メリトクラシー(能力主義)による分断を乗り越える次世代の物語を考える~ラノベ的ラブコメ空間から(笑)『その着せ替え人形は恋をする』『かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜』にみるリア充と非リア充の対立後の世界

petronius.hatenablog.com

さてさて、前回の記事は最近のペトロニウスの思考を凄く言語化できていて、いろいろ思い浮かんでしまったので、メモ的に書いておきます。前回の記事で、言いたかった大きな要点は以下です。いつものごとく、「その2」があるかわからない、「その1」です(笑)。

現代社会(2020年代)は、能力主義メリトクラシー)-----才能によってできる人とできない人の格差が際限なく広がっていくこと、また同時に「才能のあるとんでもなく優秀な人」を基準に社会が制度設計されるために、「普通の人がまともに生きていく方法がない」分断社会になる。


●こうした分断された社会は、1)全体を維持するための公共のプラットフォームを「みんなでメンテナンスする」という意識に欠ける、2)社会統治上の上層部になる上級国民にとっては、自分の努力「のみ」で現在の立場を獲得した自負があると思うため、努力をしない怠惰で怠け者の下層国民に対して激しい憎悪と差別意識を持って臨むため際限なく差別が容赦なく冷酷になる。

このあたりは、まぁメリトクラシー的な議論では、まとめみたいなもので、特に目新しさもないと思います。ちゃんとソースというか議論の正確さを確かめたい人は、以下をどうぞ。

実力も運のうち 能力主義は正義か?

それと、それが展開されている映画というのは、下記のあたりがよいです。ペトロニウスは、2021年現在はアメリカに住んでいますので、特に、2020年のトランプVSバイデンの選挙をめちゃくちゃ追いましたので、このあたりに、アメリカ社会のグローバル化の影響がいろいろ分析してあります。こうしたメモとともに、当時の映画を見ると、だいぶ具体的に「我々が住む超格差社会が具体的にどいうところか?」が伝わると思います。映画や物語を、アドホックな(目の前の)問題意識と関連させながら体感すると、強度が凄く上がって感情移入できます。こういう「文脈読み」や「社会還元論」的な読みには、「作品そのものの面白さやドラマへの共感をともすれば失いやすい」という欠点があるのですが、そういう問題もあるという前提をかみしめてみると、非常に豊かな物語体験ができると僕は思っています。


ここで、アメリカ映画を中心にペトロニウスが持っている「文脈」というのは、「僕らが今住んでいるグローバル化が進んでいくメリトクラシーを軸にした超格差社会で生きること、というのはどういうことか?」というのの、さまざまな場所、文脈での疑似体験です。イギリス、米国、日本、韓国、なので、この場合は、旧西側諸国でかつ新自由主義が極まっている場所ですね。

www.youtube.com

petronius.hatenablog.com

petronius.hatenablog.com

ちなみに『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016)、『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』(2018)や『万引き家族』(2018)、『パラサイト 半地下の家族』(2019)、『ノマドランド』(2021)、イ・チャンドン監督の『バーニング 劇場版』(2018)でもなんでもいいのですが、現代社会の問題意識に超格差社会の到来というものがあります。その中で、どれほど悲惨な生活を送るのか、そういった作品が2018年ごろを中心に山ほど噴出しました。

www.youtube.com

こうした社会で人々はどのような生活を強いられるのか?、また生きる希望はどこにあるのか?などなど、このラインに沿ってたくさんの傑作映画が生まれています。『万引き家族』、『パラサイト 半地下の家族』、『ノマドランド』や『The Rider』でペトロニウスが追ってきたのは、このグローバル化による超格差社会の到来にいったい何を監督たちが見ているのか?と問えば、明らかに「家族の崩壊」----もっといえば、こうしたかグローバルエコノミーが、個人個人を駒として使用していくため、もともと自然に存在していたはずの「親密圏的共同体」がそれによって崩壊しているさまが問題の提起されています。これは、メリトクラシー能力主義)の処方箋のとしてのコミュニタリアニズム共同体主義)への流れを意識してのものだと思います。

