『FROZEN(アナと雪の女王)』(2013USA) Jennifer Michelle Lee脚本監督 Chris Buck監督  無垢さが世界と世界から排除されるものを救うのか?

Frozen(Blu-ray+DVD)北米版 2014

評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

まず第一に最終評価の結論を、いいます。この作品は、脚本の構造や解釈以前に、その音楽や歌や映像が、あまりに素晴らしい大傑作なので、見る価値ありまくりの大傑作★5つです!。なので、そこは僕は特に触れません。なので脚本に焦点を当てて話をしてみたいと思います。


今回は、久しぶりに、とても自分的にはうれしい映画の楽しみ方ができたのです。というのは、短期間のうちに評価が全く変わってしまし、「見方(=評価の仕方)」がアップデートしてしまったのです。友人と話していて分析を続けていると、一つの見方が、まるで全く異なるものに変貌していくことがあるのですが、久々にそれを味わったので、ここにそのプロセスを記してみたいと思います。


まずは、初見で、僕がどのような感想を抱いたか?です。


なぜそんな変化が起きたかというと、『FROZEN』を見る前に、海燕さんの批評を先に読んでしまったからなんです。この見方は秀逸で、論理的に見れば、海燕さんの見方の到達地点は、とても納得性の高いものです。かつ、僕の素直な個人の価値観にも非常にミートしているので、これ以外の見方はほぼできないと思うのです。なので、1回目にこの作品を見たときに、僕は、まさに全く同じ感想を抱いて、強固にそれを確信してしまいました。

で、物語のなかでアナはその両親が果たせなかった奇跡を叶えるんだけれど、うーん、納得がいかない。そもそも、あきらかにこの子、何にも考えていませんよね?


 このままエルサを放っておいたら国がどうなってしまうんだろうとか、人々を救うためにはエルサを犠牲にする必要があるのかもしれないとか、そういうことをちらっとでも考えた形跡がまったくない。


 もちろん、「どんなにまわりのひとを傷つけるとしても、それでも自分はエルサを愛している」というのなら、ぼくにも納得がいく。そういう愛がものごとを解決に導くこともありえるとは思う。


 しかし、アナの愛情は、そこまでの深慮や決断に支えられているようには見えない。いくら考えてみても、やっぱりアナは何も考えずに無邪気に行動しているだけの幼い女の子としか思えないのですよ。


 ラストの自己犠牲シーンにしても、反射的にエルサの前に飛び込んだだけで、自分がそう行動したらどういうことになるかということはまったく考えていなかったのでは? 皆、ほんとうにアナの行動に納得しているのかな……。



アナと雪の女王』の結末はやっぱり納得いかない。
海燕の『ゆるオタひきこもり生活研究室』
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar512060


アナ王女のキャラクターの設定と、その設定から導かれる物語のドラマトゥルギーの構造が、納得しにくいものだという点です。


もう少し噛み砕いていうと、1つ目は、アナは、王女なんですよね。お姉さんは女王です。即位こそ遅れていますが、女王なので、妹のアナは王位第一位継承者です。第一位の王位継承者が、当然に姉に何かあれば自分が国を支配し導く義務と責任がある自覚がなければいけません。王族は他にはいない上に、まともな大臣や宰相もいないようなこの様な小さい国では、その自覚は強烈なものでなければならないはずです。ちなみに、この国のモデルは北欧だと思うので、それこそ王族と民の間はとても近く、かつ王族が完全に経営者、指導者で、官僚群が小さいはずなので、王は相当に優秀な指導者足らねばならないはずです。でなければ、すぐ国が滅びます。なのに、物凄い能天気ですよね?。お姉さんのエルサは、その自覚で押しつぶされそうになりながら自分を維持しているにもかかわらずです。マクロにかかわる指導者の一員として、この態度は無責任極まりないものです。


