『スーパーカブ』(2021) トネ・コーケン原作 藤井俊郎監督 そこにもう救われない最後の1%はいない。観た最初の1話でずっと感動して泣いていました。

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評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★★★★星5つ傑作!)

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■第一話「ないないの女の子」が示す救われない最後の1%はいないこと

1話の「ないないの女の子」出来が素晴らしすぎて、最初からな涙ぐみながら見ていました。これは、とにかく今(2021)に見る物語だと思いました。『ゆるキャン△』や『よりもい』の時も思いましたが、同時代性の文脈に沿っている作品は、ぜひとも「今」見たい。なぜいまか?といえば、この時は「今、この時の時代性の文脈」に激しく依存しているので、この文脈が変わってしまうと、受ける感動が変わってしまうと思うからです。素晴らしい出来で、かつ繊細な演出意図によって作られている作品なので、全部★5つのパーフェクトなんですが、ちょっと下げているのは、僕のブログが必ずしもアニメが好きでないくても、見たら最高!というものを紹介しようという「ジャンルを越境できる」ことを念頭に置いているの、もし、数年後にこのブログを見て、アニメを特にみていないけれども「見てみよう」と思うと、強度が下がるのではないかと思うからです。

ここでいう時代性の文脈とは何か?

物語三昧のブログ、もしくはアズキアライアカデミアのラジオをずっと聞き続けている人はわかると思うのですが、「持たざる者」が、それでも救済される方法あるのか?という問いです。ざっくり具体的なレベルに落とすと、異世界転生をしたがる今の日本のサブカルの文脈は、「自分が現在のセカイ時間において不遇で不幸なので、違うところに行ったら幸せになれるのではないか?」という装置だとすれば、次々に様々な主人公が登場するのは、それぞれの人間が持つ「不幸」にどう対応すれば異世界で幸せになれるのかの、条件を振って物語を作っているのだと考えたのです-----そうすると、最後に、本当に何も持っていない「1%(実際の数字ではなくて、最後に残った部分という意味)」は、どうにも救いようがないじゃないかという文脈でした。当時、下記のように描写しています。

芥川龍之介カンダタのたらす糸はたくさん、実はたくさんある〜けれども、90%をカバーするものに漏れてしまう層を救えるのか?そもそもいるのか?

さて、先日LD教授と話し込んでいた時に、この作品群は、ターゲットとテーマがうまくかみ合っていないという話になった。より正確に言えば、最初は、ターゲットに設定していた層への疑問に答えようとするのだが、物語上それができなくなるというだ。

それはどういうことか?といえば、『僕は友達が少ない』などのタイトルがそもそも、友達がいないと感じている孤独を苦しむ層の救済とまでは言わないが、そのタイトルに共感を得る人間を対象にしているはずだったのだが、この物語のハーレムメイカー的なラブコメの構造から、実は、お前もてないって言って女の子にモテまくりだし、友達いないって周りにたくさんいるじゃん!と突っ込みたくなるような環境にどんどん変化していく。物語が進むということは、カタルシスに進むわけで、そうならざるを得ない。仮に最初に本当に友達がいないとしても、まじで一人もいなければ物語が進まないわけで、そうではなくなっていくところがこの物語のドラマトゥルギー(=物語が展開する力学)。極端なこと言えば、ただ気づいていないだけで、そもそも友達はいたんだよ!(=青い鳥症候群)な設定になっている。これはいいかえれば、本当に友達がいない孤独を経験している人からいえば、ああ、俺の求めているテーマや答えに全然リンクしていないで、離れていくのだな、と取り残されていく感覚を抱かせるはずだ、と。

ここでLD教授は、カンダタの話を出します。

蜘蛛の糸 (日本の童話名作選)
有名な芥川龍之介の小説ですが、カンダタは、生前悪い泥棒だったので、地獄で苦しんでいました。しかし、一度だけ小さな善行をなしたことがあって、小さな蜘蛛を踏みつぶさずに助けて生かしたことがあった。それを見ていた釈迦は、カンダタにチャンスを上げるように、小さな蜘蛛の糸を地獄に垂らして、助けようとする、、、という話ですね。

これは、どのような人間にも、蜘蛛の糸がありうることを示しています。まぁ無駄に使ってしまって、カンダタのように、他人を蹴落とそうとして糸が切れてしまうというのが、オチなんですが(笑)。でも、そんな細い糸が1本だけあっても救われる人はとても少ないじゃないか?と思うかもしれませんが、そうじゃないんですね。LD教授は、この糸って実はたくさんあって、90%ぐらいの人はって正確な数字が言いたいのではなくて、ほとんどの人は救われるための糸が垂れ下がっているんです。あとはそれにつかまればいいし、自分でその価値を壊してしまわない限りは救われるのです。この物語のように、大抵は自分で壊してしまうんですけれどもね。僕は、世の中は、ほとんどすべての人に、救済の道が細いながらも示されていて、実はほとんどの人には、糸がたらされているんだ、というのは同感です。

