『青空エール』河原和音著 不器用な人が、才能がない人が、普通の人が前に進んでいくこと

青空エール 19 (マーガレットコミックス)


評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)


petronius.hatenablog.com



もうまじめに考えていたのは、2011年ですね。ということは、8年近く前。ずっとと好きでたびたび読み返しては読んでいたのですが、既に2016年で完結していたんですね。気づいていなかった。紙の本で盛っていたのを一度全部整理のために捨ててしまったので、止まっていたようです。ちゃんと貢献すべく、電子書籍で全巻買いなおしました。


昨日全巻を一気に読んだのですが、素晴らしい傑作で、まとまっていて、最初から最後まで「小野つばさという才能もなければ経験もない高校生から吹奏楽を始めた子が、成長していく姿を描く」ことにフォーカスしていて、素晴らしかった。やっぱり大傑作だよなーとしみじみ。また、なんというんだろう、山田君が、素晴らしいですよね。なんというか、とっても二人とも、「じれったい」んですよね。そんなに好きあっているなら、、、というかここまでくるともう愛だよね(笑)、もういいじゃんというのを、「じれったく」ステップを踏む。これ「どんくさい」ともいえるんだろうけれども、こういう風に「丁寧に関係性を深堀」しているからこそ愛に昇華するんだろうなぁ、とみててほんわかしました。ただ、やっぱり、「こんなきれいな恋愛」が正しく進むのは、もちろん、大きくは二人の誠実さなんですが、そこにちょっかい出す邪悪な人が誰もいなかっただけ、という気もするので、僕がもし友人A とかの立場でそばにいたら、もっと前絵に勧めよーーーーと、じれったくいろいろ動きそうだなとかいろいろ思いました。



さて、これ以下は、だいぶマイナスというかネガティヴな話をするんですが、『青空エール』は見事にドラマトゥルギーが本質に届いて完結している作品なので、この作品自体に対して批評ではないんですよ。それに、つばさと山田君たちの人間性や作者の人間理解も、僕は素晴らしいと思うので、、、なんというか、ほんとうは、『青空エール』の話ではないんです。でも、逆に素晴らしすぎて、自分の中の様々なテーマを喚起させたので、メモとして書いている感じです。、、、ちょっといいわけ。




さて、一気に見ると、彼女の行動原理、特に苦しさにぶつかった時のブレイクスルーの方法が、すべて同じ事に気づく。



1)とにかく「才能がなく」ても「あこがれ」を目指して、しつこく執着し続ける


2)嫉妬やいじめには、すべて自分の赤裸々な思いを相手にぶつけることで解決


3)「才能がない」こと、「感情的な問題」には、すべて自分の極限の努力を見せつけることでねじ伏せる


こんな感じ。ええと、先に言っておくと、僕は、つばさの「どんくさいけど、ひたすら目標をぶれずにこだわり抜いて、頑張る」という姿勢は、とても素敵だし、なによりも、報われる最終巻あたりは号泣してつけていました。


しかし、単純に「没入している」だけで、よかった!というだけではなく、もう少し「自分自身の客観性」を入れて見てみたいな、と思ってきました。これは、物語の評価と別の部分で、「僕という個人が見た時にこの類型や翼や山田君をどう思うか?」という日記というかエッセイみたいなもの。なので、評価は、★5で客観的にも、主観的にも最高の傑作です。「そのうえで」あんまり読み返したので、「自分自身」をつけ足したくなって、これを書いています。


僕は、これを見続けているときに、いくつかの作品を強烈に思い出しました。ひとつは、ちばあきおさんの『キャプテン』、『少女ファイト』『アニメタ!』それに、『アオアシ』です。


キャプテン 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)


少女ファイト(1) (イブニングコミックス)


■俺の背中を見続けろという解決法でいいのか?

『キャプテン』を凄く連想したのは、つばさの部活で起きる、極限の努力できる人間への嫉妬、無能な人間への踏みつけ、、、、部活ものではよくある問題ですが、たぶん人間世界の「最もよく起きるどうにもならない」、人生や仲間や、様々なものをぶち壊すきっかけになるもの。これに「どう対処」するかというと、すべて、


1)自分自身の弱さも強さもさらけ出す全裸作戦


2)1)の思いを正当化できるほどの極限の努力


こういう構造で、相手を納得させたり、感情のカタルシスを得ています。分析的に言うと(笑)。小野つばさというキャラクターが、「そういうキャラクター」として嫌味なく感じられるからこそ、このドラマトゥルギーのエピソードに、胸が熱くなります。


が、しかし、僕は何度も同じ方法を行うつばさに、、一気に1日で全巻読み直したがゆえに、違和感を感じました。


これって、あまりにどんくさくないか?


これって、結果的に物語だから成功しているけど、いつもこんなにうまくいかないんじゃないか?


これって、「頑張る」という極限の努力を正当化して、パワハラの温床にならないか?=部活ものとしては、ガチ勢側過ぎて、これだけを称揚できないんじゃないか?


これって、日本のいじめとパワハラを肯定してしまう側に組してしまわないか?



とかとか思ったのです。えっとね、つばさ自身が、苦しみ抜いて歩んだ道筋で、それはドラマとして成り立っているし、丁寧に読むと、気持ちにシンクロして全く違和感はないので、物語としては、完成されていて、そこは批判の余地はないと思うんですよ。


でもね、、、、僕は、何か違和感があって、、、、山田君とつばさちゃん、、、、、あまりに、「愚直すぎないか?」と思うんですよね。


というのは、僕はもっと政治的に動くし、同じ目標を選ぶにしても、もっと立ち回りを考えるだろうし、なによりも、人間としてかなり腐っている先輩方を愚直に、受け入れて、包摂して、すべてに対して真剣に「向き合っていたら」ら、普通は心が壊れて、死んでしまうし、部活もやめてしまうと思うのです。だから、どこかで、線引きはいると思うんです。でも、つばさちゃんは、そんなことを考えられないくらい、猪突猛進です。



正直言ってね、つばさちゃんの魅力は、「そこ」なんです。



「選択肢」とか「得か損」とか「長中期を見通して」みたいな頭の回転が速い真似はできない。だから、「こつこつ積み上げる」そしてその圧倒的な努力を見せつけて、他を制圧する(笑)。でも、これって、あやうい生きかたじゃないかって、思うんですよ。山田君と、支えあえる関係になったけれども、これだけ不器用なもの同士だと、何がきっかけで「マイナスのスパイラル」に入るかわからないと思うんですよ。



正直ね、、、、僕が嫉妬に狂った人間のくず的な先輩とかだったりしたら、「つばさちゃんの人生をめちゃくちゃにする」という方法論を、簡単にいくつも思い浮かべちゃうんですよね。。。。彼女は、それを乗り越える精神力があるので、物理的にできない方法を、いくつも思いついちゃう、、、。世の中には、それくらい心が壊れて、腐った他者というのは、ゴロゴロいます。


そして、「そこまでやられた」ら、山田君とつばさのような愚直なタイプには、対処のしようがない。


・・・・えっとね、、、、どう思ったかというと、「この空間にもし自分がいたら」と思うんですよ。


もしくは、もしつばさが好きになった相手とか、周りにいる友人が、「もっともっと全体を見通す視野を持っていて」かつ「つばさとの関係が深かったら」、、、、きっと違う物語が始まる可能性が高いって。