二つ目は、この物語の結末についてです。言い方を変えると、物語が主張したいコアは何なのか?です。「真実の愛」が奇跡を起こした、というのがこの話の主軸です。そして、その真実の愛は、アナが姉のエルサに見せた自己犠牲の無償の愛でした。けど、この「無償の愛」は、本当の愛なのか?ということがとても疑問なわけです。アナは、見も知らない人間と出会って数時間で結婚したいと言い出すような、そもそも「愛なんていう感情が全く理解できていない」幼い女の子です。また上記の国の責任に関しても無自覚で、要はとても無知で無垢な人間なんです。海燕さんが、幼い女の子といっているのは、非常に正しくて、ようは考えなしなのです。この考えなし、、、言い換えれば思想も、意識も、自覚もない人間の行動が、本当に真実の愛なのか?それだけの強度を持ちうるのか?という疑問です。ここでいう強度とは、この物語としては、アナの自己犠牲の愛が、奇跡を起こしたということになっています。では、奇跡というものは、そんな根拠の薄いものに支えられた行動によって引き起こされていいものなのか?(=納得性が低い)ということが言いたいわけです。奇跡なんだから、すげぇ!!と万人が思うような覚悟がほしいところだというのは、なんとなくわかるでしょう?。


海燕さんの主張を、僕なりの言い方でしますと、上記になります。ようは、納得出来ないんですよ、この物語の脚本のコアの主張に。


そして、最初に海燕さんの記事を読んでしまったがゆえにあまりにシンクロして、まさに、そうだよな、と強く確信してしまいました。


ところが、ここがものを考える人間の面白いところで、主軸となる解釈がしっかりしていると、「それ以外の可能性はないか?」って、頭が動き出してしまうんですよね(笑)。また、批評家的なものの見方の、とても素晴らしくて、ダメで下品なところは(苦笑)、何とか確定したものの見方をひっくり返せないか?と考えてしまうところなんですよね。


ちなみに、僕は、海燕さんのこの解釈が非常に納得したものだったので、彼の意見を先によく読んでおかなければ、同じ結論に到達して『FROZEN』は脚本がダメな作品だったと結論して、終わったと思います。


けど、これがとてもひっくり返ったんですね(苦笑)。さて、では、次に、このどう見ても正しい意見を、どのようにひっくり返すか、僕の芸を見て、それが納得がいくものか、ぜひとも考えてみてください(笑)。


さて、そもそもエルサの能力とは何を意味し、象徴しているのかを考えていくと、やはり「社会に受け容れられづらいような強烈な個性」のことだと思えます。


 つまり、この映画の結末は、そういう強烈な個性を抑圧し、また排除することなく愛をもって受け入れよう、というメッセージなのだと思う。


 しかし、そのメッセージが「愛をもって受け入れさえすれば全部解決」としか見えないところにこの映画の問題はある。いや、いくらなんでもそんなに簡単に解決しないだろうと。


 「社会に受け容れられづらいような強烈な個性」なり「社会にとって脅威であるような特異な才能」をちゃんと受け容れましょう、愛しましょうという思想が間違えているとは思いません。


 しかし、そういう個性を受け入れれば当然、そこには社会とのあつれきが発生するわけですね。この映画にはその点に関する考察が足りないように思えるんですよね。


 とにかく受け容れることが大切!でメッセージが終わっていて、そのあとはもう絵に描いたようなハッピーエンド。


ここの部分が、海燕さん的には納得いっていないメインのポイントですね。そうですね、まさに、この作品の主張ポイントは、「とにかく受け入れることが大事」ということを主張しているのです。


そして、海燕さんの(そして僕の初見の)意識は、愛もをもって受け入れれば、それが解決するというところに、納得がいかないといっているわけです。それは、最初に書いたように、非常に論理的です。そして、事実でもあります。愛は地球を救うという言葉がありましたが、そんなのは全くの大嘘なのは、万人が納得できるところです(苦笑)。現実のパワーポリティクスは、お互いが滅ぼし殺しつくせる核ミサイルを相互に持つことが平和につながるというような身も蓋もないものです。そして、事実、ほぼそれは正しかったことが、現実の歴史で証明されています。まぁ、議論の余地はある話ですが、愛だけで、問題が万能に解決できるというのは、いくらおとぎ話でも、やりすぎで、、、そういった無邪気さはむしろ害悪であるというのは、僕も同意するところです。


さて、では、どうすれば、エルサを、、、、社会を壊してしまうほどの特異な才能を持った異能を、社会は包摂、、、受け入れることができるのでしょうか?、こう僕は2回目に見ながら、自分に問いかけてみました。


