ボクラノキセキのユージン王子のベロニカへの告白を見ていて、、、なんかジーンとしてしまった。

2023年の5月。28巻新刊が、面白い。いやーやっぱり『ボクラノキセキ』面白い。2007年の読み切りからだから、16年くらい連載しているわけで、これってどこまで最初の時から設計していたんだろうと感じる。ただ、ずっと、娘との新刊待ち望んでいるので(笑)、こういう長期に好きな漫画を追えるのは、幸せなことだなって思います。ただ、毎回、、、10数年に渡り、ずっと同じことを持っているのだけれども、この漫画の「どこ」が面白いのか、自分でもうまく分析ができない。ただ「好き」というのは、簡単だし、そういった感情の発露は大事なんだけど、それだけじゃなんか寂しい。どんな「角度」やテーマで見るべきかが、これだけ執拗に長く「好き」ということは何かがあるんだろうと思うんだけど、いつもなんなんだろうとつらつら考えている。これはいい視点だなと思ったのは「『ボクラノキセキ久米田夏緒 前世の記憶と引き継ぐことは、現世との価値観のコンフリクトを物語にできる」という視点なんだけど、今回は28巻を読んでいて、あーなるほど、ここに自分は引っ掛かっているのか、という別の視点を見つけたので、これまたつらつらと書いてみる。あ、ちなみに、ウルトラネタバレだし、過去の記事読んでいないと、この記事読んでも何が何だかわからないと思います(笑)。興味がある人は、物語三昧のカテゴリーで検索して、過去の記事とか配信とかも見てもらえたら。

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えっとですね、今回めちゃドキドキして見てたのが、瀬々(せぜ)ことユージン王子と皆見ことベロニカ姫の二人の、カラオケ密室での告白トークなんですよね(笑)。


ポイントは、ユージン王子が、実はベロニカ姫のことをとても好きだった!という告白


なんですが、これ色々な意味で、うーん、尊いって唸って読んでいたんですよ。


1)ユージン王子とベロニカ姫の考える「自由」ということのと愛情がとても密接になって実はとても深いこと言っている


これと


2)そもそもこの二人、男性に転生しているので、男同士の告白(すわBL(ボーイズラブ)か!)って緊張感?というか不思議な感じを感じる



えっと、実は両方ともとても関係あるコンセプトなんだけど、まずは(2)が分かりやすいので、(2)を追って見たいんだよね。えっとね、細かい文脈とか、いろんなこと無視しても絵面的に、めちゃドキドキしますよね(笑)。だって、皆見も瀬々も両方とも、なんというか、めちゃ男の子!じゃないですか。ボーイズラブの匂いが全然ないんですよ。そもそもそういう物語ではない上に、基本的にヨーロッパ中世ぐらいの価値観だから、わざわざ同性同士の視点による必要もない。なんだけど、ガチでこの二人、男の子なんですよ。


うーん、うまく伝わるかなぁ。絵面を見せれば、わかるんですが、瀬々くんは、むちゃくちゃ深い愛の告白をしているんだけど、、、、カラオケボックその密室で二人で、男同士なんですよね(笑)。


「にもかかわらず」、なんですが、、、、まったくボーイズラブの匂いがしないんですよ。だから、見ていて、読んでいて、不思議な感覚を感じたんですよね。なんか、おかしいなって。僕は、百合でもBLでも好きでみるんですが、いつも持っている不満は、「その世界観で固定」されているところなんですよね。百合は、女の子同士が基本的に性的、恋愛の対象ですし、ゲイのものはその逆。でも、、、なんというか、世界って、「そうじゃない!」でしょうっていつも思うんですよ。


世界のあり方って、「どの組み合わせもありでしょう!」のはずなんですよ。


ある種に、百合でもゲイでも、もしくはストレートな恋愛でも、「それしかない」とか「それ以外はマイナー」みたいな扱いになってしまう。もちろんそれはそれで世界観が「集中している」ので、分かりやすいし、良いと思うんですよ。まぁジャンルのようなものですものね。たとえば『私の百合はお仕事です!』とか、とても好きで新刊出て、尊いわーってほんわかしているんですけれども、これだけ可愛い女の子が集中していて、全ての組み合わせが少女✖️少女だと、それはそれで尊いいんだけど、陽芽ちゃんとか、このタイプはストレートじゃないの?って気がしてしまうんですよねー。

私の百合はお仕事です!: 12【カラーイラスト特典付】 (百合姫コミックス)


あ、いやいや、これはこれでめちゃくちゃ尊いので、文句を言っているわけではなくて、物語のリアリティレベルを維持するために「お約束」ってあるよね、という話。だけれども、これだけ、同性同士の物語がメジャー化して、当たり前になってくると、僕(ペトロニウスアラフィフ男性)ぐらいの昭和の頭の人でも、もう時代は、それが当たり前だよね、LGBTQとか、別に言われなくても、自然とそれを受け取るようになってきている気がするんですよね、、、、少なくとも日本のエンタメの物語の世界では、僕にはもうすでに違和感がない。


で、あるならば、「どの組み合わせもあり」という世界を見たいと思うのですが、彼がどうもなかなか難しい。これは!と思ったのは、びっけさんのBLの真空融接シリーズかなぁ。これはガチのBLなのに、なにか、僕の中でビビッとくるものがあるんですよね。『あめのちはれ』(←ギャー好き)なんかもそうなんですけれども。


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そこで、はたと、ペトロニウスは思ったのです。


あれ、僕って、どうも性転換モノ、TSものとか、性別が転換する話が、こういういうのがすごく好きすぎない?って(笑)。氷室冴子さんの『ざ・ちぇんじ!』が好きすぎて、これってたぶん学生の頃から好きで好きで、たまらんかっていうまでも好きなので、「この感覚」が好きなんだと思うんですよ。

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話が長く遠いのですが、戻ってくると、ボクラノキセキの、


ベロニカ(女性)✖️リダ(女性) これはシスターフッドモノですね


ベロニカ(女性)✖️グレン(男性) これは身分違いの悲恋モノですね


皆見(男性)✖️春湖(女性) これは普通の高校生男女の恋愛だけど、春湖は明らかにベロニカ様が好きですよね、というか、引きずっている


広木(女性)✖️皆見(男性)


ユージン(男性)✖️ベロニカ(女性)


瀬々(男性)✖️皆見(男性)


えっと、ベロニカ=皆見とユージン=瀬々に限っても、ベロニカが女性から男性に転生しているので、この組み合わせ全てに、とても理由もある深い恋愛とか愛情の関係になっている、、、というか、愛するに足る背景の物語が描かれているので、


むちゃくちゃこんがらがってくるん(笑)


ですよね。「こんがらがる」というのは、男性が女性を好きになる異性愛でも、シスターフットものの女性同士の友愛でも、男性同士の友愛でも、全てが「同一戦場(線上)で並んで」いる感じがするんですよ。これくらい「同一線上」にならぶと、まぁ、性別とかのカテゴリーとか、どうでもいいや的な気分位なってくるんですよね。あれ??これって、おれが求めていたモノじゃね???とふと思ったんですよ(笑)。


もう少し言うと、この世界には、様々な愛情の関係がある。異性愛は多分そのまま性愛接続しやすいし、これに封建制とか家の存続が絡むとすぐ役割の牢獄になる。『大奥』とか『ザ・クラウン』とかですね。リダとベロニカの関係とかは、シスターフット的な女同士の友愛の絆の話になるし、、、、あと、なんというのですかねぇ、、、モースヴィーグ王国やゼレストリア王国の騎士たちの関係性とかって、基本的にホモソーシャルな男社会の友愛の絆じゃないですか。男の騎士や兵士の戦争、国家のために命を捧げる集団って、基本的にミソジニーホモフォビアをベースにする体育会系的な男社会じゃないですか?。えっと、セレストリアの騎士たちって仲がいいじゃないですか?、、、で、その中に、広木悠(グレン)が入っているのをみると、なんか、、、うん?ってグッとくるんですよね。彼女って、めちゃ雰囲気も容姿も思考も女の子なんだけど、でもやっぱりグレン(男の子)なんですよね。本当に自然にホモソーシャルな絆の中に女の子として自然に入っている。その境界がすごいバラバラ。でも、彼女(彼)は、悠でありグレンである「だけ」なんですよね。「自分」が「自分」であるだけなんです。


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この物語を全体的に見ていると、この「関係性が入り乱れている様」が、なんか自分的に、グッときてたまらないんですよ。


話がすげぇ飛んでますが、、、、自分、ペトロニウスの嗜好って、なんで百合ものが好きかと言うとシスターフット的なものへの憧れがあって、それって、成長とか勝つとかいった価値をベースにしているホモソーシャルな体育会男子校的なものへの拒否からきていると思うんです、だから「女の子になりたい」と言う性転換の物語やTSへの物語にグッとくるんですよね。『ざ・ちぇんじ!』が子供の頃から好きなのって、多分このラインだよなって。性別が変わりたいと言う逆転もの物語への希求が強くある。

TS衛生兵さんの成り上がり
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この辺も、そう(笑)。


えっとね、「しかしながら」、ペトロニウスの人生って、基本、男子校体育会系の生き方なんですよね。ホモソーシャルな絆の中で、勝利と成長を目指す!ってやつ。だから、このこと自体の尊さやかっこよさも、身に沁みて好きなんです。やっぱり、ホモソーシャルな男性同士の絆ってかっこいいし、良い物語なんですよ。立身出世の物語ですよね。やっぱり成長してなんぼじゃないか!との思いが、実人生からすごくある。


するとね、こんがらがるんですよ?


でも、、、、世界って、シスターフット的な百合的な関係性でも、ホモソーシャルな男同士の絆の、二元的な戦いじゃないわけじゃないですか?。そのどっちも尊くない?って思うんですよ。偏る必要なくないか?って。



そう言う話を物語を見て見たい!



と思った時に、『ボクラノキセキ』の、群像劇で転生モノで、しかも、いくつかのメチャクチャ王道をいっている恋愛もの(たとえばグレンとベロニカの恋愛とかね)を転生後だと、同性同士になちゃっていりくんでいるじゃないですか。


そんで、瀬々(ユージン)から皆見(ベロニカ)への愛の告白かよ!!!カラオケの密室で!!!(笑)



って、鼻息荒くなってしまって。



しかも、この愛の告白が、とても切ない。これって、とてもピュアというか尊いもので、、、、



封建制の中で家の「役割」の牢獄に生きている自分やベロニカの「役割」の牢獄からの自由であってほしいと言う思い、、、、



いいかえれば、「その人」が「その人自身である」ことができない世界の中で、「その人自身であったほしい」と言う切ない思いなんですよね。



これ、いい!!!