もっと、もっと、違うルートがあるような気がしてならないんですよ。



やっぱり、僕が持っている世界巻(現実をどうとらえるか)という視点からすると、あまりに「世界に、やり方に、心に余裕がない」感じがしちゃうんですよ。これは、吹奏楽の古豪で、リソースが少なく、才能もないつばさの物語なので、「世界が端的に過酷に残酷」になってしまうのは仕方がないのですが、「世界はもっと、柔らかくややこしい」だろうという思いがあるのです。



■才能がない地点から始めていると、物語は結局のところ大きなところにはいかない


それと、これもつばさの物語は、才能がないところから、成長していくビルドゥングスロマンなので、批判としては、意味がないと思うのです。なので、これは、僕の思い込みというか、僕の世界のとらえ方。


やっぱり、全体を見ると、「小野つばさ」というこの達成したものは何か、といえば、「やる気」を吹奏楽部にもたらしたことに尽きると思うんです。「才能がない」のに、すべてをかけて、戦ったからこそ、他の人たちに感染させることができた。


でも、、、、やっぱりスタート地点が低すぎたこと、本人が「自信がない(指摘されていますね)」がゆえに、全体の目標値の設定が、視野が、狭い。


えっとどういうことかというと、最後まで見て、つばさの技術は、「しょせん普通になった」だけといえるし、彼女の結果を無視して身を捨てて頑張るという「自己検診的な姿勢」というのは、トランペットチームのみで、完結していて、吹奏楽部全部を巻き込んでいるシーンが弱い。



一言でいうと、彼女がもっと「適切な広い視野をもって」、「最初からもう少し最低限の技術と経験があった」ならば、その極限の努力を使って、「もっともっと遠いところまで行けたんじゃないか」と思うんですよね。



これって、しょせん、凡人が部活をやり切って、人生を燃焼させた、という物語にすぎない、、、、と。それはそれで素晴らしいが、物語として何も特別なことは起きていない。



■同じ「極限の努力」を才能と経験と覚悟がある人がやったらどうなるのだろう?


さて、こんなことを思ったのは、「日本の部活もの」って、みんなこれだよな、と批判的に感じたからなんです。


「経験も能力もない主人公」が、「極限の努力できるという能力」で自分と周りを変えていき、命を燃やし尽くして、全国(=日本一)に挑む


スラムダンクでも、キャプテン翼でも、最近のすべての作品でさえも、構造が基本的には、このドラマトゥルギーの再生産。もちろんじわじわ、変っているし、さまざまな類型の答えが成果としてはあるので、単純ではないですが、でも、王道的に、ここにポイントがある。


これ、昭和的な価値観だよな、と思うのです。僕的な言葉でいうと、日本的、もしくは、高度成長期的。何もない凡人が頑張ることに至上の価値を見出す物語。


ここで思い出したのが、『アオアシ』です。


アオアシ(16) (ビッグコミックス)



この作品、いろんな意味で、とんでもない作品だと思っているのですが、ここで指摘したい論点は1つです。



アオアシ』が、「部活もの」と「ジュニアーユース」の構造ちゃんと描いていること。主人公が、ジュニアユースの「選ばれたものたち」の世界で戦うという、ほぼ初めてのスポーツものの設定。



えっと、これサッカーの現実だろうと思うんですよ。「高校の部活でやる」というのと「ユースでプロを目指して選抜された人間のみでやる」というのは、まったく「目指しているものが異なる」ということを。


かくて、『シャカリキ』で曽田将人さんが、自転車競技を描いたとき。それ以降の『昴』なども、すべては天才を描くという物語でした。けれど、「天才を描くと」、感情移入できなくなって読者がついてこれなくなるという問題点から、常に王道は、部活に回帰して、「才能がない主人公」が成長していくという類型になりました。

[まとめ買い] シャカリキ!〔ワイド〕(ビッグコミックスワイド)


この辺りの最前線を見事に矛盾なく描いたという意味で、「部活ものの王道である」にもかかわらず「能力のない主人公が周りを巻き込んで成長する」という作品は、BE BLUEですね。これ、ユースで日本代表に簡単に行けるルートに乗っていた天才少年がたどる道筋が、、、凄いです。僕、読みなおしても毎回号泣します。


BE BLUES!?青になれ?(1) (少年サンデーコミックス)



えっと、『アオアシ』に戻ると、高校サッカーの現実は、「部活」と「ユース」の総当たり戦が公式の構造になっていて、「この違い」というのを、物語でさらっとですが、描かれているんですよね。サッカーをやる「目的が」全然違うの。なので、目指すものが全く違う。人生も、あり方も、人間関係も、すべて違う。


「そのあまりの違いを抱えた多様性」の中で、総当たり戦をするんです。



ぞくぞくします。



でも、世界って、現実って、こういう多様性、、、、「何でもありでわけわからん過ぎる」もんなんだろと思うんですよね。



さっきのつばさの視野の狭さという話は、「白翔という古豪の吹奏楽部が全国優勝する」というのと「才能がない自分が成長する」という古典的な成長物語の日本的なパターンから、スコープが全く抜けていないなぁ、と感じたことなんです。



いや、それは、つばさの『青空エール』のテーマと関係ないから、と言ってしまえば、そのとおりなんで、これは、『青空エール』に対する感想というよりは、僕の「マンガ読み」としての全体からのふと思いついた戯言です。


河合さんの『帯ぎゅ』もそうですが、『シャカリキ』もそう、サッカーもそうですが、「日本の部活の世界」「能力がない地点から始めるだけの戦い」以外の、異なるバトルをしている人が、ルールが、たくさんあるよ、というのを、常に見ていない、、、そういうのが「わかっていてほしい」と常に思うのです。子供たちには。僕は、僕のできる限り自分の子供と部下とか後輩とか、後続の世代の人々に、「僕と同じ低いスタート地点」から頑張ってほしくない。そう思うのでです、、、、もちろん、物事には「才能のあるなし」があるので、情報があっても、才能がなければ、たいていはどうにもならないんですが、、、、、、せめて「視野の広さ」だけは、、、、。と思うのです。なぜならば、「才能があるなし」なんて、最初はほとんどわからいでしょう。それに、「才能があるから」、物事を始めたり継続したりするわけじゃないと思うんですよ。

はしっこアンサンブル(1) (アフタヌーンコミックス)


これなんかの視点は、僕は凄い良かった。工業高校が舞台にされている合唱部の話ですが、「親がそもそも片親」であったり、親がいなかったり、、、普通にサラリーマンをやれてる親なんかほとんどないのが、作中でほぼ全員の前提で話されているんですよね。いいかえれば、「普通?の中産階級のスタート地点にすら立てていない」。もっといいかえれば、ハンデがあるような低いところから、物事を始めなければな他ない設定を組み込んでいるんです。こういう設定にすると、トラウマとかの話になりやすいんだけど、そこは『げんしけん』の作者。その辺をうまく描きつつも、さらっと、世界の「てきとーさ」を、いい感じに描けている。


物語をリードする男の子は、どうしてまだ分かりませんが、合唱は、物凄い知見があるんです。こういうの見ると、「知識は力」だなと思うんです。彼には、もし本気の情熱を使ったら、「どこまで行けるか」の技術的な、世界観の広さが既に、、、、これほど恵まれていない、底辺のスタート地点でも、既にあるんです。彼らが極限の努力をする時には、「最初から合唱の世界のテクニカルな、技術などの最前線を知っ営る」うえで戦略を立てると思うんですよ。「知識がある」というのはそういうこと。


