あけましておめでとうございます。

2015年あけましておめでとうございます。

2014年が終わりました。ペトロニウスにとっては、アメリカに渡米してから1年がたち、激動だった1年が過ぎ去りました。よくぞまぁ、家族も含めて何とか生き抜けたものだな、と感慨深いものがあります。と同時に、物凄くしんどかったことを振り返っても、やっぱり、おれって何とかやり遂げるける人なんだなぁ、、、、壊れもせず、身体も壊しもせず(体は、少しやばい感じがしますが・・・・)と感慨深いです。個人的な感覚としては、2-3か月周期ぐらいで、不可能と思えるような大きな壁が現れて乗り越えて楽になったと思ったらま現れるという感じで、その壁の厳しさは、涙が思わず出て、吐きそうになるくらい重いプレッシャーでしたが、まぁ、何とかごまかせました・・・というか、誤魔化したつもりです(笑)。


僕は、なんというか人生はバランスだと思っているので、1年トータルで僕も家族も幸せでハッピーであって、特に大きなマイナスがなかった、その代わりに、日常はしんどいことの連続で、なんでこんな目に、、、と涙目になりがら苦しんでいる方が、まぁ、トータルでは、本当にひどいことは起こるまいってっていつも思います。小さなしんどいことを頑張って解決する毎日のほうが、大きな自分や人生を破壊してしまうようなひどいことは起こらないって思うんですよね、なんとなく体験的に。いいことと悪いことは等分に人には訪れるので、小さい厳しいことをたくさん頑張って戦っていた方が、トータルで悪くないって。


まぁ、とはいえ、、、僕は40になりましたが、、、40にもなって、今さらこんな大激変が訪れて、新しい人生の物語が始まるとは思っていませんでしたよ、人生(苦笑)。もともとずっと海外で暮らすことに憧れがありましたが、ずっとそのチャンスが来なかったので、そういうのとは縁がないのだな、、、と完全あきらめきって、でも、日本で友達や家族と幸せに生きて、、、、おおっ、よく考えれば、ご飯は世界で一番おいしいし、大好きなエンターテイメントも溢れていて、しかもヲタクの友人がどんどん増えて、俺いま最高に幸せじゃん!!!日本生活ビバ!とか思っていたら、いきなりアメリカだもんねぇ。。。。もう日本好きになりすぎて、動きたくない!!ということか身体で腑に落ちてからの反転。僕の好きな言葉で、人間万事塞翁が馬って言葉があるんですが、いやほんと、人生は何が起きるかわかりません。


もともと、僕はアメリカについては大学でかなり勉強していたこともあるし、カテゴリーでも「病めるアメリカ社会を読む」とかいうカテゴリーでも記事を書いていたのですが、アメリカで暮らせるのは本当に面白く興味深いです。それと、これ重要なんですが、僕は、日本が好きになって、日本から出て行きたくない!と身体が感じるようになった後に、アメリカで暮らしていることは、非常に運がよかったと思っています。というのは、日本のダメさや狭いムラや社会体質が嫌いで脱出したわけではないですし、日本の未来は凄い明るいという確信を持っていたということもあって、日本から出て行くことに関して一切のルサンチマンが僕の中になかったからです。これ、繰り返しますが重要です。たいていの日本からの脱出して成功した人は、日本を恨んで嫌いで厳しく批判する人が多いんですが、僕、そういうのゼロなんで。いまだ、ヲタク日本バンザイ!、ご飯世界一おいしい!、日本大好き!で、全然その感覚は揺らぎません。ちなみに、僕はどこでも常に住めば都の能天気な人なので、アメリカも同様に大好きで、その思いは時間がたつほど深くなっています。つまりね、なんも自分の腹の中にルサンチマンがないんですよ。自然に、日本大好きな愛国者ナショナリスト的な感覚ですが、その裏返しで、アメリカ嫌い!とかそういう比較級の世界の感覚が全く自分の中にありません。


ということで、いまだ2014年は、自分のオタク的環境を整備したり、生き抜くので精一杯だったこともあり、なかなかアメリカに関する記事は書けていませんが、めっちゃマニアックにいろいろなところ旅行しているし、アメリカのご飯もおいしいですよっ!!(特に赤身のお肉!!!)、コツコツとアメリカの歴史やいろいろなものを勉強したり映画を見たり頑張っているので、もう少し安定して来たら、そのあたりの記事もいろいろ書けるはずだと思います。やっぱり住んでいると、歴史とか文学作品とか映画とか、感じ方が全然違うますよ。アクセスできる情報量や、実感が全くレベルが違うので。