なにをいっているかといえば、先ほどの、これらの残念系青春ラブコメといわれたりする系統で主軸のテーマになっている「友達がいない孤独」ボッチの世界に、救いはありるのか?と問えば、それは、いくらでもあると思う、といっているんですよ。そもそも、ほとんどのケースが、友達がいないんじゃなくて、青い鳥症候群。いや、そばにいるじゃん?という話。もしくは、友達を作ろうとしていなかった、というだけ。そばに友達候補はわんさかいるのに、自分から拒否しているだけ。カンダタの糸はたくさん垂れ下がっている、というのはそういう意味のことです。


やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 渡航著 (2) 青い鳥症候群の結論の回避は可能か? 理論上もっとも、救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか?
https://petronius.hatenablog.com/entry/20130603/p2

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しかしながら、Youtubeでも解説していますが、3つの段階を考えて分析しています。

0)不幸なのはたいてい親か家庭(社会)のせい

1)恋人(ラブコメ)か友達によって救われる

しかし、恋人ができれば救われるみたいな話は、結局は「持っている者」だけが救われて、どうしてもモテない人とかは、どうにもならないじゃないかと絶望する。谷川ニコさんの『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の議論ですね。だから、ここで語られている問題意識は、人間の幸せは、お金、学歴、容姿、恋人(異性)、友達などの外部要因では決まらないという話でした。いや、これも実はおかしな話で、世の中の過半の人は、、、たぶん90%ぐらいの人は、これで救われちゃったり、幸せに「なれてしまいます」。

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しかし、そうはなれない人が、次に向かいます。

2)自分の「好きなもの」を探して、それに打ち込もう。

問題は外部(=お金とか自分の外にあるもの)に依存しているからだ。外部はアウトオブコントロール(自分に都合よくできていない)。だから、「自分の心の中にある」「好き」というものを軸に、趣味に打ち込めば、外部の偶然性に頼らずに、充足を得ることができるぞ!

しかし、「好き」が、自分の心の中にないんです。言い換えれば、内発性がないんです。

ここで困ったんですよ、、、、「好きなものも探せない」「育てることができない」といわれちゃうと、そういう無気力でエネルギーがない人は、社会から切りすたられて、死ぬしかないね、、、という結論になってしまう。これすぐっごい昔の物語三昧ラジオのアーカイブですが、ここで考え込んでいたことが、このように展開するとはと思うと感無量です。

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3)何もない「持たざる者」は、生きていても何一つ救済がない←いまここ


こういう感じだったんです。


ということは???


時代の文脈的に、「何も持たなくても」、幸せになれる方法を示してほしい!という要求があると、感じていたんです。


どうよ???


小熊ちゃん。


タイトルは?


「ないないの女の子」


です。


凄いわかっている感あふれるでしょう!


ゆるキャンの友達だっていつも一緒に居る必要は無いという文脈からの後退か?

さて、Youtubeのコメントが面白かったので、そこを注目してみましょう。「救われない1%」の層を救うには?という文脈の流れで、下記にありますように、『ゆるキャン△』により一つの到達点を示したと僕は考えています。要は、趣味=好きなものを通して世界を見ればキラキラ輝くという結論です。しかしながら、『ゆるキャン△』が、素晴らしく時代へ答えたのが、単純に「好きなものがあればいい」ということに甘えて、日常・無菌系の「女の子が戯れる日常」というオタクが好きそうなガジェッド・皮(ガワ)に逃げなかったことです。これはさすが製作者、とうなります。この場合は、原作者ですね。りんちゃんが、つまりは主人公が、仲良くなった友達や仲間と「一緒にキャンプを楽しむ」などという陳腐な作品にしなかった部分が、エポックメイキングでした。彼女は、「一人でキャンプに行く」のが好きなので、同調圧力に負けて、仲間たちと戯れるような、「自分の好きを捻じ曲げる」ことをほとんどしません。

ここでは、日本的同調圧力の空気をぶち壊せ!という文脈背景に基づいて、

友達がないと幸せになれない

友達はいらない

という2項対立のテーマを、あっさり止揚しています。いわんとしていることがつたわっているでしょうか?。つまりは、「自分の好きを貫く」=「友達は必要ない!」という命題と、「一緒に時を過ごさなくても」「友達足りうることはできる」という風に話を展開させているのです。ここが、普通の日常・無菌系をはるかに超える強度を生み出したポイントでした。

