『アニメタ!』花村ヤソ著 魂を削りながらも憧れに近づいていくことの美しさと残酷さ

アニメタ!(1) (モーニングコミックス)

評価:未評価
(僕的主観:★★★★★5つ)


8月に京都アニメーションの件でなんだか、打ちのめされてしまって、、、、まぁ実際には僕に何の関係もないことなんですが、才能がある人たちの未来が不条理に閉じられたのが、あまりに衝撃だったんだろうと思うのです。不条理は常に、あるので気にしてたら人生生きていけないのでしょうが、あれは、たぶん僕自身がアニメーションが大好きだから、深く心をえぐったんですよね。今やっと、何となく、そのことを考えずにすむようになりましたが、1か月くらいは、なんかいつも頭の片隅にあって、考えるだけで泣けてしんどかったです。あんまり感情が高ぶると、それについて話したりできなくなりますよねぇ。。。

それで、なんとなく思い出して、水島努監督の『SHIROBAKO』を見直したんです。当時、何も考えたくなくて、何か受け身でアニメを見ようと新作をいくつも見たんですが、1話目で「なかなか入れなくかった」んです。いま思うと、やはり感情的にフックがかかりにくくても、受け身でなくて色々「愉しもう」という姿勢を見せなくても、「一気に引き込まれる」というのは、物凄い演出レベルなんだよなぁ、としみじみ思いました。ようは、『SHIROBAKO』は、傑作です、というのが言いたいんです。テーマ性や時代性、自分の感情のフックとか、そういうのに左右されにくい水準を超えていい物語って、要は「残っていく作品」だと思うんですよね。

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で、『SHIROBAKO』を見直している時に、ふと違和感というか、差異感ですかねぇ。そういうのを感じたんです。あれ、アニメーション制作の具体的プロセスをだいぶわかっている前提で物語が見れるな、と。『アニメタ!』もそうですし、僕は見れてなくて悔しいのですが最近だとNHK連続ドラマの『なつぞら』とか、8月に日本に行ったときに高畑勲展を友人と見に行ったりして、なんというか、業界自体に仕事としては特に興味があるわけでもないし、知らないのに、「なんとなく全体のプロセス」がわかぅている感じがあって、これって、こういう物語がたくさん世に出て、「だいたいこんな感じ」というのが共有されているからなんだろうと思うんですね。なので、このテーマは、どんどんいろいろ深堀したり、様々なテーマに展開できて、いやー題材としていいものなんだなーとしみじみしています。


で、花村ヤソさん。僕この『アニメタ!』凄い好きで、何度も何度も読み返しているんですが、なんだろう、『3月のライオン』『青空エール』を思い出したんですね、って、その時の記事を検索したら、下記のこと書いている。なんというかテーマをしつこく追っているんだなー自分、と感心する(笑)。

petronius.hatenablog.com

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ちなみに、あとがきで花村ヤソさんと羽海野チカさんが知り合いというのを見て、ああ、そうだろうな、これだけテイスト(世界観)と似ていると、好ましいだろうなとしみじみ思いました。えっとね、偶然見た『王立少女パンナコッタ』というアニメに憧れて真田幸という主人公の女の子がアニメーターになって行くという話なんですよ。これがね、もう素晴らしくて。周りが見えない夢中、夢の中にいるような「好きなものになりたい!」という盲目的な成長へのあこがれが、とても真摯に胸を打つんですよ。そして、そういう「成長を目指す生き方」「才能によって選別される」過酷さが、これでもか、これでもかと殴りつけられるように描かれる。


これ長月達平さんの『Re:ゼロから始める異世界生活』を最初に見た時に、「こんなものは見ていてつらすぎるんで売れない!面白くない!」という意見ばかり聞いたんですよ、周りに。えっとね、これは少し背景の説明が要る議論なんですが、、、小説家になろうのサイトで、リゼロが連載はじまったのは、2012年です。2013年ぐらいに、僕はこれを絶賛していますが、それはですね、なろうのフォーマットというか、2010年代の大前提が「苦しい自己の告発・成長しなければならい、戦わなければいけない」という鬱展開は全く見たくない、でした。これは、異世界転生というテーマが、「自分が変わらなくても」「異世界(=マクロの環境)が変われば幸せになれる、成長を努力できる」という背景があって、いいかえれば、現実の世界では「自分ではなくて世界の方が変わらなければ」努力しても自分でどうにかできない!という自己責任論に対する痛烈なアンチテーゼでした。なので、べたな形でのビルドゥングスロマン・成長物語は、当たらない、売れないというという言説がメインにありました。これは、アニメやライトノベルを見る層が、自分自身を鍛えるという視点を持てないくらい弱くなっているという議論の裏表でもあったと思います。


