『フューリー(Fury)』(2014 USA) David Ayer 監督 濃い疑似家族の人間関係が、物語密度を極限まで上げる見事な戦車映画

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客観評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

久々に超大作を見た、という感慨がある映画だった。超一流の戦争映画であり、その中でも難しい戦車映画という題材を見事に料理した脚本であり、そしてDavid Ayerらしく青春の喪失が描かれる青春映画にもなっている。ブラッド・ピット主演の映画ではあるが、実質の主人公は、Logan Lerman演じる新兵のノーマン・"マシン"・エリソンになる。この映画を見終わった後、無垢で何も知らなかったノーマンが、世界の残酷さを知る大人になっていく、その視点の変化を観客は、135分間ひたすら泥にまみれながら這いずり回る戦闘シーンの積み重ねで実感することになる。見るに足る、素晴らしい映画だった。


『バジル大作戦』にしても『パットン大戦車軍団』にしても、大味で地上戦での最強兵器である戦車の凄みも、中で展開される人間ドラマも描かれていなかった。というか、できないんだよね。

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ノラネコさんが指摘する通り、潜水艦映画には名作が多い。『眼下の敵』『深く静かに潜航せよ』『レッド・オクトーバーを追え』『クリムゾン・タイド』と名作がずらっと思い浮かぶ。しかしながら、戦車映画となると、まったく思いつかない。その理由は、密閉空間にしてはそれなりに広く人がたくさん乗艦するため、濃密な人間ドラマが演出しやすい。けれども、狭い戦車の中では、そうした人間ドラマを描くほどの関係性が演出できないからだというのはまさにそうだと思う。


しかし、これは、まさに「戦車映画」だった。


■疑似家族を関係性の基礎としてその濃密さで物語を紡ぐ


これをどう解決したかというと、David Ayer監督は、“ウォーダディ”、戦場の家長と呼ばれる車長のコリアー軍曹(ブラッド・ピット)指揮下のメンバーを、一つの疑似家族としてとらえることで、狭い少ない人数にはっきりとした関係性を与え、そこに新兵のノーマンが配属されてくるという形で、ノーマンの無垢な目に観客が感情移入する形で、コリアー曹長以下の仲間の疑似家族の絆を見ていくという形で、物語を展開させます。


このあたりは、まさに流石のノラネコさんの分析なのですが、僕は久々に、強烈な「男だけの共同体」のむせるような、濃厚なものを見た感じがしました。戦争を長く続けている兵そうなだけに、下品で、粗野でな無頼漢やよくスペイン語の出るメキシコ系とにかく、メンバーが荒っぽいというか秩序に縁がなさそうなバラバラ感あふれる。絶対、上の命令に従わないであろう、一癖も二癖もありそうな雰囲気に満ち満ちている。特に、ジョナサン・E・"ジョン"・バーンサル(Jonathan E. "Jon" Bernthal)といえば、いまシーズン3を見ている『ウォ−キングデッド』の主要キャラクターのシェーン・ウォルシュの役なのだが、彼の下品極まりない粗野な役が、むせるような男臭をはなっていて目が離せなかった。なのに、彼らが、コリアー曹長には、絶対服従。部下と上司を超えて、深い深い尊敬と畏敬の念を持っている。いやそれすらも越えた、もう家族の愛としか言えないような紐帯を見せる。関係性が色濃く深いので、関係性には様々なものが見える。これを、BL(ボーイズラブ)的に恋人的にとっても十分に当てはまるだろうし、父親と子供としても、兵器の駒と指揮官でも、なんでも当てはまってしまう。それくらい深い紐帯を見るものに感じさせる。そして、たぶんこれくらい深い絆のような信頼がなければ、赤の他人が狂ったような深い信頼を感じるようにならなければ、あのような戦場の地獄で、人を統率し生き抜くことはできないのだろうというのがよく伝わってくる。それだけに、やるせない、苦しい気持ちを観客に与える。