ゆるキャン△』に示された、どこにいても、独りぼっちであっても、一緒にいるという共時性

ゆるキャン△』は、なので日常系・無菌系の文脈なしでは、いまいち何をいっているのわからない系譜のものになると思うのですが、この作品の日常系としての出来の良さ以外のポイントで、文脈として注目したポイントは、SNSの使い方です。前回の『よりもい』で関係性について到達した結論は、結局、一周回って、心の中に絆があれば、どこにいようが(ばらばらで一緒にいなくてもいい)問題ないということでした。ましてや、SNSなどのサービスが共時的に体験をできるシステムが整いつつあるので、それが「目に見える」。えっと、順番は逆じゃないんですよ。りんちゃんとなでしこの関係が、LINEで描かれていて、遠くにいても「同じところにいるような」関係性が、生まれた!のではないんです。関係性が内在している、、、言い換えれば絆が生まれていれば、仮にSNSのようなサービスがなくても、そこに絆の共時性はあるはずなんです。今までそれが見えなかったし、記録に残らなかっただけ、なんですよね。それが、あぶりだされて、目に見えるようになっただけ、なんです。この絆の「目に見える」というところの演出が、とても素晴らしかったのが、『ゆるキャン△』のアニメでした。そして、これは演出だけにとどまらず、大きな文脈の中のある種の結論として、機能していると僕は考えます。


これは、ぼっち、というテーマのアンサーです。


上で話しましたね。ぼっちであるのは、一人でいることとか「状態」ではなくて、心の在り方なんだということ。りんちゃんは、あれだけ仲良くなっても、ソロキャンをやめません。なぜって、一人でキャンプするのが好きだからなんです。一人でいるから、独りぼっちというわけではない。それが端的物理的に最終回で描かれているのは、りんちゃんとなでしこが、特にお互い連絡もしないで、個別にソロでキャンプに出掛けて、行き先が一緒で出会ったことは、彼らの関係性が絆までレベルアップしていて、もう特に言葉で語り合わなくても、とても思考や行動がシンクロしやすくなっているさまを描いているんですよね。あそこに、SNSいらないと思うんですよ、実際は。ただテクノロジーがあるので、それが目に見えるように炙り出されている現代性を見せているだけ。

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さて、しかしながらこの最前線に思える『ゆるキャン△』には、一つの問題がありました。いや、この物語自体の問題じゃないんですが‥‥それは、そうはいっても


友達はいたほうが幸せ


という風に読み取れてしまう点です。これでは議論自体は、前の議論に答え切れていません。「好きなものは貫いたほうがいい」けど「友達はいてもいい」。それに、ゼロから「何かを好きになる」という内発性のスタートポイントは何か?というテーマにもこたえられていません。LDさんが、こだわる議論のポイントでもあって、そもそもシャープな答えとしては、


「友達はいらない!!!!」


と、こたえる方が潔く、かつ深いんです、答えとしては。でも、時代は、「いらない」というところまで、極端に行く必要はない、と結論付けているようにペトロニウスは感じています。


そこで来たコメントが以下だったんですね。鋭い。

田沼小石
なるほど、そう観ましたか。
物語全体を通してみると『ろんぐらいだぁす』でロードバイクを手に入れたら、仲間と世界が広がったよ……というのとほぼ同じなので、ゆるキャンの友達だっていつも一緒に居る必要は無いという革新的な文脈からは後退した作品だなと思っていました。

ただそこに小熊の“なにもなさ”を加味すると見方が変わるわけですね。視点が変わることで世界が変わるというのはわたモテが実現したことですが、スーパーカブはそれを最短で表現したと考えると凄い。与えられる情報が少ないというのは原作小説からそう(琵琶湖から数ページ後には九州上陸しますし)なので、演出が本当に良い仕事をしているのだと思います。

この文脈が発展するなら、いずれはスーパーカブを手に入れるという過程さえ必要なくなるのかも……と妄想します。藤子F短編集の流血鬼のように世界の方が勝手に変わるなら……ただそれだと異世界転生となにが変わるのだろうか……と、考察すべき事は多いですけど。

この指摘、ゆるキャンの友達だっていつも一緒に居る必要は無いという革新的な文脈からの後退というのは、なるほどと思いました。


後半になると、普通の日常系になるので、普通に眺めていると、これが意外に面白くなくなるっていきます。いや素晴らしい演出なんですが、ようは通常の「無菌系・日常系」の作品と構造が同じになってしまって、「どこかで見たことがある物語」になるからだと思います。日常系の頂点は、マンガ『あずまんが大王』とアニメ『ゆゆ式』だと僕は思っていて、もしこの系統の最高峰を見るなら、あちらだなと思うってしまう。というのは、最初の1話の視点が、あまりに衝撃的過ぎて。まぁあの1話で、もう完璧なんですけどね。