って唸ってしまった。この役割からの自由というのは、最近気づいていきたけれども、ぼくの人生のテーマなんだよなぁ。だから、これにグッとくる。この話が、容易に、封建制の家の存続の話に接続するので、ファンタジーの話とかと親和性が高いんだろうと思う。「自分」が「自分」であろうとする話。とはいえ、その話は、また今度。

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ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー 2023 評価が二分すると言われるこの作品をどう鑑賞すればよいのかについての補助線

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評価:★★★★☆星4.5
(僕的主観:★★★★星4つ)

2023年の5月に映画館に10歳の娘と見に行ったんですが、いやはや面白かった。娘と、クッパ(Bowser)がピーチ姫への熱愛の歌う熱唱するシーンで、大ウケで爆笑。どうでもいいことですが、バウザー(Bowser)の発音が自分にはサウザーに聞こえて、ずっと北斗の拳の聖帝サウザーを連想して一人含み笑いしていた(←どうでもいい感想)。娘が英語で見たいとせがむので原語版で見たけれども、4DXや3DXで「体感すべき」映画だなって思った。ゲームをしているもしくはテーマパークでのライドに乗っている感覚でした。スーパーマリオのゲームをやったことがある(ない人探す方が難しいかも)であれば誰でも楽しめて、基本は家族で行く、年齢を問わない映画ですね。年齢性別をこれだけ問わないタイプのお話は本当にめずらしい。デートにもファミリーにも、全てにOK。これぞ映画興行だ!。さすがの任天堂。誰と行っても、確実に楽しめる。ヒットしない方がおかしい素晴らしい作品。子供の頃から慣れ親しんで知っているゲームの世界の入り込み、立体空間を縦横無尽に「体感・体験できる」というのは、それだけで価値であり感動だと思います。

批評家受けが悪くて、この作品の評価を話題にする人が多いですが、そういう人は「言葉で語る」意味の呪いにかかっている人だよなって思います。明らかに、これって脚本の意味の一貫性などを問う作品ではなく、「体験の質」を問うべきであって、「ストーリーの意味」を問う時点で、かなり極端な映画の見方をしていると僕は感じます。映画の見方が悪い。これ主人公のマリオの成長物語として意味文脈を読み取ったら、薄いどころか何にもない話になってちゃうじゃないですか。「負け犬であるマリオ兄弟」が、何の努力もしないで異世界でヒーローになりましたっていう、陳腐すぎる瑕疵のある脚本と見るしかなくなる。いや、社会的なルーザーでダメな奴が、異世界に転生して、何もないのにチートで無双、夢想するって、どこかの国の「小説家になろう」サイトとかライトノベルとかマンガやアニメであふれているので、本当はこれこそが人が望んでいることだと僕は思うけど。それで、何が悪いのだ!。でも、その見方は、この作品の本質を何も問うことにならない。批評としては、批評するにレベルの低い視点だと思う。だって、そんなの言っても意味ない視点なんだもん。何にも生産性ない。

これって多分、フランスのリュミエール兄弟の発祥まで遡って問われてきた「映画とはなんなのか?」って本質の話なのかもしれないですね。僕は、映画ってのは、リュミエールの時代から本質的に、見世物小屋のエンターテイメントだと思っていて、面白い体験ができればそれで正しいと思っている。初期は、メリーゴーランドの映像だけで、「高さ視点(人の目線より高い)の違い」「速度(当時は村から出ない人がほとんど移動の自由が少なかった)の違い」のセンスオブワンダーを観客は感じてたわけだから。それで十分だった。そこに、近代的な一貫性の脚本の意味文脈なんか、問わなかったでしょうに。映画を総合芸術として、脚本の一貫性、キャラクターの動機の設定、目的・テーマから演繹的に逆算して、受け手に意図の通りの感興を引き起こせたかの評価をしたがるんですよね。特に批評家とか、文字を職業としている人は。それは、一つの評価の軸ではあると思うけれども、それではこの映画の「面白さ」や「観客が興奮することの本質」に何一つ届かない射程距離の低いものだと思う。

あの音楽とマリオがジャンプしまくるだけで、めちゃくちゃ満足しますよ。僕らは、任天堂ファミコン以来のゲームキッズなんですから。これってゲームをする楽しさと、本質的に同じものなんだろうと思う。
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最初に、自分の初見の感想を強く打ち出すのは、前情報や「分析的な解釈の視点」に毒されない自分の生の感想をメモしておくべきだからだと思っています。そうしないと、すぐ人はイデオロギーとか、「こういう角度で見るのが世の中の空気」みたいなものにからめ取られて、「自分の内面の声」が聞こえなくなってしまいます。この声はとても音が小さいので。


さて、自分的には、かなり面白かったのですが、この作品は、「批評家の評価と一般の観客の評価が正反対」というような「視点」が話題になって、そこにグダグダとこだわる人が散見されるという空気が、2023年の5月の時点で色濃い。この「空気的な視点」が、来年とか数ヶ月後にどうなっているかは、全然わからないので、この「文脈で話題になったんだよ」という経緯は残していくと、自分の思考・思索のアーカイブになると思っているので残します。この映画評価サイトのロッテントマトの評価も、数年後とかはどうなっているか全然分かりませんけどね。また日本語の記事で視点は提供されていたので、英語圏で本当にそんな視点で話題になっているのかは、よく分かりません。


The Super Mario Bros. Movie - Rotten Tomatoes


ただ、5月のアズキアライアカデミアの配信で分析しましたが、海燕さんが、この視点に内輪のライン雑談で異様にこだわるので、なんでそう感じるのか掘り下げてみようということになりました。

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この場合、海燕さんは基本的に、この映画の否定派で、僕が肯定寄りの中間で、LDさんが肯定派という3軸の感じで立場を設定して議論を進めてみました。ちなみに、まぁ、テーマパーク的体験世では素晴らしくて、シナリオはいまいちというのは、基本的に、すべての人が大体感じる「落ち着きどころ」なんですが、そういってしまうと、話が面白くない。ようは、鑑賞し終わったあと、ポジティヴな感情なのかネガティヴな感情なのかってのは大きいと思うんですよね。海燕さんは、マイナス。僕とLDさんがプラスとなった理由はどこにあるのか?を話すことを通して、この作品の「分析の仕方」の立て付けを用意したいと思いました。

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2時間強長いですが、今の時点で分析的に鑑賞しようとしたら必要なパーツや視覚はかなり網羅したと思います。やはり三人が同時に見ていて、リアルタイムの話題性があるやつは、議論が濃いですね。これだけ掘り下くと、かなり満足度が高い。議論の枠組みを簡単にサマっておきます。ちなみに僕の用語による、分かりやすくするためのかなり強引なまとめです。LDさんとかは、付帯意見や分岐の条件をつけたがるし、海燕さんはもっとマイルドなんですが、極論に言い切るように書き換えました(笑)。配信でも、僕がそのように誘導、司会していますし。ちなみに、もちろん長いだけあって、Youtubeの配信の方が、言語化して丁寧にブレイクダウンの議論をしているので、分かりやすいと思います。

1)批評家VS一般観客という視点は正しいのか?

   ポリコレ的でないから世界中で一般観客に売れて受け入れられているのは正しいのか?
   Twitterなどの空気で肯定派以外受け入れないという全体専制主義的な二元論(正しいか間違っているか)に対する海燕さんの嫌悪について
   ペトロニウス的な感覚では、作品についてイデオロギーで判定する人々は、そもそも「映画そのもの」を見ていない人たちなので、聞くに値しない
  
作品の具体的分析に入るのならば、シナリオのマリの成長物語のドラマ性がポイントになるはずなので、そこを掘ろう

2)マリオの成長物語として分析的に見た時に、シナリオの瑕疵があるから、この作品は駄作なのか?

  海燕さん立場:成長物語として瑕疵がありすぎて作品としてダメ
   →冒頭の家族のシーンによるマリオの問題点の指摘がオチに回収できていない
   →スターをとれば無敵だというオチがあまりに杜撰(ならばなんで最初にクッパがそれを使わない?)破綻しすぎ。

  ペトロニウス立場:成長物語としての構造的問題は同意。しかし、それを上回ってライド、テーマパーク的な体験性が豊かなので、全体的にプラス。

  LD立場:冒頭のエピソードから成長物語として捉える「ドラマ性」が発動しないので、マイナスとは思えない。
 
この物語のプラスマイナスの最終的な感覚は、マリオの成長物語としてのシナリオのドラマツルギーへの感情誘導が発動した人としない人で分かれている。であるのならば、冒頭の家族のシーンなどのマリオの「成長物語のしての克服ポイント(=克服される動機づけ)」から成長物語に突入したと感じる人とそうでない人の差はどこから生まれているのかの掘り下げが必要


3)文脈としての批評的視点の価値〜マリオの世界観、ブランド、積み上げ文脈からこの脚本には瑕疵があるけれども、瑕疵としては発動していない

ペトロニウスの立場の結論として、この作品を評価するには、二点。

(1)体験とシナリオのリンクをどう文脈から評価するか?

A)ライド・テーマパーク性としての映画の喜び

B)マリオの成長物語としての瑕疵のある脚本構造でのドラマへの感情誘導へ成功か不成功か?(要は気持ち悪いか悪くないか?)

観客、受け手がどちら側により多く誘導されているかで、この映画を楽しめた楽しめないが分かれる。この分かれ目は、A)とB)の「つながり」においてA)の体験のセンスオブワンダーに対して、シナリオの瑕疵、失敗が重大な阻害をしているかどうか?で評価できる。そういった批評的な視点では、「阻害していない」というのがペトロニウスの立場。だから、星が4.5の評価(満点は5)になる。この分析は、アバダーの1と2の評価をするときに同じ構造の例として取り上げている。アバダー2は、この「体験のセンスオブワンダー(=この場合は未知の星を探検、見ることができる喜び)」は、脚本の「白人のインディアンのへの贖罪」や「少数民族独立戦争の物語」と全然リンクしていないで、阻害してしまっているのでアバダー2は最低の作品。同じ構造だけど、脚本と映像体験のコンフリクトがあると、総合芸術としての映画としては駄作。邪魔しないスーパーマリオのような映画では、そこはマイナスポイントではない。

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(2)小説家になろう異世界転生物語の類型のプリミティブな物語の野生の喜びは否定すべきではない

「成長物語としての瑕疵・欠陥」は、確かにそうだが、近代的な物語の視点で見過ぎであって、「意味の病」だと思う。この辺は書くのしんどくなってきたので、配信聞いてください(笑)。


4)脚本をもっと突き詰めると『ドラゴンクエストユアストーリー』になるんじゃない?、むしろそこにまでいかなかった部分を評価すべきなのかも?

