ロサンゼルスのダウニーにある最古のマクドナルド3号店~映画ファウンダーの聖地巡礼


McDonald’s
10207 Lakewood Blvd
Downey, CA 90241
(562) 622-9248

先日、別の用事で出かけたときに、あれこれ行けるじゃんと家族にマクドナルドでの夕飯を提案したらOKがでたので、やったーといってみた。映画『ファウンダー』の聖地巡礼。ずっと行ってみたかったんだけれども、なかなか出かける用事もなく、そのままになっていた。というのも、郊外のオレンジカウンティに住んでいると、よほどのことでもない限り、インターステイツの10や5の渋滞リスクを考えて、ロサンゼルス方面に出ることのってなかなかないんだよね。僕ら郊外の田舎者は、都市生活がなかなか苦手。VISAとか日本領事館での手続きでもない限り、まずロスにはいかない。

映画『ファウンダー』は、1-2年前に、家族全員で見た。中学生か小学校高学年の子供たちが、めちゃくちゃ面白がったいたので、これは伝わる映画が何だろうと思う。レイクロックによるマクドナルド兄弟のマックドナルド乗っ取り物語なんだけでそも、二人とも、創業者にふさわしい「モノづくり」のイノベーションをやってのけているんだけれども、「方向性が真逆」によってぶつかっていく。これは、ものづくりとは、どういうものかを描いた作品だと思う。まったく同じテーマで『フォードvsフェラーリ』(Ford v Ferrari)という2019年の映画も素晴らしかったので、これも同時に見ることをお勧めする。


ちなみにここは、ダウニーという町。まぁまぁの中産階級の郊外かな?。上にあるパサデナバックトゥーザフューチャーのマーティンが住んでいた家があるところ。右下のアナハイムというのが、ディズニーランドがあるところですね。グレーターロサンゼルス圏からオレンジカウンティにかけての領域な感じです。イメージ的に、グレーターロサンゼルス圏=首都圏みたいなイメージ。1940年にカリフォルニア州サンバーナーディーノマクドナルドの本店があったけれども、この地図の右上の方。数年前マスシューティングで14人が撃ち殺された郊外の町。。。

ロサンゼルス・ダウンタウンといえば、23区の感じ。

アナハイムとか、オレンジカウンティなど、パサデナアルケーディアなどは、この周りの郊外というイメージ。都市と郊外は、アメリカの生活空間を語るうえで避けては通れない違いです。

郊外だと、こういう人造湖とかあったり、緑と芝がきらきら光る管理された美しい田園風景的な街並みです。もちろんお高くて、住むのはなかなかしんどい。しかし、このあたりでないと、公立学校の質の問題で、子供のためには一択になってしまう。私立に通わせれるならば、どこでもいいのでしょうが。私立めちゃくちゃ高いから。

でなければ、上は、たぶんダウンタウンと最も治安が悪いといわれるスキッドロウとかのあたりじゃねーかなーと見た感じに思うのですが(画像適当に拾いました)都市部だと、いきなりこんな感じになります。この隣のストリートが裕福な場所でも、一つストリートが変わるといきなりこういう感じ。ちなみに、年収低いと、こういうところの近くに住む以外の選択肢がなくなるのがアメリカの生活のリアルってやつです。もちろん、治安を無視すれば、家賃は下がっていきます。つまりね、家賃って、治安とのトレードオフなんです。海外からの移民が、上記の郊外のいいところに住むのって、まぁほとんど無理でしょうね。ゾーニング凄くきいていますから。軽々しくアメリカに行こう!なんていっても、最初の家探しで、たぶん心折れると思いますよ、治安がいい国に住んでいる日本人は。同じレベルの治安の場所は、そもそも家賃バカ高いです。


ヤバいかどうかは、壁が高いかどうか、または鉄条網があるかどうかです。これは、この隣の連邦ビルにvisa関係で奥さんといったときなんですが、リトル東京のすぐ横ですね。リトル東京は、近年治安悪いで有名なところで、その悪さの雰囲気が濃厚に出ていますよね。この鉄条もあったら、もうやばい感じの地区です。わかると思うのですが、連邦ビルの周りすべこうってことは、日本でいえば、市役所や都庁の周り請うって意味です。どんなに治安が悪くても、公的手続き上行かなければならないという、この地獄。


ちなみに、ロサンゼルス西ダウンタウンやその少し下のコンプトンとかは、全米1クラスの殺人発生率の高い貧困地区になります。悪名高きコンプトンは、下記の映画で見ると、どんだけヤバいかがよくわかると思います。若年層の生存率が低すぎて、つまりギャングの抗争で死にまくるので、平均年齢が途上国並みという恐ろしさ。

petronius.hatenablog.com


日本人が多いのは、トーランス周辺。もともとトヨタの本社がここにありました。数年前にテキサスに移りましたしたけれども。また、まだHONDAの本社はここにありますね。


ハンティントンビーチ、ニューポートビーチ、サンタモニカなどなどのビーチは、高級住宅地で白人が集中しています。なので、KKKの本部があったり、共和党が(カリフォルニアなのに!)強くてトランプ支持者があふれているところです。通常、僕らアジア人は、子供を学校行かせたくないなぁと思うところだと思います。しかし、とにかくリッチでかっこいいところです。

さらに本当の金持ちになると、ビバリーヒルズとか、さらにはその先のマリブとかに家とか別荘とか持っています。

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あと、トランプのゴルフ場があるパロスヴェルデスとか。火星年代記レイ・ブラッドベリが住んでいたとか。ここのスタバは、世界一長めの良いスタバといわれていますが、そんなんでも?と思うんですが。僕は、ここの隣のアイリッシュパブが好きで、よく通っていました。


ちょっと違う話になってしまいましたね。マクドナルド兄弟が創業した1号店はサンバナディーノなんですが、これがロサンゼルスの郊外に位置するところって「感覚」を覚えておきたいなーって思うんです。多分それなりに土地が安いけれども、これから発展有望で、って感じの郊外だったんだろうなーと思います。イメージ的に、ヨーバリンダ(Yorba Linda)あたりかなぁとも思います。えっと、ここは、ニクソン大統領の生まれたところですね。野菜農家をやっていて、ここでとれたものをロサンゼルスまで売りに行っていたのがニクソン少年の日課でした。いまは、リチャード・ニクソン図書館&博物館でご本人の生家が保存されて中に入れます。



こういうのやはり行くと、地理感覚とか、土地のイメージとかがわかって、凄く楽しいです。やはり聖地巡礼はいい。まだ1号店の跡地博物館には行けていないので、どこかで行かねば。

AMCにトップガンマーヴェリックを見に行ってきました。

家族でトニースコット監督の1を見て、行こうと思っていたので、行けてよかった。娘さんも、なかなか面白かったとのことで満足そうだった。もう中学生になっているけれども、父親と映画一緒に行くのに何の不満もないようで、ありがたいことです。スターウォーズも息子と見に行けたし。下の娘ちゃんとは、だいたいディズニーの新作は見に行けているし、ちゃんとした映画・物語体験を、共有できててうれしい。こんなの一緒に見てくれるのは、まぁ中学が精いっぱいだと思うので、とてもうれしい。人生墓に持っていけるのは「思い出」だけだと思うし、こういう日常の小さなことを共有できてこそ家族だと思うので。

『Top Gun: Maverick』自体の感想は、どこかで書くかしゃべろうと思うけど、なによりも、あまり「時間の経過を持たない」娘などの若者が見ても、自分のようなリアルタイムで1を見ている世代が見ても、どちらもめちゃくちゃ面白いという作りになっていることが驚きだった。娘いわく「最初の1は、最後のインド洋のミッションが唐突に出てきたせいで、なんでそれをするのかがいまいちよくわからなかった。けれども、マーベリックでは、最初からミッションが与えられて、そこに向かって訓練するというシナリオの軸があったので、とても分かりやすかったし、満足感があった」とのこと。僕自身も、まさにそこだと思う。要はエンターテイメントとして、非常に軸が通っている。

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僕が映画館に行くのは、たいていAMCに行きます。まわりは、AMCとリーガルシネマしか見ないなぁ。アメリカの生活って、大都市と郊外の生活って、見る風景が全然違うので、一言では言えないけれども、郊外のモールとかにあるAMCなどの大型劇場って、たいがいこんな感じ。

今回は、AMCシアターズ(AMC Theatres)に見に行きました。アメリカには、現在4つの大きな配給会社があるけれども、Regal EntertainmentとAMCしか周りに見ないなぁ。僕はここの映画館によく行きます。

AMCシアターズ - Wikipedia

日本も東京とかは、郊外型のシネマコンプレックスに映画館って変わっていると思うので、体験はとても似ている感じですね。

宣伝では、アバダー2やミッションインポッシブルの宣伝をしていた。

娘さんと二人。足を延ばして。

ジュラシックパークの新作もに行きたいなぁ。映画館で見たい奴だよね。

『魔法先生ネギま!』『UQ HOLDER!』が示した00-20年代の日本エンターテイメントの文脈(2)~世界を救う方法と期間を具体的に物語で提示した画期性

新装版 魔法先生ネギま!(1) (週刊少年マガジンコミックス)

目次
魔法先生ネギま!>
ネギまシリーズとしての全体の評価〜このシリーズの文脈を追うために
■ハーレムメイカーの物語類型から脱却〜日本的ハーレム構造の基礎を作った『ラブひな』を超えて
■父親への憧れを乗り越えて「自分自身になるために」〜日本的な母性での回収ではなく、厳しい父性を乗り越える物語
■「自分自身になった」後に目指すは、世界の救済〜しかしラスボスを倒しても世界は良くならない問題
■世界(=プラットフォーム)の奪い合いをしているときに、正義はどちらにもない
■世界を救済するには、エネルギー問題を解決しなければならない〜エネルギー問題は、常に資源の争奪競争
超鈴音(チャオリンシェン)編と小夜子のレブナント編の類似性〜世界をやり直したにも関わらず、やり直しを認めないエピソード
■世界の理(ことわり)を曲げることは許されないというグランドルールの提示〜00年代に示された並行世界の世界線に対する倫理的回答
ネギまの最終回が物議をかもしたことと、「はがない」の終わり。エンターテイメントは、スカッとしなければならない。
■エンターテイメント的解決に重ねることを拒否したネギまのラストシーン〜最も見たいであろう英雄がラスボスを倒すエピソードの割愛
■脱英雄譚の物語としての結論〜世界は一人の英雄が救うわけではなく、脇役たちの組織の絶え間ない活動よって変わっていく



ネギまシリーズとしての全体の評価〜このシリーズの文脈を追うために

ネギまシリーズが、ペトロニウスにとってなぜ人生とともにあるほど好きだったのか、考察してみたいと思います。

■ハーレムメイカーの物語類型から脱却〜日本的ハーレム構造の基礎を作った『ラブひな』を超えて

僕がこの物語を読み始めたのは連載が開始されてから少したった頃でした。だから、2003-2004年頃(22年からみて19年ほど前)になります。今も決して廃れたわけではないですが、この時代、アニメや漫画などのエンターテイメントでのキーワードは、ハーレムでした。Wikipediaによれば「1人のキャラクターに対し、数多くの異性キャラクターが恋愛対象として対置されている設定のフィクション作品を指す」とあります。鎌池和馬によるライトノベルとある魔術の禁書目録』(2004-)に出てくる主人公の上条当麻を指して、僕は「ハーレムメイカー」の類型と名づけました。主人公の上条くんが、さまざまな困難を解決していく物語の各エピソードで、様々な女の子-----ヒロインを助け出し、そのヒロインが主人公に惚れてしまうのですが、エピソードごとに次々に新しいヒロインが登場して、いつしかさまざまなタイプの女の子が溢れんばかりに彼の周りにいるようになる。「にも関わらず」主人公は、一人を特別に選ぶということをしないで「寸止め(=ハーレム)」のままで、恋愛という意味では、物語が停止してしまうものを指したのでした。2022年の現在も連載が継続していますが、上条くんは、唯一のヒロインを選んでいません。これを外側のマーケティング的な消費者の視点で見ると、「ツンデレ」「めがねっ娘」「幼馴染」「吸血鬼」「姫騎士」「ケモミミ」「委員長タイプ」なんでもいいのですが、さまざまな属性を持ったヒロインを登場させることで、多様なニーズに応えうるものでした。この辺りは、日本のエンターテイメント(漫画アニメ)を追っている人ならば、わかるわかると頷いてもらえる、最盛期は越えたにしても、いまなお色褪せない、王道の物語類型です。まぁそりゃ、さまざまな属性の女の子がたくさんいた方が嬉しいよね、というのはわかります。単純に、ティーンエイジャーくらいの年代の少年・青年をターゲットにするならば、さまざまなヒロイン属性を用意した方が、受け手のニーズが多様でも引っかかる率が高いというわけです。この物語類型の発展は、そういった横軸の機能論で分析するだけではなく、縦軸の歴史時系列を物語の内部から追う事でもできます。機能論は、今言ったマーケティング的な商品多様性を求めているという話に尽きるので、物語内部の発展経過を、時系列的に分析してみましょう。難しい言い回しはさておき、この原初のモデルに、赤松健先生の『ラブひな』(1998−2001)があると、僕は考えています。「起源」の論争は色々起きるので、これが正しいとは言いきりませんが、この時代からオタクをやっていて漫画やアニメを見ていた人からすると、この作品の斬新さ、そして人気の盛り上がりは、この類型の始祖の一つ言っておかしくないと思います。

浦島景太郎は幼い頃に女の子と交わした約束を果たそうと、東京大学の入学を目指す19歳。しかし、彼はすでに2浪の身。家を追い出され、祖母が経営する東京近郊の温泉旅館を頼るのだが、そこは彼の知る昔の姿とはまるで違っていた。唐突に「女子寮」の管理人となってしまった景太郎は、ドタバタに翻弄されながらも、東大入学、そして「約束」に近づこうと奮戦していく。

ラブひな - Wikipedia



ウィキペディアのあらすじにはこうあります。主人公の浦島景太郎と成瀬川なるのラブコメなんですが、一つは、本作のヒロイン「成瀬川なる」が、事実上ツンデレ類型の始祖であり原型であること。もう一つは、ひなた荘の管理人であることによって、常時、複数のヒロインとのラブコメも同時並行で進むというハーレム構造が完成形として出てきたことの二つにより、エポックメイキングな作品です。この作品以後、「そのやり方があったのか!」ということが、共有される類型の基礎フォーマット(似たパターンを発展させられる)となったと思います。前原しのぶ、青山素子、カオラ・スゥ、紺野 みつね、乙姫むつみ、浦島可奈子、サラ・マクドゥガルなどなど、どの子が最も好きか?、かわいいか?とか、どのこと景太郎が結ばれる「べき」か?などなど、当時の盛り上がりを覚えている人は、懐かしいと思います。まだまだ過渡期の原型なので、メインヒロインのなると景太郎の本筋のラブコメでがしっかりあるという意味では、まだまだハーレムメイカーとしては、発展途上の、古典的な意味でのラブコメでした。


ここで何が問題になったか?