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上で置いたわたモテの解説動画で疑問いあげていたのは、主人公のもこっちが、「何一つ変わっていない」のに、なぜ幸せになっていくか?という疑問点でした。明らかに作者は、「自己肥大をこじらせているもこっち」が不幸になるというか、世界との違和感、ズレがあって、それをギャグにするという不条理コメディを意識しているにもかかわらず、わけわからず幸せな日常ハーレムものに展開していく様は圧巻です。しかしながらこの「視点の変化」が、何によってもたらされたのか、ずっと具体的にわかりませんでした。あの話の本質は、「自分が何も変わらないのに」「世界のほうが変わる」というところに力点があって、でもなんで変わったのが、よくわからなかったから。しかし、スーパーカブを見れば、「自分と世界が変わる」のに、自己啓発的な決断や意志みたいなもの、さらには才能やお金などは、全く必要ないんだ、というのがストレートの示されていて、唸りました。


そして、その答えは、「ただ移動すること」なんです。


ちなみに、「手に入れる必要さえない」、、、、となると、「世界の方が変わる」話なので、まさに異世界転生です。そ結構この辺整理されてきたなと思います、どんな文脈があるかわかってくると、面白いですね。


ちなみに、物凄いずれるというか蛇足ですが、この「移動すること」に自由を見出すというのは、まさにクロエジャオ監督が、ノマドランドで描いたものです。


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2021-0508【物語三昧 :Vol.120】『ノマドランド(Nomadland)』2021 Chloé Zhao監督 雄大アメリカの風景を移動しながら野垂れ死ぬことを幸せだと思いますか?-128



■漫画版と比べると日常系として描く脚本と、純文学的に描く脚本の違いが際立って理解できます

これは監督が、素晴らしいですね。マンガと比べると差異が際立ちます。

スーパーカブ(1) (角川コミックス・エース)


ええとですね、上で描いてきた「なにもないこと」からでも人は幸せになれるという時代の文脈をちゃんと理解すると、監督が、何を演出したかったかが、はっきり読み取れます。


逆に言うと、まったく異なる解釈をマンガはしているので、演出表現を比べると、その差が際立ちます。ぜひとも読み比べてみましょう!。


覚えているので注目しておくのは、最初の第一話ですが、主人公の小熊ちゃんのシャワーシーンです。


これ、オタクのアニメ好きの文脈から考えると、サービスシーンです。それだけでなく、第一話で、主人公を好きになってもらい、感情移入するためには、ぜがひでもここでちょっぴりエッチなシーン(笑)を出しておくべきです。まぁ、いってみれば昨今の日常系アニメの演出の「文法」みたいなものです。アニメを見たときに、僕はそう予期してみていました。いきなり朝シャワーを浴びるので。彼女はかなり貧乏なので、水の節約を考えると、朝のシャワーを浴びるタイプとは思えないので、原作に理由があるか、とかいろいろ考えながら、おっぱい見れるかな?とか、スタイルどうかな?と、普通に男脳エンジンで考えていたら、驚いたことに、ワンカットもシャワーシーンをうつさなかったんです。後の話では、普通に小熊ちゃんのシャワーサービスシーンは、出てくるので、わざわざ第一の登場シーンで「あえてうつさなかった」のは演出です。これ、素晴らしい!!!!って、唸りました。「なにもない」少女として描くときに、性的な身体を描いてしまったら、それそのものが、魅力的なものとして、写ってしまうし、そもそも「何もない」という彼女のネガティヴさを演出するのにそぐわなくなってしまいます。物凄い上品で、おっと思いました。これは、凄い傑作かもしれない、と。


マンガ版は、最初の登場シーンから、シャワーシーンを、サービスシーンとして、描いています。


これどういう解釈の違いか分かりますか?


アニメ版の藤井俊郎監督は、あきらかにこのアニメーションで、「日常・無菌系のアニメーションの現代的な文脈」の文法を、あえて外して描いているんです。いいかえれば、これは、日常系じゃないって、宣言しているようなものです。


マンガ版は、ストレートに、『ゆゆ式』などの後継の文脈としての、日常系の少女たちが戯れるオタク的な文脈の文法で描いています。


これが、演出の「差」というやつです。随所に出てくるので、この視点で差を探してみるといいですが、「受ける圧倒的な印象の違い」は、この監督の強い演出意図に支えられていると僕は思います。