海燕さん、LDさん的立場

「成長物語としての瑕疵・欠陥」をさらに突き詰めて、このあたりの近代的な視点で掘り下げていくと、山崎貴監督の『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』(DRAGON QUEST Your Story)が思い浮かぶ。これと似た構造では?。けれども、マリオはそこまでいかなかった部分に成功があるんじゃないのか?等々。


ここはペトロニウスは未見なので、詳しく語れません。次回の6月のアズキアライアカデミア配信までに見て勉強しておきます。



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🔳ピーチ姫躍動の意味〜自己目的化した内ゲバポリコレから、自然な目線として安定化したポリコレへのシフト

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個人的には、ピーチ姫が、ノリノリでとても好き。CVは、『クイーンズ・ギャンビット』アニャ・テイラー=ジョイ(ANYA TAYLOR-JOY)ですね。ノリノリで、愛されて育った健康的なかわいさにあふれてる。捨て子というか親がいないでキノコ王国で育てられた設定ですが、それが故に国へ、まわりの人みんなへの愛あふれる様が、かわいい。QGのエリザベス・ハーモン役とかぶって感じてしまい、ちょっと涙目に。(←この見方は、だいぶレアケースだと思いますが(笑))。マリオたちは明らかにニューヨークのイタリア系ですが、ピーチ姫は、何系の顔立ちなんだろう。ちょっと、悪役令嬢っぽいというか、キツめ感じのなのに影が全くない感じが、健康的な魅力になっている。いや、この子、いい子だろ、、、。かなり好き。

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ちなみに、この部分に、LDさんが非常に、「過去のオリジナル作品の体験の一回生」との違いを見ていく中で、ピーチ姫はもっとおバカだったよね、昔という話が、すごく面白かった。僕は、この部分がすごく良くて、


ピーチ姫最高じゃん!!!



と感想を書いているのですが、その差異がどこからきたのかについて、倉本さんが丁寧に言語化していて、物凄く同意します。

これは多くの人が指摘していることですが、ピーチ姫が主役級にアクティブにバンバン戦いまくってる時点で、「昔のハリウッド&初期マリオゲーム」的な感じとは随分違う。

「いわゆるポリコレ」が嫌われている理由は、その作品自体の功罪というより「ポリコレ的な作品を褒め称えるために他のコンテンツをディスりまくる人がいる」というところにあると私は考えているんですが、実は「女の子もどんどん戦う」の歴史は日本コンテンツでも結構古くからあるんですね。

マリオにおいてもスーパーマリオRPGという作品があって、これは96年の作品ですが、最初は「いつも悪役にさらわれてその度にマリオが助けにいなかいといけないピーチ姫」みたいなネタから始まるんですが、途中から仲間になって大事な戦力になる展開になっているらしい。

ただし、「スーパーマリオRPG」のピーチ姫は、「ちょっとおバカな女の子」感があったし、戦闘面でも能力が回復寄りのサポート役だった…という話を聞きました(とはいえ最強武器を手に入れるとかなり前線でも結構戦えるキャラになるらしい)。

だから、「ポリコレの嵐が吹き荒れた時代」にも意味はあったんですよ。

スーパーマリオRPGのピーチ姫」から、「映画マリオのピーチ姫」の間には、興味がない人にはどうでもいいように見えるかもしれないが、自分たちも自然に社会参加したいと考える女性にとっては”非常に大事な違い”があるのだと思います。

でも、多くの人々は、バラバラの社会的党派の内側だけに引きこもってお互いを非難し続けるようなコンテンツよりも、多少アホっぽく見えても「みんな」と繋がれる理想主義を求めているのだと私は感じています。
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僕は、ポリティカルコレクトネスに対して、とても肯定的なんですが、同時にある種の人々のものの言い方が本当に嫌いなんですよね。この「違い」がよくわかっていなかったんですが、まさに、倉本さんがいうこの言語化は、同感です。

「いわゆるポリコレ」が嫌われている理由は、その作品自体の功罪というより「ポリコレ的な作品を褒め称えるために他のコンテンツをディスりまくる人がいる」というところにある

本当に良い作品は、ポリコレが自己目的化していなくて、ちゃんと意味ある自然な形で物語に浸透していると思うんです。昨今の支持されている作品はすべて、この「ポリコレ視点の自然な内面化」が起きていて、もうこれは前提だと思うんですよ。配管工のような職業を下に見るようなセンスのギャグはいっさい入れないというようなとても自然な形での「フェアネス」が入っている。このあたりの違いではなく共通部分での最適値を探そうという理想主義への回帰は、僕も次の時代の物語の大きなポイントだと思っています。

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この辺りはまた今後語って行きたいと思います。

『マイスモールランド』2022 川和田恵真監督 日本映画から難民問題を扱ったこのような映画がみれるとは思わなかった!と批評視点で言うよりもまず、嵐莉菜さんの演技が素晴らしすぎた!

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評価:★★★★★5つ(4.8)
(僕的主観:★★★★★5つ半)

🔳見たきっかけとあらすじ
映画通の友人におすすめされたのですが、それ以上にトレイラーの嵐莉菜さんガツンとやられた。だって無茶苦茶存在感あるでしょ、彼女。もちろん、ViViで専属モデルで、イラン、イラク、ロシア、ドイツ、日本(Wikiより)にルーツを持つとびきりの美人さんなんですが、失礼な言い方をすると、モデルって往々にして、整いすぎていて人形のような感じになってしまい、あまり存在感の圧を感じないことが多い気がするのですが、適当な検索の写真を見ただけで、圧倒的な圧があって、もうそれだけで見なきゃと思ってみました。そして、それは全く裏切られなかった。初の演技とのことですが、ちょっと信じられないくらいの見事な演技でした最初は嵐さんのバックグランド、前情報なしに、知らずにみていたので、こんなに可愛いし、かといって、あまりに普通の日本人高校生だし、日本語もトルコ語も綺麗だし、でもって顔立ちは確かに外国の血が入っているのもわかるし、いったい監督は、この役者をどこで見つけてきたんだ???と唸ってみていました。いやはや、極端な話、普通の日本人のティーンの女の子を抜擢しただけなんですが、こんな存在が普通のいるのか日本!って、ちょっと驚きました。いや普通じゃないか、、、演技力、本当に驚嘆するレベルでした。


非常に単純にまとめると、日本で生まれ育った埼玉県川口市にクラス17歳の女子高生チョーラク・サーリャ(嵐莉菜)というクルド人の日常の物語。けれども、日本の学園ものの日常系ではありえないような、非日常が彼女と彼女の家族にはついて回る。それは、サーリャの父であるチョーラク・マズルム(なんと嵐莉菜の実のお父さん!)は、クルド難民として申請をしていたのだが、難民申請が却下されるところから物語は始まる。

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https://www.imdb.com/title/tt16410620/

下記で別項立てて説明しているが、これが日本における難民認定問題などの社会問題を扱っている硬派物語であるだけではなく、まるで少女マンガなどの青春成長物語になっているところが、素晴らしいと思っている。こう言った物語でリアルさ(=現実がどれだけ厳しいか)みたいなリアリズムを追い詰めていくと、いくらでも悲劇的な結末に持って行くことは可能だ。お父さんが難民認定を取り消されて、無期で入管に拘束されてから、働くことも法律上できず、どんどんサーリャは追い詰められていく。三人兄弟の長女的な、長女気質の真面目になんでも抱え込む難儀な性格が、あますところなく表現されていて、生真面目だなぁと思いながらも、こう言った生真面目さはとても危うく、ごろごりとすり鉢で削られて蟻地獄に落ちていくような堕ち方をしやすい。ものすごくわかりやすく、友人に勧められてパパ活を初めてしまって、リーマンの男とカラオケをするのだけれども、襲われそうになってしまう。このルートでお金がないと、通常は水商売や風俗にまっしぐらだろうなと思う。こういう物理的に落ちていく悲劇の物語って、よくありますよね。


ただ、「そのルート」としても見ててものすごい怖いっていうか恐怖があって、彼女はたぶんスーパー男尊女卑の部族社会の中で生きているんです。明言は避けているけれどもイスラム教的な(チャーシュー食べているからイスラムではないと思うけど)宗教を頑固に信じている父親に育てられていると、これ、たとえば、一旦風俗に堕ちたりしたら、もうコミュニティにも戻れないし家族の崩壊感半端なくなるし、、、それに、コンビニのバイドで一緒で同学年の聡太(奥平大兼)とほのかな恋仲になって話は進むんですが、見ててキスしそうになるのすら怖い。ノラ・トゥーミー 監督の『生きのびるために(The Breadwinner)』とかでもいいですが、厳格な部族で男尊女卑のあの辺の社会の拘束の中で生きてたら、日本の少女マンガ的な唇に触れただけのキスとかでも、親に殺されちゃうんじゃないって(彼女の父親はそんな狂信的フアナティックではないけれども)見ててハラハラしてしまう。日本の社会(日常)に生きながら、異なる文化文脈に生きているコンフリクト感をとても感じる。

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聡太(奥平大兼)めちゃいい男の子だし、二人のほのかな恋愛は、とても尊い感じがして、少女マンガ風味がある。この流れなら、軽いキスとか、抱きしめるとか、ありでしょ!という日本の少女マンガ文脈を感じるが、同時に、彼女の生きている文化的背景を連想すると、胸が重くなって、、、、これもまた異文化理解というか体験なんだろうと、非常に感心した。日本の普通の女子高生であるサーリャに許嫁がいて、父親から強制的に結婚を指示される文脈が常に暗黙で隠れていて、周りのコミュニティもそれを当然の如く受け取っている、、、、普通の日本人の女子高生のサーリャにとって、ものすごい心的負担になるのは、見ててもう明らかで、感情移入している分、ほんとしんどかった。イスラム系の女性の生き方の話では、『サトコとナダ』なんかも補助線になると思うのでおすすめ。

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それにしても、ああ、昔の日本の家の許嫁とかも、こういう縛りなんだろうなぁと思う。そうか・・・そう考えると同じものなのか。先日、邦画の『あの子は貴族』を見てたんだけど、最上層階級の上級国民の男が、後継、結婚など、ブリーダーがその血統を繁殖させつ増やすような無理がかかっていて、お金ががあってエリート極まる方の良家の子女こそむしろ、きつい拘束に縛られて生きているのだなぁとしみじみしたものと重なった。

