『SSSS.GRIDMAN』Japan 2018 雨宮哲監督 ベジータ問題(罪と罰の応報関係からみる物語構造)-モブをどれだけ殺しても、人がそれを許してしまうのはどうしてなのか?

SSSS.GRIDMAN 第1巻 [Blu-ray]


評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★☆2つ半)


海燕さんのおすすめで、視聴終了。出来は、とてもいい。しかも、これは人気あったんじゃないかな、、、支持されるアニメだと思う。もともとのグリッドマンの設定を、ちゃんと強い意志のもとに統合して料理していて、ある特定のシナリオで料理しなおそうとしたこと、それをポップな方向でなし、実際に成功していることで、これは作品としての出来は素晴らしい。なので、★4。けど、僕としては、たぶん二度と見返さないな、と思うこと、それと、やはり究極的なところで脚本や主人公たちの動機の構造が主軸ではなく、デザインと雰囲気、空気感がスタイリッシュなことに主軸がある作品で、そういう作品は、あまり好きに離れないので、★2つと主観評価はとても低い。まだ言葉が足りないが、ある意味、アカネと六花がかわいいだけ(ではないんだけど、どうしてもそれが残ってしまう)の物語だよね、というのが視聴終了後の感触。でも、もともとの制作陣の意図は完全に成功していて、人に愛されると思うから、悪くはない、悪くはないのですよ、、、、、しかし、、、、

1月の物語三昧(アズキアライアカデミア)ラジオで、詳しく解説しています。今回は、作品単体に集中して、分析できたし、幅広く様々なものに接続できたので、いいラジオでした。僕は約二日間で12話ワンクールを見たんですが、正直、なんというか、最後まで見れたんで、面白かったんだけど、何が面白かったのか、、、それの割には「だけど…」という風に留保というか、まぁもう一度見稼ことはないな的なマイナスもつきまとっていて、どう評価していいかが言葉になっていなかったんですよね。それが、おしえて!LD教授!の質問をしたところ、ドラえもんの四次元ポケット張りに、見事な答えが帰ってきたので、せっかくなので、まとめておきます。ちなみに、いつも書きますが、ネタバレです。


グリッドマンの解説に置けるキーワードというか視点は、二つ。一つは、


(1)新条 アカネちゃんが男だったら誰も救いたいとは思わないだろう、お前ら?問題-結局、人は、物語はかわいいが正義なのか?


(2)ベジータ問題(罪と罰の応報関係からみる物語構造)-モブをどれだけ殺しても、人はそれを許してしまうのはどうしてなのか?


の2つで、この作品を読み解くと、この作品の全体の構造がどうリデザインされているかがわかるという話でした。いやはや、ラジオを聞けばわかるんですが、LDさんは、全くこの作品を見ていないで、ツイッターの情報とかだけなんですよ、、、、それ何にこの見事な分析とか、どういう頭の構造をしているんだろう、とほんと、震撼します。では、メモ的に始めてみます。


そもそも、僕がこのアニメを、あまり自分お好みではないのに見ようと思ったのは、Twitterで新条アカネと宝多六花が、よくイラストでかかれていて、キャラクターがとても愛されている感じがしたんですよね。けれど、どうも脚本構造自体は、ほとんどの人がわかっていない???な感じで、最終話に至っては、とても意味不明で「さっぱりわからなかった」という感じなんですね、ネット民の皆さんの感覚が。要は、脚本が意味不明、と。普通はこの感じだと、ネットやツイッターで、アンチというか批判がいっぱい出る流れなんですが、あんまりみないんですよね。「でも」、尊いじゃないですか、アカネちゃんと六花は、というふうにみんな好意的。これがなぜか知りたかったんですよね。たしかに、アカネちゃんのキャラクターは、とても現代的で、「今っぽくて」かわいいので、愛されるのはわかるけど、なんか、脚本がダメであってさえも、それでも尊い的なこの、ギャップが僕にはよくわからなくて、、、、。で、海燕さんが進めていたこともあって、見てみようと。予算策定の忙しくて追い詰められているのに、思わず。夜の3時まで。。。期末の前に銀英伝を一気読みしてしまう中学生的なノリで。