まぁ左翼、リベラリズムの系統の問題意識は、常にこのラインですね。グローバル化-----言い換えれば資本主義の高度化が、人を疎外(アリエネーション)していくことへの抵抗。これが具体的に表現されると、要は「過去の共同体に戻れ的な田園主義」にすぐ回収されてしまう。この田園主義がポルポトスターリニズムの強制労働上等のディストピア超管理社会にしかならないのは、歴史が示している事実です。なので、いつも思うのですが、共同体-----親密圏の典型モデルである家族の崩壊を訴求するのはわかるのですが、かといって、それに代わる代替案がないのが、常です。


あたりのメカニズムと歴史的経緯を知るには、いつも紹介のするのは、『コンテナ物語』とそれの説明をしている岡田斗司夫さんの解説です。残念ながら、後半の有料版ですが、この部分の解説がウルトラ秀逸で------コンテナのイノヴェーションが、グローバル化に貢献して、「なにものでもない僕ら」普通の人々が、普通にがんばって生きていけば食べていけた中産階級が生きれた時代が終わりを迎えていく様を、米国、ベトナム戦争、そして日本で解説していく様は、うぉぉぉぉぉぉそうつながるのかぁ!!!と驚きます。そして、「ここで語られる超優秀な人しかまともに生きていけない」グローバル化が進む高度資本主義の実感がよくわかります。むちゃくちゃおすすめですよ。なぜモノは安くなって、僕らが貧乏になったのか?が、なるほどーと分かります。

www.youtube.com


あ、なんか難しくなった。僕の「めりとくらしー(能力主義)」とか使うときには、こういった物語や映画の展開が「頭の中に念頭にあります」ので、ぜひとも、気合がある人は、グローバル化批判、格差社会批判の文脈で、このあたりの作品を見て考えてもらえると、ペトロニウスの問題意識が共有されるのではないかと思います。


さて、こうしたメリトクラシーによる分断社会では、とにもかくにも、イシューが「社会の分断をどうつなぎとめるか?」という問題意識になる。


というような背景のある社会で、僕らの愛する物語はどういう展開を、ソリューションをみせるのであろうか?というのが僕の問題意識。その手掛かりをいろいろな方面で追ってみたいとおもっている。


閑話休題

やっとタイトル関連へ(笑)


■『その着せ替え人形は恋をする』にみるリア充と非リア充の対立後の世界~世界の厳しさをひっくり返すには、分断を埋める絆を作り出さないとだめだぜ

さてさて、めちゃくちゃ議論は矮小化(笑)しているけれども、こうした分断の一形態が、過去の日本のエンタメの文脈、非リア充リア充の対立の大きなバックグラウンドになっていたんではないか?とペトロニウスは思うのです。これって、「社会をうまく生き抜けるであろう陽キャとかコミュニケーション能力の高い人々」に対する嫉妬で構成されているわけですから。要は上級国民と下級国民の嫉妬と軽蔑のいがみ合い。


ちなみに、ライトノベルの議論では、この非リア充リア充の対立というのは、非リア充側が、「リア充の連中も、案外おいしい人生を生きているわけではなくて、その世界にはその世界の中での過酷な競争や苦しみがあるんだ」ということを理解することで、この対立が雲散霧消していく様を見てきました。


petronius.hatenablog.com


このあたりの議論で、2010年代の輝かしき主軸となる作品である『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』この話は展開してきました。このあたりの具体的な分析に興味がある人は、このあたりのタグを追ってもらえれば、ザクザク書いてあると思います。