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これってよしながふみさんの『大奥』なんかもそうだけれども、決して女性だけが苦しいわけではなくて、「家」を存続するための血統維持という呪いにも等しい拘束が、関係者全員の人生を支配している。いまコテンラジオのエリザベス1世の回を聞いているのだけれども、ヨーロッパの歴史もひたすら家の歴史ですよね。この頃は、フランスのヴァロア王家とスペイン(だけじゃないけど)ハプスブルグ家。この辺りのヨーロッパの王家って、ハプスブルグ怪我特調停な戦略だけど、結婚よって領土を拡大するから、もうこのブリーダによる繁殖の血統維持の呪いの悲劇の塊ですよね。話がずれましたが・・・。

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おっと、青春物語の話でした。なぜこの日本における難民を扱った悲劇の物語が、青春映画のようにポジティブに、ペトロニウスは感じるか?の視点ですね。人によって、かなり解釈や受ける印象が、分かれる部分ではないかと思うので、ここがこの映画の脚本のイシューだなって思うのです。これね、さっきの貧困でお金がなくて水商売に落ち込んでいくルートとか、厳格な男尊女卑の社会の父親に支配される少女のストーリーみたいなパーツは、たしかにあるんですよね。それぞれのエピソードで過去の昭和的ないわゆる「日本映画」みたいなのは簡単に一本作れてしまう。僕的には、いわゆる「昭和的な物語」だと思う。貧病苦がベースにあった頃の物語。一直線で、避けようがなく、物理的。この作品も、やっぱりその「流れ」は感じるんですよね。だって、わかりやすい「苦しみ」の物語なわけだし。物語としては作りやすい、悲劇だよね。


けれども、ああ、新世代の物語というか、令和の時代なんだなぁと思うのは、やはり見事なラストシーン。監督は最後のこのシーンを、どのように演技指導というか、指示したんだろうってとても興味深く思いました。というのは、この最後のシーンは、明らかに未来に対する「意志」を感じさせるからです。このシーンから逆算すると、全ての苦しみが、なんというか単なる苦しみや悲劇で回収しない強い意志を帯びるので、とても爽やかな感じがするんです。ネタバレ的ですが、この最後の見事な演技のシーンから、この映画の全体像を逆算して捉えてほしいのです。


えっと、このシーンから逆算する意味の解釈をする前に、、、、これほどの強い意志を感じさせるドアップのカットの演技って、いやはや嵐莉菜さん、素晴らしすぎる。なんというか、まるで演技のマンガの『ガラスの仮面』とか『アクタージュ』とか見ている気分になるくらい、もう明確に演技力がすごい。


洗面所で顔を洗って、両手で顔を叩き、目をギュッとつぶって、それからゆっくり目を開けて意志的な眼差しで少し上の方を見る。


いやはや、このワンカットのシーンだけで、彼女がこれから、これらの「自分がコントロールできない出来事に翻弄される」だけではなく、それに意志を持って対峙していくことが明示的に伝わってくる。監督の脚本意図は明確だとは思うが、これを「演技で表現しろ」ってかなりの無茶振りだと思う。だって新人のティーンのモデルの女の子にだよ。いやはや、本当にすごい。天才というのか、それとも彼女の役にあっていたのか、どちらにせよ、素晴らしい演技で、僕は胸に突き刺さるような勇気をもらいました。いやまぁ、めちゃくちゃ美人なんですが、それにしても映画の中の演技は、素晴らしかった。等身大の日本の女子高生の感じがとても伝わってきて、不自然さを全く感じなかった。不自然なくらい美人(笑)なんだけど、あまりに演技がナチュラルで。

ええと、まとめると、昭和的な日本映画の悲劇ならば、難民認定がされずに、生きていく術もない、この3兄弟には、地獄しか待っていないわけです。長女と次女がなんとか水商売にでも堕ちて稼いで生きていく悲劇になっても、長女はお姉さん気質の真面目なタイプで融通が効かないから、多分パパ活とか売春とか明らかに上手くできなさそうだし、破滅しか思い浮かばない。日本映画的には、いかに「世間、社会の悲劇と悪を告発」して、リアリズム的に映画を終わらせることができる。社会のリアリズムってこいうものでしょという、なんというか「そのようにまとめておけば」評論家とかに評価されやすいでしょう?という感じで。逆に、これを、希望を持たせる「これから意志的に頑張っていく」シーンを撮影すると、エンターテイメントとしては美しいし、気持ちいいけれども、批評家ウケをしにくくなる気がする。だって、エンタメにおもねったなとか、簡単に文句言われそう。つまりは、ラストシーンをどう扱うかで、この映画の難民認定問題や日本の入国管理制度の壊れている問題点を、どのように「意味づけるか」が決まってしまうんです。だから、あまり意志的で希望に満ちたシーンにしてしまうと、社会のマクロの問題点を、個人の意思で還元して戦わせるのか?というお決まりの批判が出てくるように感じます。


なのに、川和田恵真監督は、ここに強く意思的な女優の意志的な目線のシーンで終わらせている。


こうした「意味の文脈」ぶっ飛ばすくらいの存在感のある演技を女優に要求するほど、信頼があったとしか思えない。そして、それに見事に嵐莉菜さんは、返している。この存在感ある演技があっての話だとは思うのですが、とても令和的だなと思うのは、これは僕の個人的な心象風景なんですが、


1)平成の30年を過ぎて、既に高度成長もバブルも終わり、低安定の衰退していく日本社会の中で、既にそこに住んでいる子どもたちは、貧病苦的な悲劇の物語(立身出世と対になる大きな物語)というのは受けつけていない感じがするんですよね。これは僕らアズキアライアカデミアでもずっと分析している「新世界系以後」とかの概念なんですが、これ同級生の聡太(奥平大兼)くんも、決して裕福じゃないですよね。片親だし。でも、既にそういうのを嘆く時代は終わっていて、まぁ「そういうこと(貧乏などで人生が閉ざされる)」というのはランダムによく起こり得るし、それは所与のものとして受け入れて生きるしかないという、明るい諦念がある気がするんです。だって、社会が高度成長でもしていない限り、基本的にパイの奪い合いで、あまりラッキーな解決策や希望に未知な未来なんか運よく訪れない。そんな中で、あまりご都合主義の期待をしても仕方がないと諦めているんです。けどこの諦めは、けっして、暗い悲劇としての我慢とかではないし、まぁ、しょうがないよね、ランダムに死んだりするよね、的な絶望を超えていると、これが意外に明るいんですよね。この辺りに話はマンガの『鬼滅の刃』や『約束のネバーランド』などで話してきた感覚です。


2)しかしながらこうした、ポジティブな諦念を描くと、すぐ批評家から批判がくるんですよね。「社会問題を、自らの主体的な意思で変えていく意志を放棄させるような作品はダメだ」と。これって新海誠監督の『天気の子』でかなりされていた批判ですが、これ自体は、まぁ論理的にはそうかもなぁって僕も、感覚的には嫌いだけど、思っていました。この辺は近代人の呪いだなって思います。主体的な市民の意思で、社会をよりよく建設していく「べき」というコントロール至上主義。近代市民資本主義社会での、前提。

けれど、最近、あ、これは違うなって分解できるようになってきました。この「成長至上主義」に自分が嫌悪を感じる感情的なものに、少しづつ言語化ができる気がしています。

えーとですね。批評家の三宅香帆さんの上記のツイートを見て、ビビッと思ったんですよね。えーっと、僕の勝手の解釈というか連想なんですが、昭和的な物語のルーティンであれば、多分貧乏に追い詰められて、社会の底辺の人間がすり潰されて抹殺されていることに「告発の声をあげる」ような左翼的な、もしくは近代人的な言説が、意味もあったし、リアリティがあったんですよ。なぜならば、社会に余裕がなかったから、社会の底辺にいるような弱いものは排除されて切り捨てられる・・・・・・というような悲劇の物語がベースに共同幻想としてあった気がするんですよね。でもこれ、ちょっと嘘があるんじゃないかと思うんですよね。「近代の成長の物語という大きな物語」に社会の過半の人々が参加して邁進しているので、「そこ」に外れた人を抹殺して切り捨てているだけなんじゃないのかと。ええと、どういうことかかというと、令和の、2023年の2020年代の日本って、高度成長期よりも余裕はないし、未来はないですよね?経済的に物理的に衰退しているし、パイがどんどん小さくなっている。


「にもかかわらず」、結構みんな、優しくない?って気がするんですよね。


もっとストレートにいうと、貧しく苦しい(はずの)2020年代のいまの方が、社会に余裕があって、みんな全体最適の「善」に気を配っていないか?と思うんです。赤坂アカさんの『かぐや様は告らせたい』や福田晋一さんの『その着せ替え人形は恋をする』、渡航さんの『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』ような学園ものの、描き方で、問題にぶちあたった時の解決方法がかなり変わってきているんじゃないか?と思うんですよね。どれも、一昔前の、僕的な「昭和的な」物語であったら、解決が難しかった学園内の問題や家庭内問題を、けっこう鮮やかに「全体最適的な善」で解決するんですよね。これって、ものすごく社会の構成員たる若者ものたちが、知恵があるって感じがするんですよね。あと、基本的に善人。


上記の三宅さんの指摘が、なるほど!と思ったのは、大きな社会のパラダイムの転換があると思うんですよね。


僕がここでいう「昭和的な物語」というのは、サバイバル(=生き残り・強者が勝ち、弱者を切り捨てる)ゲームをしているんですよね。


けれど、令和の今のゲームは、リソースこそないけれども(社会が貧しくなっている)、構成員の若者が、「昭和的な物語の問題点や行き着く果て」をコモンセンスとして既に共有の知識にしているんですよね。だから、そうならないように、知恵を少し絞ろうよというふうに「みんな」に働きかける。『かぐや様は告らせたい』におけるいじめの解決方法が、素晴らしく秀逸だったので、僕は感心したんですよね。これSNSの問題点、同調圧力の問題点とか、日本的な共同体やテクノロジーの行き着く先を、みんな理解しているんで、それを、ちょっとした善意を集めてズラしてしまおうとするんですよね。かぐやが、石上優の学年内での評価をひっくり返してしまうエピソードのことです。これっていじめ問題とか、サバイバル・ゲームによる生き残りゲームの戦い方は、誰にとっても得じゃないよね、というのを「最初からわかっているメンバー」によって、「違う解決方法を考えようよ」という新時代のコモンセンスを感じるんですよね。物語の類型的に、サバイバルの生き残りバトルロワイヤルが、時代遅れになりつつあるのって、大きなポイントだと思いませんか?。


