『無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』  理不尽な孫の手著 異世界転生の日常やり直しセラピー類型の、その先へ

無職転生 ~異世界行ったら本気だす~ 1 (MFブックス)


無職転生 - 異世界行ったら本気だす -
理不尽な孫の手


2019-10-04【物語三昧 :Vol.40】『無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』 理不尽な孫の手 2012異世界転生の日常やり直しセラピー類型の、その先へ-45


累計総合での1位獲得おめでとうございます。


あっちなみに、僕のブログは何度も言うけれども、ネタバレ基本なので、そこはご考慮ください。


えっとですね、僕が、小説家になろうの大ファンで、あほみたいに読みまくっているのはご存知だと思います。まぁ、敷居さんとかぐらいのレベルになると、僕のように累計総合の順位の中から探していたり、他人からお勧めを探しているようなのは、小物だそうですが…。彼らぐらいになると、日刊ランキングから探し出し、、、育てる気分で、、、って、まぁそれはいいや。こんなに仕事忙しくて、これだけ読んでるあほって、そうはいないと思うもん。


無職転生は、なろうの文脈の中でも、とてもとても良い出来だなと注目していたのですが、昨今の展開は本当にすばらしいと思って、思わずぐっと来てしまいました。累計1位にふさわしいダイナミックな物語の起伏で、本当にすばらしい。僕話しの中で何度も落涙ですよ。


僕のなろう文脈の話は、何度もしているのですが、異世界ファンタジーを、自己セラピー的に使う人生やり直し系が多いといいうか基本形のフォーマットになっているという話をしていました。ただセラピー的にもう一度人生をやり直す系統は、ドラマトゥルギーに起伏がなく長期的には飽きられてしまうだろうというようなことを言っていたと思います。


なので、日常をやり直す、というポイントにドラマトゥルギーの起伏をつけるとしたら一つか論理的には思い当たりません。それは、前世で失敗した人生の失敗をどれだけ噛みしめるか、ということです。それなくして、人生をやり直しても、それは安全な繭の中にいるだけの妄想でしかありえず、どこかで行き詰ってしまうからです。しかし、それはすなわち、この『人生をやり直す』=高見から失敗しない方法をすでに知っている高みからの視点の放棄、ということでもあります。とてもなろう的フォーマットでは、矛盾しているし、そもそも選べない選択肢なので、相当の傑作にしか選べない道筋です。


なぜならば、前世の失敗を噛みしめるには、同じことを今回も失敗して痛切に感じる、ということですしか、感じることは不可能だからです。もしくは同じことでなくても、少なくとも「高みからの視点(=何でもわかっていて解決できてしまう俺ツェェ状態)」を放棄させてしまう、取り返しのつかない人生の選択やミス、出来事を登場人物に体験させなければ、主人公の今世(=異世界)での人生に、リアルさを獲得できないからです。物語が始まらない状態といってもいい。僕が、日常やり直し型という言い方で日常といったのも、日常(=終わることのない反復)という意味あいが強かったのです。


ちなみに、僕は、『Re:ゼロから始める異世界生活』が偏執狂的に好きなのですが、、、(苦笑)、これって、よく考えると異世界型ですが、主人公が全く俺ツェェ型ではないし、最初から徹底して弱さを刺されまくるので、そういう意味では、うん、なろう的ではないのかもしれません。なろう的な快感のシステムとことごとく真逆を言っているもの。


http://ncode.syosetu.com/n2267be/


それはさておき、無職転生は、典型的なろうシステム、なろう的快感原則に乗っているフォーマットの作品です。いや「でした」かな。というのは、ニートな主人公が、新しい家に生まれなおして、人生を幸せにやり直していく。その際には、まぁそれなりに制限はあるにせよ、恵まれたスペックを保有している上に、子供のころからすでに大人の視点で自分を鍛え上げられるわけで、いわゆるチート(卑怯)の極地なわけです。しかも、日常の幸せ家族の描写や、高い才能で回りに愛されて肯定されていく様をコツコツ描くさまは、まさになろう的なセラピー的文脈です。