ああっ、人生は、楽しいですね。電子書籍KindleやCrunchrollがあるので、ほぼすべてのものがリアルタイムで手に入るので、ヲタク環境もまったく変化していません。しかも素晴らしい友人たちが、いろいろ送ってくれたり、、、、それに、LINEやスカイプで常時接続状態みたいなものなので、日本にいるときよりも、はるかにみんなと話すようになりました(笑)。距離が遠くなって、心理的な距離はさらに近くなるって(笑)。海燕さんが、昨年は、LINEで100時間ぐらいはしゃべっているよねといっていましたが、マジでジョークではありません(笑)。車通勤なので、毎日の行き返りを友人と話すので、マジ親友レベルの人たちは、物凄い時間量をしゃべっているんですよ(笑)。いやぁ、現代技術って本当に素晴らしい。こんなに日本とアメリカで話しまくって、ただなんですから。。。。信じがたいです。


1月1日(JST)で海燕さんと話している時に、僕らはちゃんとステージはいいところにいるよね、だから「幸せに感じるん」だよね、という話をしていました。過去に戻りたいとも思わないし、異世界でチートな世界を送りたいとは思わないし、女の子が空から降ってくるよりは、自分の奥さんとイチャイチャしたいですし、、、、なんというか、自分の若い時に尖っていたルサンチマン、成長の動機、自分を特別だと思いたい痛さなどが、ほとんどここ5-6年で溶けて消え去った気がするのです。

まあ、それは人間ですから、時には沈むこともありますし、非モテで可哀想な恵まれないぼく、とか自分で信じてもいないことをさもほんとうのように書くことも良くあるのですが、基本的には幸福な人生だと思います。


 36年間生きて来て、いまがいちばん幸せですね。ペトロニウスさんとも話したのだけれど、もう過去になんて戻りたくありません。異世界転生してチートな生活を送りたいなんてことも特に思わない。

中略

 たぶんね、いまから10年くらい前に「不幸になること」を避ける道を選んでしまったんですよ。幸せになるルートを選択してしまったんですね。だから、いまは否応なく幸せになってしまっている。


 これは、友達がたくさんいるからとか、ブログが注目されているから幸せなのだ、ということではないと思います。もちろん、それらの要素はぼくの幸福に大きく寄与しているのだけれど、本質的にはそれで幸せが決まっているわけではない。


 そうではなく、人生のどこかのポイントで、ぼくは「不幸になる道」をあきらめたのです。そう、ぼくはよく「不幸になることはもうあきらめました」という表現をします。


 あるいは「ほんとうは不幸な人になりたかったけれど、その道は挫折しました」とかね、そういういい方をするわけです。


 これがどういう意味なのか、わかる人にはわかることでしょう。それはつまり、「特別な存在、聖なる弱者であることをあきらめました」ということなんですね。


 ぼくの人生にもそれなりに大変なことはあるし、まあ不幸といってもいいような側面もたくさんあります。そこをクローズアップすれば、ぼくは自分を「特別不幸な存在」として認識することができるかもしれない。


 そして、「こんなに不幸なのだから、自分にはこの世を恨む権利がある」とまで思い込むことができたかもしれません。ルサンチマンですね。


 でもね、その道はもうあきらめました、ということなんですよ。仕方ないから幸せになりますね、というね。わかってもえらるでしょうか?


 これは、ペトロニウスさんが「ビル・ゲイツになることはあきらめた」などというのと、正反対のように見えて、本質的には同じことです。つまり、「スペシャルな才能ではない、ごく平凡な存在である自分」というものを受け容れることにしたということなのです。


 つまり、世界への恨みとか憎しみといった負の情念の導くまま、能力を高め、「成長」していくステージを過ぎ、人として「成熟」するステージに立った、ということなのだと思います。




いかにしてぼくは不幸になることをあきらめ、仕方なく幸せになってしまったか。
ゆるオタ残念教養講座 戦場感覚blog
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar698402