これって、社会問題があるのを「受け入れてしまう」という心性や物語の描き方はダメだという、左翼的、近代人的な批判に対して、有効な射程距離のある物語の返答・反論だと思うんです。


2020年代の若者のというか、僕のようなアラフィフのおっさんですらも、既に、サバイバルゲームの、弱者切り捨てゲームに飽きてきているんですよ。それは、簡単な話で「昭和的なサバイバルゲームでは99%の人は切り捨てられる」わけで、ほとんど全ての人(自分も含まれちゃう)が切り捨てられるゲームなんか、やるのいやじゃないですか。でも、物理的に「それ以外の選択肢」がなかったので、悲劇の物語に回収されるしかなかった。弱者切り捨てられて、すり潰されるしかなかった。だからメディア、映画や物語のリアリズムは、「それへの告発機能」を重要視せざるを得なかった。けど、、、、このゲームが、ルールチェンジというか、ゲーム自体が変更されてきていて、それは、たぶん社会の構成員が、このサバイバルゲームという大きな物語にコミット=参加したら、死ぬだけだからしない方がいいよね------違う方法を考えようよ、いうふうに教育が、実感が行き渡ったんじゃないかと思うんですよね。なので、「異なる選択肢を考えよう」という振る舞いに、賛同が得られやすくなっている。なので、「全体最適な善」への賛同が集めやすいんだろうと思うんですよ。


かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~ 28 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)



という新世代以降的な文脈の中で、ラストシーンの意思的な視線は、成熟し低位安定している日本社会なら、やりようはあるぜ!という希望を感じるんです。


もちろん、物理的な日本の難民認定の問題とか、昭和の遺物というか、そういうものはたくさん残っています。しかし、たとえば、同級生の聡太(奥平大兼)くんとか弁護士の先生とか、助けてくれる、知恵を結集してなんらかの物理的なブレイクスルーと一緒に探してくれるくらいには、日本社会は、いい奴がたくさん増えていると思うんです。移民問題や入国管理の問題は、別に日本だけが、クズで最低なわけではありません。ここガが治外法権なのは、世界中どこでも同じです。でもそれを変えていこうという成熟した意思は、僕らは、日本社会に住まう人々は持っていると思うんですよね。


というような、希望をすごく感じるし、何よりも、それにふさわしい、若く、意思的な視線の演技は、本当に素晴らしかったです。



🔳日本映画の中から雇用な難民・移民を問いかけるテーマの物語が出てくるとは?


川和田恵真さん、すごい良い仕事をしたなと思う。上から目線な言い方で恐縮ですが、素晴らしい物語だった。

普通の高校生として、教師になることを夢見るたり、コンビニでバイトする姿は、まごうことなき日本の高校生。たしかに、彼女はトルコ語を話し、クルドのコミュニティの中で生きているのだけれども、「嵐莉菜さん」と言う存在の中で、リアルとして地続きになっているのがあまりに自然に伝わってくる。これ彼女以外が演じたら、この「圧倒的な自然なシームレス感」生まれなかったと思う。このシームレスーーーー言い換えれつなぎ目がない感じがあるからこそ、日本人で男性でというマジョリティ側の僕のような受け手も、日本語を話す日本人として自然に感情移入がなされてしまう。これは、素晴らしい傑作だ。


なぜならば、こういった社会問題がテーマになっていいる物語で最大の演出ポイントは、受け手の視聴者に「自分ごと」として感情移入を迫れるか?ということが往々にして問題だからだ。


自分とはまるで関係のない、難民認定問題が、日本の自分が生きているコミュニティにシームレスにつながっているという手応え、実感をさせるという意味では、監督の川和田恵真さんは、見事な仕事をしていると思う。あまり細かいことを言っても仕方ないのだが、しゃべらせる言語の選択や、宗教についての名言を避けること、クルディスタンに住むクルド人の話としながらも、具体的にどこの国家からの難民かなどが明言を避けて属性を絞っているのは、監督が脚本を考え抜いて微細に作り上げている証左だと思う。

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日本社会の同質性の強さの中に、別の切り口をもたらして、センスオブワンダーを感じさせてくれる、、、というと物語のためにあるみたいでよくない言い方かもしれないが、同じような感覚をヤンヨンヒ監督の『家族の国』でも感じた。脱北者の問題は、『トルーノース』も同時に見てみたいところ。


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🔳アメリカ映画との移民の比較

上の話とリンクするんですが、この作品って移民問題の日本版じゃないですか。最近見た『ブルー・バイユー(Blue Bayou)』とかめっちゃくちゃ同じ話だよなって思うんですが、受け取り方があまりに違って自分でも驚いた。自分でも長くアメリカに住んでいて、VISAとかの滞在ステイタスについては色々な体験があるので、それほど夢のようなファンタジーではないはずなのに、それでも、やっぱりどこか遠い国の出来事的な「実感なさ」があったんだなと、今回の映画を見てしみじみ思いました。やはり日本語で、、、、単純に日本語だけではなくて、サーリャ(嵐莉菜)が仁保の女子高校生としての存在がとても自然なので、自分の頭の中で「日本の日常生活」とものすごくスムーズに接続されたから、実感が強いんだろうと思う。そういう意味で、これが日本映画というのが、本当に素晴らしいと思う。


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2023-0406【物語三昧 :Vol181】『ブルー・バイユー(Blue Bayou)』2021 韓国系アメリカ人の経験した強制退去の実話ベースの物語188


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2018年の町山さんの記事ですが、難民や移民の問題、滞在ステイタスの問題は、本当にどこの国でも、さまざまな闇がある。この機会に、こういう視点で世界を眺めてみるのも良いと思います。

町山智浩)それは州政府ですね。カリフォルニアの州の問題で。カリフォルニア州はずっと80年代から累積赤字がすごくて。それを返済するので大変なんで赤字なんですけど、それとはまた別の問題なんです。これは赤字でストップしているんじゃないんですよ。予算案が通らないから、ストップしているんですね。その原因は、ドナルド・トランプが秋に「ダッカ(DACA)」というんですけども。物心つかない頃に親に連れられてアメリカに入国した人たちがみんな、大人になりつつあるわけですけども。彼らを国外に叩き出そうとしているんですね。そういうことをドナルド・トランプがしようとしまして。

山里亮太)はい。

町山智浩)どうしてかというと、彼らは結局アメリカ以外は知らないわけですよ。自分の過失や意志ではなくて、親に連れられてアメリカに不法入国したんで、それをアメリカしか知らない、アメリカ人でしかない彼らをアメリカから叩き出すのはおかしい!っていうことで、オバマ政権の時に、彼らがアメリカ人になれるよう、市民権を取れるように法律を整備したんですけども。ドナルド・トランプが彼らを全部、とにかく叩き出すと言っているんで、民主党共和党の一部がそれに反対して、真偽が進まないんでストップしていたんですね。

山里亮太)ふんふん。

町山智浩)で、その彼らのことを「ドリーマー」って呼ぶんですけども。「夢見る人たち」っていうことですね。で、それはアメリカン・ドリームですよ。アメリカ人になるという夢ですよね。で、彼らはアメリカしか知らないんだから、アメリカ人になるって言われても、困るわけですけども。アメリカはアメリカで生まれれば、誰でもアメリカの国籍を取れるんですけど、ちっちゃい頃とか赤ん坊の頃に連れてこられた人たちは取れないんですよ。

山里亮太)へー!

町山智浩)ただ、彼らはアメリカしか知らないから、完全にアメリカ人ですよね。社会的にはね。その人たちの地位を守ろうと言っている派と、全部叩き出せ!って言っているトランプとでモメているわけですよ。
町山智浩 2018年アメリカ政府機能停止を語る | miyearnZZ Labo


🔳記号で感じ方が変わることをどう捉えるか?


今回は、入国管理の問題で日本の入管の酷さが、とても際立って感じました。司法と並んで日本の近代化されていない闇の部分の一つですからね。でも同時に、ちょっとバイアスかかりすぎるなぁと感じもしました。だって、サーリャ(嵐莉菜)かわいすぎるんで。こんな美人で、いい子であったら、無条件の応援しちゃうじゃないですか。記号が、あまりに良すぎると、それもまたバイアスってかかるよなぁとしみじみ思いました。ふと、セーブザチルドレンが作ったプロパガンダ映像を思い出しました。あえてネガティブにプロパガンダと書きますが、最初は捏造であること伏せていたので、人々の意識を喚起するためならば嘘も構わないという正義の独善が見えて怖いなって思いました。まぁ、こういうのもそのうち増えすぎて世の中に溢れて影響力がなくなっていくものなんでしょうけれども。でもこの映像を見たときに、白人の少女だからこれだけ反響を産んだんじゃないか?というよう話も多く出ていました。

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アフリカで紛争はたくさんあるのに無視されているのに、なんでウクライナの戦争だけ、そんなに感情移入されて支援されるのかというのも、「感情移入しやすい記号」をどう操作するかというメタ的な視点が出ていつもいろいろ考えていまします。結論は、やはり慣れて、勉強して、バイアスに騙されない体制をつけるしかないよなって思います。コントロールしたり表現を規制することは、難しいでしょうから。


🔳日本の入管難民制度には、法の支配が及ばない欠陥があること

ウィシュマさん死亡事件は、2021年(令和3年)3月6日、名古屋出入国在留管理局に収容中のスリランカ国籍の女性が死亡した事件ですが、入管の問題を扱うと、最近だとこれをすぐ連想します。正直に話し、僕はこの辺りにはほとんど知見がなくて、この事件すらもよくわかっていない。ただ、人伝で聞いていてるレベルであるが、日本の入国管理は本当に酷いらしい。皆一様に、最低だというような吐き捨てるような反応する人が多い。そして最後に必ず締めとして言われるのは、反日の人間の製造装置という言葉。ここにお世話になった外国人は、皆日本を恨みまくって帰国らしい。

劇中でも言及されているが、一度収容されると、出ることは極めて難しくなる。
個人が心身の自由を奪われるのだから、普通の刑事事件なら当然裁判所の令状が必要になるが、なぜか入管の収容では不要とされているのだ。
外に出るために再び仮放免を申請しても、許可する許可しないの裁量権も入管にあるため、よほどの事情がない限り認められず、数ヶ月も、時には何年も収容されたまま。
事実上、入管施設という名前の刑務所であり、強制収容所である。
裁判に訴えて勝つか、諦めて日本を去らない限り、未来の見えない状況は、収容者に多大な肉体的、精神的なストレスを与える。
名古屋入管でスリランカ人女性が死亡した事件は記憶に新しく、過去にも自殺者や、ハンストの末の餓死者も出ている。
現在の日本の入管難民制度には、法の支配が及ばない欠陥があることを、日本人は知っておくべきだろう。