けど、フィアット領の消滅からそれが、ひっくりかえります。まぁ、いきなりではなく、ジワジワになっているので、最初から設計していた感じがするのに、アクセルを踏むのは後半な感じですが、、、まぁとにかく、なんというか、この作者、間違いなくなろう的な快感原則を「ひっくり返す」ことを設計していたんですねぇー。いやー小説書く人って、すげぇーなって思います。よくこんなこと設計できるよ、、、。いやまー僕も論理的なものは自信があるんで、分析とか抽象化はできるんですが、逆の具体的に落とすことができないんですよねー。って小説書いたことがないからわからんけど、たぶんやったことがないというのは能力がないとイコールなので、できないでしょう。才能があれば、やりたくなって書いているはずなので。


また話がずれた。


とにかくエリスの家庭教師編の、、、なんというか、日常の成長の様を丁寧に描いている分だけ、、、それと主人公がニートで、そういう家庭の温かさや関係性をめちゃめちゃに壊す取り返しのつかない人生を送っていたのがわかるだけに、ぐっとくんだよね。本当にあたたかい。けどこれがもう一度ひっくり返って、ズタズタになるんだよね、、、これ本当に見事な対比。


あっと、このあたりの話は語りたいこといっぱいあるけれども、ちょっと時間ないので、一番言いたかったというか、ほぅーって思ったのは、最近のパウロが死んだところです。



これを読んでいて「ボタンの掛け違えって」どこまで行くものなんだろう?って思ったんです。



この作品の根底に、ニートで家庭を放棄させて人生を崩壊させてみじめに死んだ男の無念が、なろうテンプレートで幸せな人生をやり直す・・・・という構造をさらにもう一回ひっくり返して、もう一度同じような厳しい試練を、取り返しがつかない試練を主人公に与えるという構造になっていて、対比的に人生の価値、一度しかない一回性の価値を感じさせるところにあります。グッとくる構造というのはこの構造から来ている。


ただね、、、、この主人公のルーデウスくん、、、前世の名前は出てたかな?30台のニート君の性格って、全然変わらないはずなんだよね。たぶん本質は変わらない。そして、人生の厳しい出来事の厳しさは、へたしたら前世よりも今回の異世界のほうがはるかに厳しいかもしれない。


にもかかわらず、ちゃんと乗り越えていくのね。


これって不思議な気がするのね。だって、前世でできなかったわけだから。もちろんいろいろな自己肯定が積みあがっているのも事実なんだけれども、それってチートで得た部分も大きいし、前世での後悔が強く作用しているわけであって、自分自身の積み上げではないともいえる。けど乗り越えられる。


何が違うの?というと、、、、何も違わないのかも、、、、と思うんだ。


一つ違うとすれば、前世でニートとなるきっかけは書かれていないけれども、引きこもった最初の最初の小さな出来事の「ボタンの掛け違い」が正されなかっただけのような気がするのだ。これは、、、、厳しい話だ。ようは、一度でもボタンを掛け違って、運よくそれが修正されなければ、だれもがああやって落ちて行ってしまうのだ、、、ということ。



人生って厳しいなって。



パウロとのケンカや、この異世界でもルーデウスは、いくつものギリギリの選択というか、ボタンの掛け違えのポイントを体験している。それが吉と出ているかどうかは、物語として、わからない。けど、人生として、彼は正しい成長の方向へ進んでいる。だから肯定されるべきだし、とても見ていてぐっとくる。