そしてみてみると、古典的な脚本で、「夢オチ」というか「内面世界に閉じ込められたところからの脱出劇」のセカイ系で一世を風靡した典型的なものでまとめられていて、正直2019年のいまでは、一つ前の流行で、今更それをやるのか、という感じだったんですよね00年代ぐらいの10年のはやりですね。力技でまとめているので、古典的な脚本なので、意味は分かるけど、、、まぁリアルタイムで見ている中高生では、ほとんどわからないかもなぁ、と思ったんです。『灰羽同盟』とか押井守さんの『天使の卵』『うる星やつら ビューティフルドリーマー2』、村上春樹の『1Q84』とかのやつですね。。この系統は、時代感覚がずれていると、説明がとても必要で、もちろん過去の作品を大量に見ている、それなりの年齢のオタクというかアニメファンには、細かい説明しなくても、わかるでしょうが、それは物語としてはあまりに不親切で、積み上げが丁寧ではないと思う。

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なので脚本も、古臭いし、シンプルに描いてはいるけど、これ単体で分かるほどうまく表現でいていないし、、、要は出来が良くないように思えるんですよね。けれども、たしかに、新条アカネと宝多六花を見ても、尊いというのはわかるんですよ。とても現代的に洗練されていて、ポップな感じで、、、いい出来だ、という感じがしています。なんでだろう?というのが僕の疑問は、深まるばかりでした。されにこの大きな疑問に接続されて前話見た後の質問というか疑問は、アカネが、いきなりグリッドマンの「何とかビーム!」を浴びたら、自分の過ちを自覚して、現実に戻ろう!と12話の最後でいきなりなるんですが、この理由が、全然納得いかなかったんです。



教えて!LD教授!!!



LDさんにの解説するところでは、これは1993年の円谷プロの『電光超人グリッドマン』の構造を、どうリデザインしているかという差異の視点で見ると、よく理解できるとのことなんです。


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この作品の新条アカネ/アレクシス・ケリヴのポジションは、藤堂武史/魔王カーンデジファーにあたります。ここで、大きな違いは何かというと、アカネちゃんが、かわいい女の子になっていることです。ようは、藤堂武史は、自己中心的なコンピューターおたくの男で、なんですが、この場合、同じことを、男がしたら、みんな許さないでしょう?、と。でも、かわいい存在だとみんな許せちゃう。このアニメーションの肝は、アカネちゃんを、かわいい女の子にして、「みんなが救いたい!」と思わせたところに、そのポイントがある。そして、それが成功している限り、TRIGGERの企画意図は成功している、というんです。



しかし、このかわいい存在ならみんな救いたいでしょう?許せるでしょう?といったときには、罪と罰の問題が生まれるんです。これを、ベジータ問題と、LDさんは呼んでいます。用語解説(僕の理解なので、LDさんの理解とはずれるかもですが)にですが、ベジータ問題というのは、ドラゴンボールの続編の超(こんなのるんです!知らなかった。息子が盛り上がっていて、初めて知りました)では、フリーザとか何となく仲間っぽく味方になっているんですよ。でも、これ、常に物語の構造的に、問題点が生まれちゃう話なんです。だって、フリーザ、あんなに大殺戮をして、罪もない人を殺しまくったのに、味方になったら、それは許されるの?という話。


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そんなに「人を殺しまくった敵」を味方になったからと言って、許せるんだろうか?問題(笑)。


つまりね、ベジータとか、かつての敵だった奴が、味方になったからと言って、過去に行った殺戮など、許しがたい罪が生産されるかどうか?ということなんですよ。グリッドマンでいえば、アカネちゃんは、明らかに殺人を犯しているわけです。大きく脚本としては、2つのポイントを明確に作っているくらい。一つは、気に食わないからと、存在を抹消してしまった友人(というか知り合い)。もう一つは、実際に、主人公の響裕太くんを、こっちは物理的に刺していますよね。裕太は殺すことはできなかったですが、これは明らかな殺人未遂ですよね。


これ、許されるの?ということです。


物語の中で、ドラマトゥルギーとして、アカネちゃんには、あきらかに、自分が作った世界の中であるとはいえ、「他者を殺害して、その存在を踏みにじっている」これを、許していいの?という問いです。この問題が内在的に、彼女のこういうに付きまとっているのは、脚本が、明らかに物理的に裕太を刺すシーンを作っていることから、間違いないと僕は感じます。



