大事な記事は、長くわかりにくく書こう!(笑)

2000字と3分…ウェブ媒体記事の適切文字量…の呪い
http://agora-web.jp/archives/1533239.html



読んでもらえるのは3分間だけ! ブログを縛る「2000文字ルール」がきびしい。 海燕のゆるオタ残念教養講座
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar221478 

 
この記事を読んで、なるほど、ととても興味深かった。この二つの記事の趣意は、読んでもらいたかったら2000字以内で書け!ということになるんだろうと思う。海燕さんも、なるべく読んでもらえるように2000字以内に書こうとしていると書いていますよね。


僕が、なるほど!と思ったのは、実は、わかりやすく読みやすい記事を書こうと意識していたブログを始めたころに、ふと気づいてなるべく読みにくくしよう!と志したことがあったからです。


その時の最も重要なポイントが大事な記事は、長くわかりにくく書く!(笑)でした。


ブログのアクセス数が増えてきて、特に一見さんが多くなってきたころにひどくコメントやブックマークが荒れ始めたんですね。その時に、どうにも真意が伝わらないなーと、悩んだんですが、その悩みに過程で出た結論というか対処方法が、記事を長く書くことでした。というのは、長い記事を書くと、みんなまともに読まないんですね!(笑)、というか読めない。めんどくさくて。


それで、どうも批判するのや罵詈雑言をする意欲も失せるというか、、、どうも2000字を超える理解力と読む動機を持つ人は、かなり良質の読者になるようなんですね(笑)。しかも、さらには、難解な概念やマイ用語をを頻出すると、さらについてこれる人が少なくなって、読者が篩にかけられているようだ、ということに気づいたいんです。


けれども、それでは、本気で読みたい人にとても不親切と思うようになって、その補助のためにラジオが凄く有効だというのも気づきました。それで、ラジオで定期的に解説をするようになりました。口語での音声は、文章よりも、全体像のイメージを伝えるようなんですね。そして、その延長線上で、年間に1回か2回の大規模オフ会があります。さらには、そこで仲良くなった人は、良く飲みに行くようになるしね。twitterでもからむ。また、twitterも「文脈の理解」や「リアルタイムの思考の履歴」や「アイディアが生まれる対話」というものが、そのまま、あからさまに記されていますよねー。全部リンクしている。


これ何をいっているかというと、コミュニケーションの戦術の話をしているんです。またそれぞれの媒体ごとの特性に合わせた使用方法を考えている、ということでもあります。正しいかどうかはともかく、いろいろやりようはあるって話。



僕がこのブログでよく使う用語に「コミュニケーションの距離」という言葉があります。距離感がわからない奴は会話にならない的な言い方で使うのですが、ようは、距離を測るってことの一例がこういうことだと思うんです。僕は、ブログ「だけ」で文脈を伝えたり、何かを理解してもらう気は全然ありません。そもそも難しいんだもん。だって、シゴトしていると、ふつうそうでしょう?。裏の政治工作のようなネマワシ、e-mail、電話、会議、議事録、命令、指示、交渉、脅し、泣き落とし(笑)なんでもありで、とにかくわかるまで、意思決定できるまで、やり通し貫く。シゴトしている時は、結果でるまで、わかるまで、やりぬくでしょう、さまざまな方法を使って。普通。同じことだと思うんですよねー。


ちなみに距離感を自在に操る話と、空気を読むことは全然違う話ですからね?。伝わっているでしょうか?。距離感というのは、コミュニケーションの手法に敏感になること、TPOを意識してその手法の特性を利用して順番意識して、本当に伝えたいこと、したいことを全うするってことを言っています。空気を読むというのは、他者に、周りに合わせるという意味なので、全然違いますよ。


「みんな」にわかってもらう必要性はなくて、特定の「わかる人にわかるようになってほしい」ということや、特定の友人や層に向けて書いているだから、そこでわかってもらえればいいのです。まぁ多少は、パブリックイメージも大事なので、何も特定に限定する必要性はなく、そこはオープンネスさとのバランスと距離でしょうけどね。


一番の目的は、いつも書いているのですが、この記事を継続して読んでいてくれると、友人たちが、本当に久しぶりに飲み会で話しても電話で話しても、一瞬でこの複雑な文脈に「追いついて」くれるんですよね。これをして僕は、コミュニケーションコストが下がった!と驚いたんですが、僕が最も期待しているのは、これです。友人への手紙のつもり。


なので、数年前ぐらいに、僕は新しい読者を無理に獲得しようとすることや人気が出ることはやめようと思ったんですよ(笑)。なぜかというと、アクセス数を増やす方法は、何年かやっていたので、わかってきたんですよ。要はトライアルマーケティングの手法を使えばしいわけだし、中身関係なしに目wに触れる頻度を臆させるとか、そういうスキルはわかってきたもんで。しかし、そもそも目的が、自分の思考履歴の趣味(=もともと誰に見せるでもなく文章を書きとめる癖があったので)=自分のアタマで考えるという遊びなので、別に誰に見てもらう必要もない、という割り切りがあったんですよね。その時には、既にかなりたくさん友達ができていたので・・・たとえば海燕さんとかネットで既に超有力な友人がいるので、もういいかなーって、、、、