2010年代の時代的な文脈が、「努力してもどうにもならない」という先行世代や価値観に対しての痛烈な批判として機能していたこと自体は、おおむね妥当だと思っていました。けど、僕は一貫して、だからと言って王道の成長物語の物語る系が消えたわけでもないし、またその背景としての「成長したいという意欲」自体が中長期的に消えたわけではないと思っていました。という言いまくっていました(笑)。ようはね、文脈的な同時代性って、5-10年ぐらいでどんどん変わって、しかも1周して元に戻る(=同じではない)の繰り返しをえがくので、「努力してもどうにもならない」という文脈は、団塊の世代からそのジュニア(僕の世代ですね)が死に絶えるか、社会での比率が変われば、消えるなと思っていました。若い世代が古い世代に復讐を果たす前に、寿命が来て死んじゃうので(笑)。また、「異世界転生して」いいかえれば「マクロの環境を無理やり変えて」までも、実は、人間というのは、成長したいもの、動機を持ちたいものなんだ、と思うんですよね。それが「社会環境的に捻じ曲げられている」時代の構造に対しての告発であって、1)時代の現実自体が実際に変わってしまえば、2)物語の中での可能性が追及されつくすと、ちゃんと前に進むというか、らせんの円を描いて、「似たようなところへ回帰する(ずれているので同じものではない)」というのを、これだけ長く生きていると何度も見てきたんですよね。


だから、「ほんとうの傑作」であれば、、、、いやこの言い方は違いますね、その物語が「ちゃんとその物語のもつドラマトゥルギーの本質に到達していれば」、同時代性の文脈なんか関係なくて、素晴らしいものになるんですよ。特に、同時代性の文脈は、「同時代性の文脈に依存しすぎる」ので、時代を過ぎ去ると、いまいち、何が言いたいのかわからなくなっていくんですよね。ちなみに「それが悪い」なんて、僕はつゆほども思いません。1)ひとつには、僕らの癒しに、楽しみに、幸せに資することこそが物語じゃないか!と思うので、同時代のテーマを結晶化して描くのは、むしろそれこそ正しい道!だと思います。2)もう一つには、同時代性のテーマを、こまごまと追及していくと、「その物語類型の持つポテンシャル(潜在性)」が様々に展開されて、ある種のパターンや、そのテーマの持つ具体的な展開力が、具体的に示されます。そうすると、「もう一度一周して」「古典的なテーマに戻っても」その展開力が、具体性がけた違いにレベルが上がるのです。ドラクエの的な世界観が、なろうの「異世界転生」や『まおゆう』の「技術による世界のブレイクスルー」など、さまざまなフォーマット連鎖的に生み出して、物語の「原初的な問い」への「答えの可能性を物凄い広さに拡張してきた」ようにです。



話がずれすぎてる(笑)。花村ヤソさんの『アニメタ!』なんですが、2015年連載開始だったはずなので、これ人気なかっただろうな(笑)、と思うんですよ。2017年にツイートで反響なければ打ち切られていた、というのは、そうだろうなーとしみじみ思います。けれども、僕、この「魂を削りながらも憧れに近づいていく」感じって、『三月のライオン』的ななんというか、このテーマの根源に到達している「何か」を感じるんですよね。あ、もうこれ、答えだな、、、「魂を削りながらも憧れに近づいていく」ってことは、物凄く残酷で苦しいし、途中で死屍累々の屍をさらすけど、でも美しいよね、というお話。