この対立が消えた世界がどうなっていくのか?。次のイシューは何がテーマになるのか?と考えていたところ、僕は、この次のステージに展開している物語を、福田晋一さんの『その着せ替え人形は恋をする(そのビスク・ドールは恋をする)』だ考えています。というか、この物語の5巻と6巻で書かれているエピソードは、まさにこの「リア充と非リア充」とか「陽キャ陰キャ」の対立が消えていく過程が描かれています。←おおげさ?(笑)

petronius.hatenablog.com

www.youtube.com

『その着せ替え人形は恋をする』では、主人公の五条新菜君は、クラスでなじめないいわゆいる非リア充、オタク(この場合は人形作りね)をしているのですが、重要なのは、彼の不全感が、小さいころに、多分幼馴染であろう女の子から雛人形が好きなことを否定され「気持ち悪い」と言われたことがトラウマになって、自分の好きなことを回りに言えなくなって、引っ込み思案になっているとること。この主人公の動機の問題点。

なので、この世の中の人から「気持ち悪い」といわれることで人間関係が壊れる恐怖というのをどう克服するか?というのが実存上のドラマトゥルギーになるんだけど、この答えが、5-6巻で出ているのね。


それは、「気持ち悪い」と言われたのは誰に?という問いから始まる。


ようは、彼は、自分の好きなものを否定されたことは、「この幼馴染一人」からしかないんですよね。だからといって、その他のすべての人が、「気持ち悪い」というのであろうか?という風には考えられずに、「すべての人がそう思うはずだ」という思い込みにとらわれてコミュニケーションが取れなくなっているんですよね。でも、いくつかのエピソードで、彼は、自分を否定した相手が、「その幼馴染一人」でしかないことに気づくわけです。


なぜ気づくか?というのが、その具体的なエピソードが圧巻かつ具体的。いくつもあるのですが、そのうちの一つをピックアップ。


喜多川海夢(きたがわ まりん)という超リア充のクラスの陽キャカースト上位のメンバー(笑)(←この言い方も手あかにまみれてきたなぁ)の、彼女のコスプレの趣味を手伝うことで、パートナーとなることで、今まで疎遠であったクラスメイト達-----特に超リア充のまりんちゃんのまわりのメンバーと行動するようになることで、彼らのだれもが、そんな差別や、好きなものを否定するような心の腐ったやつがいないことを知っていくわけです。ようは、ちゃんと五条くんが、自分から一歩前に出て、自分を素直に伝える努力をしていれば、そのような劣等感やディスコミュニケーションの分断に悩む必要がなかったんです。


これちょっと話すがずれるんだけど、、僕が好きなマンガの『ボクラノキセキ』の矢沼孝史と手嶋野尚って二人の関係を見ているときにも、思ったんですが、人間って「自分の思い込み」を超えて積極的に「一歩前に出る」というのが凄い難しいんですよね。矢沼くんって、プライド高いけどコミュ力と能力が悪くはないけどいまいちで、自信がなくて空回っている男の子なんですよね。そういう彼からすると、常に自然体で、普通にしていても女の子からの一番人気になるコミュニケーション強者で、しかも実力もある手嶋野って、まぁリア充のようにまぶしい嫉妬の対象なんですよね。別に、手嶋野は、矢沼のことを「特に下にも上にも見ていないで等身大に普通の友達」と思っているけれども、この劣等感と嫉妬が、常に矢沼君に付きまとって、「きょどってしまう反応」をさせるんですね。「きょどった自分」にさらに落ち込んで、とどんどんマイナスが反復される。けれども、実は、手嶋野は、キョどっていること自体も、あまり特に気にしていないんですね。自然体で自身がある人からすると、そういったマイナスのキョドりや反応は、よほど大げさでない限り、流してしまえるものだからなんです。そして、その「流してしまえる自然体」に対して、さらに矢沼は劣等感を感じて、、、、と繰り返されて、決裂していくわけです。でも、この場合、この二人には、「前世の記憶がある」ことなど一緒に行動しなければいけない出来事が多いので、その矢沼の「ちぐはぐ」感が、繰り返されているうちに、矢沼自身が「あ、手嶋野って、本当に気にしていないんだ…気にしているのは自分自身なんだ…」というのが、繰り返される会話の中で、実感されてきて、なんとなく友達になっていくんですね。


