じて、とても興味深かった。、、、、まったく見ないかもしれませんが、20−30代の層(1980年代以降の生まれ)というのは、文脈を読んだり抽象的に思考する力が完全に失われている層なので、カンフル剤として、こういう社会を分析的に設計的にみる脚本というのは、意味があるのかもしれない、と僕は思いました。とはいえ、見に行かないと、、、だめですが(苦笑)。