『花嫁は元男子。』 ちぃ著  結局は属性ではなく、その人の魂の問題なんだろうなぁ、身も蓋もないけど。

花嫁は元男子。
  
評価:★★★☆星3つ
(僕的主観:★★★☆3つ) 

『花嫁は元男子。』最近、なんだかこの手のエッセイ漫画が増えているような気がする。先日も『僕が私になるために』を読んだんですよね。あれ、でもそう考えると、女性が男性になったこういう体験記みたいのって見たことがない気がするなぁ。探してみよう。ちなみに、タイトルでわかる通り、ある男の子が女に子になって結婚するまでのお話です。物語としては特筆することもないし、実にあっさりしていて、正直何があるわけでもないお話です。。。。。


・・・・・ということに、読後まず驚きました。だって、性転換ですよ!それほどのことがあって、「正直に何があるわけでもないお話」という感じがするんです。ああ、リベラリズムって、現代日本はこんな風な社会になっているのだなぁ、としみじみしました。というのは、両親も兄弟もあっさり「納得だな」といってしまうし、反対したり反論することもなくて「あなたの幸せが一番」のような雰囲気になるんです。こんなに、こんなに障害がないものなの!?と、驚きました。もちろん、すべてがこうだとか、平均がこうだっとは言いません。けれども、個人的に、今の時代だと、こういう家庭や人々も決して少なくはないだろうって、自分でも実感します。僕が子供のころは、それこそあり得ない!という言うような強固の家父長主義というか、なんというかザ・道徳みたいな、わけのわからない大きな柱がまだまだあって息苦しかった気がするのですが、いまでもあるにせよ、それはもうメインとは言えないなーと感じるんです。自分自身が周りに家族に同じようなことがあっても、似たような反応するだろうなと思いますし。昔って、1980年代までの家族の崩壊って、山本直樹さんの『ありがとう』とか『式日』ああいう、アダルトチルドレンの極みみたいな、やり切れない、わかりあえなさがデフォルトだったはずなのに。。。

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・・・・・と感じていて、戦慄しました。おお、時代はこんなにも変わったのだか、と。僕らは正しい社会に生きているのだなぁと思います。人が、より自由に解放されていく社会。人が、役割に押し込められず、自分自身になれる社会に向かって、僕らは漸進的に進んでいる。自由主義リベラリズム)が浸透していく様を、自分が生きている間に十分可視的に見ていける時代なんですね。なんと、素晴らしい。僕らはいい国に生きているし、世界的に先進国はほぼ共通の方向へ向かっている気がしますので、世界はとても変わっていっています。いや、別に、このちぃさんの直面した問題が小さくて、楽なものだったなんてことが言いたいわけじゃないんです。そりゃ、性別に違和感があったら、人生の大問題です。でもねぇ、なんというか、どんな問題も、結局は、それを受け入れる「自分」がどう受け入れて昇華していくかの、人格の力?とでもいいますかねぇ、そういうもので、左右されるんだって思うんですよ。もちろん物理的な現実の厳しさもあって、そんな「気持ちの持ちよう」ではどうにもならないことはたくさんありますが、そういうものは限りなくハードルが低くなっていく、なり行くのが、今の時代なんだろうと思います。マクロ的には、そんなに悪くない時代だと思うんですよ。


そしてもう一つ。


読後、実はすごく落ち込んだんです。


なんでかっていうと、このちぃちゃんという書き手、主人公が、あまりにかわいくて(笑)です。旦那さんが、口癖で「ちぃちゃんは、かわいいから」というのは、よくわかる気がします。どう考えても、この主人公、超かわいい。容姿は、漫画ではわかりませんが、たぶん間違いなくかわいいと思います。もうそういう雰囲気が溢れているもの(笑)。もう、元男子だとか、そういうことは、正直どうでもよくなってしまうくらいに。いやはや、この旦那さんがちいちゃんにべた惚れって、よくわかる気がします。これで、容姿もかわいかったら(たぶんかわいい)もうはなしたくない!って思うの、男としては、凄いわかりますもん。むしろ、他にとられないか心配になるほうが、強いと思う。


また特に、この主人公のちぃさんの恋愛履歴の話を見ると、学生時代から、女の子から告白されて男としても付き合っているし、たぶんゲイの男の子とも付き合っているし、はっきりいって、モテモテなんですよ。そして書き方のさらりとした感じからいって、この人は、これを非常に当たり前に感じていて、嫌みな自慢とか、そういう感じが全くない。いいかえれば、もうナチュラルボーンとして自分がもてて人に好かれるのが前提なん感じがするんですよね。実際、僕も男性として見ていて、この作中のちぃさんって、かわいいなーって、確かに感じますもん。たぶん、近くにいたら、惚れちゃうと思う。女の子として、めっちゃかわいい感じがする。これがマンガであり表現であるということをかなり差し引いても、魅力をとても感じる。こういうのって、その人の本質ってあふれ出てしまうもんなんです。文字何行のコメントでも、人格が腐った人は、すぐ腐臭がするものだし、わかってしまうもんなんですよねぇ。