これ、監督がすごく難しい決断をしているのが分かりますでしょうか?。


一番、マーケティング的に「売れる路線」の文法をあえて外しているわけですから、これ、物凄く挑戦的なことにチャレンジしていることに、僕は敬服します。


こういうのを、文脈が分かっている物語、だと僕は思います。だからこそ、「今見るべき物語」なんです。安易なマーケティング的な言説に、のらない。

スーパーカブ』 藤井俊郎(監督)インタビュー
https://st-kai.jp/special/supercub-001/

https://st-kai.jp/special/supercub-002/


■イージライダーを思い出す、自由への逃走、闘争なのかそれとも、今ここでの穏やかな解放か

バイクに乗れば速く走れる。バイクを使えば遠くまで行ける。バイクの魅力としてまず浮かぶ事柄だが、女子高生がホンダのスーパーカブに乗るようになるトネ・コーケン『スーパーカブ』や、ヤマハのスクーターで女子高生がキャンプに向かうあfろゆるキャン△』を読むと、そうした便利さに加えて誰かとの、あるいは何かとの繋がりをもたらしてくれる存在として、バイクの魅力が漂ってくる。
バイク×女子高生の物語、なぜ人気に? 『スーパーカブ』『ゆるキャン△』が描く“繋がり”|Real Sound|リアルサウンド ブック

ああ、あとこの話もしたいですが、疲労で疲れ切ったので、ポイントを挙げておくだけにします。


■エリックサティのクラシックがいい。

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――ドビュッシーが多いですね。
藤井 それは好みですけど(笑)。サティ、リスト、ショパンも使ってます。なるべく聴きなじみのあるもので、かつ基本的にピアノの独奏曲でセレクトしました。
――感情が変化するアタック音などにピアノを使ってもいますね。
藤井 ええ。クラシックとの親和性も高いし、作品のテイストとも合うと考えていたので。音楽の打ち合わせの際にその意図を説明させてもらったところ、クラシック曲と同じように実際のピアノの鍵盤を叩いて収録していただけて、結果とても贅沢なタッチ音になりました。
https://st-kai.jp/special/supercub-001/

後、音楽のが素晴らしく上品で、、、、本当に監督わかりすぎてて、素晴らしい。


■参考
petronius.hatenablog.com

petronius.hatenablog.com

スーパーカブ』の“リアルすぎる表現”にみる日本アニメ35年の「リアルと嘘」
https://news.yahoo.co.jp/articles/1ccdccf455d2f23ef725f709e15891edf9b6a2c3

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 渡航著 (2) 青い鳥症候群の結論の回避は可能か? 理論上もっとも、救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか?
https://petronius.hatenablog.com/entry/20130603/p2

「僕は友達が…」  そうか、恋人じゃなくて、友達が欲しかったんだ!これはびっくり目からうろこが落ちた。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130329/p1

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Academia/いきいきごんぼ+三名様+アフロ田中+はがない+ラブコメと結婚後もの 2021/06/06

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『The Rider』 2017 Chloé Zhao監督 オグララ・スー族の馬とともにある人生の美しさとIndian Reservation(インディアン居留地)残酷さ

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評価:★★★★★星5つマスターピース
(僕的主観:★★★★★星5つ)

■見たきっかけと
2021年の第93回アカデミー賞作品賞受賞の『ノマドランド』の Chloé Zhao監督の第二作目。『ノマドランド』が、あまりによかったので興奮してノラネコさんに話したところ、それならば『The Rider』『Songs My Brothers Taught Me』のサウスダコタ・パインリッジ・リザベーション二部作を、ぜひ見てくださいとおすすめされたのがきっかけでした。

■見るべきポイント
観るうえで少し知っておきたい前提知識は、以下の文脈。

アメリカ中西部のサウスダコタ州のパインリッジ居留地 (Pine Ridge Indian Reservation) が舞台

パインリッジは、ウンデット・ニーの虐殺があった場所であり、平原インディアンの最大部族であるスー族の支族、オグララ・スー族の人々が自治権を持つリザベーション(居留地

Indian Reservation(インディアン居留地)は、アメリカの白人がフロンティアに入植していく過程でネイティヴアメリカンの土地を奪いどんどん追い詰めていった場所

この場所での失業率や産業のなさは極端で、そこに住む限り、豊かな生活や教育を獲得できる機会は限りなく低い

ワイオミング州ウインド・リバー・インディアン居留地を舞台にしたTaylor Sheridan監督の『ウインド・リバー(Wind River)』2017も同時に見ると理解が深まるのでお勧めです。


アメリカ社会において、ネイティヴ・アメリカンの扱いが歴史的にどういうものであり、今現在どういう状態なのか?という知識なしには、よくわからない物語でしょう。日本における田舎と都会の格差で考えるとわかりやすいとノラネコさんが指摘されていますが、居留地での閉塞感、閉じこめられて抜け出ることができない絶望感、アル中と教育なさが連鎖する空間の「どこにも行きようがない」感覚を前提に物語を見ないと、主人公たちの絶望が分からないでしょう。

演技的な視点では、『ノマドランド』もそうなのだが、ドキュメンタリー風といわれるように、映画の登場人物がほぼ本人というところが、クロエ・ジャオ監督の凄さ。ふつうそんな素人に演技させれば、演出がまともに機能しなくなってしまうはずなのだが、信じられないほど情感が細やかに演出される様を見ていると、いったいどういう撮影方法をしているのか驚いてしまう。これの一つをとってもアカデミー賞の風格あふれる監督であると思う。

