後期のEDがすごく好きです。

ソードアート・オンライン〈3〉フェアリィ・ダンス (電撃文庫)

最近、忙しくてまともに記事が書けていないペトロニウスです。悲しいです。といいつつ、SAO後期には、どはまりです。なんとか、見ています。そして、直葉ちゃんのかわいさに、身悶えています(笑)。って、なんだかとても不思議です。というのは、小説もアニメーションも、基本的な演出力は水準以上だと思います。ここでは、1巻、3巻、アニメ前期、アニメ後期すべてに対しての評価なんですが。けど、1巻とアニメ前期を比較すると、もう比較にならないほど、小説の方が面白かった。理由はずっと述べていたが、キリトくんの主観で一気にシンプルに構成された1巻の時系列を外伝エピソードを入れて時系列をアニメは分解したので、誰の主観がさっぱりわからなくなったからだと思う。逆に、ちゃんとキリトの主観で構成しなおした川原さんの小説のプログレッシブは、ちゃんと読めるし凄く面白い。アニメの前期も、伊藤智彦監督さん?この人、たぶん演出は水準以上の力量がある人だと思うんですよ。基本的なミスとかそういうのないし、なんというか、特に主観の感情的演出というよりは、場面を外から見るように淡々と演出する印象を受けるんだけれども、それがちゃんと一貫していて、僕は大した力量だと思う。特に、後期のフェアリィ・ダンス編まで見ると、とてもうまい監督さんなのだと思う。けど、にもかかわらず、前期の演出は、ひどく感じたんだよねー。なのに逆に、後期のフェアリィ・ダンス編は、むしろ小説よりアニメーションの方が面白く感じる。なんでだろう?って思うんですよ。アニメーションって、特にオリジナルのメディアミックスの場合、そもそもオリジナルのコンテンツのレベルが高い場合が多いので、特にけれんみなしに水準以上のレベルの演出をキープしていれば、多少の違和感があっても(小説で読んでいるのと、アニメはまた別だからねーーそれなりに違和感があるのは仕方がない)最終的には、慣れて入っていけるもんなんですよ。けど、『慣れた』というだけでは、それでは小説の方がいいじゃないか、としかならない。特に、強くアニメーションを見る動機にはならない。前期のアニメは、まぁよくできていたけど、「慣れた」以外にはなくて、やっぱりキリトくんの主観が排除された神の視点での演出(=1人称の演出じゃない)で、外伝の女の子たちが出てきたのがまずかったんだろうと思うけど、あれは、うーん時系列の構成が悪くて、、、、という感じだった。あれだったら、小説の方がいいなーーーと。


いや何が言いたかったかというと、なのに、なんで後期がこんなに面白く感じるんだろう?ってことなんだけど、後期は、見事にストレートシンプルに直葉(=リーファ)ちゃんの視点で統一されているんだよね。特に、EDの演出も歌の内容もすべて揃っている。まぁ、もちろんこれは、小説もそういう構成なんだけどね。けど、この物語は、「アスナを探し求めるキリトくんを追うという直葉」という2重の視点設定になっているので、小説では、意外に、キリトくんの主観にひきずられているんだろうと思う。けど、アニメーションは、そもそも伊藤監督が、主観演出が得意じゃないのか嫌いなのか?あまりないので、キリトくんの主観の印象が弱いんだよね。なので、「それを外側から見ている直葉」という視点が、凄くくいい感じでバランスが取れたんだと思うんだ。特に、小説は、後半になると、英雄キリトの物語になるので、キリトくん「が(=主語)」ではなくて、「を(=彼が客体)めぐる物語になるので、むしろ伊藤監督のような、というかアニメーションのような神の視点の3人称スタイルの媒体の方が向いているのかもしれない、と思った。ああ、この媒体と演出と、そして物語の人称の組み合わせは、何となくわかってきた気がするなぁ。この「差」に意識がない演出家は、ろくなメディアミックスが作れないんだろうなーと思う。


まぁ、なにがいいたいかっていうと、直葉ちゃんが、かわいいっすよ!ということです。というのはねー、僕は、このEDにもあるんだけど、高いところにある何かを追い求める憧憬の意識って、凄い好きなんですよね。そういうのが人の生きる正しさだろう!って言う思い込みが僕にはあって、なんかそれを肯定する話を見ると、ぐっとくる。特に、この報われない(ってだってキリトくんはラブラブの恋人がいるしかも兄貴なわけだし…)ってのが、さらにそそるシュチュエーション。うん、いいねー♪。


ソードアート・オンライン プログレッシブ1 (電撃文庫)