そして、知識を使って考え抜くポイントは常に、「すでに生まれてしまっている絶望的な格差」を、いかに「ひっくりかえすか」です。


さっきのね、、、、『青空エール』の世界にもし自分がいたら、、、と思うのは、つばさのそばに、もっともっと、全体像を教える人が、、、、もっと端的に言ってしまえば、普通の恵まれたサラリーマン家庭なので、もっと協力的であれば、もっと視野が広ければ、、、、もっともっと前に行けたんじゃないか、と思ってしまうんですよね。そうなると、違う物語になってしまうだろうけれども。つばさちゃんぐらいの意欲があれば、モチヴェーションと根性があれば、物凄いところまで行けるんじゃないのか?っておもちゃうんですよ。才能を、ひっくり返す、「からめて」やチート技は、このテキトーで多様な世界には、色々あると思うのです。命をかけるるような根性があれば、「知識を武器の最初から戦略を立てる」ことによって、スタート地点が低くてもゲームに勝てること「考える種」があってもいいのじゃないか。そうんなことを思いました。


また、合唱の世界で、例えば「世界」って何だろう?


glee/グリー シーズン1 <SEASONSコンパクト・ボックス> [DVD]


Gleeみたいなものかな?。これは、アメリカの中で完結している、アメリカの部活ものか、、、、。ほかの国は?歴史は?とかとか、、、、せっかくだから、もっと広く深く、色々や視野が欲しい、と思うのです。



ですです。

『7つの魔剣が支配する』 宇野朴人 えすのサカエ やっぱりサムライ系ヒロインの描写としては、これ以上ないですよねぇ。

七つの魔剣が支配する (電撃文庫)


新刊とコミカライズが出た、うれしい!。


Wikiに、

平坂読は本作のヒロイン、ナナオをサムライ系ヒロインのひとつの到達点と評した


とあるんですが、これうんうんとうなずいてしまいますね。何がって1巻の主人公のオリバーと剣で対峙するシーン。これ、サムライ系ヒロイン(笑)って何なんだよ、と突っ込みたくなりますが、こういう類型厳然とありますよね。その類型が一番輝く時って、「このシーン」ですよね。


「このシーン」とは、『とある飛空士への誓約』で、イリア・クライシュミットと坂上清顕のエピソードをを凄く思い出すんだよね。




何か到達すべき目標に対して「すでに命をささげてしまった」覚悟が定まっている人との関係って、「命を懸けて殺しあう」ってのが、「恋が最も成就する瞬間」になってしまうんだよね(苦笑)。男女関係なしですが、相手が、女の子でヒロインになると、このドラマトゥルギーが動き出してしまう。


男の子が、本当の本当にその女の子を愛していればいるほど、「命を懸けて殺しあう」というライバル関係の最終地点、言い換えれば、どちらかが死ぬ時までいかないと、「その女の子を本当の意味で愛したことにはならない」という、複雑怪奇な構造。


言葉にすると意味不明だけど、ナナオとオリバーが、剣で対峙した時に、このドラマトゥルギーが、一瞬ですべて凝縮されている。


とある飛空士への誓約』は素晴らしく泣ける作品で、このドラマトゥルギーが、イリアと清顕で、ライトノベル7巻分にわたって展開されるんだけど、それが、ほぼ初対面のワンシーンで凝縮されている。


到達点と評されるのは、非常にわかる。まだ1巻の最初なのに(笑)


良い作品です。

とある飛空士への誓約1 ガガガ文庫 とある飛空士への誓約

『アニメタ!』花村ヤソ著 魂を削りながらも憧れに近づいていくことの美しさと残酷さ

アニメタ!(1) (モーニングコミックス)

評価:未評価
(僕的主観:★★★★★5つ)


8月に京都アニメーションの件でなんだか、打ちのめされてしまって、、、、まぁ実際には僕に何の関係もないことなんですが、才能がある人たちの未来が不条理に閉じられたのが、あまりに衝撃だったんだろうと思うのです。不条理は常に、あるので気にしてたら人生生きていけないのでしょうが、あれは、たぶん僕自身がアニメーションが大好きだから、深く心をえぐったんですよね。今やっと、何となく、そのことを考えずにすむようになりましたが、1か月くらいは、なんかいつも頭の片隅にあって、考えるだけで泣けてしんどかったです。あんまり感情が高ぶると、それについて話したりできなくなりますよねぇ。。。

それで、なんとなく思い出して、水島努監督の『SHIROBAKO』を見直したんです。当時、何も考えたくなくて、何か受け身でアニメを見ようと新作をいくつも見たんですが、1話目で「なかなか入れなくかった」んです。いま思うと、やはり感情的にフックがかかりにくくても、受け身でなくて色々「愉しもう」という姿勢を見せなくても、「一気に引き込まれる」というのは、物凄い演出レベルなんだよなぁ、としみじみ思いました。ようは、『SHIROBAKO』は、傑作です、というのが言いたいんです。テーマ性や時代性、自分の感情のフックとか、そういうのに左右されにくい水準を超えていい物語って、要は「残っていく作品」だと思うんですよね。

SHIROBAKO Blu-ray プレミアムBOX vol.1(初回仕様版)

で、『SHIROBAKO』を見直している時に、ふと違和感というか、差異感ですかねぇ。そういうのを感じたんです。あれ、アニメーション制作の具体的プロセスをだいぶわかっている前提で物語が見れるな、と。『アニメタ!』もそうですし、僕は見れてなくて悔しいのですが最近だとNHK連続ドラマの『なつぞら』とか、8月に日本に行ったときに高畑勲展を友人と見に行ったりして、なんというか、業界自体に仕事としては特に興味があるわけでもないし、知らないのに、「なんとなく全体のプロセス」がわかぅている感じがあって、これって、こういう物語がたくさん世に出て、「だいたいこんな感じ」というのが共有されているからなんだろうと思うんですね。なので、このテーマは、どんどんいろいろ深堀したり、様々なテーマに展開できて、いやー題材としていいものなんだなーとしみじみしています。


で、花村ヤソさん。僕この『アニメタ!』凄い好きで、何度も何度も読み返しているんですが、なんだろう、『3月のライオン』『青空エール』を思い出したんですね、って、その時の記事を検索したら、下記のこと書いている。なんというかテーマをしつこく追っているんだなー自分、と感心する(笑)。

petronius.hatenablog.com

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ちなみに、あとがきで花村ヤソさんと羽海野チカさんが知り合いというのを見て、ああ、そうだろうな、これだけテイスト(世界観)と似ていると、好ましいだろうなとしみじみ思いました。えっとね、偶然見た『王立少女パンナコッタ』というアニメに憧れて真田幸という主人公の女の子がアニメーターになって行くという話なんですよ。これがね、もう素晴らしくて。周りが見えない夢中、夢の中にいるような「好きなものになりたい!」という盲目的な成長へのあこがれが、とても真摯に胸を打つんですよ。そして、そういう「成長を目指す生き方」「才能によって選別される」過酷さが、これでもか、これでもかと殴りつけられるように描かれる。