ハーレムメイカーにおいては、たくさんのヒロインが登場します。そして古典的王道の主人公とヒロインが結ばれるというドラマの軸の重力にひかれて「どの子が正ヒロインとして選ばれるべきか?」ということが、大きなテーマになります。だから、それぞれのヒロインの個別エピソードが生まれて、それぞれのヒロインの魅力を最大限に引き出すようになるので、往々にして、ただ単に女の子の可愛さだけを延々と描く形になりやすい。例えば、誰でもいいですが、忍ちゃんとの個別エピソードが盛り上がっても、「次の順番のヒロイン」を演出しなければいけなくなるので、しのぶのエピソード(僕の用語で言えばドラマトゥルギー)としては「寸止め」の時間停止状態になります。主人公と結ばれてしまったら、他のヒロインとのルートが選ばれなかったことになるので、そこで話が終わってしまうからです。なので、延々と主人公の景太郎とヒロインたちが、戯れるエピソードが「並列的に並ぶ」ことになります。


これはですね、クリエイターにとってとてもストレスフルで、我慢がしにくいことのようなんです。単純に、物語が進まないこともストレスですし、要は絵(=萌え絵なちょっとHなヒロインのお風呂シーンとか)と個別エピソード(景太郎とイチャイチャする)だけ書いていればそれなりに人気が得てしまうというものなので、何年もずっと書いていると、「このままでいいはずがない(=主人公ヒロインも成長しないですから)」という不満を感じるようです。この類型を描かれるさまざまな漫画家の方に直接聞いてても、みなさん長く書いてると、何もかもぶち壊して皆殺しにしてやりたい(笑)とか、かなりストレスが溜まるようです。いわゆる日常系と言われる女の子(大抵4人)が戯れるだけの漫画・アニメにも、常に付き纏う問題意識です。『けいおん』や『ゆゆ式』をイメージして貰えばいいですが、要は『あずまんが大王』でプリセットされていた「卒業するかどうか問題」です。学園ものは、サザエさん状態の永遠の繰り返しに突入することを止める装置が、「卒業」=学園生活の終わりだからです。卒業すると、「同じところで時間停止ていられない」「成長して未来に向かわなければいけない」という圧力が高まるので、物語を進めなければいけなくなります。ハーレムメイカーや日常系の魅力である、「ずっと変わらないままで戯れる」ができなくなるんですね。


このことに対して、赤松健がどのような物語のドラマをセットしたか?。景太郎が「東大に行く」というものです。この約束は、ヒロインと結ばれる根拠にもなります。この時、景太郎がロールモデルとして、目指すべき目標となっているのが、瀬田記康になります。3浪して東大文学部考古学科に行って、好きなことをして生きている人で、これは正しく、景太郎の未来の姿でした。最終回で、景太郎は、瀬田とほぼ同じ立場になっており、お揃いのメガネで同じ性格として描かれています。ここで物語は古典的な成長物語(=目指していた憧れの人との同化)とヒロインなるとの結婚(ハーレム維持ではなく一人を選ぶ)という完結を迎えます。これを批判的にネガティヴにとらえると、景太郎の師匠として登場していた瀬田さんに同化することで、物語の世界が繰り返しているような循環の錯覚を感じられます。要は、永遠にひなた荘での日常が繰り返されているような安心感を読者に与えてしまいます。批評的な言葉で言えば、「外部に出ることがない」感覚がしてしまいます。もっとわかりやすく言い換えれば、景太郎は、予定調和の循環の中で「既に存在している役割」に同化しただけなので、何らかのオリジナルな挑戦(=自己の確立)をしたわけではないとも言えるのです。


とはいえ、エンターテイメントに、そこまでの激しさはいりません。これはこれで、見事な終わり方であり、人気も含めて大団円だったと思います。当時、個人的にも不満な全くありませんでした。


しかし、この『ラブひな』で描かれた物語の構造に対して、次の作品であるネギまでは非常に発展的かつ批判的に構造を構築している、と僕は考えています。なので、このハーレム系統の類型を脱出するならば、どこへ向かうべきかという当時のクリエイターたちの葛藤が集約されて現れていると僕は思っています。日本のエンターテイメントの独創でありニーズの集約点とも言えるハーレム類型をどのように批判的発展させるかは、まさに日本エンターテイメントの本道がどこへ向かうのか?、クリエイターたちの求めている大きなトレンド時代に文脈の答えを指し示していると思うのです。


まず、発展的なのは、ハーレムメイカーの構造をさらに激しく展開させたことです。


麻帆良学園本校女子中等学校の3年A組生徒は、なんと31人。



マーケティング的な属性も、ここに極まれり(笑)と当時震撼したのをおぼえています。『シスター・プリンセス』『週刊わたしのおにいちゃん』『フタコイ オルタナティブ』などなど、登場した時、そこまで行くのかと恐怖を感じたものもありますが、この辺りのハーレム類型の物語の発展史は、ちょっと距離を置いてみると、本当に意味不明な物が多いです。シスプリの12人の妹たちとか、なんだよそれって物凄く摩訶不思議な印象です。でも、当時の「流れ」では、ああそれはありだなって思うものだったんですよ。属性どんどん増やすのは、当然限界が見えるまで走らなければ七位-----ラオウ北斗の拳)のように拳を振り上げるべきという強いエネルギーが当時ありました。


しかしながら、当時の分析でも書いていますが、たくさんのヒロインとイチャイチャすると、物語が進まなくなってしまうところに違和感があるのがハーレムの構造的問題点でした。だって、女の子の人生で最も厳しいトラウマを救済したりして、雰囲気がめちゃくちゃよくなって、結ばれる直前で「次のヒロイン」にどんどん移っていたらあまりにも不誠実じゃないですか。普通に考えて。「そこまで盛り上がっていながら」何にもしないで、次の女の子に行くってのは、あり得なくないでしょうか。例えば、凄まじいトラウマを抱えている女の子の全てのトラウマを生きる意味を取り戻すさせてあげたりしたら、普通その子と結ばれて仕舞うのが当たり前じゃないですか。けど、スルーするんですよ。そのドラマチックなエピソードを。このことは、女の子が告白しても「聞こえない(もしくは聞こえないふり)」をする鈍感形主人公としてメタ的に批判されていました。


けど、ネギまの主人公のネギくんは、10歳の先生なので、職業的立場としても生徒と結ばれないし、またエロス的な意味でも結ばれません。最初の数巻では、ちょっとHな学園ラブコメ的な日常が続くのですが、『ラブひな』での構造を非常に批判的に発展させているなぁと感心していました。


少し遠回りして、この時代のクリエイターたちが持っていた課題意識について振り返ってみたいと思います。ハーレムメイカーの物語類型にある致命的な瑕疵は、もちろんそれは魅力の裏返しでもあるのですが、リアルタイムで体験している人には、じわじわとわかってきました。要は、あまりに「甘やかされすぎて」、読者、受け手、消費者が、少しでも傷つくような物語の展開を許容できなくなっていくことでした。具体的にどういうことかというと、通常、古典的なラブコメドラマトゥルギーの基本は、「すれ違い」や「勘違い」によって、主人公たちにとってマイナスのネガティブなエピソードで「落して」それが、誤解だったということが判明してイチャイチャするという「上げ」の反復によって構成されています。このドラマルトゥルギーの通常の展開から必要であり、かつ予測としてこのあとポジティブに誤解が解けることの予測が容易であってすら、受け手が我慢できないので、アニメであれば見るのを打ち切ってしまうというようなことが、実しやかに語られました。実際には、いつの時代も安楽なものばかりではなく、コンテンツには多様性があったので、これはある種のパラダイム(時代の常識)となった思い込みなのですが、少なくとも、当時、僕はクリエイターやプロデューサーなどたくさんの人からこの手の不満を聞きました。また実際に受け手のネットでの評価でも常にこの問題が語られていました。個人的な感覚では、00年代後半から10年代前半が激しかったと思います。この時、自分史的に忘れられないのが親友のルイさんというネットで感想を言い合う仲間が言った言葉です。


「僕たちは、そんなに弱くないよ!」


これは五十嵐雄策によるライトノベル乃木坂春香の秘密』(2004−2012)のアニメの展開に対しての批判でした。今は亡き彼と吉祥寺でお茶の飲んでいる時に話した話です。一言で言うと、通常のドラマトゥルギーの構成は上げ下げのダイナミズムで構成されて起伏を作るものなのに、いっさいのストレスとなる「下げ」の展開を「入れなさすぎる」ので展開が平坦になってしまいすぎている。それは、作り手が、受け手の心が弱すぎてそう言ったストレスに耐えられない(=視聴しない。売れなくなる)と想定しているから。

しかし、それはあまりに受け手を馬鹿にしているし、そもそも展開に起伏がなさすぎると、物語自体がつまらなくなってしまう。ルイさんが言いたかったのはこういう批判意識でした。しかしながら、この物語の起伏がない日常のみを描くという形で、この類型は、我々がいうところの無菌系、そして日常系である『けいおん』や『ゆゆ式』に結実していくことになります。まさか、ラブコメの基本である少年と少女という恋愛関係自体が既にストレスなので、感情移入対象である少年(=男)すら消毒して、消去して、なくしてしまえば、少女たちが同性で戯れることになり、そこに恋愛というドラマトゥルギーが発生しなくなるので、とても安楽になるといった極端まで物語が展開するとは、当時の我々は想像だにしませんでした。今考えると、ルイさんの言説は間違っていて「僕たちは、そんなに弱かったのか!」とも言えるののかもしれません。

2022年になり、00年代、10年代の文脈をバーズアイで概括できる我々は、ハーレムメイカーの物語類型の問題点に対して、さまざまなクリエイターが挑戦してきた経緯が見えます。2003年にネギま!の新連載を始めるにあたってハーレム系の創始者である赤松健が、この課題にチャレンジしていないはずがありません。現在では、さまざまに抽象的に課題やイシューを特定できていますが、当時であれば、この問題意識は、すなわち起源の一つである『ラブひな』をどう越えるかということだったと思います。そういった「批判的な意識」があるのならば、下記の点はクリアーしなければなりません。


1)主人公が憧れの人と同化する(=景太郎が瀬田化する)と、永遠に物語が循環してしまうので、これを避けなければならない


2)ハーレムメイカーの「ヒロインたちを選べない・選ばない」という問題点をどのように超えるか?


3)主人公がヒロインとのラブコメに逃避しないのならば、一体なんのために生きているかの目標を示さなければならない


こうしたメタ的な批判意識が、ネギまシリーズには、深くビルトインされており、それが物語が進むにつれて、見事に消化され展開されていく様は、連載を追っていてゾクゾクしました。次の章では、それを追ってみましょう。


■父親への憧れを乗り越えて「自分自身になるために」

ネギま!が、2003年にはじまった時に、もちろん『A・Iが止まらない!』『ラブひな』の赤松健が描くんだから、美少女のいっぱい出てくるラブコメになると誰もが思ったと思います。実際、僕は、「65時間目:僕だけのスーパーマン」、「66時間目:雪の日の真実のエピソード」まで、31人の生徒とイチャイチャする学園ラブコメだと思っていました。なので、実際のところ、巻数にして8巻までは、嫌いではなかったですが、それほど注目していませんでした。それがこのエピソードで、主人公のネギ・スプリングフィールドが、子供の頃、巨大な大災害、いや魔族によるテロにあって、自分の住んでいた村が、育ててくれた人々が壊滅しているという経験あっていることがわかります。10歳の男の子が、中学の先生をするほど、勉強していたり、強い目的意識を持っているという設定には、読んでいて違和感がありました。だからヒロインたちにモテるんですが、そういっても、「そのように10歳の子供がなる」というくらいの強い動機も持つには、何か余程のトラウマや人生の目的がなければあり得ません-----そう思っていました。それが、示されたエピソードでした。当時の物語三昧旧館の記事を抜き出してみてみましょう。

この65〜66時限目が、僕の中で「ネギま」が「ラブひな」を超えた瞬間でした。読んでいてのた打ち回ったのを覚えています(笑)。ネギまを読む時に原点の中の原点で、ここをしっかり押さえないと、あらゆる彼のその後の行動が意味不明になってしまったり、ご都合主義すぎていやになってりしてしまうので、重要だと思うので、僕は自分の記事ですが、何度も読み返しています。物語にも、抑えるべきーキーというものがあって、そこを見抜けば、すべての複雑な構造にある種の秩序を与えることができるので、自分なりにその物語は「どんな物語か?」のキーを抑えておくととても読むのが深くなります。ビジネスでいうKSFですね。ちなみに、僕は何度も書いていますが、1〜2巻を初めて読んだ時に、こんな駄作もう読めねーと、1年ぐらい打ち捨てていたんです。それが、何となく読み直して、あれっ?って思い、、、そしてこの8巻を読んで、ああっこれは傑作だ、と唸りました。それにこの展開がきちっと進むのならば、ラブひなを超えたな、と思ったんです。

中略

ネギくんの、強い目的意識がどこから来るのか?

これに強い説得力を持たせることに成功すれば、すべての属性は正当化されうるし、そもそも佐々木まき絵やのどか、ゆえっちが、ネギ君を(10歳の子どもを!)好きになるのも、それはネギ君が、普通の男性(僕らでさえ!)持っていない、強い目的意識に貫かれて行動する男性!!であるという部分から出こそあるので、そうすると、あ〜ら不思議萌えの基本である「なんとなくうっすらラブな関係」も、ご都合主義の恋愛関係のシーンも、非常に納得がいく(笑)ことになります。

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もう既に完結しているので、ネギま!がどんな物語だったか?という問いには、一言で答えられます。


父親の背中を追う憧憬の物語です。


そして、


父親ナギと母親アリカが目指したものは、世界の救済です。

119時間目 フィナーレdeてんやわんや


これが既に、

1)主人公が憧れの人と同化する(=景太郎が瀬田化する)と、永遠に物語が循環してしまうので、これを避けなければならない


2)ハーレムメイカーの「ヒロインを選べない・選ばない」という問題点をどのように超えるか?


3)主人公がヒロインとのラブコメに逃避しないのならば、一体なんのために生きているかの目標を示さなければならない


全てメタ的に答えているのがわかりますでしょうか。この本を読む人は、ネギまシリーズを読んでいる前提なのでだいぶ端折り気味ですが、ネギ・スプリングフィードという少年の目標・憧憬に対して、父親からはっきりと「俺になるな(=同化するな)、自分自身になれ」と、言われています。これが、「景太郎が瀬田化した」ことへのメタ的な次への挑戦であるのは、明白ですよね。言葉でだけではなくて、この後、ネギ君は、「自分の強みとは何か?」と考えて戦闘のスタイルを考えていくうえで、父親やアスナのようなタイプではない、彼らにはなれないというのを痛切に実感していきます。そして、その果てで、もともと、とても「小利口」で頭がよくて生真面目な自分の本質を、どのように伸ばせるかということに気づいていくのですね。これは、勝木光さんの『ベイビーステップ』というテニスマンガで、どうやって才能あふれる天才たちに平均値でどれもバランスがいい代わりに、特に目立った強みがない自分が勝つか?ということを考えぬ来て試行錯誤の果てに答えを出していくのと非常に重なります。ここでいわれているのは、「自分」は、「自分自身にしかなれない」ということです。憧れで、「父のような目標」を動機にして、成長していくのはいい。しかし、「その人自身に同課はできない」ということを通して、「何が自分自身か?」と問うていってこそ、成長なのだということがここで示されます。これは、『ラブひな』で永遠のループに入ったように見える「安楽な世界」に逃げた、もしくは回帰しているのではないか?という批判に対して、物語で具体的に、それを超える方法を描写して進化しています。このあたりの、挑戦を続ける分析能力は、赤松健の見事さといえるでしょう。

またハーレムメイカーの類型として、好きな属性の女の子を選び放題になるというマーケティング的な、「売れる路線のいやらしさ」をこれでもかと追及しているにもかかわらず、10歳なので恋仲としてラブコメ路線が、物理的に寸止めになる点も、赤松健の倫理性を示していて面白い。『ラブひな』ではそれがない構造に対して、メタ的にストッパーを作るのは、とても批評的な物語の作り方だと思うのです。またこの部分は、前にしました「父親の背中を追う」という憧憬をセットしている時点で、「女の子と仲良くなる」ことよりも「自分が成長して父親を超える」という目的が優先するので、ハーレムにならないんですよ。このへの仕掛けも、本当に意識的で、この人のセンスは凄い論理的だとうなりました。もう少しわかりやすく言うと、ハーレム構造の始祖でありながら、ハーレム構造に対するメタ的な批判を取り入れる物語を作ろうとしているわけです。


■日本的な母性での回収ではなく、厳しい父性を乗り越える物語

ラブひな』のハーレム構造、「景太郎が瀬田化した」同化の物語の構造に対して、非常に批判的批評的に、次作を設計しているのは、最前線の作家だとうなります。少し、マクロ的な視点で俯瞰して見ましょう。

もともと日本の文学批評の中には、大きな批判的意識があります。日本の物語というのは、大きく「母なるもの=マターナルなものに」に抱かれて救済されるという傾向、問題点があると。これは柄谷行人でも宇野常寛でもよく言われることです。まぁざっくり過ぎますが。もっと噛み砕いて、わかりやすくいうと、これまで話してきたハーレム=たくさんの女の子に愛される、必要とされるとか、永遠に時間が止まった(=成長がない)楽園のような世界で、自己回復ををする。言い換えれば、幸せになって、救われるというのが、日本人の持つ理想の一つなんですね。大雑把(すぎるけど)にいうと、森林などの自然が豊かで温暖な列島に生きていた日本人は、豊穣なる大地の恵み(=女神や女性神に対応する)に同化することによって幸せになることが、簡単だった。だから、それでいいじゃないかというポジティブな意識がある。これに対して、一神教を産んだ砂漠の世界では、そんな甘ちょろいこと言っているとすぐ死んでしまうので、父なる神という強い、「乗り越える壁」を設定して、それとの激しい葛藤を経て自分自身の自己を確立して、壁=困難=父なるものを倒して、克服して、支配していく。


母なるもの(=日本的なもの) VS  父なるもの(ヨーロッパ近代的なもの)


という二元的対立を想定して、母なるものに「逃げるのはダメだ」と言いたいんですね。これをより卑近な例に落して、例を考えると、例えばラブコメのハーレムのように、「自分を好きな人ばかりがいる」という安楽な状況に包まれて、「ヒロインたちから何一つ強い要求を受けない、成長が止まった時間で」、ウヘヘヘヘとか楽しんでいるような物語はクズだ!と言いたいわけです。文学批評や批評家というものは、とにかく、自分が偉そうなポジショニングを取りたがるので、〜はダメであるという否定しか言いません。


この文脈で言えば、2000-2010年代に日本エンターテイメント世界で一世を風靡したハーレムものや日常ものが、全否定されるのはわかりますよね(笑)。


でも、批評家というのが偉そうでダメだなぁといつも思うのは、「じゃあどんなものがいいか?」って何も言わないんですよね。批評家は批判するのがコアのスキルなので、創作できないのが悪いとは言わないんですが。しかしながら、具体的に、どこへ行けばいいの?とエンターテイメントのクリエイターが問いかけても、何一つ答えないんです。批判して否定するの「だけ」が仕事だからです。


僕は、『ラブひな』をメタ的に批判解体して、主人公の動機をセット(=乗り越えるべき厳しい父なるもの)して、安楽さに逃げるのではなく、進んでいくこの「世界の苦しみに解決を具体的にもたらす方法を考え実行させる」という道を選んだ、赤松健先生は、素晴らしい答えを描いていると思っています。こういった批評意識とクリエイターの意識というのは、なかなか両立しません。これがとてもはっきりと色濃く出ているところに、赤松健の作家性があると僕は思っています。


だから、ネギくんが強い動機を持って、前に進む。しかし、憧れの存在と同化することは、ダメだと喝破されます。


自分自身になりなさい!


