『モーリタニアン 黒塗りの記録(The Mauritanian)』2021 ケヴィン・マクドナルド(Kevin Macdonald)監督 国家による拘束というものの怖さ

評価:★★★★★星5.0
(僕的主観:★★★★星5.0つ)

9.11の首謀者の一人とされ、司法手続きもなく自国から連れ去られ、キューバグァンタナモのキャンプに長期間抑留されたモーリタニア人、モハメドゥ・オールド・サラヒの実話。彼は、2001年の11月に、モーリタニアの自宅からアメリカに連れ去られ、そのまま長期間拘束される。この物語は、3年以上過ぎた2005年に、弁護士が彼を触法しようと試みる場面が物語の始まり。そして、ブッシュ政権は、たとえ証拠があろうとなかろうと、スケープゴートの見せしめで何がなんでも彼を処刑しようとあらん限りの行動に出る。このジョディ・フォスター演じる弁護士のナンシー・ホランダーと政府のベネディクト・カンバーバッチ海兵隊検事のスチュアート・カウチ中佐の戦いがこの映画の主軸となる物語。2010年3月、モハメドゥ・オールド・サラヒは勝訴のするも、政府が控訴したため、実際に釈放されたのは2016年。彼は実に14年間起訴されることなく収容されていました。

司法がギリギリで踏み止まった一方で、怒れる民心に迎合し、政治的に利用したブッシュ政権はもちろん、その後も違法状態を正さなかったオバマ政権も同様の責任がある。
アメリカの大統領は、なぜ弁護士出身者が多いのか、なぜ三権分立と法の支配が民主社会を維持する上で非常に重要なのか、この映画を観ると理解できる。

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アメリカ映画の面白いところは、直前の時代を映画化して政治的にも落ち着いていないものでも未解決なものでも平気で俎上に載せてくるところだ。なので、こうして丁寧にアメリカ映画を追っていると、アメリカの近現代史が映画を通してわかるようになってくる。グァンタナモ基地は、1903年以来アメリカが租借しているキューバの土地なのだが、ここで911の容疑者が集められ、ブッシュ政権ラムズフェルド国防長官によって”特殊尋問”という名の拷問がなされていたことは、明らかになっている。自分も、アメリカに住んでいたときに、連日このグァンタナモ基地の話がNBCやCNNで放送されたのを覚えています。

この映画で思うことは、アメリカというのは凄い国だ、と実感します。一つは、あれだけの熱狂的なスケープゴートを要求するような熱狂の時期の行き過ぎた政府の動きを、こうしてその渦中に、声をあげてただそうとする弁護士や人々がいて、実際にそれが動き出し、世の中で大きく報道されること。そしてこれもまた念を押したいのだから、これほど正義がちゃんと動く社会で「あったとしても」、権力の野蛮さは、普通の国よりもさらに激しく行使される。こうして911の時代のブッシュ政権の映画を見ていると、正直言って、トランプ政権などよりよほどめちゃくちゃで、害しかないような物凄い暴走をしている。まさに権力が暴走するとどこまでいくかわからないという典型的な例であり、それが世界最強のアメリカ軍や政府の暴力の行使をもなうので、それはもうとんでもない。アメリカの凄さというのは、揺れ動く振り子のように、極端なものと極端なものが常にバランスをとりあって、振り子のように行ったり来たりしている(均衡していない)ことであり、このほど曲単位どちら側にも暴走するにもかかわらず、国が壊れないところにあると、しみじみ感じる。


一体なんの物語として見ればいいのか?という軸をいうのならば、僕は「人身保護法(ヘイビアスコーパス)」の話なんだろうと思う。日本国憲法でいえば第34条。


国家という権力が、個人を不当に拘束することの、怖さについて。読んでいて思ったのは、KAKERUさんの『ふかふかダンジョン攻略記〜俺の異世界転生冒険譚〜』「弓王(きゅうおう)」ボーゲンのエピソード。彼は、いかなる権力にも屈しない、真の意味での独立をしている人なのだが、それがどのように保障されているかというと、彼の個人的武力が、逮捕しようとする国家権力の数人、数十人程度の暴力を、実力でねじ伏せることができること、森の中でサバイバルして生きていけばいいので、特に社会を必要としないことが描かれるのだけれども、これって逆もまた言えることだよなと思いました。人間というのは、ほんの数人の警察力で無力化されてしまうし、社会とつながらないと一人では生きていけない(食べていけなくなる)ので、国家というのは圧倒的な支配力拘束力を持っているわけです。これを、なんの制限もなく行使されれたら個人なんかひとたまりもないわけです。


この国家の暴力に対して、どのように制限を加えるべきか?の使命感が、どれだけ社会に深く根強く在るかが、自由な社会を継続させる大きな条件なんでしょう。


ベネディクト・カンバーバッチ海兵隊検事のスチュアート・カウチ中佐の悩みがわかりやすい例で、911で親友を殺されている彼は、人一倍、911のテロを憎み、その犯罪者を許せなく思っています。しかしながら、証拠もなしに(かと言ってテロの容疑が完全いはれたかどうかなんかわからない)不当に拘束することは、法律にたずさわるものとして、そして、「良きアメリカ人」としてあってはならないという原理原則に苦しむのです。ジョディ・フォスター演じる弁護士のナンシー・ホランダーも同じです。この911への復讐に燃える社会の「燃えあがる復讐心の熱狂の渦」の中で、当然おように友人や同僚や、アメリカ社会から憎まれ排斥されます。それでもなお、法にたずさわるものとしての使命感が彼らを動かすわけです。



とはいえ、この映画、普通の日本人にとっては、遠い世界の話のように感じる。


でも、違うんですね。こぅかと自由の問題、法の問題を考えるときに、ここから関係ない世界はありえません。僕がふと思ったのは、川和田恵真監督の『マイスモールランド』です。

ここに描かれていることは、対テロ戦争下のアメリカという、一見特殊な状況で起こった事件のように思えるが、例えば日本の入管施設にも、司法手続きが行われないまま、非人道的な状況で長期間収容されている人たちがいる。
個人が心身の自由を奪われるのだから、普通の刑事事件なら当然裁判所の令状が必要になるが、なぜか入管の収容では不要とされているのだ。
仮放免の申請を許可する、許可しないの裁量権も入管にあり、未来の見えない状況は、収容者に多大な肉体的、精神的なストレスを与える。
今年3月に、名古屋入管でスリランカ人女性が死亡した事件は記憶に新しく、過去にも自殺者や、ハンストの末の餓死者も出ている。
本作にも長期の抑留に耐えかねて自殺する、マルセイユという男のエピソードが出てくるが、入管の収容者にしてみれば、同じ心境だろう。
現在の日本の入管制度は、明らかな法の欠陥がある。
入管の問題には個人的にもちょっと関わったことがあり、彼らがいかに不誠実な組織か思い知らされた。
ハメドゥやマルセイユに起こったことは、単なる対岸の火事ではないこと。
この日本にも、早急に正すべき制度があることは、しっかりと認識しておきたい。


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マイスモールランド 2022 川和田恵真監督

2023-05034【物語三昧 :Vol183】『マイスモールランド』2022 川和田恵真監督 日本映画から難民問題のこのような映画がみれるとは思わなかった!嵐莉菜さんの演技が素晴らしい!190 - YouTube

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この話は全く同じものだと思うのです。是非とも両方見てもらえると、この国家による拘束というものの怖さがよくわかると思います。

『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』2022年 マリア・シュラーダー監督 『大統領の陰謀』のような調査報道ものの系譜に連なる傑作

評価:★★★★★星5.0
(僕的主観:★★★★星5.0つ)

久々の文句なしの星5つ、文句なしの傑作。最後まで引き摺り込むドラマチックなサスペンスで面白い。そして深い。脚本が、ドラマチックになっていて見事。なのに、報道ってこんなに淡々と事実確認する大変な仕事なんだって、地道さが主軸という、本当に見事な映画。アメリカの報道メディアもの映画の類型としても、その最前線であり傑作に名を連ねるのにふさわしい。『大統領の陰謀(1976)』『ペンタゴン・ペーパーズ最高機密文書(2017)』が面白かった人は、絶対見るべし。