これ長月達平さんの『Re:ゼロから始める異世界生活』を最初に見た時に、「こんなものは見ていてつらすぎるんで売れない!面白くない!」という意見ばかり聞いたんですよ、周りに。えっとね、これは少し背景の説明が要る議論なんですが、、、小説家になろうのサイトで、リゼロが連載はじまったのは、2012年です。2013年ぐらいに、僕はこれを絶賛していますが、それはですね、なろうのフォーマットというか、2010年代の大前提が「苦しい自己の告発・成長しなければならい、戦わなければいけない」という鬱展開は全く見たくない、でした。これは、異世界転生というテーマが、「自分が変わらなくても」「異世界(=マクロの環境)が変われば幸せになれる、成長を努力できる」という背景があって、いいかえれば、現実の世界では「自分ではなくて世界の方が変わらなければ」努力しても自分でどうにかできない!という自己責任論に対する痛烈なアンチテーゼでした。なので、べたな形でのビルドゥングスロマン・成長物語は、当たらない、売れないというという言説がメインにありました。これは、アニメやライトノベルを見る層が、自分自身を鍛えるという視点を持てないくらい弱くなっているという議論の裏表でもあったと思います。


2010年代の時代的な文脈が、「努力してもどうにもならない」という先行世代や価値観に対しての痛烈な批判として機能していたこと自体は、おおむね妥当だと思っていました。けど、僕は一貫して、だからと言って王道の成長物語の物語る系が消えたわけでもないし、またその背景としての「成長したいという意欲」自体が中長期的に消えたわけではないと思っていました。という言いまくっていました(笑)。ようはね、文脈的な同時代性って、5-10年ぐらいでどんどん変わって、しかも1周して元に戻る(=同じではない)の繰り返しをえがくので、「努力してもどうにもならない」という文脈は、団塊の世代からそのジュニア(僕の世代ですね)が死に絶えるか、社会での比率が変われば、消えるなと思っていました。若い世代が古い世代に復讐を果たす前に、寿命が来て死んじゃうので(笑)。また、「異世界転生して」いいかえれば「マクロの環境を無理やり変えて」までも、実は、人間というのは、成長したいもの、動機を持ちたいものなんだ、と思うんですよね。それが「社会環境的に捻じ曲げられている」時代の構造に対しての告発であって、1)時代の現実自体が実際に変わってしまえば、2)物語の中での可能性が追及されつくすと、ちゃんと前に進むというか、らせんの円を描いて、「似たようなところへ回帰する(ずれているので同じものではない)」というのを、これだけ長く生きていると何度も見てきたんですよね。


だから、「ほんとうの傑作」であれば、、、、いやこの言い方は違いますね、その物語が「ちゃんとその物語のもつドラマトゥルギーの本質に到達していれば」、同時代性の文脈なんか関係なくて、素晴らしいものになるんですよ。特に、同時代性の文脈は、「同時代性の文脈に依存しすぎる」ので、時代を過ぎ去ると、いまいち、何が言いたいのかわからなくなっていくんですよね。ちなみに「それが悪い」なんて、僕はつゆほども思いません。1)ひとつには、僕らの癒しに、楽しみに、幸せに資することこそが物語じゃないか!と思うので、同時代のテーマを結晶化して描くのは、むしろそれこそ正しい道!だと思います。2)もう一つには、同時代性のテーマを、こまごまと追及していくと、「その物語類型の持つポテンシャル(潜在性)」が様々に展開されて、ある種のパターンや、そのテーマの持つ具体的な展開力が、具体的に示されます。そうすると、「もう一度一周して」「古典的なテーマに戻っても」その展開力が、具体性がけた違いにレベルが上がるのです。ドラクエの的な世界観が、なろうの「異世界転生」や『まおゆう』の「技術による世界のブレイクスルー」など、さまざまなフォーマット連鎖的に生み出して、物語の「原初的な問い」への「答えの可能性を物凄い広さに拡張してきた」ようにです。



話がずれすぎてる(笑)。花村ヤソさんの『アニメタ!』なんですが、2015年連載開始だったはずなので、これ人気なかっただろうな(笑)、と思うんですよ。2017年にツイートで反響なければ打ち切られていた、というのは、そうだろうなーとしみじみ思います。けれども、僕、この「魂を削りながらも憧れに近づいていく」感じって、『三月のライオン』的ななんというか、このテーマの根源に到達している「何か」を感じるんですよね。あ、もうこれ、答えだな、、、「魂を削りながらも憧れに近づいていく」ってことは、物凄く残酷で苦しいし、途中で死屍累々の屍をさらすけど、でも美しいよね、というお話。


成長するには「死ぬ気で頑張る」という条件が常に必要、、、とすると、「実際に死んでしまう!(それは悪いことだ!)」という告発をよく受けるんですよね。僕も、成長しようと思うと、命削らないとできないなぁ、、、確かに「死ぬ気で」というのは、人を殺してしまう可能性があるから、ポリティカルコレクトネス的にもいってはいけないなぁ、、と思っていたんですが、この話をするたびにLDさんより「なんで死んじゃいけないんですか?」と不思議な顔されて聞かれるんですよね。この意味は「死なないように成長する」なんて言う条件をつける必要はないでしょ、という意味。えっと、つまり「成長」と「命を削る」というのは、セットなんだ、という前提がある。そして「命を削る」のが嫌ならば、「成長しなければいい」という話です。命を削らないで、成長しようというような都合のいいことは、成り立たないという認識なんですね。いやなら、成長しないだけ。という身もふたもない話。。。まぁ極論でいるいろな前提条件が付きますが、最近、これ「なるほど」と腑に説いてきたんですよ。身もふたもなく言うと、成長したいなら死ぬ気で踏ん張るしかない。もし死にたくなかったらがんばらないでください。成長はできないけど。という公式。ちなみに、目標に向かって、極限の努力をしていけば、途中で夢破れて死んでしまう確率は、物凄いパーセンテージなので、、、、というか、9割は死んじゃう(笑)ぐらいのイメージですねぇ。だからこそ、尊く、残酷なほど美しい。成長したい人、憧れに到達したい人は、、、、視野狭窄があるんですね。「周りが見えていない」盲目感がある。これは、いつ死んじゃうかわからない、才能がなかったら、そこで「すべてが消え去る」というゼロサムゲームの中に生きている人で、物凄い残酷で怖い世界なんですね。でも、そのかわり世界はキラキラしている。なぜキラキラしているかは、分かってきました。「その他の余計なものを見ていない」から、目的に収斂していてシャープなんですね、空気が。逆に言うと、目標がなかったり、成長していないと、「周りの余計なもの、、、、ここでいうのは可能性」がたくさん見えすぎて、世界が濁るんですよ。身体的にはこっちの方が楽で余裕があるんだけど、心はキラキラ感がない。でも、これって、比例しているんですよね。都合よい、公式はない。美しいけど、残酷というのはそういう意味なんですよ。


これ、成長についての今まで考えてきたこととと、ロジカルに整合すると思うんですよ。日本社会の成長否定の問題点は、ランキングトーナメント方式の「相手に勝つ」「勝ち抜いて、敗者をつぶす」という思考がだめだったいっていたんですよね。それと、終わりが見えないので「強さのインフレ」が起きるので、際限のない自動機械みたいになる。これらの問題に対して、「好きなことをしよう」という答えを出してきたわけです。ようは、「勝つこと」という見返りを求めると、際限がなくなってしまうので、「終わりがなくとも」「報われる確率が低くても」継続できることを、探そうという道筋になったんですね。