とはそういうことです。物語のキャラクターのドラマ、ドラマトゥルギーの設定として、成長を目指すビルドゥングスロマンに舵を切っているのがわかります。


では、キャラクターの動機はわかった。では、お父さんのナギ・スプリングフィールドが抱えていた「世界を救う」という課題に対して、いったいどのように赤松健は答えたのでしょうか。この問題意識は、富野由悠季さんを中心とする日本のクリエイターの大家が、なかなか具体的に答えを出せないまま、今日に至っています。それについて、この物語は、どんな解決策を描いたのでしょうか。


■普通の人々が世界を救う

petronius.hatenablog.com

思えば、カテゴリーで「愛しのウルティマほら」ってつけていますね(笑)。ネギまシリーズでいつも思っていたのは、細かいネーミングセンスが、SF的でとても素敵。基本的に本筋と関係ないような情報量の多さが特徴の作品だったので、そこを追わなくても、問題ないのですが、センスがとても秀逸でいつも悶えていました。 例えば、テロ集団の「完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)」や、たかみちが所属していた魔法使いの団体「悠久の風(Austro-africus-Aeternalls)」や、龍宮真名が所属していたNGO団体「四音階の組み鈴(カンパナラス・テトラコルドネス)」、世界救世軍「白き翼(アラアルバ)」とか、無駄にかっこいい。ラテン語ギリシャ語が、使われてて、この辺のセンスが好きだった。アルビレオ・イマ (クウネル・サンダース)のパクティオーカード称号:BIBLIOTHECARIUS IRONICUS(意地の悪い司書)とかのカードのデザインや用語も無駄にかっこよくてこの辺りの情報量の極端な多さ、豊穣さはこの作品の特徴でした。異様に書き込まれた密度の情報があるのに、それは別に読まなくても、話はサクサク進むところも赤松健のエンターテイメント作家として矜持と好みが感じられます。



僕はいくつかの組織の名前がカッコ良すぎるのがいつもニマニマお気に入りでした。ただかっこいいというだけではなく、これは物語の本質に関わるのですが、ネギまシリーズの貴重低音に流れている「ラスボスを倒しても世界は良くならない」という日本エンターテイメント界の大命題が、世界観に深く刷り込まれているように感じるんです。例えばね龍宮真名やタカミチたち、脇役といってもいい登場人物からはては、主役であるネギ君にせよナギにせよ、彼らが世界を救った大英雄と世界に語り継がれているのは、「ラスボスを倒した」からではなく、そのため世界の構造が変わってしまったことによる難民や、人類の発展に取り残されている貧困層を救うことに、その生涯を捧げていることから来ていると描かれています。これはこの作品の、人類を救うための最終結論として「普通の人たちの建設を信じる」とリンクしていて、最初からこの物語のコンセプトが、「そこ」に向かっていたったことを表しています。66巻(18年)にわたる大長編シリーズであるにもかかわらず、命題が全くぶれていないところにも、感動します。「四音階の組み鈴(カンパナラス・テトラコルドネス)」という組織名がすごく好きで、自分で世界を救うNGOを作ったらこの名前をつけたいなとずっと思ってました。ええとですね、「なぜぶれていない」と僕が思うのかといえば、主役も脇役も、さまざまな魔法使いたちが、「人類の救われない人々を救うため」に、様々な組織をつくって、長年活動していること-------それだけではなく、魔法を使えるものはノブレスオブレージとして、人々を救う使命があるという理念、動機、あるべき姿、建国の理念、伝統-------なんでも良いのですが、魔法使いという「存在」の「あるべき姿」としてのエートスが、作品世界全体にセットされているんです。変にマクロ的な説明をするのではなく、物語の中に自然に、「そうあるのが当たり前」として描かれている。だから、さまざまな組織の名前が溢れることになるのです。この作品は、SF的ガジェット(どうでもいい情報)の密度が高いです。なんでどうでもいいというかというと、可愛い女の子がたくさん出てきて、よく脱げて(笑)、ネギくんや近衛刀太が誰を好きかというラブコメで話が十分読めてしまうので、「頭で考察することがほとんど必要のないエンタメ」になっているからです。にもかかわらず、一見どうでも良さげなガジェッドの密度が束になっていくと、この作品が大命題にしているSFや物語の大きな問題意識に対する「答え」やストーリーの結論に、がちっと結びついていくところが、たまらなくゾクゾクするんです。僕の用語で言うとマクロ(=この世界はどうなっているのかと言う謎?)とミクロ(=個々の主人公たちが何をしたいか?幸せになれるか?)のドラマトゥルギーが、ガチっととかみあっているときに、この感覚が訪れます。


■「自分自身になった」後に目指すは、世界の救済〜しかしラスボスを倒しても世界は良くならない問題

ペトロニウスの物語評価のポイントは、マクロとマクロが組み合わさっていることです。上記で、主人公のネギ・スプリングフィールドくんの動機が、憧れの父を追い越して、自分自身になること、であることを確認しました。これは、赤松健先生の『ラブひな』でなしえなかったメタ批評的な進化だと思います。そして、では、その父親、ナギ・スプリングフィールドの物語が描かれて、明らかになっていくにつれて、お父さんが解決しようとしていた物語が明らかになっていきます。彼は、いわゆる古典的な意味での英雄で、世界を救おうした人でした。世界を救う=ラスボスを倒すということです。古典的な意味でと述べたのは、悪いやつを探してゆき、最後のラスボスに行きついて、そのラスボスを倒せば世界が良くなるという典型的なドラマトゥルギーの足跡を踏むからです。しかしながら『魔法先生ネギま!』において、この「ラスボス(=悪)を倒せば世界が良くなる」という公式について、常に激しくこだわって、問い返されていることがうかがえます。簡単に言えば、ラスボスを倒しただけで、本当に世界はよくなるのだろうか?という疑問です。

この「ラスボス問題」がたどってきた日本エンターテイメントの足跡は、とりわけ富野由悠季作品の系譜を通して、『物語の物語』で何度も確認してきました。「悪」の大ボスを設定した時に、その「悪にも何らかの理由があって、悪を為しているのではないか?」という「相手への理解」を要求するのが近代文学の基本だからです。この悪の内面を探る旅というのは、さまざまな効果を物語にも取らしました。一つは、悪の内面が、個人的な家族を殺されたなどの恨みであった場合、それはどこまで行っても個人的なので、いきなり「話がしょぼく」なってしまうんです。悪にふさわしいスケールが要求されるのですが、インフレーション(どんどん妄想的に大きく中身がなくなっていく)を起こしていくのですね。この究極の形態が「絶対悪」になるのですが、それが天使の姿で人間の悪を断罪するようになります。しかし、この場合は、人間に悪がないことを証明しなければいけなくなるので、基本的に『デビルマン』的に、天使に人類が男児されて絶滅エンドを迎えるという袋小路になってしまいました。なので、この善と悪というロジックでは、最終的に「悪と善が混じっている存在である人間」は、悪の側として断罪されてしまうというのが究極の袋小路になるのです。これを避けて、天使にならずに、個人的な「しょぼい恨み」ではなく、「悪を為すにふさわしいリーズナブルな理由」をクリエイターたちと、一緒に歩く受け手の読者たちは探していくことになります。その典型的なわかりやすい例が、『バトルスピリッツ 少年激覇ダン』の異界王や『天元突破グレンラガン』のロージェノムになります。彼らは、むしろ人類を守るために「悪」を為しており、その指導者として清濁併せ呑む器、大きなビジョンは、はっきり言って子供のように暴力で敵を倒せばいいと考えている勇者や英雄に比べると、はるかに勝る存在感を放ちました。彼らが提示しているのは、何もしなければ人類が滅んでしまうから、「悪」を為してでも人類を全体主義で管理しなければならないなど、究極の選択肢を突きつけるものでした。しかし、かつてのすべての英雄、勇者は、この問いにまともに答えることができませんでした。唯一出来ることは、その悪のラスボスを倒して、「未来に何とかする・なる!」といって時間的な猶予を獲得することだけでした。いいかえれば、誰も世界を救う方法を示せなかったんです。


これに、唯一見事にこたえたエポックメイキングな物語が、『まおゆう魔王勇者』(2010)です。勇者と魔王という二元的な敵対をする主人公たちが、「この世界を救うためには戦う以外の具体的な方法を考えなければならない!」と話うところから物語が始まるのです。二人の天敵が和解後に最初に始めたことは、なんとじゃがいもを植えることでした。これはのちの物語の基本類型を変えてしまう大きなインパクトをもたらしました。ここは長くなるので、僕の過去の記事を読んでください。


魔法先生ネギま!』のラスボスは、造物主(ライフメーカー)「始まりの魔法使い」と呼ばれる「ヨルダ・バォト」です。『魔法先生ネギま!』の最終回は、2012年ですが、すでに『まおゆう魔王勇者』のインパクトを経験した後では、これをただ単に倒して終わりというわけにはいかなかったようです。たしかに、英雄たるナギは、ラスボスは、造物主(ライフメーカー)を倒して世界を救ったのですが、それは明らかにこれまでの「ラスボスを倒しても世界はよくならない」という構造を意識しており、ただ単に「時間稼ぎの猶予」を確保しただけでした。

繰り返しますが、『魔法先生ネギま!』『UQ HOLDER!』の大命題として、として「どうやったら世界が救えるのか?」と言う背景の日本的文脈の問いが常に隠れていました。31人の女子中学生のクラスの担任になるドタバタラブコメディからはじまったとは思えない、異様なストーリーに物語は突入していくところが、この作品の驚くべきところでしょう。日本的文脈と僕が呼ぶのは、この命題には、日本エンターテイメント界が、とりわけガンダムを創造した富野由悠季さんからが続く、「どうやって世界を救う?」が、展開して「戦争をどうやって無くすか?」になったのですが、「人間が自由意志のある人間である限り、戦争は無くならない(=それが人間の世界)」という筋道の問題意識が、見事に各エピソードで展開されており、当時(2000年代)からの物語のテーマの最前線が、ずっと意識されているように感じるからでした。

超鈴音(チャオリンシェン)編と小夜子のレブナント編の類似性〜世界をやり直したにも関わらず、やり直しを認めないエピソード

ここは、気力が尽きてしまったので、次回まとめるときに追加します。気力尽きたので(苦笑)。

超鈴音編と小夜子のレブナント編は、基本的に「同じ物語類型」のエピソードです。けれど「問いの本質」と「エピソードの洗練度合い」は進化しています。レブナント編を見ると、上記のエピソードでもはっきりしていますが、2010年代の「打ち捨てられて死んでいくルーザーたち」をどうやって救えばいいのか、という問題意識に満ち満ちています。そしてそのルサンチマンをばねに、復讐で世界を滅ぼすことの正当性がこれでもかと語らているところは、もうほんと素晴らしいに尽きる。また、一流のゾンビ映画の設定を、こんな短いエピソードの中に洗練して構成しています。もし世界を本気で滅ぼすならば、というシュミレーションが、ここでは見事に描かれています。もう「起きてしまった時点」で、世界が滅びるのが確定している。僕は、自分の大好きな映画、テリーギリアム監督の『12モンキーズ』(Twelve Monkeys)を思い出しました。


■世界の理(ことわり)を曲げることは許されないというグランドルールの提示〜00年代に示された並行世界の世界線に対する倫理的回答

ネギまの学園祭(9巻 - 17巻)編の超鈴音(チャオ・リンシェン)編と、『UQ HOLDER!』佐々木 三太(ささき さんた)と死霊魔術師(ネクロマンサー)の「幽鬼(レブナント)」小夜子のレブナント編の二つで、この命題は凝縮して語られている。


この2つのエピソードは、全体から言うと「なくてもいい」独立したエピソードになっているところが興味深い。


チャオリンシェン編は、時間操作懐中時計「カシオペア」の存在によって、やり直しが可能な世界になっている。

小夜子のレブナント編は、桜雨 キリヱの「リセットOKな人生(リセット&リスタート)」によって、バイオテロによって世界が滅んでしまったが、無かったことにしてリセットされている。


この複雑な物語構造も、赤松健先生の特徴で、言葉で説明すると、この複雑さがよくわかります。この二つともが、パラレルワールドの問題意識-------「一度しかない人生の生をやり直してもいいのか?」と言う日本のエンターテイメントに何度も問われ続ける問題意識を見事に抽出して、一つのエピソードに挿入しています。これは、エロゲーの全盛期に生まれた「分岐する世界のパラレルワールド」を使って、さまざまな分岐の系を体験することによって全体像を見渡そうとすると言う物語類型が、広がったことから来ています。ネギまシリーズは、こうしたパロディ的なものが凄く多いのですが、素晴らしいのは「単なるコピー」では全然なくて、この物語累計のハラム問題意識を深く掘り下げて、それがエンターテイメントとして許容できるギリギリを攻めてくるところです。2000年代は、「小説家になろう」やライトノベルで生まれてきた「転生して人生をやり直す」と言う類型が後半に広まった時期です。この類型には、常に、「転生して過去の経験や進んだ文明の知識を使うチートと言う「卑劣さ」をどう処理するか?と言う問題意識が常に付き纏っています。この二つのエピソードで、赤松健がどのような答えを出したか?というと、「人生は一度きりであり、どんなに不幸なことがあっても。やり直しはできない、すべきではない」というとても普遍的な結論に、ドラマトゥルギーの納得とともに描かれています。

普通ですね、エンターテイメントにするということ(=文脈を読まない、楽しみだけで見る人の満足を得る)は、チートで卑怯でご都合主義になるものなんですよ。なるもの、というか、「そうしなければならない」のです。読者の喜びをうるためには。だから、ご都合主義的な、チートさ、嘘臭さというのは、常につきまとうものなんです。ところが、「それではいけない」というかなり普遍的な結論に到達(=読者に感情的な納得をもたらす)するために、通常、長い長い尺が必要になります。ところが、これを、とても短い中編エピソードとして、「まとめ切ってしまう」ところに、赤松健の才能を感じます。いや、ちょっとありえないですよ。これ、ものすごい作品を読み込んで、こうした文脈に、考察に考察を重ねていなければ、こんなことできなですもん。

話が本質からずれたのですが、当時の2006年の物語三昧の記事を引用してしてみましょう。

『超さんが 変えようとしている 不幸な未来とは 地球・・・或いは 人類の存亡といった究極的自体に関係しているでしょうか?』(夕映)


『いや・・・そんなSFめいた大袈裟な話はないさ 奴の動機の源泉は今現在も この世界のどこかで起こっているありふれた悲劇と変わりはないだろう』(真名)


えっと、この質問が、既に答えですね。ゆえの質問を、言い換えると、もし仮に、チャオが、人類の存亡に関わることで歴史を変えようとしているならば、それは正しいことだっていっているんですよ、この質問形式だと。わかりますよね?。つまり、『不幸な未来』というのは、チャオ個人にとってなのか、人類すべてなのか?ということによって、事の正統性が変わる、といっているんです。

いきなり飛びますが、ドラゴンボールのトランクス編は正しいんです。というのは、もし、トランクスが何かしなければ、人類は滅びてしまいますよね?。それは、過去を変える正当な理由です。それは、わかりますよね?。人類全てが消失してしまうことならば、人類という人間全てにとって、なくなるよりは、救ったほうが良くて、誰一人それによって損はしない。無か有かですから。けれども、龍宮は、それは、人類ではなくチャオにとって不幸なことであって凄い不幸な厳しい出来事かもしれないが、しょせんは個人の問題だって言っているんです。