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2020年代の日本社会は、僕はとても成熟した議会制民主主義の国だと思うが、それがすなわち闇や問題点が一切ないというわけでは、もちろんない。僕がパッと思うだけで、司法・検察がウルトラ優秀ではあるものの、まだ封建社会のレベルだと思うし、この入管もまた酷い闇だと思う。でも、個別のミクロの「悪さ」を批判して憎んでも仕方がなくて、要はこういうのは制度的な問題で、何が問題か考えるべきだと思う。入管がなんで、そんなにおかしなことばかり起きるのかといえば、非常に簡単で第三者における監視、監査がないからに決まっている。要は治外法権なんだろうと思う。日本の司法とか検察も、三権分立がちゃんと機能してないが故の、バランスオブパワーが効いていないから、極端になっているんだと思う。でもシステム的に手を入れるに一番大事なのは、僕はやはり「みんなが知っていること」「社会の構成員が、そのシステムは問題点があると認識していること」なんだろうと思う。上で、かぐや様のマンガで言及したような、リテラシーというか、、、うーんリテラシーというよりは、みんなが常識だと思うこと、それって当たり前だよねと思うこと=コモンセンスなんだろうと思う。日本では、この司法や入管に問題があることが、ほとんど認識されていないように思える。非常に単純な話で、それをテーマにしたエンターテイメントの物語が、ほとんどない。警察を描いた刑事物のドラマやエンタメは、腐るほどあるのに、その上位機関である警察官僚や司法官僚についてのドラマだと極端に少なくなる。それを問題だと認識している人が少ないので、テーマとして取り上げにくいんだろうと思う。だからこそ、『マイスモールランド』のような物語が登場してくれたことは、僕はすごい嬉しい。それだけでなく、何よりも大きいのは、面白い。とても爽やかな青春モノでもあるとと思うから人に薦めやすい。女優の嵐莉菜さんも、めちゃくちゃ演技うまくて、推せる。。。。僕は、大事なのは「そういうこと」なんだと思うんです。一言で言えば、硬派で硬い話で、社会問題を知るきっかけになるけれども、それ以上に、「面白かった」もの。本当に良い映画でした。

『モンタナの目撃者』2021 テイラー・シェリダン監督 森林火災とアンジーの組み合わせならばもっと振り切れたものが見たかった。おしい。


評価:★★★★4つ(4.0)
(僕的主観:★★★☆3つ半)

アメリカの現代を描く映画監督というと、このテイラー・シェリダン監督が良いなぁ僕は最近強く感じる。なんといっても現代西部劇三部作と言われるあの作品群の印象が鮮烈です。モンタナやワイオミングなど、舞台設定もいい。アメリカの本質の一つでありながら、アメリカ人以外にはすごく馴染みの薄い場所だから。その流れでこの監督は追わなければと強く思っていたので、やっと見れた感じ。と、期待値を上げて『モンタナの目撃者』(Those Who Wish Me Dead)を見たんですが、、、残念ながら全体的に普通の作品。11年ぶりのアンジェリーナ・ジョリーの本格アクションと銘打たれていたところから、ハリウッド的な大作感を狙ったのかなと思います。その意図通りシンプルで、いかにもハリウッド的アクションスリラーに仕上がっているのですが、なんとも軽い感じになってしまい、テイラー・シェリダンの持ち味にしては、中途半端感を感じる。


物語は、なんらかの「秘密(これが最後までなんなのか分からない)」を握って殺されそうになっている男(多分会計士)が息子を連れて、モンタナに逃げるという話。その途中で父親は殺され、生き残った少年コナーが、なんとか逃げようとするところを、アンジェリーナ・ジョリーが演じる山林火災初動部隊(スモーク・ジャンパー)のハンナ・フェイバーが、追ってくる敵と戦いながら、コナーと逃げていくという話。物語的には、ハンナ(アンジー)が過去に、森林火災において子供を救えなかったというトラウマを持っており、そのトラウマをどう克服するか?という動機のラインと、コナーという少年が、マフィア?なのかなんなのかなんらかの巨悪の手先で不正を握りつぶそうとする追ってから逃げる逃走劇の2軸から成り立っている。


1)森林消防士のハンナ(アンジー)の過去のトラウマの克服

2)父親から不正告発を託された少年コナーの逃走

無慈悲な殺し屋と狙われる少年、彼を助けるはみ出し者と、モチーフはテイラー・シェリダンらしいし、とても面白いのだが、過去作と比べると軽量級の印象。
これはたぶん、社会性の有無によるものだろう。
例えば「ボーダーライン」や「ウィンド・リバー」では、物語の背景にメキシコの麻薬戦争の利権とか、不毛の荒野に押し込められた先住民の貧困問題などがドーンと置かれていて、表層で起こる事件の奥に底無しの闇を感じさせていた。
本作には、このような背景要素が無いのだ。

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このコナー少年に委託されたなんらかの大きな悪の証拠の「秘密」をうまくストーリーに繋げれば、テイラー・シェリダンの味が出たはずなので、できなくなはなかったと思うんですよね。ノラネコさんが指摘している通りだと思う。モンタナの広大な自然が舞台な感じも、過去の三部作とのつながりを感じるし。しかしながら、そういうものが全然ないので、アメリカの社会が持つ底知れない闇という「より大きな問題意識」に接続されていないので、個々の登場人物たちの想い・モチヴェーションが、ただの個人的な葛藤にすぎなくなる。それぞれの仕事を見るに、かなりいろいろ設定できるはずなので、これもノラネコさんお指摘する通り、「今回やりたいこと」ではなかったんだろうなぁと確かに思う。本当は、もっともっとアンジーが軸のハリウッドスリラーにしたかったのではないかと思う。にしては、ちょっと惜しい。


なぜならば、やはりこの作品の「絵としての迫力ポイント」は、森林消防士という仕事をどう取り込むかなんだと思うんですよね。消防士の映画で思いつくのはロン・ハワード監督の『バックドラフト』(Backdraft)1991年とかだし、日本の物語で言うと曽田正人のマンガ『め組の大吾』のインドネシア編などなど、いろいろ思いつくところがある。絵的にも職業的にも、ちょっと頭がお花畑だけど、たまらなくかっこいいマイケル・ベイ監督の『アルマゲドン』(Armageddon)1998年とかのテイストまでぶっ飛ぶことも可能だったのではないかと思うのですが、変にテイラーシェリダン風味からスタートしているので、頭をお花畑に振り切れなかった気がする。いた普通に面白いんですけれども。

め組の大吾(1) (少年サンデーコミックス)

この悪の追手は、なんでか実は意味があまり分からないのだが、森林に火を放つなつんですよね。この辺も、もう少し主題に組み込みたかったところ。でも、実際はハンナ(アンジー)の持っているトラウマは、少年たちを救えなかったと言う「命を救えなかった」と言うミクロの視点で解消されており、コナーを救えたから、スッキリしちゃっている。これではダメだ。曽田正人の『め組の大吾』が傑作たり得たのは、大吾という主人公が、「人を一人救うだけでは全く満足できなくて」、言い換えれば彼が自分を救うには、トラウマを解消するには、「救われなかった自分を救えること=社会から火災で命を落とす人がいなくなる」というマクロ大の視点まで、欲望が肥大化してしまっていて、世界中の火災で苦しむ人を救おうと、行動がどんどんインフレしていくところに、あの社会の主人公が社会大のヒーローたり得るポイントがあった。だから、森林火災が起きても、ハンナは、「火災事態をなくす」とか、火災で被害を受ける人々全てを救うというマクロの視点は、カケラもない。もちろん、テイラー・シェリダン監督は、この「社会大のマクロ的な大きな連鎖」から抜け出せなくなってすり潰されている人々をミクロの視点で描く人なので、明らかに相性が悪かった気がする。そんな英雄気取りの視点は、多分彼には思いつかないんだろう。


ただ、アメリカの森林火災の凄さは、本当に凄まじく、ここで英雄的な物語をハリウッド的スリラーで作るという野望自体は、本当は成就して欲しいモチーフではあるんだけど。森林消防隊の空挺部隊見たいのは、めちゃくちゃカッコよさそうなんだけど、いやはや全く出番なくて、え、こいつらいらないんじゃないの?ぐらいにしか思えなかったのは、残念。


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そういう意味では、なんというか普通に面白い作品で、テイラー・シェリダン作品の持ち味としては、イマイチ。


ただし、ああここはとしみじみ思った部分はある。ハンナの元男夫で同僚のジョナサン・E・“ジョン”・バーンサル(Jonathan E. "Jon" Bernthal)が演じるイーサン・ソーヤーと、その奥さんの妊婦、メディナ・センゴア演じるアリソン・ソーヤーの夫婦は最高だった。脇役以外の何者でもないのだが、これが劇中重い存在感を放つ。

ジョン・パーサルとメディナ・センゴアの夫婦は、むちゃくちゃ素敵かつカッコよかった。特に妊婦役のメディナ・センゴアは、かつて描かれた妊婦役の中で最も最高のアイコンなんじゃないかと思う。この辺の落差の感覚は、妙に細かいところで新しく深い感じが、テイラー・シェリダンらしい。ええとですね、ペトロニウスが、深く感じ入ったのは2点です。


1)男らしくマッチョなシェリフの仕事をする白人のいけてる感じの男性が、ガチ黒人の奥さんを、信じられないくらい対等にリスペクトして愛しているのが自然(むしろ自然すぎて、不自然だよ!と思うくらい、対等で自然なカップルなのがすごい素敵)

2)黒人で妊婦で専業主婦?的な「わたし守られて当然よ」的な記号の存在が、危機に陥ると一点ガチなハンターに様変わりして、追跡者であるプロの暗殺者を追い詰めてる(笑)。いや妊婦でいきなり乗馬で駆け出して、銃を持ち出して暗殺者をしてめないでしょう?ふつう(笑)。