それにしても、グレイディ・“クーンアス”・トラビス役のジョン・バーンサルがよかった。市街戦を制した後、支配した街を制圧する過程で、ノーマン(ローガン・ラーマン)とコリアー(ブラッド・ピット)は民家に押し入るのですが、もうこれって、明らかに生き抜いて漢になったノーマンに筆おろしをさせるために(まじで男社会の家父長!という感じ)、まさにレイプするためにきれいな女性を見つけた部屋に押し入るのですが、でも、元タイピストで間違いで戦闘部隊に配属された気弱なノーマンは、そういうことが気後れででできなくて戸惑っているのですが・・・・正直、この状況下では、既に人権とかそういう話もへったくれでもない極限状況で、女性の方も穏やかで物腰柔らかいノーマンならまだ殺されたりするよりましという感じになって、なかなかいい雰囲気になるんですよ。そういう状況を「家父長」であるコリアーは、ゆったりと見ている。そこに戦車の家族がやってくるんですよ。もう、その下品さ粗野さったらないんですよ。一般市民の女性にしたら、もうたまらないんですが、なんというかいるだけで「当たり前の日常」をぶち壊していくハラハラドキドキ感。いつ怒り狂って銃を撃抜いたり、殴りかかったり、女を襲うかわからないような不穏な雰囲気。ジョン・バーンサルの粗野で野卑な演技は、素晴らしかった。けれども、逆に、力だけで生きて動く軍人や戦士ってこういうものなんだろうな、って既視感というかそういうものがビシバシ伝わってきて。ほんとうに見てていたたまれなかった。この時のドイツ人の女の子エマ役(アリシア・フォン・リットベルク)が、かわいいんですよ、これがまた。とっても可憐な感じのドイツ娘で。もうどう見てもこの市街戦制圧後の占領下の、ゾンビ・アポカリプス状態じゃ、やられちゃうしかないんじゃないかってくらい。でも、ノーマンが優しい感じで、コリアーもいるので、微妙にそうならないような、いや、いつどうなるかわからない、、、ような緊張感が走っている。この日常と非日常が混ざっている緊張は、凄かった。というのは、基本的に、たった24時間ぐらいの出来事なので、ずっと極限の戦闘状態で、日常なんかこれっぽっちもないんですよね。このほんのワンシーンだけ。なのに、日常が入る違和感の方が、激しくて、、、いやはや、凄い雰囲気でした。この時の、ジョン・バーンサルの粗暴な感じは、見事だった。ちなみに、下は、ジョン・バーンサルのインタヴューの抜粋なんだけど、いやはこの育ちがあって、あの雰囲気が出せるんだなと感心しました。いや、あれは地がああじゃないと出せない迫力だよって。

「俺は周囲に怖がられるガキでした。ワシントンD.C.って当時は荒れた街でしてね。俺が11歳の時、18歳の集団に公衆電話ボックスに投げ込まれて、ボコられたことがあって。8年生(日本で言う中学3年生)の俺のツレも襲われたんすけど、野球バットでやりかえしてやりました。そっからはもう、どんどんヤバめヤバめヤバめな感じになっちゃって。当時つるんでた連中はみんな、そうっすね、撃たれたか牢屋にブチこまれたかどっちかですね。俺も何回かブチ込まれてますけど。俺がいた世界は、そういうとこですよ。」

https://oriver.style/cinema/jon-bernthal-real-punisher/

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さて、話を戻すと、このときに、けど、それだけの野獣がいて、ずっとコリアーは、静かに淡々としているんですよね。なにこれ、って。怖いくらい静かなの。自分が本気で一言告げたら、みんながすぐ従うこと、こんな日常は所詮、仮初で、すぐ戦場が次に待っていることを確信しているんだろうと思うんですよ。実際、その通りでした。この時の、やんちゃでわがままな、どうしようもな粗野な男(ジョン・バーンサル)が、物静かなコリアー(ブラッドピット)に犬のように従うんですよ。それをみていると、なんか、キューンと胸がするんですよね、かわいくて。疑似家族の関係から見ると、父親(コリアー)がいるところで、どんなわがままをやっても(レイプされたり殺される周りにはたまったもんじゃないだろうが)それが息子の、小さな男の子のポジションになるからなんですよね。それぞれの男たちは個性はぞろいなのですが、そのカオスが、コリアーの家父長的な疑似家族の構造の中ピタって、ピースがはまっていくのを見るのは、凄いぞくぞく来る感じでした。この脚本、というか人間理解はすごい、と。戦車という狭い人間空間で、マクロ題の戦争を描くこともなく、ドラマを成立しえたのはこの圧縮した人間関係を描き切れてそれを演技で来たという「密度」によると思う。凄い映画でした。


■戦場を生き抜くためだけに課長を引き受ける父親は、男は、父権はどこへ行くのか?