さて、では、その不幸が・・・・たとえば、チャオの家族とか自分の愛する国とかが皆殺しにあったとかいう非常に、厳しい出来事だとしましょう。それを、理由に過去を変えたい!と考えることは、非常に理解できます。そして、過去を変えたとしましょう。そうするとね、その過去が変わったことで、今度は連鎖的に、それに関わる全ての歴史が書き換わってしまいます。もしかしたら、そのチャオの不幸によって幸せになった人もいたかもしれません。ある一つの出来事が起きることによって、連鎖的に発生する全ての事柄・・・・・そのすべての事柄に関わる人間の、思い出、営み、悲しみも含めた行為の全てを、個人の正しさによって、破壊してしますのです。正しさってものは、残酷なものです。極論ですが、たとえば、戦争で人を殺しまくった王様が、間違っていたといえるでしょうか?。たとえば、死ぬほど人を殺しまくった織田信長がいたからこそ日本が統一国家になり、その後、死ぬ人が激減したかもしれません。もし彼に殺された人々が歴史を変えて信長を殺したら、日本の戦国時代という内乱が、他の国に征服されるまで継続して、もっともっと多い人が死んだでしょう。・・・・・・それは、信長に家族を皆殺しにされた生き残りが、信長を殺せ!と言うことが正しいのか、信長を生き残らせるのが正しいのか?、どっちだと思いますでしょうか?チャオが、もし信長に殺された人々の子供だったとか、仮定してみたときによくわかると思います。たとえば、もっと卑近に考えると、日本は先の戦争で、たくさんの人が死にました。では、これが凄い悲劇で、家族が皆殺しにあったとします。その人が、その悲しみをバネに、日本が戦争に負けない、自分の家族が死なない未来をつくる為に過去を変えたとします(これって、『ジパング』(笑)ですね)。その結果、たくさんのアメリカ人が、中国人が死ぬかもしれません。それって正しいことでしょうか?。


つまりね、世界には、ルールとか過去と理(ことわり)があります。一番大きなものは、時間は元に戻せない、ということです。あたりまえですが(笑)。



しかし、それを個人の動機で曲げてしまうと、その動機の出発点は、家族を殺されたくないとか言う純粋な動機でも、それに波及して、その代わりに誰かが死んでしまったりすることが発生してしまいます。だから、個人の動機で、世界の理を曲げることは、許されないんです。倫理的に。



「起きてしまった事」は、受け入れこと以外の選択肢がないんです。



何かを変えるならば、「過去を変える」のではなく、「未来を変える」べく動くべきなんです。・・・・・・・いっていることが伝わるでしょうか?。ちなみに、会社や国家で、制度論・・・・もともと決められた制度をを変えるときに、凄まじいリアクションがあるのは、世界に『所与(元からという意味で)に与えられているルール』を変更することには、非常に倫理的に問題がある行為なんです。だって、みんなそのルールを前提に、がんばって生きているわけでしょう?。人々が、信じ、マクロで人生を支配しているルールを変更することは、凄い難しいことなんです。だって、考えても見てください、明日から銀行に預けているお金は、国のものです!、ルール変えました、とかいわれるのは許さないでしょう(笑)。チャオのしようとしていることは、どんなにキレイゴトで言いくるめようとも、そういうことなんです。それを個人の動機ですることは間違っているんです。Fateのゲームの感想で、死ぬほど長くこのことを書きましたが、どーもシンプルには説明にしくい。・・・だから、これを赤松さんが、どのように物語りに組み込むか楽しみです。個人の不幸を動機とする、「歴史の改編」は、絶対に許されない悪なんです。それは、究極のナルシシズム

2006/10/19 153時間目  綾瀬夕映の答えの予想~世界の理を曲げること

■エンターテイメント的解決に重ねることを拒否したネギまのラストシーン〜最も見たいであろう英雄がラスボスを倒すエピソードの割愛

ええとですね、ここでは「ネギま」の最終回が、なぜラスボスを倒す大団円で終わらなかったのか?ということを話したい。それは上記にあるように、ラスボスを倒しても世界は良くならない問題という意識が、強く深くあったからだと僕は思っています。また、この世界の問題を解決するために、ネギ君が選んだ方法は、100年単位で人類の技術のイノヴェーションによる底上げですから、まだ始まったばかりだったんです。なので、この時点で、ラスボスを倒したので、良かった!という「終わり方」にできなかったんだろと思います。それはある意味エンターテイメントのルールに真っ向から逆らう形であり、有機であったと僕は思います。LDさんや僕のような、物語をメタ的に解析する人は、この「終わり方の凄さ」「批評的な意識」にしびれるほど打ちのめされましたが、もちろんそれゆえに、普通のエンターテイメントとして楽しむ読者に不評でした。特に、キャラクターのドラマトゥルギーが終わっていないことは、かなりの不満を残したと思います。この選択をしたからには、そんなのあたり前なので、「それでもなお」やったことは、本当にさすが、としか言いようのないチャレンジ精神だと思います。はがないこと、『僕は友達が少ない』の平坂読さんの2015年の最終回を思い出します。

■脱英雄譚として〜世界は一人の英雄が救うわけではなく、脇役たちの組織の絶え間ない活動によって変わっていく

さて、ネギまの物語としてペトロニウスが感動した部分は大分網羅してきたと思います。脱英雄譚というキーワードは、僕らが書いた本『物語の物語』の7巻の解説でその全体構造を詳細に分析していますので、そちらをどうぞ。ただ、もうすでに前述の様々なもので、ネギまが、前作のラブひなのみならず、日本のエンターテイメントが陥りやすい問題意識をすべて、具体的に超克しようという野心作であり、個々のアイテムエピソードで、その問題意識が20年近い連載の歩みの中で、ずっと維持されているというとんでもない強い軸を持った作品であることがわかると思います。しかしあえて言うのならば、2点。

一つ目は、なんと超絶の英雄として描かれたナギもネギも、かけたにもかかわらず。「ラスボスを倒す」というエンターテイメントの要求する結論を、わざわざ「描かなかった」てんです。これはすさまじい問題意識です。ましてや、明らかなマーケティング志向の強い赤松健の作風から、ウルトラチャレンジングな試みです。けれども、日本のマンガ、エンターテイメント、ラブコメの類型として、「このような一歩」があることが、どれだけ深く意義あることになる代りません。それを、やってのけた赤松健先生に尊敬しかありません。ちなみに、UQホルダーで、ナギがラスボスを倒すエピソードを丸々やり直しているので、「書こうと思えば楽勝で書けた」のもまた、憎い。

もう一つは、やはり、「ラスボスを倒す」以外の、具体的に「世界を救う方法」を物語としてありありと描き出したことです。これは、食糧問題を解決するためにじゃがいもを植えるという、いまでは当たり前になってしまった「世界を救う方法」を物語に持ち込んでエンターテイメントにした『まおゆう魔王勇者』に匹敵する、エポックメイキングな解決方法でした。起動エレベーターによるエネルギー問題の解決。緩やかなイノベーションによるの普通の人々の成長によって、難民問題、資源争奪戦争を回避する。エンターテイメントとは思えない、富野由悠季らによって問われてきた、「戦争をなくすためには」「悪をなくすためには」といった究極の問いへの、具体的な解決。これをエンターテイメントで描けたところに、凄みがある。本当に素晴らしかったです。


が、しかし、、、、、でも、この100年かかるその結論を、「具体的にどうキャラクターたちが生きるか?」を物語では、ネギまでは描いていません。それが、次の続きであるUQホルダーに引き継がれていきます。


この続きが、下記の記事です。


魔法先生ネギま!』『UQ HOLDER!』が示した00-20年代の日本エンターテイメントの文脈(1)~人類の監視者としての不死者・吸血鬼が100年を超える人類の進歩を見つめる
petronius.hatenablog.com


■参考

思い出として、自分のメモメモ。


赤松氏の前作『魔法先生ネギま!』(2003年~2012年)の未来を舞台にした続編で、2013年8月より『週刊少年マガジン』にて連載がスタートし、その後、『別冊少年マガジン』へ移籍。『魔法先生ネギま!』を含めた『ネギま!』シリーズの累計発行部数は2600万部を突破しており、2017年にはテレビアニメ化もされた。コミックス最終28巻は3月9日に発売される。

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Liverpool vs. Watford - April 2, 2022 Anfield-プレミアリーグ見に行ってきました。

行ってきちゃいました。少し遅れたけど、思い出はブログに残しておこうって思って。

息子がプレミアリーグを見てみたいというので、行ってきてしまいました。贅沢すぎて顎が外れそう(苦笑)。しっかし、とにかく、Fワード連発、周り歌いまくり、フーリガンのノリだーと思いながら、おびえているうちの娘(小学3年生)にも「リバプールの強いところ見てくれてうれしい!」とか前の兄ちゃんが声かけてくれたり、もうめちゃくちゃノリノリ。何かあるごとに歌を歌いだしたり、いやーやはりリアルは違う。

この2022年の4月、イギリス(連合王国)に旅行に行ってきました。子供たちに、中学生ぐらいで、絶対、近代文明の発祥であるヨーロッパを見せておきたい!と子供が生まれたときに思ったんですが、まさかアメリカに住むとは思わなかったので、もういっかなー(めんどくさいしお金も高い(笑))と思ったんですが、機会があったので。単純にマイレージが切れそうで、どこか使わなきゃいけないとかそういういろんなことが重なって、えいやって清水の舞台から飛び降りる気持ちで。いや、ロサンゼルスからロンドンのヒースロー意外に近かったです。人生で、カナダの上空とか超えて、大西洋を越えることがあるとは思いませんでしたので感無量です。このルート、ヴィンランドサガだ、とか思いながら悶えていました。


リバプールライム駅



ロンドンから特急で3時間。 286 kilometres。これが、なんか物凄く狭い。日本の新幹線をイメージしてたら、あまりの狭さに、驚いた。予約していないと、これは本当にしんどい。行きも帰りも、たぶん試合に行く人たちばかりで、熱気むんむんでした。個人的には、あまりに狭いので、マスクしてないし、コロナ移ったらヤダなーとか思っていました。ただ、南部イングランドの草原をがーーーっと突っ切るのは、そう快感があって、本当に良かった。ちなみに帰りは、予約席なのに、みんな車掌が来ないのをいいことに自由に座って酒盛りで、勘弁してくれって思ったよ。小さな子供と離れて座るのは、やりにくいからずっと立って子供のそばにいて、へとへとになった。イギリスに少し滞在した時に(もう20年も前)、電車まともに来ないなーって記憶があって、ちゃんとしっかり運営されていて少し驚き。これって日立の運営なのかな?。Avanti West Coast。

■バス

リバプールライム駅前からバスが出ているんですよね。15分くらい?。凄い行列ですが、ガンガン本数出ているので、そんなに待たなかった。15分くらい。いつもの二階建てのバス。この駅前から、スタジアムまでは、郊外の少し寂れた?感じで、決して裕福ではない感じの場所で、歩いていけるとガイドとかにはあるけど、まぁ、たくさん人がいるときはいいけど、、、ちょっと怖くて歩けないなって思いました。

■入口

周りは大分、貧困層?というかそんなに裕福な感じがしない地区をバスで通り抜けるのですが、スタジアムは、ぴかぴかでした。中に入ると、さらに。お金ある感じがあふれていた(苦笑)。


■結果
Watford相手では、全然楽勝なのか、だいぶ気楽にやっていた感じでした。ホテルの受付のお姉ちゃんに、カリフォルニアから見に来たといったら、ムチャクチャ喜んでくれて、Watfordなんか楽勝だから勝つところ見れますよ!と満面の笑顔だった。なんか、地元好きすぎる!って感じで、こちらのも幸せになる感じだった。

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■次のマンチェスター

本当は、この次の試合のマンチェスターとの試合を、マンチェスターのエティハド・スタジアム(Etihad Stadium)に聞きたかったんですが、旅行の日程が追わせにくかったのと、何よりも値段が高すぎて、家族5人じゃ死んじゃうと思って(笑)、あきらめました。息子は、ずっと、あっち行きたかったーといっていましたが。まぁでも、アンフィールド(Anfield)もなかなか来れないところなので、十分満足ではあったみたいだけど。現実の場所を見れる、というのは、僕は大事なことだと思っていて、見に行けて本当に良かったと思う。つーか、これだけしたら、親としては、もう十分なんじゃねぇ?って自負している。アレンジ本当に大変だったんだもん。まぁ妻と僕が行きたかったというの盛るんだけど(笑)。


これはさすがに思い出で、妻に内緒でこっそり買っちゃった。というか、躊躇してたら、息子がこっそり買ってくれた。ありがとう、息子。


『魔法先生ネギま!』『UQ HOLDER!』が示した00-20年代の日本エンターテイメントの文脈(1)~人類の監視者としての不死者・吸血鬼が100年を超える人類の進歩を見つめる

■はじめに

魔法先生ネギま!』(2003-2012)シリーズ『UQ HOLDER!』(2013-2021)最終回(192話)~18年間ありがとうございます。2022年2月。『UQ HOLDER!』の連載が、192話で別冊マガジンで終了しました。8年半の連載でした。が、前作『魔法先生ネギま!』から数えれば、2003-2022年で、約19年、ずっと追い続けてきた大好きな大サーガロマンの終了でした。感無量です。赤松健先生、そしてかかわったすべての方々、素晴らしい物語をありがとうございました。これは普遍的に残る大傑作として、物語を閉めてくれました。こんなに嬉しいことはないです。ほぼほぼ、僕の社会人、結婚年数と重なり、この間、なんと子供が3人生まれましたし、挙句の果てに、ペトロニウスは、いまアメリカのカリフォルニア州オレンジカウンティで暮らしています。

■ブログがメディアの最前線だった頃、連載を追いながら物語の謎を解釈していくコミュニティの先駆けとしてのネギまシリーズ

Amebaの旧ブログは閉めてしまったのでうろおぼえですが、2003-4年頃から読み始めていて、ガチに、はまったのは、65〜66時間目『僕だけのスーパーマン』&『雪の日の真実』読んだ時でした。物語三昧のブログは、なぜ続けられたのか、なぜ楽しくなったのかの原点は、ネギまの連載の解釈を毎週追うことで、映画ブログだったものが、急速にオタクブログにかじを切っていった(笑)のが、はじまりにして原点です。ブログというメディアはいまではすでにすたれている少し古いメディアですが、まだこのころは目新しさがあり、かつ週刊連載の、連載を追いながら物語の謎を分析したり感想を言うというスタイルが、始まったばかりの時代の最先端でした。今でも思い出しますが、中央線の満員電車に揺られながら、死んだ魚のような目をしながら社畜をしていたリーマン・ペトロニウスが、ネギくんのがんばりやゆえの笑顔に励まされて、なんとか今日も会社に行くかと頑張っていたのを振り返ると、なんと長い年月が過ぎたのか、感無量です。だぶん、ブログで謎解きや感想を言いながらコミュニティが形成されていく現象の、ほぼはじまりの現象だったんじゃないでしょうか。本当に懐かしい。魔法先生ネギまの感想は、かなりリアルタイムで書いていたのですが、『UQ HOLDER!』はそういう追い方はしなくなってしまいました。単純に、アメリカに引っ越した時期と重なるので、忙しすぎて追うえなかったのと、当時は電子書籍がなくて、週刊マガジンを手に入れることが物理的に無理になってしまったからです。自分史とも重なるので、なんだか感慨深い。

■連載の最終回の直後の感想

`Youtube`の方は、初見の読了直後の感想です。
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目次-『魔法先生ネギま!』『UQ HOLDER!』が示した00-10年代の日本エンターテイメントの文脈(1)~人類の監視者としての不死者・吸血鬼

■ミクロとマクロが交錯する長い物語が終わった後の喪失感
■1万2千年後ってなんでなんだろう?~近すぎず遠すぎず、まだ人類が生き残っている
■「最も救われない層を、どのように救うのか?」という人世代前の古い答えに対する、真摯な追及と、その普遍的な答えに
■700年生きたエヴァンジェリンの恋の行方~エヴァが幸せになったんだというのが感無量
■一代の英雄・個人では世界を救えないならどれくらい時間がかかるの?-祖父、父、息子の三代100年を超えて1万年を超える人類の監視の使命を持つ不死者へ
■人類の監視者としての不老不死・吸血鬼モノという独創
■1万2千年後でも人類が大繁栄している理由は?‐人類の革新はどうやって成し遂げられたのか?