成長するには「死ぬ気で頑張る」という条件が常に必要、、、とすると、「実際に死んでしまう!(それは悪いことだ!)」という告発をよく受けるんですよね。僕も、成長しようと思うと、命削らないとできないなぁ、、、確かに「死ぬ気で」というのは、人を殺してしまう可能性があるから、ポリティカルコレクトネス的にもいってはいけないなぁ、、と思っていたんですが、この話をするたびにLDさんより「なんで死んじゃいけないんですか?」と不思議な顔されて聞かれるんですよね。この意味は「死なないように成長する」なんて言う条件をつける必要はないでしょ、という意味。えっと、つまり「成長」と「命を削る」というのは、セットなんだ、という前提がある。そして「命を削る」のが嫌ならば、「成長しなければいい」という話です。命を削らないで、成長しようというような都合のいいことは、成り立たないという認識なんですね。いやなら、成長しないだけ。という身もふたもない話。。。まぁ極論でいるいろな前提条件が付きますが、最近、これ「なるほど」と腑に説いてきたんですよ。身もふたもなく言うと、成長したいなら死ぬ気で踏ん張るしかない。もし死にたくなかったらがんばらないでください。成長はできないけど。という公式。ちなみに、目標に向かって、極限の努力をしていけば、途中で夢破れて死んでしまう確率は、物凄いパーセンテージなので、、、、というか、9割は死んじゃう(笑)ぐらいのイメージですねぇ。だからこそ、尊く、残酷なほど美しい。成長したい人、憧れに到達したい人は、、、、視野狭窄があるんですね。「周りが見えていない」盲目感がある。これは、いつ死んじゃうかわからない、才能がなかったら、そこで「すべてが消え去る」というゼロサムゲームの中に生きている人で、物凄い残酷で怖い世界なんですね。でも、そのかわり世界はキラキラしている。なぜキラキラしているかは、分かってきました。「その他の余計なものを見ていない」から、目的に収斂していてシャープなんですね、空気が。逆に言うと、目標がなかったり、成長していないと、「周りの余計なもの、、、、ここでいうのは可能性」がたくさん見えすぎて、世界が濁るんですよ。身体的にはこっちの方が楽で余裕があるんだけど、心はキラキラ感がない。でも、これって、比例しているんですよね。都合よい、公式はない。美しいけど、残酷というのはそういう意味なんですよ。


これ、成長についての今まで考えてきたこととと、ロジカルに整合すると思うんですよ。日本社会の成長否定の問題点は、ランキングトーナメント方式の「相手に勝つ」「勝ち抜いて、敗者をつぶす」という思考がだめだったいっていたんですよね。それと、終わりが見えないので「強さのインフレ」が起きるので、際限のない自動機械みたいになる。これらの問題に対して、「好きなことをしよう」という答えを出してきたわけです。ようは、「勝つこと」という見返りを求めると、際限がなくなってしまうので、「終わりがなくとも」「報われる確率が低くても」継続できることを、探そうという道筋になったんですね。


でも、、、

スタート地点が遅いところからビルドゥングスロマン(=自己成長を描く物語)の
王道ともいえるエピソードの連発なんだが、、、、ふつうは、もっと、万能感、全能感あふれて描くか、もしくは何らかの才能があるという設定で描くものなんだけれども、この作品には、それが一切ない。はっきりと、スタート地点が遅い人間が、いかにだめなのか、ということをこれでもかっと繰り返し繰り返しつきつけられる。はっきりいって読んでいて、いじめ???これっていじめなの???ってくらい、主人公の女の子にとって苦難しかおこらない(笑)。もちろん、いじめではなく、これは単に、「事実が主張されているだけ」というところが、さらに切なく苦しい。けど、、、


中略


だから落差がある事にぎりぎりまで追求することで発生する「視野狭窄的な修羅場感覚」というのは、物事を成そうとする万人に訪れる苦しみのプロセスなので、すごく共感しやすいものであるということも言えます。



さて、この「落差があることにチャレンジし続ける」というのは、絶え間なくこの「苦しみのプロセス」を一身に浴び続けるという地獄の道を歩むことになります。『青空エール』のつばさが歩んでいる道は、これです。ビルドゥングスルロマン・・・言い換えれば自己実現や自己成長なんて、苦しいだけなんですよ(笑)。だって、自己否定の連続と、現実の厳しさの洗礼を浴び続けることなんだもの。


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青空エール 19 (マーガレットコミックス)


経験と才能の圧倒的な差をひっくり返す方法がるのか?、それがスタート地点の遅い素人集団に可能かどうか?