驚くのはここからで、クロエ・ジャオの選択は、ジャンドロー自身に主人公を演じさせたこと。役の苗字こそブラックバーンと映画用に変えられているが、ファーストネームは同じブレイディ。演技経験などもちろん皆無の彼に、自分自身が経験した過酷な運命を再現させたのである。さらに信じがたいことに、ブレイディの家族や、落馬の後遺症に苦しむロデオスターら周囲の人たちも当人に演じさせている。中でもブレイディの自閉症の妹の演技は本作の重要ポイントとなったが、プロの俳優も顔負けのリアリティで、彼女は観る者の心をわしづかみする。自身の経験を再現するという、簡単そうでハードルの高い作業を、クロエ・ジャオ監督が的確に導いたと言える。

https://www.banger.jp/movie/55463/

■Be a man!(男らしくあれ!)の同調圧力として単純にとらえてしまっては、この作品の深さが分からなくなる

物語は、主人公ブレイディ・ブラックバーン(ジャンドロー)が、ロデオと馬の調教で生活していたが、落馬事故で馬に乗るのが難しくなってしまい、もしロデオや乗馬のような激しい動きをすれば、ほぼ死ぬか再起不能になってしまうだろというところからはじまります。これが実体験であり、俳優がその再起不能になった本人であるというのが凄いところなのですが、この作品のドラマトゥルギーは、主人公ブレイディが、「命を懸けてでも馬に乗るか?」という部分にドラマトゥルギーがあります。なので、ドラマを分解すれば、「命を落とすか半身不随になって再起不能になるのがほぼ確実」で「それにもかかわらずロデオに復帰したいと主人公が悩ん」でいるわけです。ただし、彼にロデオを教えてくれたあこがれのロデオスターは、落馬の後遺症立つこともしゃべることもできない状態になっています。このままロデオどころか乗馬をしているだけで、「そのようになる」という危険性を見せつけられてもなお、ブレイディは、馬に乗りたがるのです。そこにこの物語のキーがあります。

日本で、この映画を鑑賞した人の感想を読むと、「同調圧力」という言葉をよく目にする。
再起不能になるかもしれない怪我を負ってでも、再び馬に乗ることを当然だと考える、パインリッジの若者たちには、確かに日本の田舎にもある同調圧力的な力が働いているのかもしれない。
外の世界での可能性を諦めたジョニーも、様々なプレッシャーは感じていただろう。
だが、都市も田舎も基本的に同質の社会で、気に入らなければ出て行ける日本とは、はじめから選択の重みが違う。
馬に乗れるのと乗れないのとでは、経済的な格差に繋がる。
そして彼らにとって、カウボーイであることは、誇り高きラコタ・ネイションのアイデンティティと同義なのである。

単純に映画を見ていると、カウボーイ仲間から「早く復帰しろよ」という圧力が何度もかかり、主人公時代も、それ以外に生きるすべが知らず、父親から「Be a man!(男らしくあれ!)」とのみ育てられてきた、激しい同調圧力が垣間見ることができます。カウボーイ物は、基本的にこの米国にお「男らしくあれ!」という同調圧力の強さの象徴として描かれてきており、その激しさのアンチテーゼとして、アン・リー監督の『ブロークバック・マウンテン(Brokeback Mountain)』などが描かれているのです。これは、男らしさの協調であるカウボーイの男性の同性愛を描いたところに物語に力点があります。


が、、、、僕は、この話を、Be a man!(男らしくあれ!)の同調圧力の犠牲者の物語、とはとれませんでした。


もちろん、そういう側面があるのことも、土壌があることも否定はしません。しかし、この作品の白眉であり、最も印象的なシーンは、主人公ブレイディが、馬とともに荒野を駆けるシーンでした。サウスダコタの荒野。暗く、汚く、何もないところで、そこでスーパーの商品陳列を、何の喜びもなくしている主人公の姿は、哀れの一言で、「底辺の生活」がありありと感じられました。しかし、その現実は何一つ変わっていないのに、彼が馬とともにサウスダコタの平原を疾駆するシーンになった瞬間に、その美しさに、アメリカの自然の雄大さに、胸がつかれるような、痛むような感動を覚えました。これが、平原インディアン、オグララ・スー族の「馬とともにある人生」なのだ、という鮮烈な感覚が、ビビッドに伝わってきたからでした。


このシーンから、もう僕は、ブレイディが、同調圧力の犠牲者であるようには一切見えなくなりました。『ノマドランド』の話と同じ類型です。安楽な、都市での白人中産階級の生活をするよりも、物質的には底辺であっても、「馬とともにある」人生でのたれ死んだほうが、その美しさに包まれているほうが、生きている「かい」があるんじゃないかというのが、映像でガンガンつたわってくる気がするのです。そうなると、ブレイディが、なぜ再起不能か死ぬ確率が高いのわかりきっているのに、馬を捨てられないかが、切ないほどわかります。