でもねー、そっからもコツコツ、じわじわアクセス数は増えているんだよね。いまや500万ヒット。これがどれくらいなのかわからんが、海燕さんのSomethingOrangeでさえたしか1000万ヒットだったんだから、偉いもんだろうと思います(←たしかそうだよね?)。特にメディアに露出してもいないし、長文で、口語体で、日本語がかなり怪しい(苦笑)こんなブログでも、たぶんかなり強い固定読者が少なくとも軽く何百人単位かでいるってのは、、、よく考えると、凄いことです。少なくも見積もって数百人はかなりの愛読者がいるはずです。僕個人ですからねー。会社の組織であればまた違いますが、自分個人の能力だけで、それなりに読む気がある数千人単位の人に意見を投げられるのは大したことです。結局は、中身なんだよなーって思います。なんだかんだ言って、長く読んでくれる良質な読者が、読みにくいのも含めて芸だと思って読んでくれるのは、僕の書く文章に何らかの価値を見出している人が、いるってことです。そして、それがじわじわアクセス数が上がるということは、その方向も間違っていないということ。


まっ、なにがいいたいかっていうと、積み重ねることの強みとか、あと「自分がやりたいこと」をはずれちゃ、続かないよねってことです。「続くこと」にはかなり価値があるんですよ。積み重ねは、成長をもたらすしね。それに空気にというか、読者に合わせるというのも必ずしも必要ないということです。いいかえれば、マーケティング(=市場調査)というのは、常に、道を誤る可能性が物凄く大きいってこと。だって、一般市場に、ブログ特性に、合わせて2000字縛りで書いていたら、僕は嫌になって間違いなく辞めていたもん。

僕の理解してもらいたいこと、伝えたいことって、とっても複雑な文脈そのものなので、そもそも単体の短い記事なんかで伝えられるもんじゃないんだから。そもそも、自分でも何が言いたいか、よくわかっていないし(苦笑)。結論が言いたいわけでもなく、プロセスが共有したいので、そもそも、記事がまとまって読みやすい必要すらない。思考の履歴なので、自分的にはおかしいと思っていてもロジックを確認したくてそのまま書いちゃうこともある。それが、どうも長文は、理解したい!という根気がない読者をはじいてくれる、という効果があるのを見つけたのは・・・そもそも、アホみたいに長文を書く癖があるので、とても、自分的にはラッキーなことでした、ということ。


あと、ふと思うんですが、自分を市場側に合わせて、それで認められても幸せには慣れないんですよねー。自分が市場に受け入れられなければという思考方法は、幸せとは程遠いんですよ。自分自身のやりたいように、自由にやっていて、それでいて認められなければ、ねぇ。うーんと何が言いたいかっていうと、市場に合わせてみんなに受け入れられれば(=たとえば儲かるとか)そういう風にできればいいってわけじゃないんですよ。それ、幸せとかと相関関係ないから。もちろん目的によりますが、幸せ(=自分の自己満足)を目的に置くならば、自分の本質を曲げるのではなく、それを変えないで受け入れてもらう方法を探すのが、より戦略的だって話です。


もちろん、そういう実存的なことはどうでもよくて、シゴトとしてやりたい!とか、自分が受け入れられるのではなく、世界を変える方が面白い!という場合もあるとは思います。僕は自分のビジネスでは、自分が認められるとかそんなことはどうでもいいです。だって、その場合は、世界を変える方がはるかに面白いもん。個人の役割とか実存とか、そーいうのはどうでもいい。プロフェッショナル、というのはそういうこと。重要なのは、ロールや人格というのは、レイヤー(=層)になっているということです。僕はビジネスでは、言い換えれば会社では、自分がどうのとかいう自分探しは全く興味がありません。けれども、家族やこうした自分の趣味のブログでは、自分自身「だけ」が重要です。そこに明確な線引きが僕の中にはある。もちろん、例えばこのブログの管理人である「物語三昧のペトロニウス」という人格と僕自身では、具体的な行動レベルの管理としては境界線がありますが、実際には(=言い換えれば人格の統合という意味では)、緩やかにつながりがあります。グラデーションでつながっている、という感じです。


このあたりのこと、伝わるかな?。僕自身、会社での僕、ペトロニウスとしての僕というのは、僕ははっきりと行動の次元で別物だ!と意識して選り分けて行動を管理しています。しかしながら、その本質は、緩やかにつながっていて、どれも「ほんとうの自分」でもあるんです。サラリーマンであり大組織のマネージャーたる僕は、例えば文章はこんな口語で主語述語が怪しいことは絶対に書きませんし、部下が書いてきたらキレます(笑)。YESやNOも強く要求しますし、常に市場ばかり見ています(笑)。たぶん、傲慢で以外にやさしい(笑)ペトロニウス管理人とは全然違う人でしょう。行動の次元では。でも、目指しているものや本質は、それほど違いません。。。そういうことなんですが・・・わかる人には一発なんだけど、、、伝わるかなぁ。。。


まぁ、なにがいいたいかというと、商売でやらないんだったら、自分が好きなようにやったらいいんだろうと思うよ、という、ふうに思ったのでした。