僕は、わかる気がする。人生って、小さなボタンの掛け違いは、いつも起きている。それを丁寧に意識して変えて、、、しかもそれは、直後でないと治せないし、1日過ぎるとも終わっていたりして2度と治せないことも多い。運命の女神さまに後ろ髪はないのだ。それに、大きな流れに乗った場合は、その流れ自体を変えるか乗れるような乗り物を自分で作るとかを何年もかけて準備しないと、結局自分を滅ぼしてしまう。えっとね、たとえばね、僕は今回あるでっかいシゴトを任されるんだけど、はっきりいって、ちょっと無理なくらい難しいものなのね。そのためのスタートラインに乗れるだけの実力があるかだって、、、微妙なくらいなんだけど、、、けどね、何年もかけて実は準備していたことがあって、それって、まあ必要ないかなー僕の人生にとか思っていたことなんだけど、そういうのを何年もかけて準備していた。なので、今回のような大抜擢みたいなことがあっても、、、、あれ?できる・・・かも?とは思えるんですね。でも、もしこれそういう基礎努力がなかったら、むしろこれで人生を終わったかもしれません。だって不可能なことを全権任されたら、ぼろぼろにされてしまうでしょう?。そうすると、むしろ、選ばれないほうがよほどいいことですが、、、、。でも人生というのは、「いいこと」が長い目で「いいこと」とは限らない。能力もないのに出世したりしたら地獄で、よけい目立って叩き潰されるってことはよくあること。なにがいいことかってのは、全然わからないんですよね。とはいえ、何が「善きこと」かわからない、先のことはどうなるかわからない、って中で、何を準備できるかというと、、、、、でも、なんでそんなことができるの?っていったら、それは準備していたからだけど、、、なんで準備していたの?と聞かれると、、、正直答えは、なんとなく意味もなく、、、としかならない。鶏と卵の循環論法なんですが、、、、。つまりは、よくわからない、が答えなんですよね。人間の行動や積み重ねには、あまり意味がないものが多い。けっことして、論理的に、後付で説明できるけど(偉人伝はみんなそう)そういうのは嘘っぱち。やっている時、その人は理由なんかあまりないものだ。人生って、そういうものだ。人生は偶然の積み重ねの連鎖でできている。偉人伝は、これを分かりやすく「志」とか「夢」とか目標のようなキーワードで論理的に「後付で」組み立てているだけ。まるで成功するのが褒賞されているような錯覚で読めてしまって、みんな誤解する。リアルタイムで最前線を生きているときに、あんなつながっている感覚なんてゼロだよ。何が起きているか断片ばかりで物凄いスピードで人生は過ぎていくし、意味につながりは、少したって、あれ、、、「そういうこと」になってしまっている、、、と思うだけ。キャリアの最新理論でも、意図せざる偶然の理論は、はほぼ常識になりつつあると思うんだよね。



単純に言えば、僕らは不確実性の世界を生きている。何事もパターンやこうなるという設計図があるわけでもない。



そして、、、、この無職転生の素晴らしいのは、もう一度人生をやり直すフォ−マットという真逆の仕組みの中から、『それ』を思い起こさせてくれることだろうと思う。ああ、うんいいねー。異世界系の日常やり直しって、ドラマトゥルギーが設計されていない(=人生を文字通りやり直しているだけなので、日常が続くだけ)長くなると破綻してくる傾向が強いのだけれども、これ、よくよく考え抜かれてて、うまいなぁと思う。まだこの類型の果てってみたことないけれども、この作品は見れるのかも。。。。



・・・・・・・・・あと、上記の「ボタンの掛け違えって」ってのは、ルーデウスの妹のノルンやナナホシもそうなんだけれども、この主人公(そして作者は)は、人がちょっとした出来事で簡単に堕ちて行ってしまうのを凄い切実な恐怖として認識しているんだよね。この作品の肝である現実認識で、僕はこれにすごい共感する。ちょっとしたきっかけで、人生が簡単に捻じ曲がってしまうんだ、というのは、40年近く生きていてすごくよくわかる実感だ。けれども、人生の出来事って、ころがる石(A rolling stone gathers no moss)みたいなもんで、どうなるかわからん風にふらふら流れていく、、、それはマイナスでもプラスでもどっちでも起こりうる、、、みんなどう思って生きているんだろう、、、僕は3年と同じ状況が続いたことがないので、人生ってのは、『今この時』ってのは、もう二度と来ないんだなーってすごく思います。・・・・僕が、おっさんになったからかなぁ?。でも、もう大学生の頃にはこうれ切実に思うようになっていたもんなー。というのは僕の個人的な感慨ですが、人生が「諸行無常の響き有」とか万物は流転する的な、、、、変化し続けていく危うさがあって、いつ何がどうなってしまうかわからないものだと考えると、、、ちゃんと生きれた人とそうでない人は何が違ってしまったんだろう?って思うんですよ。このルーデウスの前世と今世の生き方の違いって、そういうことですよね。まぁ「ちゃんと」ってなんだよ?って思うことは思いますが、でも自己肯定してポジティヴに困難と闘えるとの、そうでない人生は全然違います。何がそれを分けるんだろうって?。この物語を読んでいると思うんですよ。