でも、、、

スタート地点が遅いところからビルドゥングスロマン(=自己成長を描く物語)の
王道ともいえるエピソードの連発なんだが、、、、ふつうは、もっと、万能感、全能感あふれて描くか、もしくは何らかの才能があるという設定で描くものなんだけれども、この作品には、それが一切ない。はっきりと、スタート地点が遅い人間が、いかにだめなのか、ということをこれでもかっと繰り返し繰り返しつきつけられる。はっきりいって読んでいて、いじめ???これっていじめなの???ってくらい、主人公の女の子にとって苦難しかおこらない(笑)。もちろん、いじめではなく、これは単に、「事実が主張されているだけ」というところが、さらに切なく苦しい。けど、、、


中略


だから落差がある事にぎりぎりまで追求することで発生する「視野狭窄的な修羅場感覚」というのは、物事を成そうとする万人に訪れる苦しみのプロセスなので、すごく共感しやすいものであるということも言えます。



さて、この「落差があることにチャレンジし続ける」というのは、絶え間なくこの「苦しみのプロセス」を一身に浴び続けるという地獄の道を歩むことになります。『青空エール』のつばさが歩んでいる道は、これです。ビルドゥングスルロマン・・・言い換えれば自己実現や自己成長なんて、苦しいだけなんですよ(笑)。だって、自己否定の連続と、現実の厳しさの洗礼を浴び続けることなんだもの。


petronius.hatenablog.com


青空エール 19 (マーガレットコミックス)


経験と才能の圧倒的な差をひっくり返す方法がるのか?、それがスタート地点の遅い素人集団に可能かどうか?


帯をギュッとね!(1) (少年サンデーコミックス)



とかとか、ビルドゥングスロマン(成長物語)については、いろいろ考えてきたんですが、『アニメタ!』ってまだ話が進んでいないので、「類型に対する答え」が何かあるというわけじゃないんです。終わってみたとこれはわからないでしょうが、、、、



でもね、、ここまで長々ダラダラ書いてきて何なんですが、、、、、そんな「外からの視点」とかどうでもいいくらい、好きなんですよ、この作品(笑)。


真田幸という主人公の女の子が、大好きなの。


ここに出てくるアニメという仕事に情熱をかけている人々が、とても素敵なの。



なぜならば、一生懸命生きているから。



「才能によって選別される」残酷さ、仕事の現実によって打ちのめされる様、たぶんアニメーターの現場って、アニメにかかわる仕事って、、、、どんな仕事でもそうかもしれないけれども、たぶんやりがいだけでは支えられないくらい過酷で残酷で悲惨なんだろうと思うんですよ。ああこれ、新世界系なのかも、、、、いや、そうじゃないな、、、成長を軸とした王道の物語を「普通に際立たせる」には、「現実の厳しさ、過酷さ、残酷さ」を丁寧に描けばいい。普通の現実の世界で生きるというのは、とても大変なことなんだろうと思うのです。ましてやその世界で、何らかの目的や憧れを持ってしまえば、さらに才能による選別など、、、、そもそも生きて到達できる確率なんかほとんどない道を歩まなければなりません。


でも、じゃあ、動機なんて持たなくてもいい、死ぬのは怖いから成長しなくていいといっても、それはあまり意味を持たないと思うのです。だって、人間は、あこがれを持つ生き物だから。人間、と一般化してもいいと思いますが、目的や成長なくして現実の無味乾燥さに耐えられない生き物だと思うのですよ。もちろん、濃淡はあるでしょう。強い目的意識なくても生きられる人もいれば、周りがほとんど見えなくなるような「あこがれだけに駆動されて」生きる人もいるでしょう。


でも、自分が主人公じゃないかどうか、なんてわかりません。えっと、物語の主人公であることが「わかっていれ」ば、それはすなわち、最終的に「成功できる」保証があるようなものです。たいていは。でも、「未来がわからない」「保証がない」というのが現実の本質です。自分がモブのわき役なのか主人公なのか、わかりません。ましてや、いまは物語性を切断する、、、、突然死で、物語の主人公だと思っていたのに、何も報われずにみんな死んでしまうなんて言う物語だって多いです。


そういう、規模しい現実の中で、「それでもなお」「そんなことは関係なし」に、「あこがれに出会ってしまった」ら、幸せなことだろうと思うのです。確率的には、ほとんど討ち死に(笑)して野垂れ死ぬのが普通だとしても。


なんで成長物語が、物語の王道になるかといえば、、、、やっぱり、ほぼ報われずに死ぬのが現実であっても、やっぱり、できれば「あこがれと目的をもって」生きていく方が、人として幸せだろうし、それ以外にどのみち無味簡素な現実を生きる理由って、そんなにないよね。だったら、やっぱり成長を目指していきたいじゃないか、、、というのが、多くの人に支持されるからだろうと思うのです。


富士結衣子という動画マンの話が、僕は胸にくるんですが、、、、世は自分が望む部分で才能がなかったんですよね。でも、それでもあきらめきれない、、、けれども、確実に才能も動機もない、、、自分が望まないところでは生き延びられるし、必要とされもする、、、、というような、なんというか、微妙にシンプルではない状況で、どうやって生きるのが正しいのかよくわからない中で、ギリギリ生きている。でも、、、人生ってそんなもんだよね。


真田幸にしても、なんというか、能力なかったら死んでもかまわない、という感じで試され続けているじゃないでか。あれって、普通に考えたら、ウルトラブラック企業ですよね。あといじめとかんがえてもいい。


でも、そういう残酷な環境で、それでもぎりぎり踏みとどまっている現実を描くわけじゃないですか。


それって、、、そういう人々がおり重なって、世界は編みあがっている。というか、そんな俯瞰した言い方ではなく、なんというか、、、、うーんうまい、シンプルな言葉でまだ言えない。。。でも、野心的な人もいれば、憧れに行動される人も、ひねくれる人も、死んでしまう人も、おかしくなる人も、さまざまなものが折り重なっていて、世界は、物語は進むもので、、、そういうのなんだか、空気をキラキラ光って見せてくれる気がするんですよね。


少なくとも、僕は、『アニメタ!』を読んでいて、そういう気持ちになる。『3月のライオン』も『青空エール』も同じように感じる。


うーん、まだ言葉にならない、、、でも、なんか同じものを感じるんですよ。


まぁ、とにかく、好きってことです。さあ、みんな読もう!(笑)



アニメタ!(3) (モーニングコミックス)

『映画大好きポンポさん』 杉谷 庄吾【人間プラモ】著 肩書が欲しいだけのワナビーを超えて、それそのものを愛すること

映画大好きポンポさん2 (MFC ジーンピクシブシリーズ)

評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

確か哲学さんにおすすめされたもの。結構話題になっている上に、アニメ化するという話なので、知っいる人は知っていると思うのですが、これ、傑作です。映画への愛溢れて、素晴らしい。もともとは、映画紹介のための、よくある小作品という設定だと思えるんですが、作者の力量と物語の力が、どんどん膨らんで大きくなった感じの、めずらしい作品。とりわけ、きれいにビルドゥングスロマン(成長物語)としてまとまっているものよりも、2巻が、僕は好き。★5は、誰が読んでも面白いうえに、何かのプラスアルファがある!という僕的評価で、物語が終わっていないのに、文句なしで5つ出るのは、読んでほしい!という表れなので、ぜひ読んで!。という気持ちです。作者さん、大した才能だぜ!。スピンオフの作品読んで、素晴らしいので、この人、物語を作る才能があるんだろうと思う。


