『魔法科高校の劣等生』 佐島勤 著 魔法師と非魔法師という「違い」による差別を世界はどう克服するかというSFの命題

魔法科高校の劣等生(21) 動乱の序章編〈上〉 (電撃文庫)


最新刊。ここ何巻もの間、なんとなくドラマが全然進まない感じがする。ただし、長編の作品で、しかも学園ものなので、そういうものかもしれないと惰性で読み続けている。こういうのは難しいのは、メインのドラマトゥルギーは、長編ものだとストップしてしまって、周辺や学園ものだと下級生という名の新キャラクターをフォーカスすることによって、話が散漫になってしまう。大河長編の物語は、「それ」によって、広がりが生まれて、シェアードワールド的な「世界」が立ち上がることでの楽しみがあるので、それが一概に悪いわけではない。ただまぁ、ダレるよね、とは思うけど。今回の巻は、3年生になった達也たちの最初のスタート地点が説明されるわけで、というか、ここ何巻もの話が新しいステージでの説明になっていて、物語というよりは、くどい説明になっている。でもまぁ、繰り返すけれども、難しいのは、そういた背景の説明によるテコ入れや、世界観の広がりを示すことは、長編の醍醐味でもあるので、何とも言い難い。ずっと、最高レベルのテンションが続くのは難しいし、長く物語を描くならば、そういった中だるみによる背景の「深め」というのは仕方がないところだから。なので、いったん本質のドラマはなんなのか?という問いに戻って考えてみる。


この物語のコアは、マクロ的には、


1)魔法師という非魔法師という「違い」による差別を世界はどう克服するかというSFの命題


と、ミクロ的では、


2)魔法師の中で劣等生に位置づけられる、本当は最強(笑)の達也が、どう自分の居場所を見つけていくか?


というドラマトゥルギーが絡まってできている。この作者が言いたいことというのは、達也のようなカテゴリーあてはめられない、世間一般の評価基準で評価できないにものは、評価されないが、だからといって、そいつが負け犬だったり、ダメだったりするわけではない、という命題が強く背景に生きていると思う。


実際に、その視点は決して、上品で優しい視点ではなく、個々の物語では、世間に評価されなくて、理由を他者に求めて努力や正しいステップで自分の居場所を得るための努力を放棄したものと、達也のような最初から世間からの評価は無視してあきらめて自分を強く持ち確立して、自分の大切なものだけにフォーカスしている「強さ」が常に対比されるという、かなり意地の悪い構造になっている。意外に、優しくない。だって「弱さ」をことごとく告発しているのだもの。


でも、では、そうした達也のような、ハードボイルドテイストの「大事なものだけにフォーカス」している、他者の評価を気にしないでいられるのはなぜか、ということが問われる。もちろん、これは物語でありエンターテイメントなので、俺強ェ系なのだから、達也は実際は、まったくの弱者でも落ちこぼれでもない強者です。けれども、彼の強さというのは、出生の秘密、母親らから事実上捨てられ、実験動物されたという母親の欠落。それを、妹を守るということで、代替する家族への異様な執着から成り立っているわけで、そういう意味では、達也はかなり、しんどい人生を生きています。・・・というような、難しい設定作って、妹とのラブラブ状況を作り出す、物語手腕には脱帽します(笑)。


でもまぁ、達也が居場所を獲得していくというのは、どういうことなのか?。もともとの物語は、かなり細かいSFの舞台設定はあるものの、それはしょせん舞台だったと思います。やっぱりこの物語の痛快な部分、面白さのコアは、劣等生だと思われている達也が、実はそうじゃない!という下剋上なところで、既にそれが周知に知れ渡っている状態では、この面白さの部分は展開しないんですよね。


あとは、やっぱり深雪との関係がどうなるか、ってとこですよね。『エロマンガ先生』『俺妹』でもなんでも、実妹との関係は、どうなるの?というのは、関係性のミクロのドラマ自体は、構造はどれも同じなんですよね。


俺の妹がこんなに可愛いわけがない』 12巻 伏見つかさ著  あなたは恋人と友達とどっちを選ぶのか?という問いの答えを探して
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130615/p1


俺の妹がこんなに可愛いわけがない (12) (電撃文庫)


もう一つは、達也の世間からの評価という部分とかかわってくるんですが、SFの大きな命題の一つとして、新人類と旧人類の葛藤・戦いというものがあります。古くは『幼年期の終わり』からガンダムSEEDのコーディネーターとの対立とか、、、、、『新世界より』では、超能力を発揮できた人類とそうでない人類の殺し合いがあり、長い歴史の果てに、人類滅びちゃったりしていますよね。ミュータントものでは『地球へ』や『超人ロック』など、さまざまなものがありますが、これは、もちろんマイノリティの意識や視点のドラマにもなるんですが、もっと大きな枠では、新旧人類の、お互いの居場所をどう確保するかの椅子取りゲームの戦いを、どう描くのか、という話になるんですよね。

新世界より 文庫 全3巻完結セット (講談社文庫)

幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)

地球(テラ)へ… (1) (中公文庫―コミック版)


そう考えると、魔法師と非魔法師の互いの居場所を求める戦いは、優越的なマイノリティである新人類が、世界にどう居場所を求めるのか?。旧人類はそれを受け入れることができるのか、という話なんですよね。この劣等生の世界も、大きな戦争があって、魔法師たちはモルモットとして実験対象として様々な地獄と苦難を経て、現在の世界のルールと体制があるんですよね。しかし、いつその均衡が崩れて、世界が狂うかは、わからない。実際に共生して暮らしているが、そもそも「同じ人類じゃない」くらい能力に差があるわけで、それを、才能の差といってしまうには、結構無理があると思います。この辺はホモサピエンスネアンデルタール人のようなサピエンス以外の人類との争いの歴史を見ると、それがいかにすごいことなのか、、、、絶滅するまで行きつくところまで行く話なのか、と心底寒くなります。

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

でも、それでも同じ人類であるには、確かに違いなくて・・・というところで、その差別の危険性をなくすために、人権などというフィクションにまったく訴えないし、露ほど意識も払わない達也のようなリアリズムは、とても現代的だし、モルモットとしてもてあそばれた実験動物の末裔で、様々な既得権益を獲得するために巨大な戦争を経ている未来の世界だけあると思います。そこで魔法師が、現代社会を成り立たせるエネルギーの重要なパーツになって、その存在を排除できなくさせてしまおう、そのエネルギーを提供する過程で、魔法師の社会における居場所を押さえてしまおという達也の発想は、とてもSF的というか、テクノクラートというか科学者の発想だと思うんです。


僕は、この現代の世界とほとんど違わない倫理や常識の中で生きている近未来設定の、この作品が、どこに着地していくかは、いつもわくわくしてみています。ここまで、新旧人類の相克を、リアルタイムで、コツコツ描く作品ってみなかった気がするんですよね。『新世界より』のように、新人類と旧人類の争いがかなりのところまで行きついて、世界のルールが変わってしまった「後の世界」からスタートする、そして過去に何があったのかを暴いていくというのがこの系統の定番なんですよね。もちろん、劣等生もそうなんですが、この世界はまだ過渡期ともいえる世界で、まだまだカタストロフまではいっていない。しかも現代の地政学的な状況とほぼ同じような外部環境なので、この舞台で、どういう結論を出すのかは、見ものだなーと日々思っています。


魔法科高校の劣等生 (20) 南海騒擾編 (電撃文庫)