魔法先生ネギま!の方は、その(2)で解説します。まず最終回の考察です。

■ミクロとマクロが交錯する長い物語が終わった後の喪失感

素晴らしい物語が終わった後には、喪失感がある。何かが終わってしまったという喪失感が。つらく苦しいことなのですが、それ以上に、何か大事なものを見たという感慨が胸に、訪れる。この喪失感が訪れたことは人生でもそんなにないのですが、わかりやすい比較でいうと、庵野秀明監督の『ふしぎの海のナディア』を見終わったときです。もしくは、『未来少年コナン』の最終回。ぱっと思いつくのは、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』のアトラやクーデリアと暁のシーンとかも素晴らしかったなぁ。


看護士のイコリーナ・エッチーノが、流れ星を見ながら「もうこんな想いをしなくて済みますように」と祈るシーン。これ自体も『サイボーグ009』のフランソワーズの「私たちにできることはもう、祈ることだけなのね」のオマージュだとか。これに、当時幼い子供だったマリー・エン・カールスバーグの回想として未来の視点になり、彼女がサンソンと結婚している未来が語られる。こういう長い長い物語では、それぞれのキャラクターに思い入れがあるために、「その後どうなったのか?」もっと言えば「キャラクターたちは、幸せになったのか?ナディアとジャンは結婚したのか?」とか、そういうミクロの結果が知りたくなる。それが十全に語られる大団円のシーン。この「未来のエピソード」を入れることで、「その後の歴史、その後の関係性が継続くして、時が流れている」悠久の感覚を演出できるので、僕はこれがとても好き。

宮崎駿の『未来少年コナン』では、機帆船「バラクーダ号」の船長だったダイスと元インダストリア行政局次長のモンスリーの結婚シーンで始まりますね。そして、コナンが住んでいた「のこされ島」に移住するシーンで終わっています。これも素晴らしかった。

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』で、クーデリアが独立を果たした火星の行政官になっていること、アトラと暁の住んでいるシーンは、ああ、この後、三日月の家族は生き残って家族を継いでいくんだなぁというのが感じられて、何一つ名前の残らなかった鉄華団のメンバーの遺志は、思いは、継続していくんだなという悠久の時が感じられて素晴らしかった。

ただし、この大団円のシーンを入れるには、それまでのキャラクターたちの、群像劇的な積み重ねがないと難しい。これって映画でも難しい。2時間程度では、この「積み重ねの深さ重さの関係性」が感じられないからだと思う。ネットフリックスなどで一気に見ただけでも、訪れにくいと思う。長期のアニメシリーズでないと、この「喪失感」が訪れにくい。よく比較に出すのは、栗本薫さんの『グインサーガ』シリーズです。栗本さんは、物語を作っているときに、実際にグインサーガの世界というのが「存在していて」、ただ単に自分がそこにアクセスして、自動筆記のタイプライターのように「実際に存在するその世界」を写し取っているだけのようにいつも感じるという発言をしていました。長く長く、グインサーガの物語に耽溺していた僕は、まさに「グインサーガの世界があって」そして「キャラクターたちがまさに存在している」という感じがしていました。栗本薫さんの文章によって、「その別の世界」にアクセスしているような感じ。


最終回の大団円は、この「アクセスがぶちっと切られる」ような感じなんです。だから「喪失」するような気分になる。


これって物語の世界が、キャラクターが「実在している」というような思い入れというか、長く長く引き込まれて物語世界にいないと起きない感覚なんですよね。そしてこの実在感が起きるには、僕は、マクロ(=その世界がどうなっているか?の大きな歴史の流れと積み重ね)とミクロ(=キャラクターたちの動機、実存、ドラマトゥルギーが十全に展開されている)が交錯している必要性があると思っています。


これを『UQ HOLDER!』の192話の最終回で重ねわせると、

ミクロ:エヴァが幸せになってよかったね!


マクロ:作品全体のテーマである「普通の人たちの建設が世界を救う(=ラスボスを倒しても世界は救われない)」答えが有効だったことが、1万2千年後の人類の繁栄によって示されている

こういうことになります。僕は、読んでいてこれを実感しました。この2つの点を、『魔法先生ネギま!』と『UQ HOLDER!』はどう答えたのかを、さらに詳細に考えてみたいと思います。


■700年生きたエヴァンジェリンの恋の行方~エヴァが幸せになったんだというのが感無量

まず最初にミクロの話をしたいと思います。赤松健のコアは、エンターテイメント作家であると思いますので、読後感がいいかどうか、キャラクターたちのドラマが全うされているかどうか-----つまり、主人公たちが幸せになれたかどうかは、重要なポイントだからです。とりわけ『魔法先生ネギま!』では、本来見たかったナギとネギがラスボスを倒すエピソードを丸々省略して、マクロ的な答え-----100年以上かけて人類を救うという結論に飛躍したために、ファンに失望されたのわけですから『UQ HOLDER!』では、エンターテイメントとして閉めたいところ。

批評的な立場としては、「ラスボスを倒しても世界は救われない」という問いに真摯に向き合い、これまでのエンタメでは描かれてこなかった100年、3世代以上かけてエネルギー問題などのインフラ、社会の構造のあり方自体を変革するという「答え」を出したところに、素晴らしい価値がある物語でした。しかしながら、批評的に素晴らしい答え、言い換えれば構造的に新しいものは、エンターテイメントの予定調和や感情曲線から外れることが多く、時代を代表していたライトノベル平坂読の『僕は友達が少ない』(2009−15)の結末が、散々フラグを立てておいて、誰とも結ばれないエンドに非難轟々だったことを思い出します。はがないの、書かれたテーマ、それに対する、見事な結論として批評的には、時代を代表する新しさがあったものの、感情移入している読者にとっては、ラブコメなのに誰とも結ばれないというのは肩透かし以外の何者でもありませんでした。

エンターテイメント的な陳腐な終わりかたで、「その時のファンの心の喜び」を選ぶのか、「時代を越える価値として新規性やテーマへの答えに殉じるのか」は、作家性が、エンターテイメントにこだわるか、テーマに対する問いを答える文学的な表現にこだわるかの違いに分かれます。赤松健は、明らかなマーケティング志向、かつエンターテイメント性の重視の作家「であるにも関わらず」、『魔法先生ネギま!』では、ファンの失望を買っても、作品としての深さ鋭さを選びました。これは多分、『ラブひな』と同じことはしないという作家の意思があったのではないかと僕は感じます。


では、『UQ HOLDER!』では?


リアルタイムで追っていた方々はわかると思うのですが、僕はだいぶの分の悪い物語の展開だなぁと思っていました。問いのは、最終話の前の回でも、マクロ的なもの(=ラスボスを倒しても世界は良くならない)への、『魔法先生ネギま!』以上の答えを出せていないし、かつミクロ的な視点では、主人公であるエヴァと刀太のキャラクターとしての、人間としての結末が、よくわからないままでした。この問題を、たった最後の一話で回収するのは、僕は無理だと思いました。もし、この2つの両方ともに、ちゃんとした答えが出なかったら、駄作でおわってしまいます。人生の大きな時間を費やしてファンであった作品が、駄作で終わるのは嫌だなぁと思ってちょっと怖かったです。何しろ、2022年の前半では赤松健は、自民党の比例公認候補として、参議院議員に立候補しており、そちらに軸足を移す-----というか、そもそもそんな忙しい中で連載をしていること自体がおかしいほどで、これはあまりアイディアが出ないかもなぁ、と半ば諦めていました。

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最終決戦近辺は、大ゴマが多く、パソコンなどの大画面で見た方がいいような、電子書籍の時代には似合わない「映画的なショット」で描かれており、壮大さはさすがでしたが、映画的に技術の密度が上がれば上がるほど、シナリオ的なオチがどこに行くのか不安になっていました。この辺の、「終わりがわからない」ドキドキ感は、連載を追ってこその醍醐味でした。


そして-----驚いたのですが、最終回の読後感が素晴らしくよかったんです---------まず感情を素直に言えば、


エヴァが幸せになっているのが、感動したんです。


いろんな視点でこの「感想」を分析できるんですが、3つほど視点を出してみたい。


1)エヴァちゃんが、なぜか刀太に惚れ直しちゃっている?なぜなのだろうか?

2)エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルが背負った不老不死の700年の地獄をどうやって相対化するか?

3)エヴァちゃんは、これは幸せになれそうだって感じがして~なんで幸せになれそうなの?


ペトロニウスの物語評価は、マクロとミクロが交錯する物語なんです。しかしながら、これは難しい。マクロの課題が前に出る物語は、個々の人々の人生はどうでもよくなって、マクロ(歴史)の変化や結論を描くものになりやすい。ミクロ(=個々のキャラクターの字図問屋幸せ)を描くものは、マクロ(歴史や政治経済)の大きな動きを描写しなくなってしまうからです。ネギまシリーズは、僕にはとてもSF的で「物語の文脈やテーマ」を重視した物語に思えるます。実際に、すべての課題設定に誠実に、しつこく答え続けています。にもかかわらず、エンターテイメントとのバランスが凄くよくて、尚且つ、これだけ長いシリーズで群像劇であるにもかかわらず、個々のキャラクターのミクロの物語を完結させています。

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エヴァに行く前にも、桜雨キリヱたちも全員ちゃんと幸せにして、がっつりオチをつけている点も、素晴らしかった。マクロの文脈にこだわる作風だと、こういうキャラクターの幸せっていうのを無視しやすいんです。ただし、あまりに桜雨キリヱたちが幸せになってくれていたので、もうミクロの話はこれで終わりかなとも思っていました。物語的にもそれでおかしくはありません。結城夏凜も時坂九郎丸も幸せにしてくれてとても嬉しかったのですが彼女らは不死者です。不死者の時間感覚を持つ人には、100年以上の時を見る人類の監視者としての役割が付与されるので、マクロの問いに関連する人々です。なので、この場合、桜雨キリヱのドラマトゥルギーが全うされていれば、ミクロ(=個々のキャラクターの持つ問題点)の問題は解決していると捉えてもおかしくありません。

UQホルダー不死身衆No.9桜雨 キリヱ(さくらめ きりえ)のミクロのドラマは、「リセットOKな人生(リセット&リスタート)」という不死身のネタが示しているのですが、親に虐待されて殺されて生き延びることのできなかった幾多の子供たちです。彼女は、虐待ネグレクトを受けて死亡する幼少期を何千何万回潜り抜けて、それでも生きる意思を捨てずにここまで辿り着いています。時々、定年おような感じに、人生を諦めてしやすそうな儚さがあるのは、この世界の過酷さと地獄を、あまりに体験し続けたからだと思うんですよね。これだけ人生を苦しさを繰り返して感情が摩滅していないのが不思議なくらいなのですが、この子を救う方法なんて、もう抱くことでしかあり得ないと思うんですよね。言葉や恋心とかそんなものでは、無理。これ、連載が途中から『週刊少年マガジン』から『別冊少年マガジン』に映ったので、エロ表現が緩くなったんじゃないかなって思うんですよね。いやーガッツリSEX描いてて、よかったなー。というのは、正直エロさよりも、ああ、よかったねぇ キリヱとずっと心がほっこりしていました。ちなみに、蛇足ですが、ドラえもんの「人生やりなおし機」だったか道具で例えられたりここの不死身のネタなどが、藤子・F・不二雄のSF(少し不思議)的なガジェットが満ちており、そういった重箱の隅をつつくところの情報密度が画面だけではなく高いのも、連載を追う楽しみでした。

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なので、本筋に戻ると、もう最終回は、マクロの話に特化して、エヴァのミクロの話をするってことはないなって思っていたんです。それが、驚くほど感情曲線にそう形で、エヴァが幸せになっていたので、驚いたんです。


では、具体的に、「どういう風にエヴァちゃんが幸せになった!」とペトロニウスが納得したかです。


まず大前提で、押さえておきたいのは、この物語始まった地点から、700年の不老不死の時間を生きたエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル、既に感情を磨滅していて、あまりに「長く多く」を見すぎたがゆえに、「幸せにはなれない」という文脈が隠れているんですよ。ネギまシリーズは、かなりの様々な日本エンターテイメントのアーカイブを利用しています。なので、不老不死という物語について、原点を考えるのならば、日本では、高橋留美子先生の『人魚の森シリーズ』です。このテーマはエンタメを楽しむときの基礎概念みたいなものなので、ぜひともこの類型がどのような踏破を行ったかは、いろいろな作品を楽しむのをお勧めします。『真月譚 月姫』『ヴァンパイア十字界』『ポーの一族』『ヴァンパイア騎士(ナイト) 』『ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド』『ウェディング・ドレスに紅いバラ』(田中芳樹の小説ですね)、『トニカクカワイイ』『Re:ゼロから始める異世界生活』『白暮のクロニクル』『BLOOD ALONE』、西尾維新による『化物語シリーズ』とかとか、あげたらきりがないですが、こういった作品群を、ぜひとも読んで比較するのをおすすめします。アメリカだと、トム・クルーズで小説の『夜明けのヴァンパイア』を映画化した『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア( Interview with the Vampire)』や、なんといってもティーンズの少女に大旋風を巻き起こした『ヴァンパイア・ダイアリーズ』などのラブロマンスもおすすめです。原初にさかのぼりたいのならば、もちろんブラム・ストーカーの『吸血鬼』です。ちなみに、この吸血鬼のテーマを、見事な角度で料理した傑作短編に藤子・F・不二雄先生のSF短編『流血鬼』もあります。

91年、イケメン・ヴァンパイア兄弟に愛される女子高校生がヒロインの作品『ヴァンパイア・ダイアリーズ』が発行された。01年、人間界に普通に住むヴァンパイアと女性の禁断の愛を綴った小説『サザン・ヴァンパイア・ミステリーズ』が発売される。03年には、10代を対象としたヴァンパイアとのラブロマンス本『トワイライト』が発行され、「ヴァンパイアはセクシーで美しく、孤独で一途。優しいけれど獰猛にもなり、身を徹して愛する女性を守り抜く。女性にとってまさに理想の男性像」と女性たちを夢中にさせたのだ。そして、三作品とも大ベストセラーになったのである。

なぜアメリカで吸血鬼ブーム? 『ヴァンパイア・ダイアリーズ』がヒットした理由(2011/10/13 16:00)|サイゾーウーマン


これらを読むと、不老不死の問題点が、これでもかと語られます。『人形の森』シリーズを見てもわかるように、悲劇で苦しいものなんですよ。


「死ねない」イコール愛する人が死んでいく、愛する人たちと同じ時間を共有できない


ことなんですね。だから、これらの物語は、


同じ不老不死の伴侶を探す旅


になります。ただしちょっと難しいのは、不老不死になるということは、「その人個人が持つ実存=ドラマ=動機=生きる理由=解決したい問題」が、ちゃんと、意味ある形でリンクしていないと、幸せになれないんですね。普通の恋人でも、なかなか運命の人、生涯を共にするのによかったとも思える人に出会えるのなんて、かなり確率低い。しかも吸血鬼の場合、相手も不老不死になっていないと、同じ時間を生きられないというかなり厳しい条件がつきます。


しかしながら、エヴァの伴侶に相応しい人は、誰になるのか?と思った時に、もちろん主人公の近衛刀太しかいないのですが、彼ではダメだったんですよ。本質的に。最後の最後で、そうか!と気づいたんですが、エヴァが誰に惚れているかというと、ネギくんのお父さんのナギ・スプリングフィールドですよね。これ何でかって、彼女の内面を追ってきてわかったんですが、数百年の時を生きることで感情が摩滅しちゃって、自分よりも「より広く高い視点でものを見ている人」でないと、好きになれなくなちゃっているんですよ。要は、年上好みになってしまった。近衛刀太と最初にダーナの次元の狭間の城出会った時は、普通の女の子として刀太を好きになれたのですが、その後、あまりに長い時の生きることで、人生がかなり摩滅してしまったんですね。その上、子供の刀太を雪姫として育てているので、視点が母親もしくはお姉さんいなってしまっているんです。だから、初恋の人でもあり、息子でも弟でもある刀太は大事な人ではあるんですが、「恋愛対象」というわけではもうないんですね。


そういう彼女が、人生の伴侶として、刀太に惚れ直すのは、彼が、たかだか700年しか生きていない(笑)エヴァに対して、1万2千年の不死の孤独を生き抜いてきた「先輩が」-----言い換えれば年上の存在になったからなんですよ。下記のコマとか、ずっと雪姫(エヴァ)がはるかに長生きしている年上の母親目線で刀太に接してきた長い物語を振り返れば、大笑いのギャグ的なシーンになるんですが、よくよく考えると深すぎませんか。ここで立場がはっきり逆転しているさまが描かれているからです。

ラストシーンを見ていると、このあと、いきなり雪姫の姿から少女のエヴァの姿に戻っているのは、彼女の心象風景を表しているような気がします。というか、そうとしか考えられません。これ演出でしょう。雪姫で対する時は、母親なり年上の存在なんですね。愛は深いけど、恋じゃない。でも、少女エヴァの姿になったのは、恋をしているからなんですよ。


エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルが背負った不老不死の700年の地獄をどうやって相対化するか?、この様に問いをたてましたが、つまりは、刀太は、不死者の大先輩になったんですよ。たかだか700年しか生きていない、小娘という視点で、常時、刀太が語りかけているのが、一コマ一コマみれていけばよくわかります。

この「愛している」というお互いが言い合うシーンをの表情を細かくみていると、非常に繊細に演出されているがわかります。この「少女して、自分より大人で経験値が有る刀太」に惚れていることを表すように顔が赤なっていますが、この700年の不老不死で人類の悲劇を見続けてきた魔女が、その人生を相対化するには、説明したように刀太がそれ以上の化け物になっていまいといけません。最下のシーンの最初からこの辺は、見事に演出されていて、再開した最初に、エヴァの名前が言えませんよね。

桜雨キリヱの回想シーンでも、明らかに、はっきりと「忘れてしまっている」ワンクションが挟まっています。

そして、とりわけ、この表情。



これ、怖くないですか?。明らかに、彼は1万2千年を生きて、化け物になって化け物になっているんですよ。だからこんなに感情が乗っていない「表情」をしている。これ明らかに意図して、無表情なのに笑っている絵を描いています。この辺、赤松先生さすがです。そして、このコマのすぐ下のこまでエヴァが顔を赤らめているのが、本来はおかしいのに自然に感じるのは、そもそも700年生きるエヴァが化け物だったからですよね。化け物の先輩なので、彼女は怖くないんです。この辺のミクロの感性が繊細に演出されているは、読んでいてたまらなかったです。だって、これは、ヒロインへの、最も苦しんだ主人公に対して、クリエイターが、どれだけ繊細に深く思いやっているかの証左だと僕は思うんです。でなければ、感情的にエヴァが刀太に惚れ直して、それがすなわち彼女の700年にわたる地獄の相対化になるなんている離れ業にはならないと思うんですよ。


このあたりは、初見の`Youtube`の感想で熱く語っていますので、そちらもどうぞ。


さて、ミクロ的には、非常に感情的納得がありました。そもそもこの物語は、実は、刀太ではなくて、エヴァの物語だったことを最後に思い出しました。だって連載の最初のページが、エヴァの独白から始まっていうますよね。



この孤独の苦しさが、こんな美しいシーンで終わっています。




では、ミクロはクリアーした。でも、一体マクロの問題意識に、『魔法先生ネギま!』を超えてどういう結論を導いたのでしょうか?