あとね、たとえば、ちきりんさんの日記で、要は現代日本アウトサイダーとして生きてきた子供たちの話ですよね、これ。


2013-10-21 と或るシンクロニシティ <1981年、北海道と青森> Chikirinの日記
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/?of=3


梅原大吾さんとか、めっちゃ子供時代つらかったの間違いなさそうですよね、、、、。これって、成功物語だからまだいいけど、、、きっと押しつぶされて人生ボロボロになったり、そういう人も多い話なんだろうと思うんですよ。前に「前向きな人は嘘をつく」というというような記事を書いたんですが、うそというか、人生ポジティヴな面以外見ても、得なことも、いいこともないんで、そうわりきって、「そこ」しかみないという行動様式はありなんです。が、、、、何かのものの本で、人間には、光(未来)ばかり見たがる人と闇(過去)ばかり見たがる人がいて、どっちの趣味が正しいとは言えないが、、、というようなことを聞いたことがあります。ちきりんさんは、ポジティヴ思考なんだろうなーと、というか、この文体とブログの媒体でネガティヴに書いても意味はないので、、、、というよりも、日本の未来を明るいと断じて(暗いこといっぱい指摘しながら)、わくわくするような世界の変化について語るちきりんさんが大好きで超尊敬しているので、別にくさすつもりではないのですが、光を注目すると影って出てこないんだよなって思ってしまうんですよねー。というのは、、、、この梅原さんたちの話を聞いていると、、、、と同時に、無職転生の話をずっと追っていると、なんか、こういう方向で日本社会の共同体体質とかに弾き飛ばされて無残にも人生壊れていった子供たちって、、、めちゃめちゃ多いんだろうな、、、って。ようは「それ」を再度もっとやろう!とアジテーションしているわけですよね。。。。と思うと、なんか、むねがこう、きゅーっと、、、、。いやもちろん、日本のマクロのためにはとても正しい方向性だと思うし、むしろそう人死屍累々の屍の後の成功者をほめたたえて社会的にアファーマティヴアクション的に評価することでロールモデルとして、そういう差別や厳しさを壊そうという戦略は社会的に正しく、また僕も同じような媒体で同じことを言うと思うんですよね、、、だって正しいもの。。。。いや、しかし、そこはなんか、、、それだけでいいんかいなぁ、、、って思ってしまう気もしないでもないんですよねー。ああいや、何度も強調するんですが、実際に僕が現場でやるなんなら同じこと言うし主張すると思うんだろうけど、、、でも、ふと思うんだよなー。。。。なかなか人生は難しいですよねぇ。


勝ち続ける意志力 (小学館101新書)


・・・・・話が関係ないように思えるかもしれませんが、そんなことをいろいろ想起させるほどなんというか、深いところをついている作品です。これがなろうの異世界フォーマットのコテコテの日常やり直し類型をベースにしていて深みが増しているところがすごいです。ほんと素晴らしい作品です。泣ける。



あともう一つ、、、この作品はいろいろ気づきがあって、おおって思っているんですが、、、これハーレムの構造をしているけど、僕らがこれまで文脈として語ってきたハーレムメイカーの手法とは逆なんですよね。全く同じハーレムを志向しているのに。えっと何が逆かというと、これまでのハーレムメイカーの議論の『とある魔術の〜』や『化物語』を見ると、女の子のトラウマを救済することでその女の子を男の子に依存させちゃうという構造でした。でも、この異世界転生は、ハーレムをコツコツ、なんというか、極めてオーソドックスに地道に形成しておりますが(笑)、いまのところのターニングポイントは、全部、主人公のルーデウスを女の子が救うという形式をとっているんですよね、、、同じように見て真逆です。

これもねぇ、、、興味深いんだよねぇ。。。この話はどこかで解析したいんだけど、、、これ凄くいい題材なので、、、けど、、、力尽きたので、この辺で、、、。


と、つらつら書いていました。


面白いですよ。


おすすめです。