25話「世界の種子」見ました。ソード・アート・オンライン・アニメ版・フェアリーダンス編は傑作でした。

先ほど、最終は25話「世界の種子」を見ました。おもしろかったー。久しぶりに物語の「終わりがさびしい」感じというのを味わいました。世界に耽溺していないと来ない感覚なので、この作品は素晴らしかったんだなーと思う。しかも、既に原作だの大ファンで、相当目が肥えているというか「あるべき姿」が頭の中にある既存読者にこう感じさせられるのだから、このアニメーション化は大成功だったんだろうと思います。

もちろん、第一期のSAOのアインクラッド編が、ひどいつぎはぎの出来だったこともあって離れた人も多いみたいですがもったいないです。アインクラッド編は完全に、脚本と構成の失敗ですね。監督の演出レベルは、非常に最初から最後まで安定していたので、「そこ」につきる。そもそもの小説版のオリジナルの構造やキリトの主観視点がどういう意味を持つのかなど、その部分の解析を間違えて翻訳してしまったことに尽きる。今回は個人的に非常に興味深い体験だった。というのは、普通、オリジナルのコンテンツをアニメ化する場合は、超駄作か、ちゃんとできるか、の二極に分かれてその中間がない。なので、そもそもオリジナルのコンテンツ脚本が凄くいいのに、なんでこんなに駄作ができるんだ?という現象がよくわからなかった。けれども、SAOのアインクラッド編は、演出力もあり、作画もしっかりしていて、オリジナルの話もめちゃくちゃ面白い!にもかかわらず、大失敗している。なぜだ?。運よく、SAOは大好きな作品で何度も何度も読み返しているので、作品個別分析をあまりしない僕でも、非常に細かいところの差異がとても目についた。細かい部分は、前の記事の分析に譲るんだけれども、ようは小説のアインクラッド編が、キリト主観のみで構築されていること、この「視点問題」にすごく甘く物語を構築してしまったんだろうと思う。普通に考えれば、もちろん、小説の1人称視点を3人称のアニメーション媒体にコンバートすれば、そんなの不可能だといわれるかもしれないが、、、フェアリーダンス編が、直葉=リーファの主観視点で物語が編み込まれていながら、空を飛ぶALOの世界の広さや深みと、キリトとアスナの物語の決着を同時につけるという構造をああいう風に演出可能なことから考えると、やはりやり方はあったんだろうと思う。まぁ、スピードと金で回っているのが仕事なので、そこまで時間も人もかけらんないよ!と言われればそれまででしょうがねぇ。でも、ポイントは構成だけだから、なぁ。やりようはあった気がするなー。演出は監督に才能がなければレベルは上げるのは困難だし、オリジナルの脚本はそもそも面白くなければ話にならないし、このへんのベースがすべて揃っていて、かつフェアリイダンス編がこれだけ素晴らしく作れるということはスタッフにも恵まれているんだろうと思うので、ちょっと惜しかった気がする。まぁ、後半これだけ成功していれば、それも問題ないかもしれないですけどね。

フェアリーダンス編は、アニメ化に向いた構造をもともと小説も持っていたんだろうね。そこは、川原さんもプログレッシヴ編などを書いて、1巻のアインクラッド編の視点や構成を変化させたりいじってるので、この1巻は、長大なシリーズを書くにしては、1話完結的な相当凝縮したぶった切った書き方をしていて、他媒体ていや視点の構成を再構成するのが非常に難しい奇跡的なバランスになっているだろうと思う。シンプルに見ると、アインクラッド編の1巻って、それだけで完璧にキリト一人の冒険物語として、徹頭徹尾完成している。けど、その後の広大なSAOシリーズに接続するんは、それ以外の外伝などを挿入しないと、物語のバランスが取れないんだよね。この部分にポイントがあったんだろうと思う。アニメーションは3人称の神の視点で世界が構築されるので、「誰の主観か?」ということと「物語の主軸のドラマトゥルギーがどこにあるか?」について相当明確に演出技術や構成を従わせないと、受け手が非常に意味不明な感覚に追い込まれる。


まぁ、といっても、フェアリィダンス編でこれだけおもしろいし、そもそも川原さんの原作が超ド級に面白いので、興業的にも絶対にいいだろうと思うよ。・・・しかも、次のアニメ化するにも豊富なコンテンツがまだまだな凝っているのが凄い。川原さんは、すげぇなー。アニメだけで見ている人は、この先にどれほど広大な物語世界が広がっているか、知らないんだろうなーーと思うと、なんかうらやましすぎてため息が出ちゃう。一時代を築くなぁ。やはり王道の少年を軸にしたシンプルな物語類型というのは、王道だけあってうまくはまると広く受け入れられるよなー。売れ方が局所のセグメントにとどまらないもの。

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