さて次は、マクロをどの様に料理したかに移ってみたいと思います。



■1万2千年後ってなんでなんだろう?~近すぎず遠すぎず、まだ人類が生き残っている

これ見たときに庵野秀明監督の『トップをねらえ!』(1988-89)のラストシーンを思い出させました。SF的に、1万2千年って、ちょうどよいのかもしれませんね。数百年だと、年代的に近すぎます。けれども、数億年とかなると、人類が滅び去ってしまっている可能性が高い。その中間で、ほどほど。最近では、『ドント・ルック・アップ』(Don't Look Up)2021のラストシーンを、凄く思い出させました。PlayStation 4のゲームの『十三機兵防衛圏』も思い浮かびました。この連想は何なのだろうか?-----というのが、この考察の原点です。。



1万2千年後という時間の幅が、いったい何を示していると考えればいいのでしょうか?


僕はですね---------SF的なテーマでいうと、人類は、未来に繁栄しているのですか?という「大局的な大所高所の視線」に対して、まぁ、人類、いろんな厳しいこと(=ヨルダのこととか)はあっても、究極的には、繁栄していくよね、というめちゃくちゃ楽観論だと思うのです。これは重要な大局観です。いまの延長線上で、ロングスパンで、人類はどうなるか?と考えるときに、究極、悲観か楽観化は、「世界観を分ける」です。これは重要だと思うんです。というのは、ハインラインアシモフ以降、SFというのは、どちらかというと世界は滅びるとか、人類は生きるに値しないとか、悲観論で埋め尽くされているからです。こういう素直な楽観論を示されると、いやいや人類は「今のままでは」絶対にめちゃくちゃになるとか滅びるという感覚が、つい最近まで当たり前だったと思うんです。グレータ・トゥーンベリさんの地球温暖化の警鐘にしても、全体的な大局的なマクロの視点では、悲観論のほうが大勢を占めている気がします。でも、エンターテイメントの領域は、むしろ現在の過酷なサバイバル状況、気候変動など天変地異、人類の能力主義による巨大な格差の拡大などなどがあるにもかかわらず、楽観的で未来を信じるトレンドが大きく締めている気がするのです。

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これ、人類は、「『魔法先生ネギま!』『UQ HOLDER!』の時代、いいかえれば1990年代から2100年代くらいまでのマクロの課題は、すべて克服しているということを示しています。九州・熊本県阿蘇に住んでいた近衛刀太が、都のエレベーターに行くとするのが、2086年でしたね。そうすると、次に出てくる質問は、より具体的になります。「その1990-2100年代の人類の課題をどのように解決したのか?」ということに納得性がないと、いくら絵でそれを表現してもだめです。ネギまシリーズの大きな特徴と特異性は、僕はこの「解決の具体性」という点だと思っています。たとえば、イデオンでもガンダムでのニュータイプでも、「人の革新」と言われても、実際のところ何なの?という具体性が思い浮かびません。ニュータイプが何者なのか?という問題意識がガンダムシリーズで、問われ続けながら尻つぼみになるのも、問題が具体的ではないからです。デビルマンでも、人は「生きるに値するか?」という問いは、天使から「人は善なるものか?それとも悪なるものか?」という質問が大きくされますが、これも凄い観念的かつ抽象的すぎます。極限状態で、殺し合いをしたり、世界を滅ぼす決断をしたからといって言って、「人間なるもの」すべてが、善だとか悪だとか、判断しようがありません。

あとで、ネギまシリーズが、問題をどう具体的に設定したかの話は解説したいと思いますが、人間や魔族がなぜ「自分の住んでいる世界=土地」をめぐって、絶滅戦争になるかと問えば、住む場所を支えられるほどのエネルギーがないからだとはっきり明示しています。なぜ地球とは別の空間に「生きる世界」を創造したのかといえば、それは多様な異なる種族が距離をもって「生き延びる場所」を作り出すには、常に辺境に行って、別の世界を創造しなければならないのだということも、明示されています。これはさまざまなファンタジーで、地球とは別の世界が舞台になっている「その具体的な理由」を見事にマクロ的に説明しています。

これを敷衍して、もう少しわかりやすく説明すると、たとえば、小野不由美の『十二国記』、香月美夜の『本好きの下剋上〜司書になるためには手段を選んでいられません〜』のユルゲンシュミットです。地図を参照に拾ってきたものを出しますが、これらの形は明らかな人工的に「作られた」感が示されています。どちらにせよ、人工的に異なる世界が創造されたのがほのめかされているのですが、だれがどういう目的で作ったのかまで射程が届いていません。これだけの大傑作、隠された設定はあるのだろうと思うのですが、しかし物語にリンクして描かれていません。「それ」がテーマじゃないからです。『BASTARD!! -暗黒の破壊神-』などの設定もそうですが、近代的なファンタジーの「誰かの手によって創造された別世界」というシナリオを、合理的に説明しようとすると、何らかの意図と目的があって、「別の世界が創造された」とならないと、説得性がありません。宮崎駿の漫画版『風の谷のナウシカ』の墓所がまさにそうでしたね。そしてそのどれもが、あきらかに「元の世界」もしくは「オリジナルの地球」では生きていけなかった難民や差別された人が、別の世界の安住の地に逃げてきている暗喩、もしくは現生人類を皆殺しにして新人類が住む場所を創造したことがさまざまなところで示されています。これを物凄い明示的にSF的に、合理的にネギまはシリーズは説明しています。



「魔法世界(ムンドゥス・マギクス)」とは「現実世界〔旧世界(ムンドゥス・ウェトゥス)〕」と対になって存在するもう一つの世界である。獣人や妖精などが存在し、魔法技術を基盤とした独自の文明が発達している。魔法の世界といっても夢とメルヘンにあふれているわけではなく、地球と同様の現実的な世界である。総人口は人間・亜人合わせておよそ12億人程度。
この世界に地球から移住してきた人間、新しき民は「メガロメセンブリア」(旧世界の魔法使いの間では「本国」と呼ばれている)を盟主とする「北の連合(メセンブリーナ連合)」を、先住の獣人ら古き民は「南の帝国(ヘラス帝国)」を形成し共存してきた。しかし、20年前に「完全なる世界」が対立を煽り両者は戦争状態になった。真相を暴き、世界を滅亡の危機から救ったのがサウザンド・マスターに率いられた「紅き翼」であった。
その正体は異次元の火星が超膨大な魔力によって人工の異界と化したもので、魔法世界に存在する全てのものが魔法で生み出された幻想で成り立っている(12億人の内「人間」はメガロメセンブリアの6700万人であり、それ以外の亜人は「幻想」である)。しかし、長い年月が経つにつれ、幻想を維持するための魔力が枯渇を始めており、近い将来に幻想が消える=魔法世界が消滅するとされている。その為「完全なる世界」は「黄昏の姫御子」である明日菜の「力」を使い魔法世界を消滅させ「人間」は「楽園」である「完全なる世界」へ送るという「救済」を実行しようとしたがネギ達が阻止し、ネギが代替案としてテラフォーミングによって依代である火星を地球と同じ緑溢れる星に変え、魔力の源である生命を育める環境にすることによって魔力の枯渇を防ぐ「Blue Mars計画」を提案、推進していくこととなる。

ウィキペディアより

これは「魔法世界(ムンドゥス・マギクス)」の解説ですが-------「異次元の火星が超膨大な魔力によって人工の異界と化したもの」この設定を、膨大なエネルギーで人類の亜種が住む場所を創造して支えていると考えれば、エネルギーの枯渇による「資源=住む土地の争奪戦争」をしていることがわかります。


このように異世界が作られた「構造」を明らかにすることで、人間が善か悪かなどと言って観念的な問いではなくて、「具体的にこの問題に対処するためには何が必要か?」という問いに突入できるのです。人間が悪だろう善だろうが、「この問題」に具体的に解決策をもたらせれば、善悪の二元論の命題設定は意味を失うからです。ここ!これが、どれだけ凄い赤松健先生の答えかは、強調してもしすぎることがないと思うんです。だって、異様に日本の物語、特にエンターテイメント(主にロボットヒーローものからきている命題意識)は、人間が「全なのか悪なのか?」という中小命題にこだわり続けてきたからです。これは、明らかにWW2(第二次世界大戦)への反動意識だと思うのですが、あのような「悪」をなくすにはどうすればいいか?ということと、「戦争をなくす」という命題が、密接にリンクしてしまっているからだと思います。ここでは、「戦争を起こす存在である人類」と「絶対悪という抽象概念」が、イコールになっている日本特有の不思議な信仰観念があると僕は思っています。これに対して、見事なブレイクスルーの類型を作り出した赤松健には、いくら賛辞を送っても足りないくらいだと僕は思っています。


そして、だからこそこのエネルギー問題を解決するには、人間が善だとか悪だとか(言い換えれば難民や違う種族を受け入れられるかどうか)、戦争をやめられるなど、「問いの性質上」どっちになるかよくわからない曖昧な観念の問答ではなく、明確に、技術のイノベーション(技術革新)によって、社会の在り方自体を変えてしまえば、この問題は「超えることができる」と示すわけです。だから、ネギまの最終シーンは、「ラスボスを倒す」ことではなくて、「起動エレベーターの建設が途中(=100年以上かかる)」という絵でした。これは大変に具体的な物語の展開をしており、ここまでの射程距離を持った作品は、日本のエンターテイメントの中では、かつてなかったと僕は思っています。いまでさえも。なぜか、人間が悪か善か?、戦争をなくせるか?というような観念的で、答えようのない質問に人々は吸引される癖があるようなんです。


これだけ「具体的な解決方法」を示す作品です。『UQ HOLDER!』では、この「先」の視点を、答えを、物語類型を、どのように描いたのでしょうか。なぜ1万2千年後の人類は、繫栄しているのか?この大きな視点をベースに、この問いの構造をさらに深めて考えてみましょう。ちなみに、この軌道エレベータやエネルギー問題を宇宙進出で解決しようとすると格差が生まれるという関連の問題意識は、ハインラインの『楽園の泉』と幸村誠の『プラネテス』がよいです。


■「最も救われない層を、どのように救うのか?」という人世代前の古い答えに対する、真摯な追及と、その普遍的な答えに

物語三昧では、1990年代から2010年代までの20年ほどの大きな日本エンターテイメントのテーマは、「最も救われない層を、どのように救うのか?」というものだったとして描いてきました。いろんな物語類型のドラマとの問題意識と絡まりながらも、この問いは追及され続けてきました。しかしながら、このテーマは、既に2020年代では、すでに「終わってしまった・解決済」に見えるというのが、現在の我々アズキアライアカデミアの結論です。


最も救われない層とは何か?


といえば、神山健司監督の『東のエデン』(2009)で語られたニート( Not in Education, Employment or Training, NEETは、就学・就労していない、また職業訓練も受けていないことを意味する)がまず表に出てきます。これはのちに、検索すると、2022年時点での年齢が39歳~51歳程度の就職氷河期世代やロストジェネレーション世代と呼ばれている部分と呼ばれていて、「高度成長期から低成長時代に入ったタイミング」で正社員になれず日本的なアンシャンレジーム(=正社員を労働貴族とするピラミッド階層)の最下層に奴隷的に位置づけられてしまった人々------なんですが、この辺の困窮や、世代のパラダイムが変わってしまったのに、マクロの犠牲になっている人々-------もっというと、自分の力や努力ではどうにもならない時代の犠牲者であるにもかかわらず、社会のマイナスを押し付けられて「自己責任という美名のもとに」過酷な底辺労働をさせられたりする未来がない希望がない層。

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この層の人々が、現世での栄達やリア充をあきらめて-----------異世界に転生して、違う人生を生きたら救われるんじゃないのか?と思ったことが、小説家になろうの類型の生み出す最初の「火付け役」になったんじゃないのか?と思っています。


この最も救われない層とは何か?ということが、物語にどのように表れてくるのか。その変遷や具体例。ずっとこの20年話してきましたので、そのあたりはブログの記事を検索ください。


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UQ HOLDER!』は、まさにこのテーマを追求した作品だったと僕は思っています。だから、近衛刀太が都に出てきたときに、いろいろ動くときに、周りにスラムがあったりするのは、軌道エレベーターが建設されて人類のエネルギー問題が緩やかに解決されて以降としている時代にさえ、格差と貧困と地獄があることを、描いていたんだろうと思うんですよ。なぜスラムを繫栄を描くのかは、軌道エレベーターで人類は繁栄の道を歩んでいるのですが、仮にそうだったとしても、激しい格差が、富める中産階級とスラムの下層住民の間に構造化していて、という設定を描いたんだろうと思います。


けどね、このテーマ、2020年代の現在では、どっかにいってしまったんです(笑)。


格差がなくなったのか?といえば、逆です。この時よりも、能力主義によるグローバル化が、どれだけ中産階級を破壊して「普通の人々が普通に生きていく道」を閉ざしているかは、より先鋭化しています。にもかかわらず、この問いは、映画ではまだ鋭く問われていますが、マンガやアニメ、テレビドラマの領域では、だいぶこの問いに対する共感が薄れているように感じます。というのは、2010年代の後半に入って、最も救われない層を救おうとするテーマが古臭くなって、意味を失ったからだと僕は感じています。

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それは、「救われない層を救う」とい発想そのもの自体が、相対化されて陳腐化したからです。


単純に、エネルギー、資源がまだ十分にあった時代だったので、1990年代や昭和の匂いがする発想では、「より充実している者」「よりか富める者」が、はっきりいえば、富める先進国が、弱者を救うというような「構造」が成り立っていたんです。もっと端的に言えば、お金があったので、「弱者を救う」なんていう傲慢な問題意識が、倫理的に浮上したんですね。恵まれているものが、貧しいものを救わないのは、卑怯だ!という倫理問題だったんですよ。この問題構造が、全員が生き残るのが難しいぐらい貧しくなった------言い換えればプラットフォームや基礎的なエネルギーが失われて、先進国も富める者も、みんなが「同じスタートラインで」競いあっているのならば、こうした倫理問題発生しないですよね。ようは、なぜ、さまざまな作品が、絶滅戦争のように「妥協なく」殺しあうような物語を描くのかといえば、条件は様々違えど、「みんなが生き残るのに必死」であって「他者を救うほどの余裕のあるものは誰一人いない」ことを、明示するためなんですよ。『進撃の巨人』が最終的に絶滅エンドを模索することや、ひたすら生き残るために愛する人すらも、家族すらも殺しまくる『ハンドレッド』のようなドラマがアメリカで人気が出るのも、まさにそういうことです。

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一言でいえば、「弱者を救う」などという命題が意味を持ったのは、恵まれている人がたくさんいた、「恵まれた時代の甘え」だったんです、というのがみんなにいきわたった。