上記のポイントが、白人至上主義がもうナチュラルなんじゃね?的な上に、カウボーイ文化の男性至上主義の真緒が全て的なワイオミングの文化土壌で、あまりに自然に描かれているところが、なんというか「現代アメリカの最前線の作家」って感じが本当にするんですよ。うまく伝わるでしょうか?。アメリカのワイオミングというところでは、カーボーイ文化が深く根づいているところです。ジェーン・カンピオン監督の『パワー・オブ・ザ・ドッグ(The Power of the Dog)』2021とかアンリー監督の『ブロークバック・マウンテン』(Brokeback Mountain)2005を見て欲しいところです。この背景のなかで、ドレッドヘアのガチ黒人の奥さんを、あれだけ自然遺体等に愛しいる感じが滲み出ているのって、ある意味不自然なんですよ。ここが難しいのは、記号的な文脈上はあり得ない不自然さなんですが、アメリカに住んでいる人の雰囲気からすると、2020年代ならああいうカップルの雰囲気って別に珍しくもないんです。それが混淆されてミックスになっているところに、最前線感が強く感じるんですよね。またそれだけではなく、暗殺者に追われていて家に押しかけられて、妊婦の奥さんは捕まってしまうんですよね。それで殺されそうになって、恐喝されて、、、、と、いかにも「か弱い女性のシンボル的な、身を守れない妊婦」という記号を演じさせておいて、一転、逃げるとなった時に、物凄い行動的で攻撃力溢れるハンターに様変わりするんですよね。この変化が鮮やか(笑)。ネタバレですが最終的には自分の追い詰めた暗殺者の男を、アリソン(メディナ・センゴア)は、追い詰めて銃で仕留めるんですよね。プロの暗殺者を!。そしてなんでこれができるかが大事なんですが、彼女はワイオミングに住む、シェリフの奥さんなんですよね。だから、ハンターと視点も十の素養や訓練は当然受けている!!!という感じがするんです。それは全然おかしくないんです。わかりますよね?、、、、ここはカウボーイの文化でアウトドア命の土地だから、銃の扱いに離れているんですよ。女性だとしてもね!。それで暗殺者に捕まって、奥さんがいるので抵抗できなお旦那さんを、銃で救い出すわけですよ、妊婦の奥さんが。この脚本の描き方が、古き良きカウボーイ文化の銃と男性至上主義的な「男らしさ」の継承が、柔らかく女性的で素敵な感じを醸し出していたアリソン(メディナ・センゴア)-----黒人女性でかつ妊婦によってなされているわけです。めちゃ先鋭的でしょ。ワキ枠の脇のストーリーなんですが。この辺りが、テイラーシェリダンなんだよなって思います。まぁ、何はともあれ、この夫婦、素敵だった。対等で愛し合っている感じが、本当に自然で。


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テイラー・シェリダンのフロンティア三部作、現代西部劇三部作といわれる、全作品をコンプリート。Taylor Sheridan(テイラー・シェリダン)脚本『ボーダーライン Sicario (2015年)』、脚本『最後の追跡 Hell or High Water (2016年)』、監督『ウインド・リバー Wind River (2017年)』の3作は、絶対見なければ、と心に誓っていたので、やっとコンプリート出来てうれしい。
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ウエストファリア的な主権概念でない世界観

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素晴らしかった。さすが。この人は、自分の言葉で、積み上げて思考しているから、本当にわかりやすく伝わってきて、大好き。真摯な人柄が大ファン。これからの時代、ウエストファリア的な主権概念でない世界観が、とても大事になると思うので、こういう方が日本にこの時期にいたこととは、ラッキー。僕は、サントリー学芸賞からのにわかファンだけど、いやー好き。このメインルートドロップアウトニートまっしぐら(笑)にもかかわらず東大のポジションがあって、世間に露出されるってのは、ラッキーだなーって思う。


https://petronius.hatenablog.com/?page=1646764996


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エストファリア的な主権概念のと華夷秩序、伝統的な中華の秩序のゲームルールの違いは、本当に世の中に流通してきた気がする。黒船がきたことの世界史的なインパクトは、「日本史の視点」という狭い枠求ではなくて、グローバルな世界史の枠組みから見なければいけないんだろう。


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日露戦争 〜弱小国ニッポンが見出した勝利への布石〜【COTEN RADIO #261】


コテンラジオ本当に素晴らしい。メタ的な視点が、本当に良いんだよね。また、このシリーズものをいろいろ聞いてくると、「世界史のつながり」が立体的に浮かび上がってきて本当に最高。深井龍之介さんら、ほんとうに素晴らしい。これほどの複雑なものをわかりやすく、面白く伝えてくれるのは、最高。気合い入れていろいろ聞いている。

『花束みたいな恋をした』2021 土井裕泰監督 麦と絹のその後の物語がすでに始まっているように思うのは、僕だけでしょうか?

花束みたいな恋をした

評価:★★★★★5つ(4.5)
(僕的主観:★★★★4つ)


素晴らしい映画だった。胸にグッときた。これは、見る年代で、感じることが全然違うんじゃないかなと思った。


日本映画は、あまり見ていないし、文脈も自分の勉強はイマイチなんですよね。だけれども、頑張って見て勉強しているアメリカ映画とは比較にならない強度で、時たま迫ってくる。理由は、単純。日本語だから。そして、出てくる漫画、京王線明大前駅調布市郊外の多摩川の眺め、そして何よりも日本人の実写だと、自分達と同じに姿で出てくるものへの感情移入の強度は強いからだと思う。僕は、少女漫画でも、日本の実写映画でも、アニメでも、舞台でも、ミュージカルでも、小説でも様々なジャンルを越境してみる人なのですが、媒体や表現形式が違うと、受け取るものが、全く違って感じることは多々ある。だから、実写じゃないと、感情移入できない!とか、アニメの二次元しか感情移入できないとか、いろいろ「見方」ってのはあると思っています。だから、いろいろな媒体を、散歩してみることは、食わず嫌いにならず大事なことではないかと思う。これも、気になっているものをやっと見れたのですが、素晴らしく良かった。久保ミツロウの漫画原作の映画『モテキ』とかも思い出したなー。『モテキ』は、小沢健二などの80年代の音楽が素晴らしかった。この『花束みたいな恋をした』も、漫画とか時代を感じさせるものがたくさん出てくる。ああ、『ゴールデンカムイ』のあの巻数ってことは、、、と自分の体感が蘇る人には、たまらないと思う。


この映画のポイントは、麦と絹という好きなものが一緒の二人が、「花束みたいな恋」をしたという物語がテーマ。なんですが、これって幸せになりました、めでたしめでたしではないところが、リリカルで切ない物語。多分批評チックに解説するのならば、「そこ」をいろいろその辺りに言及はできると思うのですが、それではありきたりすぎて面白くない。


僕が身につまされたのは、前半部の感性がぴったりあって幸せな、祝福された恋人になるシーンではなくて、麦が就職して現実にすり潰されながら、社会に居場所を見つけ出していく時間の経過の中で、あんなに好きだった漫画や小説や舞台が頭に入ってこなくなり楽しめなくなっていくところ。身につまされた、本当に。


モラトリアムの大学生から社会人いなるインパクトはでかい。このステージの違いは、人生に大きな断絶というか、変化をもたらす。特に、稼いで食べていくために所属しなければならない会社という「現実」でゴリゴリ経験値を上げていく時の圧倒的なリアリティは、本当に圧倒的。「それ」以外のものが、何一つ受けつけなくなってしまう。自分にも覚えがある。新入社員で営業マンとして飲みまくりで、取引先から死んじまえ!とか言われている毎日で、その数年間は、あれだけアホみたいに読んでいた漫画、小説、見ていたアニメ映画を一つも見ていなかった。


自分語りをしてしまうと、当時の大学時代に付き合い始めた彼女には、麦と全く同じプロセスで、振られたんだよね〜。就職して、お互いの感覚が合わなくなって。特に僕は、地方に配属されたので遠距離恋愛でもあったしね。めちゃ強度の高いラブラブな関係から、どんどん冷えていく様は、恐怖だった。生活のスタイルが変わること、ずれることの怖さって、本当に経験しているので、しんどかった。


これ、社会人の最初の時期を経験している人が見たら、圧倒的だと思う。


ちなみに、僕も、それで結婚しようと彼女に言って、、、、振られました。麦と同じじゃん(苦笑)。その子とは、本当に好きで好きで、一緒にいたかったけど、いることはできませんでした。それに、本当に好きだった、自分とぴったりだった相手と、心が通わなくなっていく様は、本当にしんどかった。


そして仕事をすればするほど、「ナポレオンヒル自己実現!」とか「どうすれば売れるか!最強営業マンへの道!」「ビジネスマンは志を持て!」みたいな、なんというか、殺伐としたものに自分が絡めとられていくんだよね。麦は、けっこう実は楽しそうに仕事をしていると思う。これ変なこじらせがなければ、僕は、それなりに人生、そうやって社会人の居場所を見つけられていくんだと思う。その諦めが、大人になるということ。。。


けれども、本当にそれができない人は確かにいて、20代の後半までには、いく人かの知り合いは自殺したり行方不明になった人をもいた。ああ、、、あの時の先輩は、荒れた海に飛び出してサーフィンをしたまま、戻ってこなかった。。。だいたいが、友人や恋人に迷惑かけまくって最低になる人が多かったので、ああ、適応できなかったんだなとしか思えなかった。でも、同時に「適応できてしまった」自分が、なんだか汚れちまった、大事なものを失ったていう感覚もあるんだよね。この辺りの経験がある人は、本当に身につまされる。毎日深夜まで、売上の表を作ったり、上司のパワハラに心折られ、顧客に怒鳴られて心が崩壊し、、、、そんな毎日が、自分のしたかったことだったたんだっけ?って。


この辺りに、学生のモラトリアム的な感覚が、どんどんなくなってしく様は、みていた恐怖というか、身につまされるというか、胸にきた。




しかし、この作品のとても、素晴らしい、自分的に感動的だったポイントとは、実は、別れた後に、一緒に暮らしている時、そして別れてお互いがいなくなって、もう関係ない人になってからの、、、、あの爽快感、あの解放されて憑き物が落ちたように、穏やかな感じになっている二人なんですよね。





これは、見る年代で、感じることが全然違うんじゃないかなと思った。



この最初の感想に戻るんですよね。


主人公カップルと年齢が近い人が観たら、恋愛の始まりと終わりを美しく情感たっぷりに描いた作品と思えるかもしれないし、私のような中年が観たら、これはむしろ焼け木杭に火が付くきっかけの話、にも思えてくるのである。
やはり菅田将暉が主演し、昨年公開された「糸」では、平成の30年間に腐れ縁のように邂逅を繰り返す男女が、最後の最後に結ばれる。
あの映画のカップルを考えたら、たった5年間の恋愛なんて、もしかするとプロローグに過ぎないのかもしれない。
花束はドライフラワーになっても美しいのだから。