この尖っていたルサンチマンやトラウマ的情動が自分のなかから溶けて消え去っているんだ、というのは、ふと最近思ったんですよ。3-4年ぐらい前から、ブログを通した友達がたくさんいて、僕は凄い幸せだ!みたいなことを、記事で書いていた子をこのブログの読者は覚えていると思います。今もそのまま継続していますが、最近、、、その「俺は幸せなんだ!!!」というのが、あまり意識に上らなくなったんですね。俺は友達いて最高にうれしい!とかそういうのが、ほとんど意識されない。なんでかっていたら、もう5-6年もこういう状態が続いていると、それって「当たり前の前提」になってしまって、意識するほどのことでもなくなってしまったんですよ。もう、自分はルサンチマン発動型の、自分を特別だ!尖っているんだ!という強い動機づけをしなくても、まったく人生に過不足ないし。これぼくの中では、自分の人生が、身体が、動機の在り方が、世界への姿勢が、まるで変ってしまったんだ、という凄い驚きなんですが・・・・昔はこういう自分の強い動機駆動のルサンチマン発動型のものがなくなってしまったら、、、何くそっ!というような成長への強いあこがれと渇望がなくなったら、自分がつぶれてダメ人間になってしまうんではないか、という恐れがあったんですが、、、、たぶん正しいステップを踏んだからだと思うんですが、まったく問題ないんですよね。


それに、もう40ぐらいになると、「ワナビー的な俺はこうなりたい!!」というのは、もう激減しました。


でも、やりたいことというよりは、やらなきゃいけないこと・・・・ああこいう表現は、とても他律的でよくないんですが、なんというか、40までに積み上げてきたものの延長線上で、孔子のように「天命」というほどのものではまだないですが、ここまでの役割を持ってしまったら、責任的にやらにゃーいけないよなーって駆り立てるものはあって、そしてそれは、自分が「自分の意志で積み上げてきたもの」なんで、人にやらされている感があまりないんですね。ああ、、、そうか、ああいう他人と自分を区別して、俺は凄い!と差別異意識を持ってルサンチマン発動型の成長をしなくても、おれ、いろいろやれるじゃん!って思うんですよ。やっと、ここまで来たのかって・・・・。


僕はけっして、ナチュラルに、バランスのとれた人間ではなく、心にかなり闇を抱えている人だったと思うんですが、おおっ、、、いま、結構幸せになっていねぇ?・・・こうかくと、とても意識しているように見えるんですが、この数年の感覚は、非常にニュートラルでナチュラルになってきて、なんというか、何かの敷居を超えて別のステージに入った感じがするんですよね。いままでは、成長と成熟を比較して、成長(=ルサンチマンを糧に強力な動機で自分を駆動して比較級の世界で勝ち上がる)みたいな生き方から脱皮して、成熟(=負のルサンチマンによる駆動ではなく等身大でニュートラルで世界を受け入れていく生き方)を目指すというのが僕の人生だったのですが、ここにかかれているように、、、成熟の定義が、成長の否定形なんですね、、、、つまり、よくわかっていなかった(笑)。けれども、なんというかその中身がわかってきたというか、その次元に現実に入ってきたら、どうも成長の否定形ではない何かがありそうな感じなんですよね、、、、まだ自分の中で言葉になっていないのですが、この何かの敷居を超えて、全く違う次元に人生が入りつつあるって感覚は重要だと思うのです。


もちろん僕の個人的な人生の軌跡の部分もあるんですが、この20年ぐらいでマクロ環境も様変わりしたと思うんですよ。僕のこの心の動き、体感の動きは、エヴァンゲリオンで、シンジ君が、『ぼくは乗りません=世界を救いません』と叫んだ問題に対して、いまの時代では、いや、そんなルサンチマンは既にもうわかっているし、いちいちそんなところにとどまっていないで、前に進むだろうという感受性に変わっています。一定数、社会には『ぼくは乗りません=世界を救いません』にしかシンパシーを感じられない層は、必ずします。けど、自分が僕はそうではなし、時代のパラダイムでも、時代を代表する感覚ではなくなったと思うんですよ。なので、自分の個人史だけではなく、マクロとしても、同時代が捉えているのか?をもう少し見ていくのが楽しみです。そして、今までは自分の体験が、日本のみをベースにしていましたが、アメリカで生活していく中で、横軸の広がりがめちゃくちゃ広がって深くなりつつあるので、それも素晴らしく楽しいことです。


2015年の抱負は、いま目の前にやらなきゃいけないことが多すぎて、今は思いつきません。ただ2014年と同じく、毎月月1のラジオだけはしようと思います。あとは、アメリカに折角いるので、その辺の映画や記事を充実させていきたいな、と思う今日この頃です。


ちなみに、先日見た、下記の作品が、とんでもなく素晴らしすぎて、感動していますので、ぜひとも。

それでも夜は明ける コレクターズ・エディション(初回限定生産)アウターケース付き [Blu-ray]