もっと、アナのような無責任な視点ではなく、どうすればよかったのかをプラグマティズムで考えてみようと、、、、そうして考えてみてわかったことは、あれ、、、これどうにもならないんじゃないのか?ということでした。最初に考えたのは、アナが強い自覚を持って第一位王位継承者としての自覚を持っていたら、何が起きるか?でした。


基本のシナリオをは二つ。


1)官僚や大臣、貴族が、エルサを殺して、アナを王位につけることです。


もしくは、


2)アナが断腸の思いで、姉のエルサを殺して、国を守ることです。



・・・・・あれ、、、、、そうか、、、、論理的に現実的に考えれば「異能をコントロールできる方法」がないわけだから、最も現実的な解決策は、エルサを排除(=殺す)ことです。そして、現実的に論理的に考えると、エルサの異能は国を亡ぼすような致命的なものですから、猶予をもうけたり解決策を探すというのはできません。論理的かつ現実的というのはそんな確率的に危ういことはしない、ということなんですよ(苦笑)。それは、国民の命を天秤にかける行為なんですから。それはできないはずです。シリアスに考えれば、そのように現実的になるはずです。


2回目に視聴したので、発想が1周した感じがしました。


どういうことかというと、論理的にシリアスに考え抜けば、その結果として身も蓋もない事実、エルサを殺してアナが王位につく方が正しい、というところに落ち着いてしまうのが、この物語のマクロ的な構造なのだ!ということに気づいたことでした。そして、この物語のマクロ構造から、条件を見渡しても、それ以外の解決方法の片鱗も見出せませんので、これでほぼ確定です。


なので、この物語の構造を考えるときに、アナがもっと自覚を持って動いていたら、きっとエルサと姉妹で殺しあうしかならなかったのだ、ということに気づいたのです。もちろん、それ以外のシナリオも、素晴らしい脚本家や物語作家なら考えることができるかもしれませんが、少なくとも普通に論理的に考えると、この物語の持つ条件からいってそれ以外って思いつきにくいのです。普通の頭と、現実にチートな技がないと、前提で考えると、そうなるんじゃないかな?って、じわって、心に沁みこんできました。これは、1周目で、海燕さんの意見が先に頭にあったので、とっても深く、初めて物語を単純に見ると、アナの何も考えていなさに???となるんですが、2週目で全体の構造をよくよく考えてみると、アナが能天気で何も考えていなかったからこそ、アナを王位につけてエルサを殺そうというルートが発動しなかったのだ!と気づいたのです。


そう考えると、アナの無垢さ、無邪気さに、マイナスではない意味を感じるようになります。


2週目の感覚として、仮に、どれほど論理的にシリアスに考えても、どうにもならないのであるとしたら、最初から何も考えないほうがいいのでは?(笑)という身も蓋もない結論です。


むしろ「何も考えないこと」ことこそが、世界を救うこと、排除され差別される人々を救うことなのかもしれない。


だって、論理的にいって、エルサの魔法を制御することは、ほぼ奇跡に等しいことで、現実にコントロールできる可能性は、物語世界に微塵も描かれていません。このような、存在自身が「制御できないこと」に対処しようとするならば、もっとも重要なことは、まずそれを消し去る(=殺すこと)です。なかったことにできるのならば、これほど確実な対処方法はありません。しかし、それでも救おうとしたときにわかることは、「救うための方法がない」ことです。解決ができないのだから、当然そうなります。その時、そういった「解決できない制御できないこと」にもし人が出会ったとしたら、できることは何があるでしょうか?。


そうです。そこで、人間にできることは一つしかありません。それは、



ただ受け入れること



だけなんです。そうした時に、計算して、論理的に考えてきた人々は、素直に人間としての基礎的な情愛を発動できるかというと、無理だと思うんですよね。アナの気持ちは、お姉さんだから好き、お姉さんだから死んでほしくないなど非常にシンプルです。底が浅いといえるほどに。1週目では、底が浅いとしか思えないでしょう。けど、、、2週目、、、世界の持つ残酷さを理解してと、可能な限りの現実性を意識して考えた後には、戻るべきは、実は「そこ」なのではないか?ということが言えるようになるのではないかと思うのです。