映画としては、物語としては、完成しているので、これで終わり。だがここで一つ問題を提起したい。何も知らなかった無垢な子供が戦争に巻き込まれることで、「戦う目的・理由を突き詰めていき」その果てに、戦う理由を、自分と一緒に戦う占有に疑似家族を求めるという形の着地点は、古今東西の物語でよくみられる類型です。僕らの最も親和的なのは、ファーストガンダムこと『機動戦士ガンダム』ですね。主人公のアムロ・レイが、「ああ、僕にもまだ帰れるところがあるんだ。」と、ララァではなく、ホワイトベースのクルーの元に帰っていくところは、この物語類型の典型的なパターンです。

この場合は、ガンダムでいうと、ブライトさんかな?とか、この疑似家族の中で父親的な役割を引き受けることが何を意味するのか、この果てに何があるのか?という視点でものを見るのは興味深い気がします。この辺は僕もまだ掘っていないのですが、ハーレムメイカー的な女の子に受け入れてもらえるという、母なる自然に抱かれるような「受容」をベースにしたがる日本の物語類型(まぁ地域で切る必要はないかもしれないですがね。)と比較すると、この父権的なものをを強く志向する傾向があると思うんですよね、アメリカやヨーロッパの作品は。


んで、なにがいいたかったかというと。コリアー曹長は、救われたのかな?、彼はどこに行きたかったのかな?って思うんですよ。


戦って戦って戦争マシーンいなって、疑似家族たちを生き残らせようとして、逆に最終の破滅まで導くことになる彼は。物凄くストイックに見えるんですよね。生きていて何が楽しいかわからないような。余裕が全くない感じ。もちろん、極限の戦場に



■圧巻のM4中戦車シャーマンとドイツ軍の重戦車ティーガとの戦闘

さて、誤って配属された新兵の目を通してみる、北アフリカからの歴戦の米軍戦車のM4中戦車シャーマンの戦いが、この映画の基本構造。特に圧巻なのは、ドイツ軍の重戦車ティーガとの戦闘。旧帝国陸軍が、インパール作戦前期で、圧倒的に装甲で勝る大英帝国軍の戦車部隊に散々やった戦術。1体の戦車に4機で囲い込み、後ろに回りこみ、装甲の薄い部分を打つ。しかし、、、ここましないと勝てないほど、ドイツ軍戦車は強かったのか、と感心する。物流で圧倒的に勝り、しかも戦術機動レベルで最上級のレベルを誇らないと、まったく手も足も出ないなんて、、、。このシーンは、本当に見ごたえがあった。強い戦車というのが、どれほどすごいのか!というのが、ものすごく伝わってきました。

圧倒的なリアリティは、もちろん戦争アクション映画としての臨場感に直結する。
戦闘シーンは、市街戦から戦車戦までてんこ盛りだが、特に十字路へと向かう4両のM4戦車が、ドイツ軍のティーガーⅠと対決するシークエンスは圧巻だ。
霧の中から忽然と姿を現すティーガーは、世界でただ一台稼動する個体を、わざわざ博物館から借り出してきたらしいが、ホンモノの持つえもいわれぬオーラは、ボスキャラ感半端ない。
数こそ4対1だが、相手はM4の倍近い、57トンの重戦車。
FURYの76ミリ砲では、ティーガーの分厚い前面装甲を打ち抜くことは出来ず、逆にM4はティーガーの88ミリ砲をまともに喰らえばひとたまりもない。
本作は実話ではないが、デヴィッド・エアーはリサーチにリサーチを重ねて、現実に起こったエピソードを組み合わせて脚本を執筆したという。
実際、M4が自分より強力なティーガーに挑む際には、映画の様に複数で襲い掛かり、相手の背後を取るというのが定番化した戦法だった様だ。

ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-793.html

ちなみに、僕の戦車知識は、野上さんの萌えよ!戦車学校をコツコツ読んでいるところからきております(笑)。というか、笑い話じゃなくて、このシリーズ半端なくいいって。ミリオタになるための初級にして重厚なテキスト。


萌えよ!戦車学校―戦車のすべてを萌え燃えレクチャー!


こういう知識と映画体験を厚く積んでみると、きっとガールズ&パンツァーも何倍も面白く感じるのだろうね。


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