この時代で、「最も救われない層を、どのように救うのか?」という古い問いは、ばかばかしくて問われません。もちろん、それなりに古き良き時代の記憶がある年齢の層には、これは機能します。しかし、現在のミレニアルや30代以下の人には一切共感を生まないでしょうね。これがわかっていないと、20年代の先の物語は描けません。同時に、理解できなくなってしまうと思います。世代間の意識格差は大きい。


なので、『UQ HOLDER!』は、物語がだいぶ迷走している。近衛刀太って、いったい何を動機にして、何を目的にしているのか、いまいちわからないんですよ。ネギ君と比較すると、明確にわからない。ネギくんは、父親の背中をあこがれをもって追う、「打ち捨てられて消されてしまう火星の人々を救う」、同時にそれが波及すれば被害を被る地球人類も救うという使命が、十全に機能して、目指されていました。でも事実上、ナギとネギの親子が、この問題はほぼほぼ解決してしまっているんです。もちろん「猶予期間」ではあるものの、人類の未来は、ほぼほぼ明るい。この迷走や動機のあやふやさは、ヨルダ・バオトが設定した問題意識は、既に古くなってしまっているからなんです。ガンダム00の時も話したんですが、軌道エレベーターがあって、エネルギー問題を解決した人類は、楽観的に緩やかに太陽系の外へ進出していくであろうことを考えると、マクロ的には、問題ないんです。なので未来は、問題なし!となると、、、既に100年近くたっていることを考えれば、「過去に苦しんだ人々を救う」というのは、うーん無理があるし、もう忘れてもいいんじゃない?という流れになっているんです。


■一代の英雄・個人では世界を救えないならどれくらい時間がかかるの?-祖父、父、息子の三代100年を超えて1万年を超える人類の監視の使命を持つ不死者へ


上記に2点。なんで、1万2千年後か?、そして踏みつけられた弱者をどう救うか?というのが、大きな問題意識だと僕は考えました。


魔法先生ネギま!』においては、どうしたら世界を救えるか?の問いに対して、抽象的には、「ラスボスを倒しても世界はよくならない」という命題がビルトインされていました。もっと具体的に敷衍すると、ヨルダ・バオトというラスボスは、踏みつけられてきたこの世界の弱者たちの怨念によってできているわけで、踏みつけられた弱者を救えなければ、倒しても意味がない構造になっていました。「自らを倒した敵に憑依して乗っ取る」「報復型憑依能力」の精神生命体なので、「ラスボスをとにかく倒せばいいんだパンチ!」と殴って倒す旧来の古いタイプのヒーローでは、倒すことができないんです。このタイプのキャラクターは、『コブラ』や直近では、『月姫』のミハイル・ロア・バルダムヨォンなどを思い出しますが、このあたりの人口に膾炙したキャラクターの設定を、深いマクロの問いにつなげていくところは、見事とうなりますね。

ヨルダ・バオト・アルコーンとの問題意識に対する解決方法は、ゲーミフィケーションによる人類の家畜化だ。------徳弘正也による傑作『狂四郎2030』またはラナ&リリー・ウォシャウスキー姉妹による『『マトリックス(The Matrix)』と同じ解決方法です。

よくよく考えられているシナリオで、『天元突破グレンラガン』が典型的ですが、ラスボスの相手の意図が悪ではなく、より「ある程度の犠牲はあるが、世界を救える度合いが高いもの」であった場合、倒すことが解決策にならないんです。この場合、解決方法がわからないので、ラスボスを殴って倒して、「時間的猶予を稼ぐ」という解決方法を、これまでの物語は選んできました。しかしながら、それを超えないと、解決しないラスボスの構造にしているんですね。

魔法先生ネギま!』は、この命題に対して、世界のよりたくさんの虐げられる弱者が生まれてくる「構造そのもの」を変えなければならないという結論に至ります。そして、それは、敵を倒すのではなく、たくさんの弱者を助けることをしなければなりません。そのために最も必要なことは、英雄ではなく、社会の人類の、そして何よりもテクノロジーの進歩でした。



雪広みぞれのこのセリフは、『魔法先生ネギま!』『UQ HOLDER!』が到達した地点を指示しています。



そして、これが、祖父(ナギ)、父(ネギ)、息子(刀太)の三代100年かかる事業の長期的視野になっています。山口晋監督の『機動戦士ガンダムAGE』(2011-2012)などが当時凄く思い出されました。「戦争をなくす」というテーマを背負ったガンダムサーガには、この命題が重くのしかかっていて、それが故の設定だったと僕は考えています。


解決方法が、普通の人々の進歩による技術革新であるとすれば、それをどうすれば、人類の、世界の救済という方向性に向けることができるのか?これが次のテーマになります。


ちなみに、僕の理想のヒロインというか人間像は、TYPE-MOONの『Fate/stay night』の遠坂凛鎌池和馬の『とある魔術の禁書目録』の白井黒子なんですが、それに連なる誇り高いキャラクターとして雪広みぞれも連なります。彼女が不死者でないというのも、寿命で死んでしまっているというのも、素晴らしく美しい。僕は、彼女がとても好きです。こんなかっこいい女、惚れちゃいますよ。



ここで示されているのは、「ラスボスを倒しても世界はよくならない」ことから、「普通の人々の建設が」「普通の人々の進歩」が世界を変えて救うんだ、という結論があります。


不死者 VS 普通の人々


という構図が描かれているんですね。だから、しのぶとみぞれのシーンは重要なんです。彼女たちは、「普通の人々」の代表。相当の業績を上げた、人類のトップエリートですが、特にしのぶは、ほとんどなにもないところから、彼女って中学も出ていないところから、そこまで上り詰めているっていう描写になっていますよね。それ以上に、普通であることの大きなのは、才能や業績ではなく------死すべき存在であること、です。


僕は、このシーンがとても好きなんですが、事実上のヒロイン、主役であるのアスナの最後に出てくるシーンは、この一コマです。「人として生きた」って。彼女の生い立ちから考えて、なんて美しい終わり方って思いましたよ。これが不死者に対して、人間であることの価値、意味、証は、言い換えれば「死んでしまうこと」だって言っているんですよね。

しかしながらこの物語類型(=人類を救うには100年かかる)を選択すると、必然的に、問題が起きます。主人公たち、普通の人々が、「そんなに長く生きられない」からですね。少し歴史を振り返ると、その結論は、実は、エンターテイメントでは、大きな問題点をはらむことになりました。


1)山口晋監督の『機動戦士ガンダムAGE』(2011-2012)などで実験されているように、世界を救うには、最低限100年単位の大きな時間がかかる。


2)一人の英雄に頼ることではなく、たくさんの普通の人々の周知を結集しなければ、世界レベルのマクロの複雑な問題は解けないし、責任を取り切れない

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これは物理的に、みんなが感じるようになってきたことです。


まず大きな問題点は、100年以上かかるんですよ。いいかえれば、一人の主人公の寿命(たとえば30年から長くても60年)では、足りないんです。これがエンターテイメントにとって致命的なのは、わかるでしょうか?。そうです、主人公が変わってしまうんです。『機動戦士ガンダムAGE』を見ればわかりますが、短い間に3人の主人公が出てくるので、「軸がぶれてしまうん」ですよ。『魔法先生ネギま!』と『UQ HOLDER!』も同じ欠陥を持っています。ナギ、ネギ・スプリングフィールドと近衛刀太の3人の主人公がいるんです。ネギ君が、火星を支えられるだけのエネルギーを獲得するために全人類の発展のスピードを速めようとしたときに、やはり100年近く時間がかかっています。大きな技術革新があって、それを全人類、全地球にインストールするには、それくらいはかかってしまうからです。少なくとも、30年より短いことは、この速い技術革新の現代でも不可能でしょう。



■人類の監視者としての不老不死・吸血鬼モノという独創~脱英雄譚の終着地点


この話をまとめると、物語三昧でずっと考えられてきた「脱英雄譚」の話の終着地点をしていると思うんです。CLAMPの『魔法騎士レイアース』(1993-95)を見たときに、ペトロニウスが感じたことが出発点です。どうも英雄ってのは、世界を救うことの代償として、自分自身の自己犠牲を使っているよね、と思ったことからでした。英雄の物語というのは、自己犠牲のやせ我慢の物語だと思ったんですよね。

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とにかく英雄が本気で、世界を救おうとすればするほど、苦しむ。人類のための生贄になっているんですよね。選ばれた才能があるんだから仕方がないじゃないかって、「その他の人々」は思えますが、なかなか難しいのは、主人公は、すなわち感情移入のポイントなんですね。だから、主人公の苦しさに共振してしまうと、なんで英雄が世界を救わなければならないのか?、そんな苦しみを一人の個人におしつけるのは卑怯ではないかという倫理問題が発生してきたのが、1990-2010年代のエンターテイメントの大きなテーマだったようです。

僕は、「シンジ君がエヴァに乗りたくなかった問題」と呼んでいますが、なんで世界を救うために、僕(=シンジ君)が犠牲になって、怖い思いをしてロボットに乗らなければならないのか?。エヴァのアニメで、ついにロボットもの主人公は「僕はロボットに乗りません」と宣言するに至ったと思っています。これは、ポリティカルコレクトネスの浸透で、ブラック企業が許されなくなってきた(笑)の比例していると思っています。ほんの少しまで、1960-70年代くらいまでは、個人と全体であれば、全体の大義の方が上回ったんですよね。全体の暴走は危なくもあるが、全体がなくなってしまえば、個人もまた生存できない。だから大儀(=大きな物語)のために死ぬことは、個人が犠牲になることは、仕方がないとおもわれてたと思うんです。それは、物語にもはっきり表れていた。『魔法騎士レイアース』の話も、まさにそれでしたよね。世界を支えるためには、個人の幸せは犠牲にするというシステム。でも、それを直接見ちゃうと、支持できなくなっていく。だったら、世界か個人か選択するというような方法ではなくて、両方が成り立つシステムなり具体的な解決応報を探すべきだ、という流れに物語は進むんですね。ここに至るまで、すくなくとも、戦前の1900年代から、120年近くかかっているわけです。日本は、とても自由で開かれた社会に、じわじわ進んでいて、とても素晴らしい。

少し前までは、そもそも、具体的な「解決の可能性の可能性」すら、見えなかったからでしょう。でも、たぶん、我々が生きている現代、この1980-90年代以降は、なんとかなるんじゃないか?という感触も出てきた時代だったと思います。理由は簡単。日本が、豊かになったからです。もちろん、90年代以降に本は縮小を続けていますが(笑)、それでも、1960年代以前よりも物質的には、途方もなく豊かになっており、個人の権利が守られています。「それ」が理由だと僕は思います。全体と個人のどちらが大事かというのは、「外部環境による」と僕は思っています。成長していて全体に余裕があるときは、個人の権利が限りなく拡大していきます。言い換えれば、個人がどんどんわがまま(自由)になる。けれども、全体が縮小して余裕がなくなれば、個人の権利なんて言っていられなくなる。全滅の危機の時に、個人の小さな権利の話をしても仕方なくて、重要なのは、何とか生き残れるかどうか?という議論になるので、その場合には、全体のために個人が犠牲になるのは当たり前になります。単純に、物理的なメカニズムだと思うんですよね。


この不老不死の吸血鬼ものに対して、『UQ HOLDER!』は、たぶん僕が知り限り初めてのテーマを作り出しています。これは、ネギまシリーズの独創だと思います。


それは、人類の監視者としての吸血鬼です。


不老不死の吸血鬼の物語類型を、「超長期間の政策の実行」という形で描いた秀逸な作品としては、『ヴァンパイア十字界』という大傑作があります。

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しかし、これもある種の「英雄譚」になります。なぜならば、主人公のローズレッド・ストラウスが、責任を背負って物語の展開を、解決を自ら実行するからです。しかしながら、それでは、「普通の人々」-----モブの集合体が、世界を漸進的に変えていくという人類の進歩は成し遂げられません。


不老不死の吸血鬼という「能力」をどのように使うのか?という視点では、これまでの物語の最高峰は、ローズレッド・ストラウスのように、英雄が、世界を救うという英雄譚だったんです。


けれども、ネギまでは、それができません。なぜならば作品のテーマが、英雄であったナギは、世界を救えなかった。世界を救うのは。「普通の人々の進歩だ」と設定されているからです。


では、不老不死をどう使ったか?


という問いに対して、不老不死の人々が、別の異なるコミュニティーを作って(=UQホルダーね)、彼らが彼らの日常を生きながら、人類の行く末を超長期間に渡って監視者になるという設定です。これによって、読者は、超長期間の「物語の行く末」を観察できるようになります。


えっと伝わっていますでしょうか?。えっとですね、「普通の人々の進歩」という答えを設定すると、論理必然的に、最低限の技術イノベーションによる社会改良は、100年単位(=3世代を超えて)かかるという、実際の前提条件ができてしまうんです。


でもね、こうすると、ガンダムなどで見ればわかるんですが、「主人公のだれに感情移入するか?」ってエンタメの基本が、こわれちゃうんですよ。実際に、ネギまであっても、ナギ、ネギ、刀太と、どれに感情移入するかは、なかなか難しい。この場合、ネギまが終わって、UQホルダーになったので、主人公とそれを取り巻く人間関係が変わり、そして何よりも「読者の世代が変わっている」という現象が起きています。


これを「一気通貫で100年以上の人類の動き」を、「受け手にエンタメとして視点の一貫性をもって再現する」というのは至難の業なんです。直近、これに成功しているのが、『Vivy -Fluorite Eye's Song-』ですね。これは、AIの物語という形をとりました。

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これに対して、「伴侶を探すラブストーリー」といったミクロの物語に投じていた物語類型に、星新一眉村卓藤子・F・不二雄ばりのセンスオブワンダーの奥行を与えたのが、この不死の吸血鬼に人類の監視者としての使命を与えるという発想なのです。


これは、独創だと僕は思います。


■1万2千年後でも人類が大繁栄している理由は?‐人類の革新はどうやって成し遂げられたのか?

しかし、それでも様々な課題が残ります。人類の大きな方向性を考えるときに、「1万2千年後ってなんでなんだろう?~近すぎず遠すぎず、まだ人類が生き残っている」の章で、人類が楽観的に大繁栄をしているというパラダイムに、赤松健先生は回帰しているのが凄いということを言いました。これは、アシモフハインラインなどまだまだ「人類の輝かしい進歩」が信じられていた時代のSFの感覚です。しかし時代が下り、公害や気候変動など、人類に対する悲観論がまだ大勢を占めている現代で、このような「先を描く」のは、僕は凄いと思うんです。たいていのSF系統の楽観論だと、シリウス星系やバーナード星系に人類が広がっている物語が描かれますが、これもそれとリンクしていますよね。


しかしながら、2010年代の感覚的に言うと、それは可能なのか?という疑問が感じられます。


だって、貧富の格差は拡大し、メリトクラシーによる差別は横行し、気候変動はめちゃくちゃです。これをどのように解決するのか?。が描かれないと、本当はおかしい。そこには、Youtubeの解説でかなり説明しましたが、ある仕掛けが描かれています。ようは、ヨルダ・バオトというラスボスの「倒し方」にそれが表れているんですよ。この辺の物語の描き方が最高。しかもさらっと描かれているので、たぶん解説しないと、わからない(笑)。これは誉め言葉です。それだけ、物語の感情曲線や共感を損なわないで、SF的なマクロの設定などを描いているからです。それがわからなくても、十分楽しいものこそが、エンターテイメントです。もう長文すぎてだいぶ説明する気力がなくなってきたので、わからんという人は、下記の解説を聞いてもらえれば。

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造物主(ライフメーカー)始まりの魔法使い、ヨルダ・バオトというラスボスの設定した問題は何だったのか?