あんまり考察書いていると読みにくいうえに、記事の数書かなくなってしまうので、個人用読書メモみたいな感じで。今日は短く。


2巻が素晴らしい。ジーンくんの、創作の狂気、クリエイターの性を、ガツンと示してくれるところが、たまらない。それに、追い詰められたジーンくんが、創作においてブレイクスルーするさまの具体的な手法、道筋が、胸にグッとくる。彼は、映画が好きなだけのヲタクで、華麗な才能も、天才性もない。けれども、愚直に、「繰り返す」ことだけはできる。そして、富や名声や「監督である」ことよりも、「自分の好きな誇らしいものを捜索する」という情熱が、はっきりと勝っている。美しいな、と思う。なんでこれに感動するかというと、ジーンくんの映画への情熱が、「ワナビー(何かになることだけが目的)」で「ない」ことがはっきり示されているからだと思う。ともすれば、ビルドゥングスロマン(成長物語」というのは、憧れたものに「なれた!」(1巻はまさにそうだよね)というサクセスストーリーを描くので、その人(主人公)が、ワナビーなだけの陳腐なやつなのか、肩書を超えて「それそのものをが好き」なのかが区別がつかなくなってしまう。けど、2巻の話は、それの枠組みをぶっ壊す話なので、えがった。



『映画大好きポンポさん』2巻発売 アニメ映像TVCM 【MFCジーンピクシブシリーズ】


全部いいですよ、買いましょう!。それぞれで紹介されている映画を見直したり、見て見たくなって、うずうずします。


映画大好きフランちゃん NYALLYWOOD STUDIOS SERIES

「こうあるべき」という思い込みが、人を苦しめもするし、成長のきっかけにもなったりする。

鴻上尚史のほがらか人生相談 息苦しい「世間」を楽に生きる処方箋

評価★★★★★5つ:
(僕的主観:★★★★★5つ)

いつも「鴻上尚史のほがらか人生相談~息苦しい『世間』を楽に生きる処方箋」読んでいて、回答への鋭さと人間理解への深さに、グッときます。大好きで読んでいます。こういう一般的な質問に対して答えるのって、凄く難しくて、どうしても当たり障りのないものになってしまうんだよね。質問者の文脈や背景がわからないので。もしくは「自分の文脈」に引きつけすぎていて、質問者意図を無視している「自分の信念の信念の場」になってしまいやすい。こういう回答で鮮やかなのが、出口治明さんなのですが、彼の回答は時々鋭すぎて、質問者に「なぜその質問をしたか?」というメタ的な問いを迫る場合が多いですが、よほどの「考え抜かれた背景」がないと、そういう切り替えしは、相手に嫌われてしまいます。今でも覚えているのですが、「世界中旅行したところで、どこが一番良かったですか?(出口治明さんは、世界中に物凄い旅行をしている)」という定番の質問をしたら、「質問自体が意味をなさない、どういう条件で、誰と行くかという条件がはっきりしないと答えられません。」と、ストレートに切って捨てられました(笑)。これ、適当に言葉を吟味しないで、条件反射で定型文の質問をしている人間に、考える前提を常に問う姿勢なんですよね。でも、これは、出口さんが好々爺としていて、物凄く厳しい人(苦笑)なのに、「きつく全然見えにくい雰囲気」で、かつ彼自身が、その問題について「考えに考え抜いている」からこそ、返せる業で、世人にはなかなかできません。こういう一問一答形式で、これは!と思うのは、岡田斗司夫さんと鴻上尚史が、最近では好きですねー。

では、恋愛は一般的にはどう始まるのでしょうか?

 ぶっちゃけて言うと、恋愛はなかなか始まりません。

 なかなか始まらないから、一目惚れの代表ドラマ、『ロミオとジュリエット』なんてのが、今この瞬間も、(間違いなく)世界中のどこかで上演されているのです。

 もし、街中に一目惚れが溢れていたら、誰も、『ロミオとジュリエット』なんて見ないのです。だって、みんながほいほい一目惚れしていたら、一目惚れは全然、ドラマチックじゃないですからね。

 一目惚れだけじゃないです。テレビや小説、映画、芝居には、激しく燃え上がる、ぶつかり合う、切なく求め合う恋愛が溢れています。それは、そんな恋愛は現実にはとても少ないからです。

 現実の私達は、ドラマのような恋愛にはなかなか出会いません。

 たいていは、だらだらと、ぬるぬると、ちょぼちょぼと、じつに中途半端な恋愛を経験する人の方が圧倒的多数だと思います。

dot.asahi.com

さて、いろいろ思うのですが、ちょうど昨日読んで、いい話だなーと思ったので、感想を。僕、日本で働いていたころ、よく後輩とか部下とか若い人から、「どうすれば結婚できますか?」とか「どうすれば女の子(いい男性)と出会えますか?」というような質問をよく受けました。たぶん、ぼくはおっさんや疲れたサラリーマンにしては「家庭が凄く幸せそう」に見えて、どうしたら、そういう風に幸せになれますか?ということを聞きたいようでした。男女問わず聞かれたので、というか、女性の方に多く聞かれた気がします。特に、僕は共働きですし、奥さんもキャリアを追求しているように見るし、しかも双子とかを育てていて、僕自身も結構ハードに仕事をしていたので、不思議に思われたようなんですよね。ようは、そんなのが、両立するのが不思議に見えたんだろうと思います。まぁ日本的な問いだろうと思います。えっと、問題意識には2つあって、


1)忙しすぎて女の子(男の子)と出会えない、社会人になるとなかなかいい恋愛でに出会えない


2)結婚の決め手と、いろんなものを両立していても夫婦関係が破綻しない秘訣は?


みたいな2つに分かれると思っていました。(2)は、いつも同じ答えです。信頼の貯金残高を増やすしかないです。信頼の貯金残高というのは「ほんとうにやばい時、この人は逃げない、助けてくれる、深い愛情がある」というのを、危機の時や普段から積み重ねておいて、トラブルが起きるとき(長い人生、必ず頻繁に起きます)にぶちぎれてしまわないようにするしかないです。はっきりいって結婚生活とか、子育てとか、人生の危機の連続みたいなもんで、お互いが譲ってカバーして、ボロボロになりながら何とか生き延びる逃げ切るぐらいしか方法はないと思うんですよねー。けど、両者とも、ぎりぎりまで追い詰められると、どっちかが譲らなきゃいけないです、どの道。これをケースバイケースで考えるのは、凄くしんどい。専業主婦でも専業主夫でも、役割を分けてしまうと楽なのは間違いなくて、それをしないなら、物凄く覚悟と根性がいります。まぁそんなマクロ環境だから日本は少子化になるんでしょうけど。でもまぁ、マクロの話を、「今この時の自分たち」のミクロの話とリンクさせてもどうにもなりません。与えられた環境で戦うしかないんです、普通の人は。なので、全力で「この人は信頼できる、本当にやばい時に逃げない」という確信を持ってもらうしかありません。そしてこれは「普段の実績」「過去にやったこと」にリンクします。もちろん、どっちか片方がやってもダメです。両方が、お互いに対して献身的になるしかないです。