帯をギュッとね!(1) (少年サンデーコミックス)



とかとか、ビルドゥングスロマン(成長物語)については、いろいろ考えてきたんですが、『アニメタ!』ってまだ話が進んでいないので、「類型に対する答え」が何かあるというわけじゃないんです。終わってみたとこれはわからないでしょうが、、、、



でもね、、ここまで長々ダラダラ書いてきて何なんですが、、、、、そんな「外からの視点」とかどうでもいいくらい、好きなんですよ、この作品(笑)。


真田幸という主人公の女の子が、大好きなの。


ここに出てくるアニメという仕事に情熱をかけている人々が、とても素敵なの。



なぜならば、一生懸命生きているから。



「才能によって選別される」残酷さ、仕事の現実によって打ちのめされる様、たぶんアニメーターの現場って、アニメにかかわる仕事って、、、、どんな仕事でもそうかもしれないけれども、たぶんやりがいだけでは支えられないくらい過酷で残酷で悲惨なんだろうと思うんですよ。ああこれ、新世界系なのかも、、、、いや、そうじゃないな、、、成長を軸とした王道の物語を「普通に際立たせる」には、「現実の厳しさ、過酷さ、残酷さ」を丁寧に描けばいい。普通の現実の世界で生きるというのは、とても大変なことなんだろうと思うのです。ましてやその世界で、何らかの目的や憧れを持ってしまえば、さらに才能による選別など、、、、そもそも生きて到達できる確率なんかほとんどない道を歩まなければなりません。


でも、じゃあ、動機なんて持たなくてもいい、死ぬのは怖いから成長しなくていいといっても、それはあまり意味を持たないと思うのです。だって、人間は、あこがれを持つ生き物だから。人間、と一般化してもいいと思いますが、目的や成長なくして現実の無味乾燥さに耐えられない生き物だと思うのですよ。もちろん、濃淡はあるでしょう。強い目的意識なくても生きられる人もいれば、周りがほとんど見えなくなるような「あこがれだけに駆動されて」生きる人もいるでしょう。


でも、自分が主人公じゃないかどうか、なんてわかりません。えっと、物語の主人公であることが「わかっていれ」ば、それはすなわち、最終的に「成功できる」保証があるようなものです。たいていは。でも、「未来がわからない」「保証がない」というのが現実の本質です。自分がモブのわき役なのか主人公なのか、わかりません。ましてや、いまは物語性を切断する、、、、突然死で、物語の主人公だと思っていたのに、何も報われずにみんな死んでしまうなんて言う物語だって多いです。


そういう、規模しい現実の中で、「それでもなお」「そんなことは関係なし」に、「あこがれに出会ってしまった」ら、幸せなことだろうと思うのです。確率的には、ほとんど討ち死に(笑)して野垂れ死ぬのが普通だとしても。


なんで成長物語が、物語の王道になるかといえば、、、、やっぱり、ほぼ報われずに死ぬのが現実であっても、やっぱり、できれば「あこがれと目的をもって」生きていく方が、人として幸せだろうし、それ以外にどのみち無味簡素な現実を生きる理由って、そんなにないよね。だったら、やっぱり成長を目指していきたいじゃないか、、、というのが、多くの人に支持されるからだろうと思うのです。


富士結衣子という動画マンの話が、僕は胸にくるんですが、、、、世は自分が望む部分で才能がなかったんですよね。でも、それでもあきらめきれない、、、けれども、確実に才能も動機もない、、、自分が望まないところでは生き延びられるし、必要とされもする、、、、というような、なんというか、微妙にシンプルではない状況で、どうやって生きるのが正しいのかよくわからない中で、ギリギリ生きている。でも、、、人生ってそんなもんだよね。


真田幸にしても、なんというか、能力なかったら死んでもかまわない、という感じで試され続けているじゃないでか。あれって、普通に考えたら、ウルトラブラック企業ですよね。あといじめとかんがえてもいい。


でも、そういう残酷な環境で、それでもぎりぎり踏みとどまっている現実を描くわけじゃないですか。


それって、、、そういう人々がおり重なって、世界は編みあがっている。というか、そんな俯瞰した言い方ではなく、なんというか、、、、うーんうまい、シンプルな言葉でまだ言えない。。。でも、野心的な人もいれば、憧れに行動される人も、ひねくれる人も、死んでしまう人も、おかしくなる人も、さまざまなものが折り重なっていて、世界は、物語は進むもので、、、そういうのなんだか、空気をキラキラ光って見せてくれる気がするんですよね。


少なくとも、僕は、『アニメタ!』を読んでいて、そういう気持ちになる。『3月のライオン』も『青空エール』も同じように感じる。


うーん、まだ言葉にならない、、、でも、なんか同じものを感じるんですよ。


まぁ、とにかく、好きってことです。さあ、みんな読もう!(笑)



アニメタ!(3) (モーニングコミックス)