それは、この世界で虐げられて打ちのめされた人々、犠牲にされて圧殺された人々の魂をどう救うのか?という問いです。


2020年代では、この問いは効力を失ったと僕は書きました。なぜかというと、全員にとって生き抜くのが過酷な環境であれば、それは虐げられたのではなく、「生き残ることしかできない」というあきらめが支配するからです。「サバイバル=生き残れなかったら」それは、倫理的には仕方がないという結論になるからです。この問いが、意味を持つには、特権的な恵まれた人々がいないと成り立ちません。もう一つパラダイムの転換があって、「世界をやり直す」ということは、倫理的に許されない罪悪だという「前提」が人々にエンターテイメントで生き渡ったことです。だから、「死んでしまった人々」のことは、受け入れて、未来をよくするしか「できない」という現実が広汎に共有されたんだと思います。


しかし、ネギまの物語では、この問いがヨルダ・バオトというラスボスの「あり方」として生き残ります。これだけ世界が残酷ならば、ゲームの、異世界の、自分が幸せな「夢の世界」に逃げ込んで何が悪いのか?という人類総家畜化計画です。


これに対して、人生は、人類は生きるに値する!と言い切らなければ、その可能性を見せないと、この悲観論には答えたことにならないんですよね。すでに、エンターテイメントとしては、2020年には、この問いには答える必要は既にありません。上記に理由は書きました。けれども、素晴らしい名作は、「立てた問」に普遍的にこだわり、それに対して「普遍的に答える」ものだと僕は思っています。

それが、↓これです。



これサラッと書いてありますが、「人々の共感応力をほんのちょっと上げる」ということを示しています。


なんで、がっつりではなくて、「ほんのちょっと」なのでしょうか?。それは、この社会が公正で自由な社会------人間が人間である自由を維持するためには、競争はなくせません。そうしなければ、人類総家畜化になってしまうからです。しかし、そうであれば、競争による格差と差別、そして人々の殺し合いはなくなりません。


ここに、2つのものを挿入するといっているんです。


1)ほんのちょっとの共感応力の向上を全人類120億に与える

ほんのちょっとなので、ミクロの個人の自由意志には影響しません。しかし、全人類なので、数千年、数万年単位の方向は、ポジティブに向かいます。これは、強制的に人類を「優しくリベラル」にしたら、それは全体主義による洗脳であり、自由意志の否定だっていう問題意識とリンクしています。


2)全人類すべてが少し「新人類・ニュータイプ」になって、それを掛け算で、一万二千年という時間的長さと、銀河系を超えて宇宙に広がるという「地理的広さ」を与える

これによって、悲劇の濃度を薄めようとするのです。まだフロンティアは、残酷なコンプライアンスがない競争社会は生きているけれども、主軸の人類の中心部では相当安定した幸せな社会が広がっています。ここで重要なのは「少しだけ新人類、ニュータイプ」になるという答えです。これまでのSFの古典では、「新しい人類に進化してしまう」と、「旧人類(=オールドタイプ)」との違いからの断絶や、種族絶滅戦争を招いてしまうことを回避できなかぅったからです。『幼年期の終わり』の問題意識に対して、見事にこたえていると思うのです。


こうすれば、これまでのSFや物語が示してきたあらゆる限界を突破して、「普通の人々の進歩=人類の未来」が、1万年後という超超期間を過ぎても、ポジティブに発展する!といっても、決しておかしくない方向になっています。


これ、僕は見事!!!!!赤松健先生、凄すぎる!とうなりました。


■おわりに

はぁはぁ。。。長かった。これと同じくらい、ネギまのもまだ描き途中です(笑)。


必ず、ちゃんともう少し整理して、リライトして、どこかでちゃんと解説の本出すつもりです。なぜならばこの漫画とともに、僕の人生の大きな部分があったうえに、最初から悩んでいた問題意識に、普遍的に答えを出してくれたからです。ちゃんと、誰が見なくても、残しておきたいのです。


誤字脱字の、わけわからん長文ですが、言いたいことは一つ。


このような素晴らしい物語を生み出してくれた赤松健先生、そして関係者一同の方に、感謝。素晴らしかったです。


イギリスのストーンヘンジに『魔法先生ネギま!』の聖地巡礼してきました!

この春休み、2022年4月に、おもわず規制が撤廃されたので、連合王国(イギリス)に旅行に行ってしまった。マイレージが積もっていて、期限切れになるくらいならばえいやって!家族旅行。ストーンヘンジ(Stonehenge)は、娘が一度は見てみたい!という希望だったのですが、しめしめ-----僕は、大好きな赤松健先生の『魔法先生ネギま!』(2003-2012)のエピソードのモデルになったであろう場所なので、行けてうれしかった。これからもコツコツ、いろんな聖地巡礼したいなって思う。

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魔法先生ネギま!』の新装版の10巻より。ネギ君たちが、彼の故郷のウェールズの隠れゲートより魔法世界に転移するシーン。なにげに、ネギ君の故郷が、単純にイングランドではなくウェールズというのは、渋いといつも思う。たぶん、これって軽く10年以上前(現在2022年だから)の記憶なんだなぁ。


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これが異世界へのゲートかぁと思いながらしみじみと。旅行するときには、歴史・地理のリアル背景知識とともに、二次元の「思い入れ」やつながりを意識すると、面白さが倍加すると思うんですよね。イギリスは、日本ととても似ていて、この「背景のファンタジー・物語を同時に聖地巡礼する」発想がとても強いと思うんですよね。ハリーポッターなんかはまさにそうですよね。あらゆるところに、ファンタジーの想像力と現実がリンクしている場所があって、こういうのはアメリカにはないなあってうなりました。

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■EVAN ENANSのバスのツアーで行きました

ちなみに、EVAN ENANSのLondonよりDay Tourで行きました。いわゆる日本のはとバスみたいなものかな。1日で効率よく回れて、とてもよかった。家族旅行なので、プロセスや「行き方」を楽しむほど余裕も、体力もなかったので。日本語通訳希望したけれども、日本人ほとんどいなくて無理でした。まぁ、入国の規制ほとんどないんといっても、まだまだコロナ・オミクロンの時期ですもんね。僕と妻は、英語わからーんとうんうんうなっていましたが、子供たちはむしろ英語の方がよかった模様。

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evanevanstours.com

www.veltra.com

■Victoria Coach Stationに朝集合

Victoria Coach Stationの、Coachというのは、長距離バスの意味らしい。最初???って思っていた。ここは、長距離バスのターミナルで、まさに新宿だよ!って思ってみていました。写真も上げておきますが、めちゃくちゃ新宿駅です。トイレも、座る場所も、軽食買うコーヒーショップも、みんなあって、なかなか快適な感じ。

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ちなみに、朝ついたら、予約は明日になっていますので、席がありませんといいやがって、めちゃくちゃ困った。日本語でやり取りできるのだが、人数が少ないのが適当なのか、コンファメーションレターの日程とズレていたのだ。その場で奥さんが交渉してくれて、バースのツアーだったんですが、オックスフォードなら用意できるとのことで、それで行こうと。結果的に、娘がめちゃくちゃオックスフォード気にいったので、良かったんですが、こういうトラブルはしんどい。余裕があればトラブルを楽しむこともできるんですが、物理的にも、精神的にも、家族5人で行動だと、余裕なくて、こういうのほんとうに困る。まぁ、最終的に問題なかったから、これで良し、とするしかないけどね。EVAN ENANSのLondonからのDay Tour、内容的には凄い満足なんだけど、手続きは、かなり怪しい気がする。英語の方では全く問題ない感じだったので、日本語対応する人がいい加減なのでは、と勘繰ってしまう。コンファメーションレターと日程違ったら、もうどうしようもないじゃんって、凹んだよ。

■ロンドンからストーンヘンジへのバスルート(西へ南イングランドを横断する感じ)

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ウィンザー城とオックスフォードを回ったので、このルート。南イングランド。もうひたすら牧畜の風景。リヴァプールに電車で向かったのと同じ。本当に、森がほとんどない牧草地。だいたい、ロンドンから西に約200kmくらい。バスの中はトイレもWi-Fiもあったので、けっこうゆったりできた。ただ、お昼とか食べる時間の確保が難しい(その時間あれば観光回りたい)ので、サンドイッチとかそういうのを持っておくと、非常に効率的に回れる気がする。ウィンザー城でランチできるところもあるといわれましたが、その時間あれば、歩き回りたいもん。めちゃくちゃ時間に余裕があるわけでもないので。

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イングランドの牧草地の風景

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この感じ、まさにバスで移動中ずっと見ている感じの景色です。

ウィンザー

幸村誠さんの『ヴィンランド・サガ』(VINLAND SAGA)というマンガがあるのですが、それは、イングランドを征服したデンマークのクヌート王の話が出てくるんですが、ヴァイキングが何で、そんなに簡単にイギリスを攻められるのか、各村々を略奪して焼き払えるのかがいまいちわからなかったんですが、このお城からの「眺め」で一発でわかりました。遮るものが何一つない平原なんですよね。だから、地形的に守る方法がほとんどない。もともとウィンザー城は、ロンドンの周りを守るために建てた7つの?(うろ覚え)「砦」が発展して、残ったものだそうで、高台からずーと地平線の向こうまで何にもない風景と、バスで延々と牧草地(遮るものが何もない)ものを見せられたら、そりゃ、これは攻められたら負けるは、と思いましたよ。

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ちなみに、ウィンザー城は、中に入るかどうか選べるオプションがあるんですが、意味不明。イギリス旅行すべての中でベストとといえるくらい素晴らしいので、「中に入る」のは必須です。写真撮影禁止なので、載せられませんが、現役のお城の、、、特に世界帝国を形成した大国の居城って、こんなに凄いんだって腰が抜けそうなくらい凄かったです。何が凄いのかというと、歴史に興味がなくても十分凄さが伝わってくるところ。個人的には、ロンドン塔はさすがの観光名所だったのだが、歴史背景を知らないと、たぶんさっぱりのところがある。けれども、ドイツのノイシュバンシュタイン城とかフランスのモン・サン=ミシェルとかは、仮に背景知識がなくても「凄さ」が伝わってくる気がするので、いやはやさすがヨーロッパと思った。歴史知識が必要な系統と、なくても面白いというのは、いろいろ別れそうなので、そのあたりは、何が好きかによるでしょうね。

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https://www.rct.uk/visit/windsor-castle


ストーンヘンジ(Stonehenge)の入口

バスで5分ぐらいのところに大きな駐車場とビジターセンターお土産屋さんがある。景観の保護のため、そこから現地のシャトルバスにのるんですよね。ちなみに、EVAN ENANSのツアーの滞在時間は、少し短い感じ。でも、欲張りなコースだから、まぁしょうがないかなって思いました。

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■ツアーガイドの人

僕らのガイドさんは、彼でした。歴史のうんちく素晴らしくて、英語がいまいちの自分を呪う感じでした。いつも思うのですが、大きな旅行をするときは、その準備で精一杯になってしまい、事前の勉強とかがなかなかできない。30年前の学生の頃に、反省して「もっと勉強しておけば」と思ったことを同じに50歳近くなっても思うので、なかなか人は変われないなぁと思いました。ただ今回の旅行では、ロンドン塔やウェストミンスターアビーなど、イギリスの大きな転換点というのは、ヘンリー8世なんだなって強く思いました。彼の離婚周りの話、その後のメアリーとエリザベスの話。そしてアングリカンチャーチあたりの話は、押さえていく中世のイングランドを感じれて良いと思います。映画もたくさんありますしね。

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■ミード

ちなみに、ミード(蜂蜜酒)が売っていて、これか!と試飲。めちゃおいしかった。強行軍の家族旅行だったので、お土産買う余裕なくて、残念だった。ほしかったー。

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■帰宅

夜の7時半ぐらいに、元の場所に戻りました。総じてツアーは、よくデザインされていてよかった。日本や中国のように、お土産を書く場所に長く泊まるということも全くない、効率性重視なのもよい(笑)。本当は僕的にも、オックスフォードの街並みの素晴らしさを残しておきたい気もするのですが、前回のフロリダ旅行のメモすらあげられていないので(笑)、まあ拙速を尊しということにしておこう。僕ら家族は、基本的にロンドンでは、Paddingtonのホテルに泊まっていました。やはり日本と非常に似ている交通網なので、地下鉄、電車、バスで動きやすい。

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『タコピーの原罪』を分析する

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いま話題の『タコピーの原罪』。L D さんが、読めという圧力をかけてきたので、前回の2022/3のアズキアライアカデミアの放送当日に読ん見ました。正直絶対暗い話だと思っていたので、仲間内ので話題になっていても観ないように努力してたのに、、。そして、読んだ直後の感想は、「悪くない」けど、、、、いまいち自分の中の主観的な琴線には触れなかったようなので、どのように評価していいのかわからなかったんです。

物事を評価するときに、判断する時の作法として、「これ」は重要だと僕は思っています。


「これ」というのは、


1)自分が好き!嫌い!だと思う主観的な感情


と、もう少し


2)客観的に文脈に位置づけてリーズナブルに理性的に説明できるように分析する


のは、ときによっては「かなりずれる」ということです。だから、1)の「自分の感情による好悪」と、2)「一歩引いた理性的な文脈的な評価」の関係を意識していないと、どちらかに引きずられてしまうと思っています。


という僕の鑑賞方法からすると、『タコピーの原罪』は、ちょっと難しかったんです。評価するのが。というのは、ぶちゃけて言いましょう。主観的には、けっこういまいちだったんですよね。理由は、僕自身が疲労して忙しい時期だったんで、苦しいものは見たくなかったこと。もう一つは、僕の主観的な何というのか「人生のこだわり」からすると、タコピーの無邪気さや無垢さって、最低なんですよね。許せないくらい、ムカつく。(←もちろん作者の設計にやられているだけなんですが・・・(苦笑))。しかし、世界は、そこまで「悪い方向」に落ちていくばかりじゃないはずなのに、わざと露悪的に悪い部分をフォーカスする作者さんの意図が嫌だったからです。


が、しかし、何かが引っかかる。また、僕が「好きじゃない」と言っているだけでは、僕の周りがこれほど評価する人ばかりというのも、よくわからない。なので、アズキアライアカデミアのメンバーで、ゼロから評価してみたかったんですよね。3時間中2時間ぐらい話していると思うのですが、コツコツ周辺から、LDさんと海燕さんの主観の感覚を、どうしてそうなんだろう?って追い詰めていく過程は、久々に我々の分析が、深く展開していて、この回は極めて良かった。僕のマイナスの主観が、分析でひっくり返っていく様は、とても興味深かったんです。ということで、この回は、おすすめです。


あと、2巻で短くスパッと終わっているのも美しい。見事な傑作なので、是非ともお勧めします。


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ロシア軍は軍事的の弱いのか? ウクライナはなぜロシアに対して優勢を保ち続けているのか?(5)

本日は、4/9(土)。キーフに、ボリスジョンソン首相が訪れるまでになっている。こんなことほんとうに予想もできなかった。前の記事で書いたが、ロシア軍がなぜこんなに弱いのか?もしくは、ウクライナ軍がロシア軍委優勢に出ているのはなぜか?って仮説というかアングルでずっといろいろ記事を追っている。下の記事が、素晴らしくよかった。これまで軍事は、2003年のイラク戦争イラク軍を打破によるアメリカモデル-----言い換えれば、専門的なプロフェッショナルな軍人による小中規模の高度な高機動、連携の方向性があったとのこと。確かに、さまざまな過去の記事などを思い起こしていると、これは納得。要は兵器が限りなく高くなって、かつ高度な専門性が必要になっていくので、予算がかかりすぎるから、軍縮?というか、軍の規模を小さく磯長高度化を目指すというのは感触的にとても実感する。「それ」と「逆」のことが起きたってことなんだよね。これは、凄い興味深い。


■結論としては、防衛には「とにかく人数がいる」というのが今回、証明されたのではないだろうか?

2006年からは、アメリカで推進されていた「軍事トランスフォーメーション」に影響を受けた軍改革を進める。大雑把に言えば、冷戦期の大規模・重厚な戦闘システムに対して、高度に訓練された常備軍によるコンパクトで機動性・柔軟性に優れた部隊を高度な指揮通信システムと精密誘導兵器により効率的・高火力で運用する考えで、2003年のイラク戦争イラク軍を打破したことでその有用性を証明し、ウクライナ軍もそれに倣った軍改革を目指していた。

中略
ウクライナ情勢を伝える報道やSNSでよく見かけるのが、地域防衛隊(報道では「領土防衛隊」「地域防衛軍」「郷土防衛隊」等に訳され、統一された訳はない)の隊員達の写真だ。地域の警備や遺棄されたロシア軍装備の回収についての報道では特に目にする。地域防衛隊は準軍事組織ではなく、ウクライナ国防省に属し、陸海空軍、特殊作戦軍と並ぶ、ウクライナ第5の軍となっている。
前述したように2014年に組織された民兵大隊は正規軍や国家親衛軍に編入されたが、それに代わる地域防衛・国民保護のための組織として地域防衛隊が設立された。地域防衛隊はウクライナがドンバス地域での経験を元に、地域防衛と国民保護への新しいアプローチを採用している。

中略

ロシアによるウクライナ侵攻において、ウクライナの防衛改革は一定の成果を示したと言えるかもしれない。だが、その事実は多くの国々の防衛に投げかけるものがある。デボラ・サンダース博士は次のように書いている。「私たちが将来戦わなければならない戦争が、私たちが望むような短期の機動戦でなかった場合、『非大衆化された』軍隊(注:常備軍)は戦力回復できるのか?」と。ウクライナがドンバスで小規模な常備軍の限界を思い知らされたように、いずれ他の国でも同様の問題が起こるのではないかと突きつけている。戦争は再び大衆化するのだろうか。



こんなことを考えている。


■軍事的にはロシア軍がどうなっているのかの具体的中身が知りたい。

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