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ポイントは、性犯罪の加害者がシステムによって守られる仕組みがあること、「それ自体」まで踏み込まないと、これを正せない、その「構造」を映画では体験させてくれる。また、この大きなブレイクがあって、次々に女性が沈黙を破って、世界的に#MeTooの嵐が巻き起こるきっかけになった事件でもあります。


20年以上ハリウッドの帝王として君臨したミラマックス(知らない人はいないでしょう!映画好きなら!)ハーヴェイ・ワインスタインの性犯罪を世の中に明るみに出したもので、日本で言うと、現在のジャニー喜多川性的虐待事件をとても連想させる。2023年のBBCのドキュメンタリー番組「Predator: The Secret Scandal of J-Pop」で表に出てきたけれども、イギリスの国民的人気司会者の「伝説の男」ジミー・サヴィルの性的虐待を、ずっと黙認していた構造はそっくり。Netflixのドキュメンタリー『ジミー・サビル:人気司会者の別の顔』がおすすめ。イギリス、日本は、加害者が死去するまでに報道に踏み切れなかった。けれども、少女への性的暴行を繰り返し、売春を斡旋していたジェフリー・エプスタインにしても、ワインスタインにしても生きているうちに告発され、名誉を奪われ、収監されている。この生きているうちに、言い換えれば権力がまだ絶頂にあり、力がある時に、問題に切り込み戦い抜き、そして社会を変えると言う意味では、さすがアメリカと思う。これは、今の時代の「大きな変化」に関わる重要なポイントであり、見るべき、追うべき価値がある話題だと思う。陰惨で、しんどい話だが、権力は放置するとこうなると言うこと、そして一度できた権力は、どんな酷いことでも平気で行い、守られてしまうことを実感できる。ぜひとも、トランプ政権誕生から、現代の2020年代までつながるミソジニーとマッチョイズムの反動と興隆にシンクロして、この報道やMetoo運動が行われていく時代のコモンセンスが変わっていく大きな波みたいなものも感じたい。


🔳見事のバディもの〜大統領の陰謀の系譜

調査報道 (Investigative Reporting) モノは、ハリウッドが大得意な題材。かつ、素晴らしい映画が多い。この類型の元祖は、ウォーターゲート事件を調査したワシントン・ポストの二人のジャーナリストの手記を元にした『大統領の陰謀』1976(All the President's Men)です。カール・バーンスタインボブ・ウッドワードという伝説の記者の『大統領の陰謀 ニクソンを追いつめた300日』が原作の映画ですね。ここで、名俳優のダスティン・ホフマンロバート・レッドフォードの組み合わせのバディものとしても素晴らしいのですが、この類型には、バディものが合うのかもしれませんね。二人のやりとりと成長、励ましを軸にしながら、金箔のサスペンスを進めていくと、脚本がテンポよく進むのかもしれません。このあたりの、調査報道 の分厚いアメリカの歴史を知ると、この手の類型の話はきっともっと深く楽しめるはず。スピルバーグ監督の『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』2017(The Post)もこの系統ですね。この二つとも題材は、ジョン・F・ケネディリンドン・B・ジョンソンの両大統領によってベトナム戦争が泥沼化した時代背景の作品ですね。僕の中で、この辺りのイメージの結晶は、子供の頃に見た吉田秋生さんの『BANANA FISH』で、主人公のアッシュ・リンクスが、


ウォーターゲートは過去の話だ


っていうシーンが、当時めちゃくちゃかっこよくて。これは、調査報道によって、時の政権がひっくり返ったように国家レベルの力に普通の市民が抗うことは無理だという意味なんですが、この辺りのセリフも、背景も意味も知らなくてもかっこいいのだから、わかるとその重さがさらに楽しくなります。ちなみに、ウォーターゲート事件のFBIからの視点を描いたリーアム・ニーソン主演の『ザ・シークレットマン』2017は、政権側の情報をリークしたマーク・フェルトディープ・スロート)を主人公として描いていて、面白いですよ。アメリカの面白いのは、こうした近現代史が、本当に時をそれほど置かずに、どんどん映画化されたりしていくところ。『スポットライト 世紀のスクープ』2015(Spotlight)で、『ボストン・グローブ』紙が、カトリック司祭による性的虐待事件を告発したものなんかも有名ですね。ちょっと系統は違うけど、ジュリア・ロバーツが主演した『エリン・ブロコビッチ』2000(Erin Brockovich)なんかも思い出しました。これは環境汚染を調べ上げて企業を告発して、環境汚染に対する史上最高額の和解金を勝ち取った話ですね。市民が、国家や企業などの「大きな存在」に立ち向かうって権利をもぎとるというのは、アメリカの自由に関わるテーマなのかもしれませんね。こういうの描かせると、本当にアメリカは面白いものをたくさん作ります。


さて、これらの調査報道もの系統の作品が面白かった人は、ぜひとも『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』も見たいところです。この映画も、女性記者二人のバディものですね。ミーガン・トゥーイー(Megan Twohey)をキャリー・マリガン、ジョディ・カンター(Jodi Kantor)をゾーイ・カザンが演じます。この二人が等身大でまたいいのです。というのは、ある意味、ウォーターゲート事件記者も、ワシントンポストの社主も、いってみれば、社会の公益に対する使命感を持つジャーナリストであったけれども、この二人が戦い抜く理由が、やはり家族と子供の存在によっているところが、やはり今の時代の等身大がより解像度が高くなっている気がしました。二人とも、既婚者で、幼い子供を持ちながら、これだけの激しい仕事をしているのが伝わってくる。これだけ陰惨な女性のレイプの話の電話が、子供達と遊んでいる時にいきなり電話にかかってくる。疲れ切って寝ているベットの中で、夜中にいきなり電話がかかる。自分も共働きで人生生きてきているので、子供が生まれたばかりの家庭の殺伐としたしんどさはとてもシンクロした。そしてそのしんどさの中で、これだけの巨大な仕事を成し遂げていく二人が、精神的に参らないはずがない。こう言う生活の中に生きている人にとって、「社会の公益への使命感」と言うのは段々薄れていくものなんですよね。じゃあ、何が彼女たちを支えたのか、と言う点で、「次世代の自分の子供達に、こんな社会で生きて欲しくない」というモチベーションが、じわりじわりと伝わってくる。これは、本当に脚本がうまい。

最初に書いたのですが、ミソジニーとマッチョイズムの反動がトランプ政権下に起きてくるのは、「女性を守るため」というイデオロギーが、「男性を抑圧してもいい」という二項対立になっていく過程で生まれてきているので、とてもレフトサイド、リベラルに偏っているニューヨーク・タイムズThe New York Times)の社会正義が全目に押し出されたら、それはそれで「2020年代の空気感をとらえていない」ことになってしまうと思うんです。もちろん、2016年のトランプ大統領の就任以降、調査報道をベースとする権力監視のスタンスで経営が良くなったのだろうから、ガンガンその姿勢で描くこともできたのに、そうではにところは、マリア・シュラーダー監督がうまいなと思いました。2020年代は、この二項対立を超えて物事を見ていく時代なので。何かを見る時にはメディアのバイアスを「どのように見ていくか?と言うメディアリテラシー」が必須で、それをベースに物事を見るととても面白いです。

それにしても、ニューヨーク・タイムズ「1619プロジェクト」の批判的人種理論を公教育に取り込んでいこうとに関するものも、全米中でさまざまな問題を提起したのを、当時米国に住んでいたので、よく覚えています。とはいえ、このあたりの日本の報道機関とのレベルの差を感じます。まぁ日本のテレビ局とかは、ほとんどバラエティー中心で、放送免許を取るためにお情けで報道機関をもっているようなところなので、仕方がないのですが。ジャーナリストの社会機能が弱すぎる気がしますねぇ。それだけではなく、こういう邦画がほとんどないのも、日本社会の体質を示していると思います。伊藤詩織さんの告発も、ほとんど報道を見なかったですよね。もちろんジャニー喜多川事件も、あれだけ実名の告発が長期間なされていて、報道がほとんどされていない。日本の社会改良にとって、ジャーナリズム機能がもう少しなんとかならないものかなぁと思います。