リベラリズム的な同調圧力を超えて

この問題、選択肢の構造で、僕は「安楽な資本主義での都市生活」よりも「自分自身のアイデンティティのある」生き方のほうが、たとえ「のたれ死んでもよいのではないか」という難しい問いが語られているように感じました。この問いが難しいのは、ほぼ百発百中で「のたれ死ぬ」のが分かっているからです。確かにアイデンティティのある生き方のほうが美しく気高くあれます。しかし、既に、そのような選択肢がない状態で、この問いが語られるところの難しさが、クロエジャオ監督のマイノリティへ向ける限りなく寄り添う視点に感じます。だって、物質的には、アメリカの実際の空間、生活としては、最底辺中の最底辺で、明日生きていくのも難しいような生活をしているのですから。それでも馬がいいとは、単純い言えるのでしょうか?。

ここでは、都市の中産階級的な生活こそが正しい!という「大前提」のリベラリストの傲慢さ、マジョリティの冷酷さが激しく感じられる気がしました。少なくとも、2020年の民主党共和党の大統領選挙での大激突は、「これ」が背景にあるわけで、それに対して敏感さがないというのは、アメリカではありえないと思います。ただ物質的に恵まれている都市の中産階級になるために「資本主義の最底辺の機能の駒で労働力を切り売りする人生にエントリー」するのが、本当に幸せかよ?って。

アイデンティティと一体になっているものを、簡単に一部分だけは解体して変えることはできないところが難しい

これ、難しい問いかけだと僕は思いました。なぜならば、このBe a man!(男らしくあれ!)の同調圧力と、オグララ・スー族の馬とともにあるアイデンティティは、重なっているものなので、都合よく櫃だけ抜き出して帰るというのがむずかしいからです。キャンセルカルチャーに代表されるような、ポリティカルコレクトネスが、正しく左翼の末裔なのだと思うのは、「一部分だけ人工的に考えて」それを変える為ならば、その他はすべて専横したり皆殺しにして、一旦更地にしてしまってもかまわないという激しい暴力性があるからです。これを、若い、女性の、しかも中国人のChloé Zhaoが作っているところに、凄みを感じます。彼女を評して「マイノリティに寄り添う視点」といいますが、まさに「寄り添っている」のであって、人々の生きる「生」がそんな単純じゃないことをまざまざと見せつけてくれます。

■これを底辺ととらえるのか、それとも豊かなオグララ・スー族の馬ともにある人生ととらえるのか?の難しい二択

しかしながら、主人公のブレイディ・ブラックバーン(ジャンドロー)の生活をどう考えればいいのだろう?。というのは、物質的な視点、「白人中産階級の都市生活者」の視点で考えると、最底辺も底辺ですよね。多分、これを告発して否定するというのがリベラル的な視点になるんでしょう。その視点で見ると、彼は教育を受けに外に出ていくか、仕事を探して居留地を出ていくのが正解になってしまうでしょう。『Songs My Brothers Taught Me』が、まさにそういう話です。しかしながら、それはすなわち彼らが、「馬とともにあり」「綿々と親から同胞から伝えられてきた」生き方-----アイデンティティが消滅するという意味でもあります。つまり、ちゃんと物質的な生活の豊かな世界に行けという話は、アイデンティテェイを殺せ、消せということと同義なんです。これ近代化とともに消えていく「その土地に住むことであるアイデンティティ」や「近代的な都市生活にフィットしない慣習」をどのように考えるかという大きなテーマと結びつくと思います。僕は、2011年の傑作台湾映画『セディツク・バレ』を連想します。

なぜ、こうした首狩りなどの野蛮な行動が美しく見えるか?と問えば、それは、そこに明確な信仰と尊厳に結びついた世界観が存在するからだ。異世界ファンタジーを描くときに、そこでのセンスオブワンダーを感じられるかどうかのポイントは、その「異なる」世界の異なる宇宙観を描けるか?どうかだ。もう少し言えば宗教、信仰が描けるかどうか?。どういうことかといえば、、その社会の持つ優先順位価値の体系が、我々の文明社会と明確な差を持って描けるかどうかが一つのポイントにあると思う。

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また、この文脈でアメリカのものであれば、有名な2009年のジェームスキャメロンの『アバターAvatar)」ですね。『セディツク・バレ』を、洗練化したというか、「怖さ」を抜いたような脱色した感は否めないですが、同じテーマだと僕はお考えています。この文脈で、全部見同時に連続で見ると、描き方の違いが、受ける印象の違いが面白いですよ。日本人にとっての『セディツク・バレ』と同じをアメリカ人でいうならばたぶん1990年のケビンコスナーの『ダンス・ウィズ・ウルブズ(Dances with Wolves)』に当たるのではないかと思います。