なんで、これを見ていて落ち込んだのかっていうと、ああ、、、人間の格差ってのは、属性ではないんだ!!というのがまざまざと感じられるからなんですよ。いままでの話にすれば、ヲタクだからもてないとか、ブサメン、キモメンだからもてないとかは、全部属性のウソであって、ただのごまかしで、その人の「人格」とか「魂の本質」とか言い方は何でもいいけれども、「その人自身」のせいで、もてないだけなんですね。ようは、一言でいえば、人間的な魅力がないだけなんですよ。非モテの議論とかも、結局は「ここ」に落とし込まれるのが、いまのリベラルな時代なんです。属性のいいわけが、まったく成り立たない様を、感じるんです、この漫画を見ていると。


これ、実はすごい怖いことですよ。その人の「人格の本質」によって、すべてが決まるっていうんですから。これ、身も蓋もない格差の結論なんです。まだしも、ヲタクとか経済的に格差があるとか、物理的ないいわけがあったほうが、人は救われるってもんです。ウソによる誤魔化しができるんですから。


先日、リベラリズムが進み、中産階級が壊れている先進各国では、年齢の高い男性が、生きるのが凄まじく苦しいという話をしました。けどこれも、もちろん裕福さに左右される部分はあるにせよ、同じ話なんですね。移民だろうがマイノリティだろうが、現代社会は、動機があって、人間関係を作れて、人生を楽しむ力を持っている人が、優遇されるし機会を得るだけなんです。なんで俺が仕事失うのか!!とかいう議論の答えは、「お前が能力がない、無能だ、努力をしていない」に尽きるんですね。それが自由主義であり、機会の平等の理想だから。


このブログのここ数年のテーマの一つは、


どうしたって救いようのないものを救えるのか、それを描く価値はあるのか?という問いからちょっと考えてみる
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150424/p1


これだったんですが、これって非モテの議論とかネオリベラリズムだぁ!(ようは経済格差や植民地格差の話につながるんですね、この言説は)とかそういう話とつながっていたんですが、この地球の現代史を見ていると、マクロ的には、漸進的でい行ったり戻ったりしながらですが、少しづつ前に進んでいて、もう文句ない時代なんです。この話は、たぶん、ずっとガンダムサーガの話を追っている中で、書いてきたことですよね。人類の未来はどうなるか?。でも、基本的に、そんなに悪くないメカニズムで世界は展開していると思うのです。そんななんでも完璧に結果の平等がある社会なんて、ディストピアだし。いろいろ問題は、物凄くあるんですが、地球規模のメカニズムは、僕は決して悪いほうではないと思います。


そうすると、最終的には、ミクロの問題になるんですね。ミクロの問題って、その人の人格が、魂がどう世界を受け取るか?って話。人間関係の話になる。うう、、、この話って、昔のSFですべて書かれていた気がする。栗本薫さんの『レダ』で書かれていたディストピアですね。そこでは、物理的な格差がすべてなくなって、容姿すら好きなように変えられる社会。しかも社会に経済格差存在しません。まずなんといっても、デザイナーズベイビーなので、生まれる前からできる限りの差異をなくすように社会が設計されている。でもその社会の中でも、ビューティフルピープルといわれる社会的に羨望を浴びる人格の強い人間が出てくるんですね。。。。とこの先は、ぜひともその小説を読んでほしいですが、、、



いやはや、ちぃちゃんが、かわいすぎて、こんなに落ち込むとは思いませんでした。いやー結局は、その人自身に魅力があるかどうか?って議論になると、身も蓋もねぇなって思います。だって、ダメな人は、どうあがいてもだめってことなんだもん、救いようもなければ、救われることもないってことじゃないですか。。。。


僕が私になるために (モーニング KC)


海燕さんにこの漫画をすすめたら、全く同じ反応をしていたんで、誰が読んでもそう思うんだろうなーって、思いましたよ。



非モテを「属性」のせいにはできない。
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga?page=3
弱いなら弱いままで。

結局のところ、問題は本人に帰せられることになるんじゃないかなあ。

 いや、しょせん何もかも本人のせいだとか責任だということではなくて、問題の根っこを他者に求めることは無理があるのではないかということなのですけれど。

 永田カビさんもカザマアヤミさんも、それぞれ不器用な人だと思うのだけれど、なんというか「幸福への嗅覚」のようなものが違う。

 それは同性愛と異性愛の違いといったものでは全然なくて、もっと個人の本質的な格差です。

 これって、辛いですよね。自分の不幸を親なり友達なり上司なり恋人なり、だれかのせいにできるようならまだ救われるわけで、「結局は自分の問題だ」となってしまうと、ほんとうに救いようがない話になる。

 でも、リベラリズムが行き着いた社会における最後の問題とはそれだと思うのですよ。

 完全に平等な立場に置かれても、幸せになれない人はなれないということ。

 リベラルな思想が浸透して、「立場」の格差がなくなっていけばいくほど、「個人」の間の格差が際立っていくというこの矛盾。

 ぼくはそれを「魂の格差」と呼んだりしますが、どうすればその格差を埋めることができるのでしょうね……。

 ぼくにはわかりません。わかる人がいれば教えてほしい。ひとはどうすれば幸せになれるのでしょう? それが大きな謎なのです。


個人の立場が平等になればなるほど、幸福になる才能の格差があきらかになる。
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar1060461
弱いなら弱いままで。

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ


海燕さんのカザマアヤミさんと永田カビの比較も凄いわかる。どっちも、人生こじらせている人ですが(笑)、幸せになる嗅覚というか、そういうもの、、、本当にちょっとした差で、際限なく格差がついていくんです。そしてそのちょっとした差が、人格の差なんですよねぇ。別に、ヲタクだろうが何だろうが関係ないですよね。