とここまでくると、じゃあ「お互いに自己犠牲ができるほど献身的になれるか?」という話になるんですが、これ、僕、実際不可能だと思うんですよ。人生はしんどいことの連続で、すぐ追い詰められて、人生奈落の底に落ちそうになる危機がよくやってきます。僕は、いつも普通の人って、どうやって普段の生活しているんだろうと、不思議な気持ちになります。ただそれなりに普通に生きているだけで、ほとんど死にそうになるくらい夫婦でボロボロになるのに、こんなこと普通の人?というのは、こなせるんだろうかって。僕自分で結構仕事できる人だと思うんですが、そんな僕でも、毎日の作業とか引越の手続きでも何でもいいのですが、ほんとしんどい。疲れてちょっとでも手を抜くと、てきめんに、すべてのことがマイナスにはねかえってきます。はっきりいって、3年もすれば、パートナーとの関係なんて生活になって、キラキラした思い込みや幻想は消えます。なので、ごまかしがきかない「生活のリアル」ばっか押し寄せてきます。共働きの時は、お金でごまかすことがやろうと思えばできますが、、、、これに子供が生まれたりすると、もう破滅です。なんというか、お金でもごまかしきれない、様々なもの押し寄せてくる。こういう時は、お互い精神状態も健康もボロボロなので、、、ついは特に双子の子育てだったので、もうあの頃の数年間は記憶にほとんどありません。苦しすぎて。その期間、睡眠薬が手放せなかったし、もう鬱でおかしくなっちゃって家庭崩壊かな、と、奥さんと二人で、いつももうだめだ、もうだめだ、と嘆いていました。保育園もはいれなくて、ボロボロだったし。。。日本の社会環境は、本当に子育てに向いていません。夜泣き酷かったんですよね、、うちの子供。


まぁ個別事情は置いておいて、その時に支えるのは「相手への愛情」なんだろうと思うんですが、「これ」が、さっきもいったように、3年もすれば消えるもんなんで、、、、あ、えっと、ここでいう愛情というのは、キラキラ感があって、その他のマイナスが掻き消えちゃう恋の幻想のようなものとしていっています。そういうのは、持続させるのが、物凄い難しいです。せめて、そういう「愛情」みたいなものが背景にないと、仕事のパートナーみたいなもんなんで、相手が仕事をしてくれないことにイライラしっぱなしになって、関係がズタボロになるんですよね。これは仕事なので、と割り切るようなことができればそれも解決方法の一つなんですが、、、めちゃうるおいがありません。。。


んで、(1)の質問に戻るんですが、生活の壁や過酷さがあっても、それを超えて「相手に献身的になれるような恋愛」にどう出会えるか?という質問を実はされているんだって思ったんですよね。



ようは、「キラキラ感」が、生活の過酷さを超えても持続する方法は二のか?、そういう「特別な相手」とどう出会えるか?と。



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ここで書いた問題意識ですねー。なつかしい。あっ、やっぱり「ここ」は、ずっと僕の問題意識なんだなーとしみじみ思う。えっと、プラクティカルに言うと、



そんなの偶然であって、ほとんど無理!!!!



というのが、僕の最終的な答えです。もちろん。恋愛の過程や、様々なその人の「他者とのコミュニケーションのスタイル」とかによるので、要因分析はできるし、ある程度、「こういうプロセスを経れば」というような、と考えたんですが、、、でも究極的な答えは、偶然だよな、、、と思うんですよね、、、アラフィフになって思うのは。ただただラッキーだった、としか言いようがない。僕は好きな人と出会えて、破綻もしなくて、ほんと運後良かった、、、と思うだけなんですよね。というのは、再現性がある要素に分解できない感じなんですよねぇ。


たとえば、格言風に言えば、僕が常にモットーとして考えているのは「相手が他人の意見を耳でなく心で聞く人」を選ぶ、というのを肝に銘じています。これの含意は、「人の話を聞いたときに、聞くだけで終わらずに、常に行動を変化させる」人という意味です。ちなみに、僕は人生でこういう人は、凄く少ないんだと思っています。体験的に。またこれがとても再現性がない。というか一般化できない。というのは、僕は奥さんに対しては、比較的「耳でなく心で聞く人」だと思うのですが、その他の人には、全く聞く耳もちません。なので、「どうしてその人だけにそうなるか」が、よくわからない。「そういう人に偶然出会った」としか言いようがない。それと、僕は、たぶん男女関係の夫婦の理想として「対等であること、、、相手が尊敬できること」というのが、物凄く重要な人みたいなんですよね。僕が妻にいつも思うのは「なんて尊敬できる女なんだ」という打ちのめされ感がいつもあります。これ、恋の「キラキラ感」とほぼニアリーイコールなんですが、ほとんど幻想だと思うんですよね。結局のところ、何らかの「錯誤」が大本の土台にあって、それがなぜだか「消えない」という事実性があるだけな感じがするんですよ。なんかこういうのって、アドバイスにならないと思うんですよね。


えっと、長々書いているけど、要は何が言いたいかっていうと、「うまく自分の心にキラキラ感みたいな錯誤を継続してもてる」相手に出会うための方は、ないな、ということなんです。偶然、かな、と。身もふたもないけど。


なので、(1)のどうすれば幸せな結婚継続できるような相手と出会えますか?という質問に対して、僕の答えは「わからない」「偶然です」になってしまうんです。



唯一できるアドバイスというと、「偶然の確率を上げる」ことくらいかな、と。



んで、やっと、鴻上尚史さんのアドバイスに戻るんですが、これって、そもそも「恋愛ができる」というのは、「ありえないくらい珍しいこと」であって、それに期待しすぎると、何もできなくなって人生終わっちゃうよ、と言っているんだと思うんですよね。これ、めちゃ納得。

でも、「交際の始まりには、まず、しっかりとした恋愛感情があるはずだ」と思っていると、間違いなく、何も始まりません。

 最初に、そんな強烈な、迷いのない、くっきりとした恋愛感情がある場合は、ものすごく稀です。森永のチョコボールを買ったら、3箱連続で金のエンゼルが出たぐらい稀です。ね、どれぐらいめったにないか分かるでしょう?

 じゃあ、みんな、なぜ交際を始めているのかというと、男性の場合は、つきあいを始める90%の理由は、性欲です。(わははははっ。言っちまったい)

 驚きましたか? 呆れた? でも、よし子さん、嘘だと思ったら、周りの男性に聞いてみて下さい。正直な男性はこっそりと、または開き直って認めるでしょう。

「なんとなく好きだけど、それより、とにかく、エッチしたいんだよね」が、交際をスタートさせる動機の90%です。残りの10%は、「勢い」と「手料理が食いたい」と「その他(人に言えない)」です。

 女性の場合は、僕の観察だと、「淋しさ」と「見栄」で90%です。

「好きというより、独りが淋しくてたまらないから交際を始める」というのと、「周りのみんなが交際していて、自分は独りでみじめに思われたくないから、または、周りに自慢したいから、そんなに好きじゃないけど交際を始める」です。

 残りの10%は、「将来性」とか「冒険心」「その他(人に言えない)」とか、人によって色々でしょう。

 でね、僕は「性欲」とか「淋しさ」「見栄」が交際を始める動機で全然、良いと思っているのです。


目からウロコ!「恋愛をしたことがない」25歳女性に鴻上尚史が勧める恋愛の始め方 (1/6) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