で、ベジータ問題というのは、何を指すかというと、明らかにみんな(受けても、中の登場人物たちも)許しちゃっているね!ということです。



つまり、大量殺戮や殺人が、簡単に許されちゃっている。。。。。これ、「味方になったら許される」というロジックだけではなくて、モブ(=物語の作中で、積み上げがない記号としてのわき役)を何人殺そうが、受けても登場人物も、ほとんど問題ないということなんです。いや、確かに、よくよく考えると、これ、すげぇおかしな話じゃない。論理的にも、倫理的にも、これって、、、、、。でも物語的には、これは事実。


ちなみに、海燕さんの指摘で、このアカネちゃんの他者の殺害の罪を無効化する手法の一つとして、この世界が彼女の内的世界であるという「箱庭世界」的に描写することで、これは現実ではないんだ、と読者に印象付けることによって、罪を無力化するという手法もあるのではないか、という指摘がありました。これは、テクニカル的には、僕もそう思ったので、なるほど、と思いました。罪を薄めるのには役に立つ。でも、、、、内的世界でも、その世界が存在したら、それはもう他者だと思うんですよね。それを、ずたずたに破壊していることが、罪ではないとは思えない。なので、これは、なんというかドラマトゥルギーの展開のパターンとしては、もともとの問題設定(罪と罰)に、正しく呼応して答えていない。箱庭世界は、現実ではないから、人間じゃないので、殺しまくってもいいです、は答えになっていない。人間とは何か?、その人にとっての他者とは何か?という議論を招きますが、でも、アカネちゃんの他者破壊の罪が消えるわけではない。もちろん、箱庭世界とは、すなわち、セラピー、、、、ここではアカネちゃんの精神を救うためだけの目的に設定された世界なので、そのために彼女が、トライ&エラーをするのは、いいじゃないかという考え方もあります。これは、物語自体が、何を目指しているかによって評価が変わってしまうでしょうね。


とはいえ、個別の枝葉ではなく、本論に戻りましょう。ベジータ問題。許されない罪を犯した奴が、味方になったからとか、改心したからと言って、許されるのか?という物語内在のロジック。



これにはっきりと答えた大傑作があります。



これを最もうまく作った作品で思いつくのは、神戸守監督の『エルフェンリート』(2004)です。この作品は、この物語類型を語るときの頂点に立つ見事な物語なので、これから何度も指摘すると思いますので、ぜひとも見ていただけると。これ、本当に素晴らしい作品ですよ。以下、当時の記事で、僕は下記のように書いています。

■人間を人間としてみないこと、そして人を愛することが同時に存在すれば・・・・

物語が始まると、第一話から、人類を殺戮するために生まれた主であるディクロニウスであるルーシィがガンガン人を殺しまくるんですが、そのシーンを見た瞬間に、この物語は「罪と許し」の物語なんだな、と思いました。この「エル・グレコのイエスの手」は、罪が犯される時、ということを指示す有名な象徴ですよね。この作品は、基本的にすべてこの「読み」に沿って解釈するといい作品だと思うんですよね。つまり、人類を殺すために生まれてきた主であるディクロニウスのルーシーには、その種としての本能を持つと同時に、その本能を正当化してしまうような人間の内面の汚さや残酷な差別意識を幼少時に経験するんですよね・・・またその後の人体実験動物としての過酷な生活は、人類を滅ぼす動機を正当化してしまう。けれども同時に、ルーシーは、人の子として生まれて、人を愛したり友達に出会ったりしてしまうんですね・・・。そうすると、彼女は、自分が殺すべきただの「モノ」として人間をみなすのか、それとも自分と同族の共感の対象としてみなすのか、という部分で揺れてしまうんです。そして、彼女が、人間を、いやもう少し狭く言えば、コウタという一人の男の子を好きになってしまえば、彼に受け入れてもらう必要が出てきてしまうんですよ。けど、彼女自身は、凄まじい人間を殺戮し続けており、そしてその中にはコウタの家族も入っているんですよね・・・コウタが彼女を許し受け入れた時が、ルーシーにとっては実は最も過酷で苦しい時なんです。なぜならば、罪が許されるということは、これまでのすべての罪が罪だということで確定してしまい、コウタが許してくれたとしても、彼女自身が、その罪を許せなくなるからです。