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🔳トランプ政権の誕生が女性に対する抑圧への危機意識を上げらことからMetoo

2019年に公開された『スキャンダル(Bombshell)』の映画の続きとも言って良い、時系列のつながりです。FOXニュースの創立者のロジャー・エイルズのセクシャル・ハラスメントの告発を描いている。2019年のドラマシリーズ『ザ・ラウデスト・ボイス-アメリカを分断した男-(The Loudest Voice)』なんかもよいですね。別にこの辺りがわからなくても、物語としては全然問題ないのですが、ミーガン・トゥーイー(Megan Twohey)とジョディ・カンター(Jodi Kantor)の二人の記者がこの問題に取り込む「大きな背景」と言うのは、トランプ元大統領が、選挙前2016年に「スターになれば女は思うがまま好きなようにできる」と女性蔑視が発言をした音声が公開されて、流石にこれほど品性がない人間が大統領にはれないだろうとガンガン報道されていたのですが、全く問題が広がらず、そのまま大統領に当選しました。あの時の、トランプさんの告発のニュースは、毎日物凄い量だったんで、今でもよく覚えています。それでも、、、

「スキャンダル」ではシャーリーズ・セロン演じるFOXニュースのキャスター、メーガン・ケリーがトランプの天敵で、繰り返し疑惑を追及するが、結局彼はヒラリー・クリントンを破り大統領に。
本作ではトゥーイーがトランプのセクハラ事件を追っていて、疑惑があるにも関わら当選してしまったことにショックを受ける。
妊娠していた彼女は、それも一因となって産後鬱を発症してしまうのだ。
性犯罪者として捕まってもおかしくない男が、なぜか合衆国の最高権力者になってしまう。
トランプの時代の到来が、コンサバティブ、リベラルの垣根を超えて、女性たちに強烈な危機感を抱かせたことは想像に難くない。

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あの時の感覚は、アメリカに住んでいれば誰もが強く感じたと思うのですが「何か大きな潮目が変わった」感じがしました。それまでは、「リベラル的な正義」は、錦の御旗のように機能していて、建前ではあっても、それを押し立てられると公の場では逆らえないと言うような空気感がありました。女性やマイノリティに対する差別や抑圧に対しても。でも、それが噴出して、堂々と話されても、大統領に当選しちゃうほどの支持が社会にあることが「可視化された」からです。もちろんそれは、社会全てではないので、表に出てきたら、「分断して、分かり合えないまま、対立を続ける」ことになっていきます。その嚆矢だったわけですが、この時の女性記者たちの衝撃が、凄まじかったことは想像に難くありません。これが彼女たちの出発点になってます。

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ちなみに映画の中のセリフで、ハリウッドの女優たちですら声を上げられない構造の中で生きているとしたら、普通の女性は、社会で組織で、どんな目に遭っているのだろう?っていうセリフは、重いと思いました。セクシャルハラスメント、性犯罪をしても、声もあげれないものを変えるためには、闘うんだという二人の姿勢は、とてもグッときました。


🔳フェミニズムミソジニー、マッチョイズムの奔流によって2020年代にあきらかになってきたもの

僕は、2020年代までのこのエネルギーはいろいろなことを明らかにしたと思っていて、女性が虐げられて抑圧されることへの抵抗と、ミソジニーとマッチョイズムによる男性側の紐帯の確認行為の争いによって、女性が抑圧されることへの抵抗だけではなく、社会の中で男性が置かれている抑圧(それもまさにマッチョイズム!)すらも明らかになってきている。いわゆる弱者男性論もそうだけれども、「システム構造的に虐げられている存在」にスポットライトを、浴びせ続けることはとても大事なんだと思う。どこかに「虐げられた存在」がいるとしたら、それは社会のシステムになっているので、気持ちで「悪いことはいけない」みたいな純粋なことをすると、結果として反発が大きくなって余計抑圧がひどくなったりする。それは、これが社会のシステムになっているから、一つをなくすと、さまざまな他の機能に連鎖するんですよね。たいてい、より大きな反発を生んで、社会が分断されることになります。この流れで、マッチョイズムの解体が同時に進んでいき、マッチョイズムで苦しめられている、抑圧されている人が発見されていく中に、男性もいたんだということにスポットライトが当たっていくのは、僕はな社会って興味深いなーって感心しました。アメリカのローカルな文脈では、これはカウボーイ文化の解体とシンクロしていますね。

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🔳性犯罪の加害者を守る社会システムそのまま

ステマチック・レイシズムという言葉があるんですが、これって単純な「単発な差別」だけではなく、社会が構造で、この場合は産業にすらなっていて、その仕組みを正せない状態になっていることを告発するためのものです。エイヴァ・デュヴァーネイ (AvaDuVernay)監督の『13th -憲法修正第13条』(2016)や 『ボクらを見る目(When They See Us)』(2019)などがおすすめです。

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この映画の白眉は、ミラマックス社のハーヴェイ・ワインスタインがなぜ20年以上も君臨できたのか?なんです。

ワインスタインの調査で大きな壁となるのは、NDA(non-disclosure agreement) と呼ばれる秘密保持契約だ。
一度この契約を結んでしまうと、事実関係を証言することは契約違反となり、相手から訴えられる可能性が出てくる。
暴行した女性への口止め料の条件として、ワインスタイン側がこの契約を結ばせていたことが、調査を難しくしてしまうのだ。
被害の内容と被害者の実名を同時に公表できなければ、罪を認めさせることは出来ないので、二人はなるべく多方面から証拠を集めるのと同時に、実名を出せる告発者を必死に探す。

中略

秘密保持契約つきの示談に、それを認めてしまっている法律、さらに業界の隠蔽体質と、独裁者の存在を許す会社組織。
告発したくても、それが出来ない、性犯罪者を守り被害者に沈黙を強いる、社会と業界のシステムこそが本当の悪。

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被害者の多くが示談に応じていて、NDA(non-disclosure agreement) が被害者と結ばれていて、実名で告発できる女性がいないからなんです。「示談に応じた。お金を受け取った。」と文字情報だけ見ると、なんだよって感じるんですが、背景を見ると、権力の怖さがまざまざと感じられます。ミラマックスの業界の帝王に睨まれたら、もう二度と人生で「好きな映画関係の職業」につけないんです。裏から手を回されるから。ほとんど仕事もできなくなるので、お金もなく追い詰められます。だから、示談応じて「支配下に入る」ことを承諾しないと、生きていくこともままならなくなるんですよ。こうした構造にシステマチックに構造を作り出しているので、誰も訴え出ることができないんですね。訴えたら、契約違反で、巨額の賠償金を請求される可能性がある。じゃあ訴えたり、実名報道をした場合に、報道機関、この場合はニューヨークタイムスが守ってくれるかというと、報道は中立なので、何もできないんですね。そしたら、誰も告発しないですよ。怖すぎて。これ、文字で見るのではなく、物語で体験すると、マジで怖いですよ。自分がその女性の立場だったら、どんな人生の地獄だろうと思いますよ。

特に、ローラ・マッデンその勇気に賞賛

ちなみに、この「実めで告発できる女性を探す」という部分が、この映画の主軸のドラマになります。そして、最初に、1992年のアイルランドのシーンから映画は始まるのですが、この意味が最初よくわからなかったんですが、、、、この初期にワインシュタインの毒牙にかかったローラ・マッデンが、最初で実名で告発する人だからんですね。彼女はまだNDAを結んでいなかったんですよね。ちなみに、邦題の『シー・セッド その名を暴け』は、明らかにおかしい。「誰?」が犯罪者かは、明確で、最初からワインシュタインだってわかっているので、名前を暴く必要はない。大事なのは、「実名で告発する人を探す」という部分だからです。


🔳参考

ちなみにこういう性犯罪者の「グルーミング」という行動が、中田さんのジャニー喜多川の解説で話されているんですが、これ今まで見た性的虐待、性犯罪の話の全てに共通してて、ちょっと震撼した。プレデター(捕食者)と呼ばれる理由がわかりました。・・・これ、マジで怖えなって思います。マッサージしてあげるって、超危険な言葉なんだなと思いました。