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同様にこの文脈で、転載、沢村凛 さんの小説『ヤンのいた島』をおすすめします。沢村凛 さんは、マイナー?な感じがしますが、読む小説すべてが、とんでもない傑作です。解説もったいないので、だまされたと思って、読んでみるのを進めします。『The Rider』の文脈ではないですが、沢村凛さんなら、まずは下記がおすすめです。素晴らしいセンスオブワンダーを感じられる骨太のファンタジーです。

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アメリカがアメリカンドリームで上に上ることもできるけど、いきなり最下層に容易に落ちやすい競争社会である恐怖

さて、せっかくなのでも一つの視点。

かなりの貯金をしていても、職を失ったり、病気になったら貧困層に転がり落ちるのがアメリカなのだ。

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僕がいつも尊敬してモニターしているアメリカ鵜っちゃーの一人である渡辺由香里さんが『ノマドランド』に寄せた記事で、最もなるほど、と思ったのは、ここ。アメリカというのは、医療保険がほぼない社会なので、いったん大きな病気をした瞬間に、「人生が積んでしまう」というのが、日本人員はどうもわかっていない。「この前提」を理解していないと、アメリカに住む人のと生活実感のスタート地点が、わからない。これは、僕は、『ブレイキング・バッド(Breaking Bad)』を説明するときに強く強調した部分です。

この辺りの大病してしまうと、破産して、本人も、残された家族も、地獄に落ちるのと同等の貧困層に転落してしまうリスクが、中産階級の普通の生活している人にさえ常にリスクとして隠れているアメリカの構造を実感しないと、なぜいきなりこんなにウォルターが追いつめられるのかはわからないでしょう。マイケルムーア監督のドキュメンタリー映画の『シッコ』などを補助線おすすめします。ちなみに、アメリカにの保険制度を知れば知るほど、日本やフランスの公的保険が、いかに良くできているのかと驚きます。さすがに、アメリカの医療保険をめぐる構造は、ひどすぎると思います。「これ」一点で、アメリカが成長しているから、日本を出てアメリカに移民したりすべきだ!みたいな能天気な議論は、単純には成り立たないと僕は思いますよ。これ、全然貧乏人とか貧困層の話じゃないですから。それなりの中産階級でも、即日ホームレス、破産に叩き込まれて生活できなくなるリスクが常にあるんですから。だからグローバリズムの負け組のラストベルトの中年白人男性層が、死亡率が劇的に上がって(確か先進国中へ平均寿命が下がっているのなんてここだけだったはず)、トランプさんを支持して政権が誕生しちゃうのも、この背景の切実な苦しさ、今目の前にある貧困をみないとだめなんですよ。総論としては、オバマさんや過去の民主党医療保険改革の理想はみんな認めていると思うのですが、しかし、実際は共和党との妥協の中で、医療険はオバマケアのせいでめちゃあがって、さらに生活は苦しくなっているのが実感で、本音のところでは、オバマケアのせいで生活がさらにひどくなったと、凄まじい恨みと不満を持っている層が厚くいるように僕はとても、周りの友人の話を聞いていて思います。理想は否定できなくとも、それで実際の生活がめちゃくちゃ悪くなれば、本音で人は、そんなの許容できないものだともいます。寛容さは、経済のパイの拡大があってはじめてなんだ、としみじみ思います。


ブレイキング・バッド(Breaking Bad)』シーズン1-2 USA 2008-2013 Vince Gilligan監督  みんな自分の居場所を守るためにがんばっているだけなのに 
『ブレイキング・バッド(Breaking Bad)』シーズン1-2 USA 2008-2013 Vince Gilligan監督 みんな自分の居場所を守るためにがんばっているだけなのに - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

また、アメリカの「格差が激しくある社会に生きること」と「最下層に容易に落ちやすい」という社会の前提を踏まえた上で、「格差」をどう考えるか考えてほしいのです。そのラインで、テイラーシェリダンの新フロンティア三部作を見ると、アメリカ映画やドラマ-----だけでなく政治が全く違って見えてくること請け合いです。

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とりあえず、参考の記事等々をいろいろのっけておきますので、おすすめです。何かを見るときは、文脈や背景知識をリンクさせると、面白さが数十倍に膨れ上がるとペトロニウスは考えています。

■参考

ブレイキング・バッド カテゴリーの記事一覧 - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

ノラネコの呑んで観るシネマ クロエ・ジャオの世界「Songs My Brothers Taught Me」と「ザ・ライダー」

ノラネコの呑んで観るシネマ ノマドランド・・・・・評価額1750円

ザ・ライダーのノラネコの呑んで観るシネマの映画レビュー・感想・評価 | Filmarks映画