言っている意味が分かるでしょうか?
(僕は、文章が冗長で誤字脱字が多すぎる上に、日本語ヘンなので(笑))


この作品は、最初の初手、数分(笑)で、もう既にルーシーが救われること、救済されることは「できない」と構造化しちゃっているんですよね。個人として、人を殺すこと、人間をモノとしてとらえるということは、そういうことを意味します。この手の作品の基本路線は、すべてこうです。つまりは、許されざる罪を抱える時、人はどうあるべきか?というといです。まぁ非常にキリスト教の現在的な発想と親和がある考え方だなーと思うのです。人類の抹殺やハルマゲドン的なものは、どうしてもこの罪と赦しの構造をとりやすいのでしょう。


petronius.hatenablog.com


これは何を言っているかというと、救済はされない、犯した罪のレベルが激しすぎて、救済しようがなくなった構造(=現実)において、最もつらいことは、本人が罪を罪だと認識することだ、といっているのです。


ちなみに、どうしても許されない存在を、許すか許さないか?のキワで揺れ続けた作品で、結局許しちゃうという構造の力学が読み取れる作品で、LDさんは、下記の作品をあげています。



特攻天女 1 (少年チャンピオン・コミックス)





さて、さらにもう一つ前の問題的に戻りましょう。



アカネちゃんは、許されるのですか?と僕が思って、ということです。これ、彼女が、許されるという構造には僕はないと思う。「しかしながら」、自分も含めて、彼女を許して、救いたいと思っている。


なぜか?


答えは、かわいいから。


そのように、脚本は設定されていると僕は思う。


新条 アカネちゃんが男だったら誰も救いたいとは思わないだろう、お前ら?という話です(笑)。というのは再度最初の、LDさんの指摘に戻れば、アカネちゃんは、『電光超人グリッドマン』の藤堂武史/魔王カーンデジファーに当たるんじゃないかな、と考えると、


なぜ、わざわざ、かわいい女の子にキャラクターを変換したの?という意図を考えちゃいますよね。


さて、結論です。僕は、あまり好きになれなかったし、主観評価も低い。けど、このアニメーションは、見事な出来だと評価できると思う。それは、『電光超人グリッドマン』というかこの作品を、アニメーションで作り直すときに、過去の脚本の本質を、どのように料理するか?作り手が吟味して、上記の構造で、人々に支持されるように作り直すという明確な意図をもって作っていて、それが成功しているからだ。もちろん、文学的に、罪と罰の問題、ベジータ問題という「視点で評価」するならば中途半端な作品かもしれないし、僕自身、そこが突き抜けていて、本質に応えていないので、もう一度見る気はない。あまり好きとは言えない。でも、それは、「その視点」からの評価だけにすぎない。そして、『電光超人グリッドマン』の藤堂武史が行った罪のドラマツゥルギーを、内面世界からの脱出を、いいかえれば心のセラピーをめぐる話にして、その場合には、確実に、むさい男だと視聴者に愛されない(笑)ので、愛されるようにキャラクターに魂を吹き込んだこと、、、その魂が、僕が言う形の罪と罰の本質に応えていないとしても、十分に受け手の人に愛されて「救いたい」という気持ちを喚起させた、という点で、この脚本は、完成している。なので、ツイッターで、僕は何となく好意的で、かつたくさんの立花やアカネの尊い絵が描かれていたんだろうと思うのです。


これで、最初に、直感的に僕が思った、なんで、ツイッターに、意味が分からないというのに、好意的な絵がたくさん上がるのだろう?。視聴後が面白かったけれども、何となく釈然としないで、もう一度見る気は起きないのに、アカネちゃんと六花はかわいいなとか素直に思ったのはなぜだろうという、ばらばらで抽象的な疑問に、すべて応えられていると思う。すげぇ、LDさん。


もう少し細かい解説は、ラジオでやっていますので、そちらでー。



物語三昧ラジオ




10.6(土)~スタート!新番組『SSSS.GRIDMAN』放送直前PV!