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『イン・ザ・ハイツ』(In the Heights)2021 ジョン・M・チュウ監督 中南米系の移民が住むワシントンハイツを舞台にしたミュージカルの映画化

評価:★★★★★星4.2
(僕的主観:★★★★星4.7つ)


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2015年8月に開幕したブロードウェイ・ミュージカル『ハミルトン』で脚本・作曲・作詞・主演リン=マニュエル・ミランダ(Lin-Manuel Miranda)が音楽を担当していることで見ました。が、2005年に初演されたミュージカルも作曲・作詞・主演を務めているのですね。いやはやなんという才人。内容は、ドミニカ共和国など中南米系のコミュニティがあるマンハッタン島の北のワシントンハイツでの、移民2世、3世以後のアメリカンドリームの果てを描こうとするミュージカル・・・・という時点で、なかなか検索したりして見る日本人は多くないと思います。でも、リン=マニュエル・ミランダ検索で見る人はいると思います。さらに言えば、彼でさえもそれなりにアメリカが好きな人でないと知らない可能性があるので、まずは先にそれを説明しますね。

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『ハミルトン』は、アメリカで凄まじい人気を誇る初代アメリカ合衆国の初代財務長官、アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton, 1755年1月11日 - 1804年7月12日)のことですが、この人はアメリカ合衆国憲法の実際の起草者で、アメリカの財政金融システムを一人で作り上げているなど、もうなというか、とんでもない天才なんですね。にもかかわらず、生い立ちが、英領西インド諸島のネイビス島で生まれている孤児でなんですよ。そこから這い上がって初期のアメリカのシステムを創り上げる建国の父まで上り詰めるドラマチックな人生のヒップホップでミュージカル化をしたのが、リン=マニュエル・ミランダです。音楽のセンスが特に僕は好きで、本当に素晴らしい。これらの曲は何度も聴き込んでいます。ディズニーの『モアナと伝説の海』(2016年)でも主題歌を含む様々な楽曲を手がけていますね。
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音楽が本当に素晴らしいので、何度も聴き込んでいます。しかし、この作品が、アメリカで異例の大ヒットロングランで、かつチケットが本当に取れない。かなり遠い席でも400ドルとか超えてて、それでも予約できたらラッキーというような状態が、2019年に自分がアメリカの住んでいた時の状況でした。この作品の異例の注目は、多様性を扱った点が注目されたのですが、何がすごいって、建国の父たちアメリカ独立革命のメンバーの歴史上実在の人物が、白人ではなく有色人種が配役されているところ。ちなみに敵対するイギリスは、全て白人。ポリティカルコレクトネスを、むしろ利用して、え???そんな???って配役がとても興味深い。Netflixの『ブリジャートン家』(Bridgerton)などのドラマシリーズと同じですね。こういうことの是非はあると思うのですが、僕は常々、「面白いかどうか」にエンターてメントや物語の評価は作ると思っているので、『ハミルトン』は、とんでも無く面白いので、文句なしです。ちなみに、ミランダ家はプエルトリコ系なので、彼自身がルーツがハミルトンに近くて調べるようになったとインタビューで言っていたのを聞いたことがあります。

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さてさて、こういう発想を持っているリン=マニュエル・ミランダの出世作がこの『イン・ザ・ハイツ』なわけです。ここで何が描かれているか?というと、中南米系の移民のコミュニティなんですね。主人公のウスナビを軸として、彼らが移民がワシントンハイツを舞台に、四人の若者の人生の選択を軸として群像劇が描かれています。いや群像劇というよりは、この「コミュニティそのもの」を浮かび上がらせようとしているのを感じます。登場人物がむちゃくちゃ多くて、これが観客を置いてきぼりにしないで、最後まで捌ききれているのは監督の力量を感じます。143分と、ここまで冗長である必要はなかったと映画的には思うのですが、それでも僕がが感じる「コミュニティそのものを群像劇的に浮かび上がらせる」という趣旨を考えれば、長いのは必然だったかもしれません。最初は登場人物が多すぎて、そうで無くても馴染みのないヒスパニック系の世界で、入り込めなくてつまらないかなと思いながら、あれよあれと弾き揉まれてくるのは、脚本もさることながら、ジョン・M・チュウ監督のうまさだなと思いました。

ニューヨークのブロンクス出身ですが、プエルトリコ系のアレクサンドリア・オカシオ=コルテス(Alexandria Ocasio-Cortez)なんかも思い出しますね。この辺りをもう少し深く楽しめるためには、そもそもヒスパニック系の文化を知らないと、いまいち身近に感じないかもしれません。また、AOCを話題に出しましたが、アメリカの移民たちが、ある区画に住み着いてコミュニティを長く形成していること、そのコミュニティが、2−3世と代を重ねるに従って少しづつ壊れていくことなど、アメリカの移民の世代間闘争などの知識や感覚がないと、いまいち実感がないかもしれないので、このあたりの作品を見たり、勉強したりすると、面白さが倍増します。

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ヒスパニックの文化では、2017年公開のピクサーの『リメンバー・ミー』(Coco)などもおすすめですね。この色彩の使い方などは、目が慣れていないと、そもそも、日本人からすると、え?ってなる可能性も高いので。なんでも慣れていないものは、いまいち入り込めなかったりしますからね。


さてさて、監督は、2018年の『クレイジー・リッチ!』(Crazy Rich Asians)のジョン・M・チュウ監督。この作品は、アジア系俳優のみで構成されて大ヒットしためずらしい作品です。この辺りにも、ポリティカルコレクトネスの、アメリカ社会への浸透と共に起きている多様性をどのように物語に活かしていくかの挑戦の系譜なので、流れを知っていると、面白くなります。僕は裏事情を知りませんが、アジア系の俳優のみで構成されている作品で成功された彼が、移民の多様性を重視するこの作品、リン=マニュエル・ミランダのミュージカルの映画化にあたって監督に選ばれているのは、いろいろ納得感があります。もちろんテーマ的にも、単純にマイノリティをフォーカスしたというだけでは無くて、何よりもこれらの作品がヒットしていること、またZ世代とまでは言わないですが、移民の中でこの2010−20年代の若い世代の「これから」をベースに描かれていることに注目したい。『クレイジー・リッチ!』も『イン・ザ・ハイツ』も、英語がしゃべれなくて、とにかく生きることで精一杯の移民1世では無くて、「そもそもアメリカで生まれ育って英語に不自由がない」2−3世以降の世代にとって、アメリカンドリームとは何か?、コミュニティとは何か?を問い直している作品であるところがポイントです。AOCアレクサンドリア・オカシオ=コルテス)を話題に出したのも、分断が激しくなってきた2010年代後半から2020年代前半くらいかけてのアメリカというのは、この新しい分断の時代において、もう一度、様々なものを見直す動きが始まっているように感じるからです。またその「視点」は、AOCなどの非常に若い世代の「これから」への視点になっています。ドナルド・トランプ(Donald John Trump)、第45代アメリカ合衆国大統領(在任:2017年1月20日 - 2021年1月20日)の人気のあたりで、さまざまなこれまでの軋轢が噴出して表に炙り出されていく過程とリンクしているように感じます。

かなり長々と「前提」を語っていますが、日本時にとってヒスパニックの文化や移民の世界って、馴染みが薄い気がするんですよね。アメリカという世界のいては、欠くことのできないメジャープレイヤーなのですが、こう言った前提をベースに見ないと、この作品の射程距離の深さがなかなか伝わらないかもしれないなって思うからです。とはいえ、全くそう言った知識なしに見ても、すごく面白い作品ですけどね。最後の最後の大どんでん返しなども、おお、そうきたかーーーと唸る脚本なので、冗長で、知識がないのが前提としても、面白く見れる作品です。

