『ボクラノキセキ』 久米田夏緒著

ボクラノキセキ 6巻 限定版 (ZERO-SUMコミックス)

あいかわらず。好きです。限定盤を買わねば…。と、いくつか探しに行ったが、、、なかった(涙)。アマゾンでも売り切れてたので、泣く泣く、通常版を買ってきた。早く読みたかったし。。。今度、秋葉原にでも行って、限定版探してくるしかないか。。。。限定版を買おうという意欲が起こったのが、初めてなので(基本的にテキストだけがあればいい人なので)。


さて、、、なんか、大好きなんだよなーこの物語。なので、客観的な評価というか批評目線に全然なれない。。けど、プリキュアのいっしゅうさんのクンフーを見ていて、見たまんまの描写をして、反射的な感想を積み重ねると、ぼわっっと浮かび上がってくる方法もあって、それはコストがかかるから、しんどいなーと思っていたんだけど、、、でも、まぁ「クンフーの積み上げ」って、僕は大好きですっ!という表出なので、それはそれでやりたいんだよね。やる感情的な根源があるなら、やれるときにやってもなーと思い、、、。


「次は 必ず 今度こそ 最後まで 最後の務めを果たすから」


というリダのセリフが、ぐっとくるんだよなー。『まおゆう』の女騎士もそうだけど、この騎士の融通の利かなさって、いわゆるツンデレ的なものじゃないっていつも思う(笑)。こういう騎士の誓い、、、自分が成約したものを、裏切らない、裏切るくらいなら潔く消えてなくなるという、この覚悟は美しいな、といつも思います。これって、ライトノベル的に、女の子から向けられたらたまらない(笑)忠誠だろうなーと思う。


あとのその前の悠が、ベロニカが「ゼレストリアのみんなに…顔向けできない」とつぶやくときに、くっと顔をそむけて、走り去ってしまうシーンとか、いいなぁ、、、。これって、はっきり作中でも書かれているんだけど、前世の記憶の中にある人格の行動原理と、『現代の今の行動原理』がすごく葛藤したり、、、いやもっとはっきり言うと、『異なるものである』ことがかき分け出来ているだよね。これって、前世からの転生ものという分野なわけなんだけど、この分野で、演出上とても気を付けなければいけないことは、『現代の人格』と『前世の人格』では、行動原理や倫理、道徳、宗教観などの「ありよう」が全く違うはず、というその「違い」をかき分けたり、物語に組み込めるかということが一つあると思います。もちろん、これは、全体の脚本のコアからいえば、末節というか小さいことなんだけど、「これ」が意識されているといないのでは、演出がものすごい深みに差が出ると僕は思うんだ。脚本は、マクロの構造というか設定は、最初のアイディア勝負だけど、それを引き込むレベルにして、キャラクターに命を吹き込むのは、こういった部分い繊細に気を配れているかどうかだと思う。


広木悠が、くっと顔をそむけた走りったのは、強く過去の『騎士としての本分』が、男から女の子へ転生してしまったが故に、自分の手で「守るべきものを守る」ことができなくなっているという葛藤をもち、そういう葛藤がないように思えていたベロニカに対して批判的だったのだが、身近に接してみると、誰よりも深く「王女として、王族としての責務」に対して深く、それこそ無意識にあるベロニカの言動や行動に、打ちのめされるからだと思うんだよね。こういうの、ほんのワンシーンなんだけど、うまいなーと思う。


また、ベロニカ王女自身が、王族や騎士としての前世の時の降るまいと、現代から見たその振る舞いでは、感想が全く変わってしまう、、、と混乱している述懐をしていて、ああいいなーと思うんですよ。これは、王族や騎士というものの倫理が、現代の我々から、まったくことなる『役割への順守』によって成り立っていることを少なくとも頭でかはわかりませんが、よく作者がわかっているんだろうと思うんですよ。前世のベロニカは、王族の責務として、教会の責務として、その指示にさからうという発想がないんだろうと思います。だから、城を守れなかったという王族の責務に関しては、物凄い後悔があるのですが、自分の夫や兄のようなカルロが、自分に対して反旗を翻したり、ゼレストリアを責めること自体には、疑問はなかった。。。けど、、、というのが、いいです。



ボクラノキセキ 6巻 (ZERO-SUMコミックス)