昔、大学でアメリカ文学の授業で、アメリカ人は無垢をとても愛し崇拝するという物語の系譜がある、というのを聞いたことがあります。


バットマンビギンズ』 クリストファー・ノーラン監督  『ダークナイト』の予習として必修の映画〜アメリカのアダムの系譜を継ぐ物語http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080907/p1


その辺は難解な話なので、そこを少し書いた記事を参照で載せておきます。

アメリカン・ヒーローの系譜

ここでは、アメリカの物語の系譜では、無垢さを強く崇拝する傾向があるという部分があって、「ここの部分」については、アメリカ人が見る上ではほとんど説明が要らないというショートカット機能が発生するんだと思います。なので、アナの行動を、


(A)単なる考えなしの無邪気なおバカな無垢とみる(=1周目)


のか、それとも、


(B)厳しい現実の残酷さや汚さを踏まえたうえでそれでも無垢であるべきとする(=2週目)


かについては、アメリカ人自体は、かなり多くの人が、(B)と見る文脈もあるということを指摘してみたいと思います。まっ、あまりに無垢がいいんだ!をベタに行きすぎて、アメリカ社会は、そこぬけに(A)の無知さを追求する志向もあるので、(B)もあるとばかりは言えないんですけれどもね(苦笑)。町山さんお本とか読むと、あーうんうん、アメリカってそうだよね、ってすごく同意します。もうめっちゃクチャなところなんで、アメリカは(苦笑)。


アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない (文春文庫)



さて、、、、、このアナの無垢さは、上記で指摘した(A)と(B)とのどちらであるとも描かれていません。なので、描かれていないのだから当然なにも考えていない(A)と認識すべきだという、ことが主張できると思います。しかし同時に、アメリカ文学や物語類型の文脈からいって、文明や現実の残酷さにさらされて、それでも輝き続ける「無垢さ」というアメリカのアダム(American Adam)をヒーローとして認識する伝統の系譜があります。 そう考えると、作り手たちがアメリカ人に向けて作る時に、意識無意識どちらであれ、その系譜を前提に話を描いてしまうことはありうると思います。



さて、では、2週目に僕が、どう感じたか、、、、というと、1週目には、アナの無自覚な行動が許せなくて反吐が出るほど怒っていたのですが、、、、それが2週目で、世界の残酷さ(=エルサを殺すしかどうにもならない)という現実認識が染み渡った後に、それでも、無邪気に無垢に、人間としてのシンプルな正しさを、姉がそうあれない分も、体現していたアナを見ていると、、、非常に泣けてくるのです。描かれてこそいませんが、エルサにとって自分が生きていてはいけない怪物であるという現実を突きつけられながらもそれでも生きてこれたのは、無垢な妹のアナがそばにいてくれたからこそなのではないか、、、、と。


そして、おバカで、無邪気な妹は、最後の最後、、、無自覚に、自分を救ってくれると(アホだからすぐ信じていた)男性よりも、自分のお姉さんを選びました。まさか自分が死ぬとは思っていなかった反射だったかもしれませんが、生き死にがかかった最後の状況で、男性と姉を見て、エルサに駆けよって、、、選択したのは事実です。


そうおもうと、僕は、ぐっと涙が出そうでした。





・・・・・・・・・というのが、僕の『FROZEN』の感想です。海燕さんの記事と合わせて読むと、アップデートされていって意見が変わっていく過程が読みとれますので、ぜひとも読み比べてください。ああ、こういう風に自分が意見や見方が変わるのが、物語を楽しむときにはたまりません。



素晴らしい物語に出会えてよかったです。



追記


愛の奇跡は最も美しい結末である、しかし――。『アナと雪の女王』再考。
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar528929


海燕さんが、僕の記事に反応して、続きを書いてくれました。ああ、、、この感覚うれしいなー。。。しかしね、、、本当にうれしくてたまらないのは、僕がこの記事を書いている間にずっと考えていたのは、『ファイブスター物語』のワスチャ・コーダンテ王女の話でした(笑)。ああ、海燕さんって、本当に同じものを見ているんだなーと、時々胸が震えるほど、うれしいです。やっぱり一緒にいろいろ考えてくれる友人は、本当にうれしいです。


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