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友人たちと八ヶ岳の蓼科山を登ってきました。

2023年の9月に友人の銀鷹さんらと八ヶ岳蓼科山を登ってきました。ちなみに、登山慣れしている銀鷹さんに


ハイキングレベルでいけるところ


と騙されました。


いや、ぜんぜんハイキングじゃねーよ!(笑)。


しかしながら、山頂は、驚くべき景色が広がって、何度も登っている時に絶望しかけたけれども、素晴らしい経験でした。周りの人も、つぶやいていましたが、最初の一言は、


これ君の名じゃん、、、、


でした。宮水神社の御神体のある隕石の跡地みたいな感じですね。そのど真ん中に、蓼科神社がありましたしね。別に聖地巡礼というわけではないですが、宮崎駿もののけ姫もそうでしたが、あんなのアニメーションでしか描けない場所と感じるようなところでも、実際に似ているところは多々あると思うと、世界の広さ多様さにセンスオブワンダーを感じます。


🔳友人との思い出企画を着々と

6年前に尾瀬に行った時のメンバーで、本当はアメリカの西海岸をトレイルでキャンプしながら遊ぼうと話していたのですが、コロナでダメになってしまって。もう直ぐ50代に入るペトロニウスは、2022年に米国から日本に帰国するにあたって、次の10年、60歳までに何をしたいかとかをつらつらと考えてメモしてたりしたのですが、自分の人生でかなりこだわっているのは旅行だよなと感じました。けれども、あと何回、どこまで行けるのか?と考えるとなかなかもう時間もない。お金だって。そう考えると、ちゃんと計画を立てて、テーマを決めて「絶対にやる!」と意思を持ってないと、やらないですぐ時間は過ぎ去るなと感じました。特に、米国に行っている何年もの間、友人と会えなくなってしまって、こういったハイキングレベルでいいので、毎年、山とかに行こうねと話をしたのに、自分が米国に行ってしまって一瞬で6年くらい会うことすらままならなくなってしまった。なので「棺桶に持って行けるのは思い出だけ」のコンセプトのもと、きちっと企画していこうということで。意思を持って、毎年企画して積み上げるぞ、と。


ちなみに一泊して、いろいろスーパーで買い込んで、すき焼き作ったりして、めちゃ楽しい旅でした。


やっぱり人生に大事なのは、友人と、健康と、少しのお金と、そして企画力だな(笑)って思いました。自分で計画作って、テーマもって動かないとできないでもんねぇ。エネルギーないと、できないし。帰り際の温泉とかも最高だった。


🔳ラスト三十分。

何人かの登山をする知り合いに言われたのは、初心者の入門編だよねと、マウント発言を三人から聞いたので(笑)、本当にハイキングレベルみたいです。登山をする人って、凄すぎる。友人と半分の山小屋に到着した時点でお終わりだと思って、それからまだあるとわかって、絶望で諦めかけました。普段デスクワークで、腰とか膝とかダメなんだって。でも、ラスト三十分?の急斜面は、それなりに有名みたいで、そこはよくいったねとほめてもらいました。

この角度。写真だとこれでも相当マイルドに見えています。登っているときは、死ぬかと思った。

けれども全体で、この時だけさーっと雲が晴れたんですよね、ちょうどのこの辺りが森林限界なので、気もなく、雲海の上で、世界がサーっと開けていくようで、素晴らしい体験でした。こういう体験すると、そりゃ山登りたくなるし、修験道みたいなものが、ここは聖地だ!とか思ってしまうのは、わかるなーと思いました。

ちなみに、頂上の蓼科山頂ヒュッテで、カレーを食べたのですが、え?って驚くほどうまかったです。もちろん疲れ切っているわけだから、なんでも惜しく感じるとしても、なんかめちゃオシャレでなんでこんなに力はいっているの?と驚きました。

🔳入り口

ここは入り口にすでに蓼科神社とあるので、この山自体が神社?なのかなぁ。多分修験道とかそういう人にとっては、なんらかのレイヤーというか範囲がわかるのでしょうねぇ。確かに頂上は、神域としか思えない雰囲気満載でした。多分もう少し山道は整備されていたんでしょうが、どこかで雨でだいぶ崩れたんでしょうねぇ。それでも、中間の蓼科山荘までは、それなりに緩やかな山道でした。

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【物語三昧 :Vol191】『葬送のフリーレン』不死者が世代を超えるスパンを観察する類型の物語 

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評価:★★★★★星4.8
(僕的主観:★★★★★星5.0つ)

2023年9月に金曜日に4話いっきに放映。Amazonプライムで見れたので昨日一気に見ました。いやはや、素晴らしい出来ですね。ただ、考えれば考えるほど、見れば見るほど引き込まれる素晴らしい物語なんですが、基本地味なんですよね。


だって、基本構造が


勇者が魔王を倒した後の世界がどうなっているのかを100-200年単位でロードムービー的に旅してみて回る物語


「すでに終わってしまった」勇者ヒンメルとの恋を、彼の思い出を、自分の心振り返りながらたどる物語


って、どう考えても地味すぎる。血湧き肉躍る要素が全くない(笑)。個々のエピソード的にも、群像劇になっているので、胸にすみる良いエピソードの塊だけど、やっぱりドキドキ激しいわけじゃない。新海誠監督の『すずめの戸締り』の時にも思ったのですが、これ本当に「普通の観客」というのは面白いと思うのだろうか?売れるのだろうか?って疑問に思ってしまう。だって、ものすごく通の、物語に慣れきってしまっている「通好み」の設定だし、構造なので、売れる要素を感じないのだもの。なのに、すでに23年時点で漫画は1000万部売れているんですよね?。いやはや、これが支持されるマーケットって、どれだけ成熟しているんだって感心します。


2020年代の物語とはどんなものなんだろう?が、最近のペトロニウスの課題です。


もうだいぶ具体例は出てきているので、抽象度を上げて、ひとまとめにするとどんな特徴があるのか?を問う時期に入っている気がしますので。


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ちなみに、人類の営みをロングスパン(100年以上の単位=世代を超えてもたらされる変化)で観察することと、不死者の物語は相性が良いことを、『UQ HOLDER!』で解説しました。また僕らがアズキアライアカデミアで分析している、セカイ系(2000年代)から新世界系(2010年代)への展開、またこの時に、「壁」というモチーフが出てきて、「壁の内側」と「壁の外側」というメタファーが多用されていたという話をしてきたと思います。この壁が、00年代と10年代の「境界」になっているようなんですよね。20年代は、新世界、すなわち、壁の内側である「セカイ」から外に出るようになって「後の世界」を描いている。けれども、この内側と外側って、いったい何が違うのか?といえば、


壁の内側:高度成長期の経済と人口が拡大している時代からその終わりまで(要は昭和から平成まで)


壁の外:低位安定成長がコモンセンスとなって人々のコモンセンス・パラダイムが変わってしまった後の世界


この二つの「意識の差異」が、テーマになっているんですよね。「この違いって何か?」と問うと、高度成長期や平成の「昭和の香りの振る舞い」と、コンプライアンスや多様性のあり方が低位安定成長での新しい生き方が、「どのように移り変わってきて今に至っているのか」を見せてくれることが重要のようなんですよね。

なので、「世界の有様」をそのまま観察したいので、ロードムービーのように空間を広く移動すること、しかも、その時間経過のスパンが基本的に100年単位でなければならないとなるようです。もちろん、この辺りはさまざまな物語の類型がとリアルされていて、トネコーケンさんの『スーパーカブ』や『ゆるキャン△』での解説は、「この壁の外に住んでいて、その時代に生まれた世代が、どのような生活意識や振る舞いをしているか」を示しているように僕には思えます。


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なんというか、かなり「前提の前提」の話をしてしまっていますね。直接にフリーレンの話というよりは、物語としてだいぶ地味な話であるのに、これだけ売れているにはなんらかの「時代の文脈にミートしている」部分があるのではないか?と考えて、だとするとという、とっても抽象的な視点ですね。ただまずはこの辺を整理しておかないと、「この先」へ分析するところへ踏み込めないと思ったので、とりあえず頭から出してしまいたかったので、出してみました。後半でさまざまな展開を見せているので、ここでいっているだけの作品ではないんですが、何十年も物語の「売れ方」をみていると、まず「問うべきことは物語序盤で何どんな文脈から、どんなテーマを掲げたか?」なんですよね。それを出発転移して「どこに具体的に展開して、到達していくか?」というのは、実はまたズレるんですよね。なぜならば、連載期間中も、時間は流れているわけでは、時代のテーマが変わってしまったり、「物語としての面白さ」を追求した若しくは否定した結果、結論が全然違う方向に行ったり。若しくは古くなった問いに真摯にこたたり。