ノラネコの呑んで観るシネマ 花束みたいな恋をした・・・・・評価額1750円


ノラネコさんがこう書いているんだけれども、僕自身のような、アラフィフの50年くらい生きている人からすると、30歳ぐらいになって、社会人としての居場所を見つけて、子供の恋でうまく合わせられなかったけれども、やっぱり「花束のような恋」であるくらいに相性が良かった、、、、だからこそ、別れる時には笑顔で別れられた、その思い出がよみがえってくるんだよね。


僕は、きっと「現実のというリアリティは圧倒的なんだろう」、それに対して準備していなければ、きっと社会は自分の人生を盗むんだろうと言うことが圧倒的にわかったんですよね。そして、会社であの殺伐としていた仕事ってやつが、実はけっこう楽しくて、向いてるし、うまくやれば、、、、むしろ、物語がもっと面白くなるためにスパイスに、いや、「飽きて磨滅してしまう感受性」をリフレッシュしてくれる経験と、、、そして何よりも、圧倒的な金銭による対価!をもたらしてくれることに30歳ぐらいで気づくんですよ。


その着せ替え人形は恋をする 11巻 (デジタル版ヤングガンガンコミックス)


『その着せ替え人形は恋をする』の最新刊で、大人になっても趣味を継続する時、、、、時間はないけど、お金があって、社会人は最高だぞ!!というアドバイスが出てくる。これ本当に、そうだと、今の僕ならば断言できる。別に、趣味を止める必要ももない。


けれども、人生にはステージが、時がある。


その時、その時にやらなければいけないことや、生活スタイル、心あり方は、違う。


ノラネコさんの指摘で、菅田将暉が主演の『糸』を挙げているのだけれども、まさにそうだよなって思うんですよ。この後、麦と絹が、もうひとまわり大人になって出会ったら、二人は幸せな夫婦になれる余地は僕は十分にあると思います。なぜならば、実体験で、僕はそう言う経験をしているから。上で話した、遠距離で、感覚が合わなくなって別れた大学生の時つき合った彼女は、僕の現在の奥さんだからです。社会に出て、居場所を見つけて、少し大人になって、いろいろ人生をチューニングする術を学んだ時に、ああ、こういう世間をいく抜く生活の知恵を身につけた後だったら、もっとあの人とうまく生きられたのにって思うんです。だって「花束みたいな」思い出なんだもの。幸せになるためには、きっと別れを経験していなければならなかったんだ、と思う今日この頃です。



みたいなこと、いろいろ感情を喚起されるので、日本映画は良いですね。

糸

『レディ・バード』(Lady Bird)2017年 監督グレタ・ガーウィグ 都市や郊外に住む若者のキラキラのしなささは、もう世界共通なんだろうと思う

www.youtube.com

評価:★★★★★5つ(4.8)
(僕的主観:★★★★☆4つ半)


2002年、カリフォルニア州サクラメントカソリック系の高校に通うクリスティン・マクファーソン(シアーシャ・ローナン)の痛い青春映画。色々な見方ができると思うが、この映画を見るならば、やはり、地方の郊外の何も持たない女子高生の青春、成長物語として捉えるべきだろう。キラキラしているわけでもなく、自意識が空回りして、何者でもない自分にイライラして失敗ばかり。どうしてそう捉えるべきなのかは、これが監督の自伝的な脚本で、この監督のグレタ・ガーウィグの人生が題材になっているのは、他の関連作品を見ていけば明らかな繋がりがあるからです。

この『レディ・バード』とセットで観ることをオススメしたい作品が3つある。その3つの映画の登場人物と、本作の主人公レディ・バードを同一人物として見る、という遊びをここで提案したい。正しい観方とは言わないけれど、監督であるグレタ・ガーウィグが映画の世界に関わることで何を表現しようとしているのかが立体的に見えてくるんじゃないかと思うし、おそらく多くの映画ファンが僕と似たような見方をしているんじゃないかと勝手に思ってる。その3作とは、『20センチュリー・ウーマン』(2016年)、『フランシス・ハ』(2012年)、『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』(2019年)。

www.banger.jp

というような部分は、評論家がこの作品を見る上では、見ようよね、となる部分なので、僕としては割愛。


ちょっと監督が思うところ趣旨は違うのだろうけれども、この作品を見てて『ボウリング・フォー・コロンバイン』( Bowling for Columbine)2002年や『アメリカン・ビューティー』(American Beauty)1999年などを思い出していたんですよね。郊外に住む、先進国、、、とはもう言わないか、中産階級とももう言わないかもしれない、いわゆる普通の子供って、本当に未来が何もない、何もなさで生きている。ペトロニウスは、1970年代に生まれたアラフィフで、東京の西の郊外で育ちました。いつか、この狭い何もない世界から出て行きたいと願っていたけれども、特に才能も特別なものもなく、上条さんのように左手が疼いたりしませんから、本当にの何もなかったです。その当時は、自分があまりの何もなさに絶望していることすらもあまりわかっていなかった。客観視って、世界を相対化するくらいの経験を持たないと、できないんですよね。

サバービアの憂鬱 「郊外」の誕生とその爆発的発展の過程 (角川新書)

今50近くなって、半世紀近く生きている自分の人生を振り返ると、ああ、、、世界中のどこでも、都市の郊外に生きるいわゆるフツーの若者って、「こういう人生」を生きているんだって、すごく実感する。世界中を仕事や旅行で回って、アメリカに長いこと住んで、色々なところに住んで子育てもしてきているけど、、、、上手く言えないけれども、中産階級の、貧困位落ちるギリギリのキワぐらい、いわゆる中の下みたいのが、世界には一番多い。だって、そこがボリュームゾーンだから。意外にこの何もなさって、アメリカで、数億円の豪邸?に住んでいる子供の友達であっても、あまり感覚が変わらないじゃんって、驚いた覚えがある。もちろん、ギリギリの生活の黒人やヒスパニックの家庭の友人とかの厳しさは、その厳しさの濃度ははるかに濃くはあるけど。結構安定している日本の都市部の家庭だって、そんなにかわりゃしない。ああ、、、今の地球の子供達って、「ここ」から何者かになろうって、がんばっていきているんだって、なんか感慨深くなってしまった。子供の頃は、その「何もなさ」に絶望していたんだけれども、あれって、やっぱり日本で言えば、明治維新以降とか高度成長期の「立身出世」みたいな概念との落差で、「何にもなれない」ってことが苦しかったんだと思う。


そして、自分の子供たちの世代を見ていると、、、、もうなんというか、「落差の絶望」って感じないんだよね。主人公のレディ・バードは、なんだかんだいって、自分の夢にちゃんと、かなり厳しい経済的事情や、親の無理解の中からも突き進んでいく。グレタ・ガーウィグ監督の自伝的な分身だと考えれば、滑った転んだをしながらも、彼女は芸術家として、世界に認められていく存在になるわけです。もちろんこの青春時代は、『ボウリング・フォー・コロンバイン』とか『ストレイト・アウタ・コンプトン』(Straight Outta Compton)2015年と、紙一重の世界にあって、、、、でもうなく言えないのですが、この貧困、何もなさの郊外的空間って、もうデフォルトというか、たぶん、僕の子供たちの世代(2010年代の世代)にとっては、当たり前すぎて、絶望するほどでもないスタート地点のように見えるんだよね。僕ら批評家集団のアズキアライアカデミアの分析タームでの「新世界系」以後みたいな感覚なんだけれども、、、、あまりに真っ白で、何もなくて、でも、別にそれは、嘆くほどの悪いスタート地点ではない、見たいな。日本の学園もののラブコメでもなんでも、この郊外的空間が、すでに前提になっていて、だれも『涼宮ハルヒの憂鬱』のような一億分の一である怖さに立ちすくんではいないというか、、、、うーんそう単純じゃないな、もちろん「自分の価値の低さみたいな痛々しさの自我の空転」は相変わらず、青春の基本なんだけど、それが世の中の「大きな物語」に全く接続しない感。。。上手く言えないけれども、もう僕のような1970年代の生まれには、全く想像もつかない違う世界になっている気がする。そう思う今日この頃。

そんなことを思った映画でした。

ちなみに、大傑作だと思います。

『アニメージュとジブリ展』2023年の銀座松屋のに行ってきました

メモをとっておいて、忙しさにかまけてブログに出してなかったので。これは素晴らしかった。展覧会も、コツコツ興味の軸に合わせて行っていると、つながりや時代や歴史が見えるようになってきて楽しい。ポイントは、フランス映画の雑誌を意識した鈴木敏夫プロデューサーの「作家主義」的視点、戦略なんだけれども、70-80年代の歴史の匂いを強く感じた。やはり、ジブリの歴史と重なるので、過去に行って素晴らしかった国立近代美術館の高畑勲展での構図と重ねると、非常に深い。

スタジオジブリの原点を振り返る展覧会を開催 | アニメージュとジブリ展

takahata-ten.jp


基本は、銀河鉄道999機動戦士ガンダムなどで盛り上がってきたものに、作家主義的に対抗して、日常的なものにフレームする高畑勲宮崎駿押井守を、売れていないのに(笑)プッシュしていく様は、さすがの慧眼。

どこかのインタビューで、富野由悠季さんが、「鈴木さんは自分を選んでくれなかった」と恨み節を語っていたが、プロデューサーがいたらもっと違った人生だったと思うのだろう。そう思うと、クリエイターは、優秀な編集者プロデューサーがいてこそ、と本当に思う。


ついでに、宮尾岳さんの漫画『二度目の人生アニメーター』なんかも合わせるとこの辺りの80年代のバブルと共にアニメーションが、文化になっていく歴史の過程の熱が見れて良いです。

二度目の人生 アニメーター(1) (ヤングキングコミックス)


ただし、この「流れ」ってのは、1974年(昭和49年)生まれの団塊のジュニアである自分の、ちょっこっと上の世代なんだよね。自分的には、リアルの体験が90年台によっているので、感覚的にはアニメージュの後期がリアタイ世代だなぁ。ラピュタとかパトレイバーの世代だ。


アニメージュ展のおみやげ。基本的には映画のパンフもグッズも断捨離で定期的に据えてて意味がないと自制して買わないのだけれども(笑)、おもわず。1984年なんだぁ。まぁ、リアルタイムの流行りでないものは、流行り廃りが少ないので、という言い訳で、まぁ安かったし。コースター。なんかもう一回漫画版を全て読み直したくなってきた。やはり、ナウシカは、漫画版で読んでこそ。