これとかもめちゃくちゃ納得の「実際的なアドバイス」だと思うんですよね。ようはね、人生を縛るのって、「こうあるべき」という思い込みと、それに対する落差だよなって思うんですよね。実際、社会が役割をかなりかっちり決めていた20年ぐらい前までは、一度しかトライできない失敗できないものみたいな感じで結婚が想定されていたので、理想に対する思い込みを強く持って、その目的に邁進するみたいな行動は、まぁ一般的だったと思うんですよ。でも、社会が寛容度を増している(と少なくとも僕は思う)現代日本社会で、あまり「こうあるべき」という期待値が高いと、人生を踏み出せなくなって、失敗しやすくなっていると思うん。えっとね「偶然の確率を上げる」というのは、ようは、あまり期待せず、いろいろ動いてみたほうがいいよぅて話になるんですよね。


えっと、長々書いてて、何か書いているんだって感じですが、(1)のどうすれば幸せな結婚継続できるような相手と出会えますか?という質問に対して、いや、そもそも「恋愛」なんて出来るのはめずらしくて、特異なことなんで、あまり思いつめないほうがいいよ、と思っていたのが、言葉にしてくれたからなんですよね。さすが、鴻上さん。いまの時代だめならさっさと離婚すればいいいし、1回目より2回目の方が人生うまくいっている人は、なんだか周りに増えてきた感じがするんですよね。たぶん「自分のことがよくわかる」ようになるからだと思うんですよね。他人とガチで生活をシェアするから。実際、晩婚でも、幸せそうにしている人たくさん見るようになったし、、、、なんだか、20-30年前よりも、ぐっと社会がリベラルの度合いを増したと思うんですよね。えっとリベラルになったというのをどういう意味で使っているかというと、「なんでもあり(笑)」になってきた、ということ。


とすると、実際的なアドバイスとしては、まずもって「相手がいなくても充実できるように好きなものを探し育てよう」ということと「それを支えられるだけの経済力をぎりぎり(沢山は無理(笑)もてるように努力しよう」ということになる。ようは、長い人生偶然を期待して生きると、何があるかわからない。唯一できることは、自分の人生が過酷なことがあっても、失敗しても、何とか生き延びれるだけの「自分一人でコントロールできる変数」をなるべく、育てようということ。


とはいえ、「こうあるべき」という思い込みが、成長のきっかけにもなったりするので、まぁ、それ自体は、それでいいんでないの、とも思うようになりました。アラフィフのおっさんが、行き着いたところは、ここだなーと。いや、なんかずっと、若い人に切実に「どうすれば結婚できますか?」とガチ相談されて、いつもなんて答えればいいか、よくわからなくて、、、。鴻上さんの説明に仕方は、納得性が高くてプラクティカルで、めちゃくちゃいいな!と思ったのでした。



あっと、これすべて現代の日本社会を念頭に置いているんですが、20-30年ぐらい先をいっているアメリカ社会を念頭に置くと、「愛情によって核家族を維持する」という考え方は、僕の感覚では、次のようになっている感じがします。


「個人間の愛(恋のキラキラ)を大事にする」ので、それが「なくなった」とか「思い違いであった」ということが分かった瞬間、離婚します。もしくは、そもそも対等のパートナーで「法的に結婚しないで」、愛がなくなれば離れます。


こういうと、だから離婚率が上がるんだ!、家族が壊れている!と短絡的に反応する人は、アメリカでもたくさんの保守的な政治家が言いますが、実際のところ、社会的にリベラルになっている状態だと、「夫婦がすぐ離婚する」割に「すぐ結婚というか、家庭をつくる」ケースが容易に思えます。えっとね、ようは、離婚率も高いけど、再婚率も高いって感じがするんですよ。この辺は、ちゃんと数字を探してみたいなーと思うし、僕が住んでいるカリフォルニアは、めちゃリベラルなので、その差異もみないといけないんだけど、、、えっとね、こちらで家族ぐるみで付き合うと、「連れ子同士の再婚」の組み合わせが多すぎて、なんというか、「愛がなくなったら離婚して当然でしょ」という感覚と「でも愛があったら何回結婚してもいいし」「それを阻む社会的な「こうあるべし」」というのがほとんどない、感じがするんですよね。実にあっけらかんと、そのあたりの話を、みんなする。もちろん、家族が壊れたり、新しくできたりする「流動性の高さ」は、本人にも子供にも、プレッシャーがあって、そういう負の問題は、日本よりも激しくあるのが隠れているんですが、、、、


ここで言いたいのは、アメリカの社会に生きていると「愛があるかどうか」について、その都度判断して、「なくなればわかれればいい」し、「あると思ったらすぐ再婚でも連れ子がいても何でも、すればいい」という前提がある気がするんですよね。リベラルさが進むと、こういう社会になる感じ。


日本は、「最初の結婚に失敗する」と、「二度と再婚できない」とか「子供が不幸になる」とかいうプレッシャーがかかっていた(今、2019年はそうでもないと僕は思う)ので、それによる「ずっと我慢しなければいけない」という負の側面があるので、どっちが社会的に正しいかというのは、なんともいえないのですが、、、少なくとも、「個人の幸せ(=愛を感じるかどうか)」をベースにするならば、家族の流動性の高さに向かうのは、ごく当たり前の流れだと思うのですよ。


そして、「一回目の核家族の結合」つまりは、「最初の恋のキラキラが生涯二度と変わらない永遠の愛になるという前提」は、はっきりいって、無理がありすぎて、どうなんだろうというのが、上記の僕の思考の流れなので、やっぱり、「離婚も容易だけど再婚も容易」という社会の方が、「確率を上げるしか方法がない」という前提に立てば、正しいと思うのです。もちろんのこと、結婚とかに全く興味がないという層や、ゲイやレズビアン同士のカップルで、子供を持つ持たない(まわりでは養子は普通にあるように僕は思う)も、選択自由にすれば、問題ないじゃないかという気がします。ちなみに、社会の再生産、成長を正しいと仮定して、こうした選択自由度の高さと、家庭の流動性の高さを前提としても、出生率って、あまり影響しないんじゃないの、と僕は思います。フランスやアメリカ見てると、そう思う。えっと、要は離婚を道徳的に認める?と、出張率が下がるんだ、とか核家族が壊れるんだという意見は、僕はあまりリーズナブルじゃないなーと思うんですよ。あんまり道徳とか、人々の選択の自由をあげたところで、負の相関がないんじゃないかなと思うん。もっと、即物的な、お金や保育環境や女性の権利の問題のような気がする。この辺は、やっぱりもっとフランスのケースを勉強してみたいなーと思う。


とはいえ、やっぱり「個人の選択肢の自由度をあげる」という大前提を覆すほどの問題は、全体ではないと感じるのがアメリカで暮らしていて思うこと。離婚は増えたけど、再婚も増えている。同性同士が子供を持つケースもよく見かける。移民の増加という先進国の中の特殊事情はあるにせよ、別に家族が壊れているという風には全然感じない。「家族の絆の形」というのは、少しづつ移り変わっているけれども、親密圏を維持したいという社会的な再生産は、継続していると思う。つまり「家族の絆」の中身の微妙な変化は、社会の再生産には、あまり影響を与えないと思う。。。まぁ、この辺は、データで見ていないので、個人の感触にすぎないけどね。


まぁ、とかとかでした。