んで、ペトロニウスが、フリーレンを分析しよう、理解しようとした時に、まず感じるのは、不死者が長い時間スパンを観察していくロードムービー形式という点です。作者はなんでこれをテーマにしようと思ったのか?。このスタート地点から展開される物語の問題意識が、なぜこれほど売れている(23年9月時点で1000万部以上)のか?というポイント。


これをセカイ系/新世界系、壁の内側/壁の外側という、自分の分析図式の文脈から読み解くと、「勇者が魔王とを倒した、その後の世界を観察する」という類型と、高度成長期から低位安定期に、社会のあり方が全くかわってしまった1990-2020年くらいの「違い」を観察する意識とのリンクを感じてしまうんですよね。「勇者が魔王を倒す」という図式は、わかりやすく、立身出世や成長こそ正しい!という昭和的な時代性の物語類型の代表だったとするれば、「倒してしまった後の社会」で、僕らは、私たちは、どうやって生きていくのか?という問い。ってこう考えると、『はたらく魔王さま!』ってもしかしてすごい作品だったのかも、、、いやでもそうか、やはり、同じ勇者と魔王という主観視点では、「100年単位の時間経過の移り変わり」が描けないから、ああれも過渡期の作品か。この100年単位の時間経過の移り変わりを観察するって、肝のような気がするなぁ。


んでもって、最近の日本は、なんというか平成の30年間を超えて、やっとなんというか社会のあり方がちゃんと変わったんだなーというのをしみじみ感じる。経済指標は、取りようでいくらでも変わるので、単純い信じたいわけじゃないけど、最近、低位安定の人口縮小社会を、どうやって運営していくかは、日本がうまくやっているんじゃない?というのは色々な視点から見ても、思われているっぽいと感じる。これの中身をもう少し深掘りして知りたい今日この頃。今月のアズキアライアカデミアのお題は、フリーレンなので、とりあえず予習している感じ。

 
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NapaのKenzo Estateのワイナリーツアーに行ってきました。

先日、2023年の9月の下旬に、iphone15の発売日にSan Joseに出張に行ってきました。土日挟んでいたので、ついでにと、いってみたかったNapaのKenzo Estateに行ってきました。ワイナリーツアー、110ドル(150円換算で約16500円)ですね。ちょっとした思いつきだったんですが、とんでもなく素晴らしい経験でした。ワイン自体も素晴らしかったけれども、Napaの通常の麓のところには山ほどワイナリーが集中していて、そこもまた素晴らしく観光体験が整備されていて良いのですが、何よりもこの山の上にあるのが素晴らしかった。Napa Valley at 1,550 feet, Kenzo Estate is a pristine 3,800-acreとあるのですが、かなり山の上の方に登っていくので、なんというかValleyに来たな、葡萄を育てるのに、そりゃこれはいい土地だよなーっていうのがめちゃくちゃ実感できて。9月に行っているのですが、朝からもすでに肌寒くて、というかかなり寒かった。サンフランシスコのホテルに泊まっていたので、都市の混雑したゴミゴミしたところから一気に異郷に来た気分でした。

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ワイナリーオーナー辻本憲三さんは、カプコン創業者ですね。元々は、ここに巨大なアミューズメントパークを作ろうとして購入した土地だったそうです。1990年代から始めて、30年ほどで世界的なブランドまで上り詰めてきたわけですね。今はジャパニーズウィスキーも世界的なブランドですし、日本が次のステージに入ってきているのが、なんだか色々な面で感じます。まぁ、そんなことも徒然に思いながら。やはりこういうワイナリーとかビール醸造所Brewery(ブリュアリー)、ウィスキー蒸留所Distillery(ディスティラリィ)を巡る旅は最高ですね。日本のウィスキーはニッカの余市サントリーの白州蒸溜所。アメリカのバーボンは、ナッシュビルを少し回って、カリフォルニアのビールブリュワリーはLAやトーランス周辺をかなり攻めました。Napaも見てみたかったので、自分の目で見れて楽しめて最高だった。あとは、、、そうだなぁ、スコットランドのアイラとかを回るのが夢だなぁ。。。今は拠点が日本だから、京都の山崎とか仙台の宮城峡蒸溜所とかも行ってみたいなー。夢は膨らむ。

なんといっても素晴らしかったのが日本語のツアーがあること。僕はウィスキーは得意なのですが、ワインは知見がなくて、テロワールとか、専門用語を英語で言われてもいまいち実感がなかったのですが(他にもワイナリー回ったので)、日本語で多分同世代、、、よりは若いかな、ツアーガイドしてくださった方の人生などを聞きながら、そんな人生もあるのか、としみじみしながら聞いていました。えっと、お酒が、ワインが好きというだけで、世界がどんどん拡大していく話を聞いていて、「好きなもの」でうまく時代や時流の乗れるというか、世界が広がっていく、人生が広がっていく様って、最高だよな、、、しかもそれを職業にできて、食べていけたら、本当に幸せだよなった思って聞いていました。

テイスティングワイン6種(各45ml)で、やはり値段のせいか(笑)、Cabernet SauvignonのAiが美味しかったなー。あとやはり、Cabernet FrancのAsuka(これは日本でも飲んでいたので)がおしかった。まあ味も意味もよくわかっていないんですけどね。でも美味しかった。水も軟水なんですね、驚くほどお水が美味しくて、びっくりした。目も前に見学用の畑というか、葡萄をそのままもいで食べていいので、実際の味を経験できるのはもよかったなー。

帰国に際しては、AsukaとSparklingのSeiを買って帰りました。友人と妻へのおみやげに。

あといくつか、ワイナリー巡ったけ。

『エースをねらえ!』 山本鈴美香著 昭和初期の日本人のもっていたエートスがあますところなく表現されている

評価:★★★★★星5.0
(僕的主観:★★★★★星5.0つ)

友人がとても好きで何度も読み返していて、よほど心に深く刺さったんだろうと感心していて、実はそういう人が何人かいる。ちなみに、その人は僕よりも10も20も若い。だから、そもそもこんな古い少女マンガを読むこと自体がとても不思議な上に、繰り返し見るというのは、なんらかの強い吸引力があるんだろうと思っていて、いつかは読もうと思っていた。先週中国に1週間ほど出張行った時の時間を利用して全巻(単行本はマーガレットコミックス(集英社)から全18巻)通して読んでみた。最初の数巻は、やはり古臭いし、イマイチでちょっと失敗したかな購入して、、、ぐらいにおもっていたのだが、後半に入ってボルテージが上がって引き込まれて、宗像コーチや藤堂貴之らがなんで、あんなちょっと頭がおかしいような振る舞いをしたのかが、がちっとわかって解像度が上がってゆき、この作品の全体像がわかってきたときに、ああ、そりゃこれは日本のエンタメ史に残る傑作だと感心した。様々な角度で、とんでもなく深い。

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よくペトロニウスは、「昭和の臭みがある」というような言い方で、昭和中後期、平成の30年、そして令和の比較をします。1960-1980、1990-2020、2020年台以降ぐらいのタームですかね。この世代論というか期間の分け方は、令和の2020年代と、1990年代くらいまでの日本の高度成長期までの思考様式との違い、落差を差していうんです。しかしながら、久しぶりに驚いたのは、この『エースをねらえ!』は、その昭和の臭みすらも超えて、たぶん大正から昭和初期の人間の発想で、そうか、、、僕らのルーツは、あ「ここ」からきいるのか、という衝撃を受けました。いやはやすごい作品でした。ちなみに、そこまでいうか!と驚くような男女差別の意識は、もうぶっ飛ぶほどです。(笑)。でも、この男女差別の認識が、なぜあれほどまでに宗像コーチや藤堂くんが、岡ひろみのために人生と、命と、あらゆるものを捧げ尽くすかの理由になっており、なんというか最良の選ばれた家父長主義者の権化であって、いやはや驚きます。なんというか、あまりのこの漫画が面白すぎて、その後、Kindleの『ベイビーステップ』や『しゃにむにGO』などのテニスマンガを全て読み直していたのですが、「この違い」が、言い換えれば日本の僕らが生きてきた歴史そのものの「変化」なので、この落差を見ると衝撃を受けます。

摩利と新吾 完全版 1

佐藤紅緑による小説『あゝ玉杯に花うけて』(1928)や宮崎吾朗監督の『コクリコ坂から』(2011)、木原敏江の『摩利と新吾』(1977-1984)などが参照にはいいと思います。要は旧制中学のエートスなんですよね。この時代の大学進学率ってのは、社会の0.数%という選ばれた選良。今の大衆化した大学では考えられないスーパーのエリートなんですよね。彼らの持つ倫理、道徳、そして使命感は、我々では想像もつかないものです。この「違い」がわかっていないと、彼らの熱量が理解できないと思います。この時代は、テーマが、われわれの1990年代から2000年代の日本の「個人主義的な視点」とはまるで違います。この時代は、どこまでも「個」が重要で、最も典型的なのは庵野秀明エヴァンゲリオンのシンジくん。仮に世界や日本が滅びても、アスカやレイやミサトさんら家族や大事な人が死んでも、「僕はエヴァに乗りません!」と喝破します。これって、大正から昭和初期の選良たちでは、絶対に言わないセリフです。彼らは、自分が失敗したら、日本が滅びるという実感と自意識を誇りに生きているからです。宗像コーチや藤堂くんらが、なぜテニスの業界全てに対してや、後輩の育成に、自分を自己犠牲を全く厭わずに「踏み台」になろうなろうとするのかは、彼らが失敗したら、日本にテニスというスポーツは無くなってしまうからです。創業期、テニスの黎明期に、その最前線に先導者として生きる彼らは、自分がテニスの共同体にコミットできなければ、この業界がなくなってしまうことがわかっているのです。その激しい自意識が、

"この一球、絶対無二の一球なり”


庭球1920年代の名選手福田雅之助(1897年 - 1974年)

という言葉と結びついているのです。このエートス、倫理の意識がわからないと、なんであんなに無駄に熱くて自己犠牲が激しいのかがわからなくなってしまいます。宗方仁という人は、ひどい毒親の父親に、早くに死んでしまった母親の無念など、もうちょっと今では一人で生きていくの無理じゃないというほどの激しいトラウマを抱えて生きています。しかも、やっと見つけた自分の好きなこと、、、テニスで世界の頂点に向かいつつあるときに、再起不能になってしまいます。その上、余命3年を申告されるとんでもない地獄を味わっても、孤独を踏み越えて岡ひろみのために、人生を使い果たします。この自己犠牲は、本当に凄まじく鮮烈です。そして、ある種、美しい。この自己犠牲の美しさは、痩せ我慢の美しさってやつだろうと思うんですね。リソースというか環境が整っていない、そもそも多様性や次の世代への継続を保障できるほど「社会資本層に厚みがない」状態で戦うとなると、精神論とか感情に頼らざる得ないし、それではもちろん回らないから、バタバタ死んでいくような「気高い」自己犠牲が要求される。ああ、戦前の日本軍だ、ってしみじみしちゃいましたよ。しかし、それが、この近代ライジング時期の日本の美しさの物語でもあるのは事実で、そういう意味で古典だなーと感じました。いやはや流石のでドラマ。

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そろそろ力尽きたのですが、同じスポーツを題材にしていても、『ベイビーステップ』や『絢爛たるグランドセーヌ』を見ると、もう日本が全然違うステージに入っているのことが、見事に伝わってくると思うんですよね。この「落差」は感じると、すごく面白い。だからこそ大谷くんとか、そういうスポーツのスター選手が次々に現れて、しかも、決して「日本を背負う」ような自己犠牲精神で生きているわけではなくて、個人としての幸せもちゃんと感じれるような人ばかり。『ベイビーステップ』を見ていると、見事に科学的にトレーニングが展開されているし、『絢爛たるグランドセーヌ』のような東洋から西洋の芸術をするにあたってさえも、狭き門とはいえ奨学金を取得ルートが複数あって、英国の『ロイヤル・バレエ学校(The Royal Ballet School)』のスクールキャンパス編がいま展開してますが、このグローバルに才能を選抜していく多様性を問う尊ぶ仕組みが全世界に広がっている。そしてそのシステムの中に日本が位置を占めているのが、よくよく伝わってきます。もう戦前の日本のような世界では、全然ないんだな、と。だからこそ「人材の層が厚く、育成選抜がシステムになっている(社会資本になっている)」からこそ、少数のエリートが全ての責任を背負い込む使命感スタイルではなく、「個人の意志が尊重され」ている。これって、『アオアシ』とか見てても全く同じ印象を受けます。あれも高校サッカーという日本的泥臭いシステムとプロのユースによるエリート選抜システムが、「両方並存している」という日本の状況を描いていて、そりゃ世界に通用するような選手が次々に出てもおかしくないよなって思いますよ。いやは、この辺の違いを見ながら古典と比較すると、ものすごい面白いですよ。

ベイビーステップ(47) (週刊少年マガジンコミックス)


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『バービー(Barbie)』2023 Greta Gerwig監督 分断の向こう側を射程距離にし、自分自身を見つめるときには身体性に回帰する

評価:★★★★★星4.9
(僕的主観:★★★★★星4.9つ)

今月(2023年9月)のアズキアライアカデミアの配信でLDさんたちと解析をしようと思い、無理やり半休とって会社抜け出して見てきた。いやはや、見事な作品だった。いつものごとく見終わったらノラネコさんのブログで復習するのだが、この監督だったんだと、驚き。『レディ・バード』(2017)や『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』(2019)の Greta Gerwig(グレタ・ガーウィグ)監督の思想性あふれるキレのある演出が、最初のシーンから鮮やか。キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(1968)の人類の夜明けののように、赤ちゃん人形をぶち壊し、投げつけ、蹴りつけるシーンは、少女のかわいがる人形は赤ちゃんという固定観念の中に、鮮烈に登場したファッションドールのバービー人形の衝撃の歴史が見事に描かれている。このシーンだけで、思想性は深いは、演出はかなりぶっ飛ばして指し込んでくる作品なのは、想像がつく。内容的には、ロバート・ルケティック監督の『キューティ・ブロンド』(Legally Blonde)2001を思い出すんだけれども、思想的な鋭さが、さすがのグレタ・カーウィグ監督。よくぞこの監督を、この脚本を起用したなって感心する。最近のハリウッドのセンスは、なかなかガンバっているなって気がする。『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(The Super Mario Bros. Movie)2023もそうだったし。2023年は、素晴らしい映画の目白押しの気がする。

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🔳男が中心の社会 VS 女が中心の社会の対立構造から何を読み取るか?

この作品は多面的に読み取れる作品なので、色々な解釈はあると思う。何よりも、イデオロギー、思想的、関連的に分断が起きそうなテーマにエンタメで切り込んでいる形なので、簡単に炎上しやすいと思う。だからまず見るべきは、どちらの主観的な感想を抱いたか?ではなくて、どういう構造が提示されているかで分析したほうがいいと思う。この作品の構造は秀逸にしてクリアー。女性が全ての権力を握るガールズパワーの理想郷である「バービーランド」と、「男社会(patriarchy、英語は“家父長制”)」である現実のロサンゼルスとの二元的対立から、「何を読み取っていくか?」という構造になっている。途中でケンが、ケンダム(ケンの王国)を作ろうとするんだけれども、これはすなわち、現実のロサンゼルスの男社会(patriarchy)をモデルにしたコピーだから、対立構造はその二つでいいと思う。この映画を分析するならば、この対立構造から、何をどう読み取るか?という視点だと思います。


🔳単純にフェミニズムでもなければ、その逆の弱者男性からのリベンジでもない

人によっては、現実の「男社会」にハマってマスキュリン(masculine)的な振る舞いでバービーランドの女たちを洗脳していくケンの様子を戯画的に描いて、馬鹿な男だと断罪するフェミニズム映画に見えます。しかしながら同時に、ボーイズナイトでバカ騒ぎしマッチョイズムで女を従属物として軽く扱って小馬鹿にする、そのシーンが、女性を軽視していると嫌悪感を感じれば感じるほど、「全く同じこと」を、バービーランドでバービー(女性たち)が、ケンたち(男性たち)にしてきたことの裏返しでもあり、その告発と復讐を受けていることは、普通に映画を見ていれば実感してしまいます。なによりも、主人公の「定番バービー」であるマーゴット・ロビー (Margot Robbie)が、明らかにケンに対して、申し訳なかったという罪悪感を感じている。この憐れで悲しいケンの姿は、弱者男性からのフェミニズムへの告発にも見えます。

ここがやはり現代的で素晴らしいのは、じゃあ、どっちが悪いのか?というと、そんな単純な善悪二元論にできないところ。バービーがケンを従属物として扱ってきたことも事実だけど、それは現実世界で女性があまりに軽く扱われてきたことのアンチテーゼとして女性に夢と希望を与えるために作り出されたものであるわけで、現実では、女性の立場は厳しい。バービーという商品を作り出したマテル社に「定番バービー(マーゴット・ロビー)」が乗り込むと経営会議のメンバーが全て、男性になっている様は、グロテスクかつコメディ的な男が支配する世界へのカリカチュアライズで、、、、なんというか、怖いというか気持ち悪い「というよりは」、もうここまで一般化するとギャグにしか見えないなと思いました(笑)。現実のマテル社は、それなりに女性の経営陣がいます。さらにいうと、そんな資本主義の権化で、白人・男・老人的な黒幕の裏の支配者の男性たちが、経営、支配しているマテル社のバービーの開発者にして元社長は女性(ルース・ハンドラー)であることなど、全てが入れ子構造になっており、監督の思想性の鋭さと、射程距離の深さが素晴らしい。

僕が、明確に感じ取れたのは、男性でも女性でも、相手を虐げて自分たちだけが主人公になるような「やり方」は、すでにもうダメなんだというメッセージ。そのような攻撃性は、分断と戦争を生むだけ。

最近の日本でもアメリカでも、見事に大衆的評価を得る作品は、「どっちでも読み取れる」にもかかわらず、全体を見ると二元的な、どちらかの正義の側に立つことができなくなるような「分断の向こう側」を考えるものが多い。本当にクリエイターの人々というのは、素晴らしい。この辺りは最近この手の話の分析には、倉本圭造さんの記事がいつも楽しく読ませてもらっている。

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🔳アホなケンにとてもシンパシーと愛情を抱くんだけど、バービーが全く恋愛対象に感じないところが秀逸

そして、これが、最後の最後で4.9であって、5.0になりきれない、しかし大傑作だと僕が感じてしまったところ。この作品で最も、僕がグッときたのは、権力を全て奪い返されて、定番バービー(マーゴット・ロビー)が、ケン(ライアン・ゴズリング)が、憐れにもめためたにやられてしまっているシーン。このシーンで、バービーは、初めてケンの思いを知る。ケンは、Beach off(ビーチで競争しようぜ?ぐらいの意味かな?)ばかり連発してたアホですが、彼は、住む場所もな職業も何もない、ビーチのそえもの、、、バービー&ケンであって、脇役に過ぎない。脇役にすぎず、従属物のパーツとして軽く扱われる苦しみをバービーは、たったいま味わったばかり。二人は、初めて「対等な目線」を手に入れたんです。定番のバービーにしても、アイデンティティを探して、独り立ちせよと言われても、本当に苦しい。だって、何もないままで、バービーランドで生まれ落ちてしまったのだもの。だから、僕は、胸がキュンキュンするくらい、この「負けちまって弱さを曝け出している」ケンに、胸がときめきました。定番バービーも、これには痛く感慨深く、深い同情心を示して、愛おしく感じるのが伝わってきます。こういう弱さをさらけ出した男の子って、胸がときめきますよね。

これは、定番のロマンチックな恋愛路線の発動か!?。

が!!!しかし!!!、それでケンが抱き寄せてキスしようと迫ると、「いやそっちじゃない」と、軽やかに拒否します(笑)。これが素晴らしかった。恋愛関係や対象でなくとも、愛おしさや共感や絆の意識は持てる。けれども、やはりこの流れで「流される」ほどバービーはアホじゃない。この辺りの、バービーの主体性というか、バービー自身が一人の人間として見て、ケンは必要ないわなというのが、ちゃんと感じれるところにうまい脚本だなーと感心する。定番バービーにとっては、対等に見たときに、非常に共感できる存在であるケンですが、彼と恋愛関係の一般的な物語が発動しても、全く幸せにはなれないし、なによりも「男社会(patriarchy、英語は“家父長制”)」の再生産なるだけというのは、ナチュラルにわかっているですよね。頭でっかちではなく、身体で。これも素晴らしく現代的。2020年代の感覚だなと思う。


そして定番バービーは、現実のLAの世界に足を踏み入れていく。自分のアイデンティティを探すために。


僕には、「閉ざされた理想郷からの脱出劇」の類型、ジム・キャリーの『トゥルーマン・ショー』(The Truman Show)1998やトム・クルーズの『バニラ・スカイ』 (Vanilla Sky) 2001を連想するのですが、Greta Gerwig(グレタ・ガーウィグ)監督の描き方には、この時代の脱出劇のカタルシスが全くないように感じました。だって、現実の男社会であるロサンゼルスに、言い換えれば我々が住むこの世界に生きるのって、かなりしんどいじゃないでか?す(苦笑)。れはカタルシスにはならないことを、我々は幾多の脱出劇で知ってしまっています。けれども、ケンとかと恋愛にしても、王道のラブロマンス路線も、それって男社会の再生産に貢献するだけで、全然面白くない。なので、カタルシスという観点から、僕はマイナス0.1をしました。物語として、どういうオチをのもちかでカタルシスを感じさせられるか?というのは、もう一捻りいるのかもしれませんね、次世代の物語には。とはいえ、この構造を示すだけでも、全米の巨大大ヒットを生み出すことからも、今の時代の観客には、この多面性を受け入れる度量と需要があるのだと感動します。少なくとも、これはアメリカの良識、懐の深さを、クリエイターにも観客にも感じるすごい出来事だと思いますよ。

トゥルーマン・ショー (字幕版)


🔳イデオロギーの関連に毒されないことが大事

ちなみに、Greta Gerwig(グレタ・ガーウィグ)監督は、女性の作家らしく、では、定番バービー・・・・才能も職業も何もない普通の人である彼女が、「自分探し」をするときに、何が必要か?について、明確なメッセージを打ち出しています。ラストシーンが、嬉々として、誇らしげに足を踏み入れたのは、「婦人科」でした。何を示しているかというと、えっとですね日本語字幕だと「お股ツルツル」とか「性器がない」とても上品な表現になっていたんですが、英語で聞いていると超強いメッセージで、ヴァギナねえぞ!みたいなもっとお下品どストレートに僕は感じた。これ男性優位とか女性優位の世界を二元的に創造しようとするとSF定番の問題意識があって、「生殖をどう扱うか?」で世界の基盤が決まってしまうんですよね。バービーランドの世界は、役割が固定化しているので、生殖による再生産がない世界だったわけです。監督は、この生殖がない世界に生きていた「お人形さん」としてのバービーに、自分自身を知る第一歩にして本質として、「自分の身体性を直視する」ことだと喝破しているんですよね。やっぱ、この場合、婦人病の病院行って、自分の体をケアしなきゃ!というのは、イデオロギー的な観念論に毒されない、2020年台の等身大の物語に感じて、僕はいやーいいなーなるほど、と唸りました。「そこ」を忘れちゃいけないよね。さすがの、監督でした。


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