ようは、共通の目的でかかわっていくうちに、お互いのディスコミュニケーションの問題点が、解消されていくさまが、最近の作品では本当によく見れるんです。

ボクラノキセキ: 24【電子限定描き下ろしカラーイラスト付き】 (ZERO-SUMコミックス)


えっと、これは非リア充側「から」の「気づき」なんですが、柏木四季(メガネ君)の森田健星(かっこいいけど、ちょっと脳筋バカっぽい)の二人の五条新菜への会話が、この逆バージョンをしめしていて、面白いってうなったんですね。ええと何が言いたいかというとですね、そもそもマンガやラノベ読む層なんて、いいかえれば、僕の自意識って非リア充で、「うまくコミュニケーションできない・自然体の自信が持てない」自意識の人が多かったと思うんですよ(今は実は違くなっているんですが・・・)。だから、非リア充の立場から、「自意識の解放がどのようにすればいいのか?」という物語の主観設定がされることが多かった気がするんですよね。僕の過去のブログの記事もすべて、実は非自明的に、「非リア充のコミュニケーション弱者」が、どうやって自信を持とうとするのか、とか、自らの自然体のなさを克服しているかばかりに焦点が合っています。つたわりますかね?。ようは、コミュニケーション強者、自然体の人、リア充、学園カースト上位の「視点から」、もう少し歩み寄る、自分の至らなさを考えるという視点がないんです。


けど、柏木四季(メガネ君)の森田健星(かっこいいけど、ちょっと脳筋バカっぽい)この二人の五条新菜への会話は、カラオケルームの話も、学園祭の決め事のクラスでの会話も、究極的には五条新菜(自分の自信がない視点)が、自分の思い込みで「周りのすべてが自分を気持ち悪い時つけている)というナルシシズムから気づくという文脈でありながら、いわゆるクラスのリア充イカーストメンバーの柏木くん(メガネ君)が森田くん(脳筋バカ)に、いつも「言い方を間違えて、もめごと起こすことをたしなめる」ことで気づかせる構成になっているんですよね。これって、あきらかに「リア充からの自分たちの至らなさへの自己言及」になっていて、ちゃんと「みんな(いろいろ差がある多様性ある人々)が、仲良く、それぞれが等身大でバランスが保てるように必要な知恵」があるんですね。そして、この会話の感じに、リア充と非リア充、コミュ障とコミュ充、上級国民と下級国民というような「上下の間隔が全くない」雰囲気、空域で物語が、学校空間の感じが進むんです。


これって、めちゃくちゃ新しくねぇ???


って、ペトロニウスは思うんですよ。いやあのね、、、、僕にはティーンエイジャーの息子と娘がいるんですが、彼らの生きている世界や「世界のとらえ方」って、まさに「これ」なんで、多分若い世代-----僕の感覚では2021年時点で20代前半くらいの層までは、すでに「このリベラルが浸透して、さらに、それぞれの違いも許容したうえでバランスを取ろうよ」といった空気感覚がすでに当たり前だとは思います。けれども、少なくとも、ペトロニウス、僕はアラフィフの1970年代生まれの団塊のジュニアのおっさんですが、この世代から「過去の物語の類型の変遷」を見ると、「この」感覚って、物凄く新しい世界に突入していると思うんです。特に、学校空間において、どのような物語が展開してきたかの2000-2010年代20年くらいは、ライトノベルがこの類型の深堀りをして時代をリードしてきたと思うんですが、柏木四季(メガネ君)はこれが「行きついている世界」のにおいを凄く感じるんですよ。この世代にとっては、すでにこの感覚が当たり前なのかもしれないですが、スクールカーストのような「上下感覚による劣等感の克服」がテーマだって、1980年代以降を生きていた僕のような世代からすると、、、、マジか、こんなに違うのか、と物凄く驚くんです。この「ナルシシズム的自意識の解体」と「日本的学校空間での権力闘争」をテーマとした解釈はたくさん書いてあるのですが、、、、、下記がその典型ですね。


やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。渡航著 (1)スクールカーストの下層で生きることは永遠に閉じ込められる恐怖感〜学校空間は、9年×10倍の時間を生きる - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
https://petronius.hatenablog.com/entry/20130406/p2

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。渡航著 (2) 青い鳥症候群の結論の回避は可能か? 理論上もっとも、救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか? - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
https://petronius.hatenablog.com/entry/20130603/p2

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』8‐9巻 渡航著 自意識の強い人が、日本的学校空間から脱出、サバイバルする時の類型とは? - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
https://petronius.hatenablog.com/entry/20170818/p1


これが、僕が上記で言及している


抑圧されている「自分」を、学校空間の上下の階層がある権力闘争の中でどのように生き抜いていくか?


という主観視点で設定解釈されていて、「リア充の側がどのように世界を見ているのか?」彼ら側の解放が「行きついたときに何が考えられるか?」という視点がほとんどないんです。柏木四季(メガネ君)の森田健星(かっこいいけど、ちょっと脳筋バカっぽい)の会話や行動は、いってみればまりんちゃんたち学園カースト上位のリア充グループ側が、次のステージでどういう振る舞いを前提にしているかを、よく表している気がするんです。



■「非リア充ナルシシズムにとらわれて不自由な自意識に苦しむ自分」をどのように解放するか?→「友達はいらない」「好きなものを探して、それに打ち込め」

えっとね、話は少し迂遠になるんですが、この「非リア充ナルシシズムにとらわれて不自由な自意識に苦しむ自分」をどのように解放するか?という設問に対して、日本の物語類型が出した答えは、「好きなものを探して、それに打ち込め」でした。この履歴の最終地点は、『スーパーカブ』でした。そこでは、「友達すらいらない」。能力も何にも入れない。ただ、中古のカブがあれば、世界は輝く、でした。


スーパーカブ』(2021) トネ・コーケン原作 藤井俊郎監督 そこにもう救われない最後の1%はいない。観た最初の1話でずっと感動して泣いていました。
https://petronius.hatenablog.com/entry/2021/07/02/082518

ゆるキャン△』(2018) 京極義昭監督 原作あfろ どこにいても、独りぼっちであっても、一緒にいるという共時性
https://petronius.hatenablog.com/entry/20180505/p1

宇宙よりも遠い場所』(2018) いしづかあつこ監督  僕らは世界のどこにでも行けるし、そしてどこへ行っても大事なものは変わらない!
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20180415/p1


ここで問われていた課題は、「好きなものがあったら本当に友達は必要か?」でした。この答えは、明確でした。「友達なんか必要ない」でした。けれども、ここでいう友達とは同調圧力の奴隷となる自分を抑圧する他者であった、というのもわかってきました。いいかえれば、「好きなものを持った」それぞれの自立した(=好きなものがある)個人が、「好きなものを通して緩やかにつながる」ことは、実は、自然に発生することで、そうしてできた友達は、十分に「ほんとうの友達」といえるのだ、ということがわかってきました。ちなみに、「ほんとうの友達」という虚構の話はずっととしてきたのですが、これは、「友達という言葉にまとわりつく同調圧力の奴隷」というアンチテーゼで出てきた宗教であって、これは全く解決方法になっていないので、それでは友達はいらない!という結論になってという話はしました。


さて話を戻します。


まりんちゃんたち学園カースト上位のリア充グループ側が、次のステージでどういう振る舞いを前提にしているか?


というのは、この「2020年代の若者の学校空間での前提」を考えるときに、「この流れの文脈」が抑えられていないと、意味が分からなくなるからです。なぜ、『その着せ替え人形は恋をする』という作品が、まりんちゃん(リア充)と五条君(非リア充)の


コスプレという趣味-----好きなものを通しての関係性(この場合はラブコメ


になっているかということを踏まえないと、わからないからです。先ほども言いましたが、「この世界で立場の異なる属性同士が真に友人関係を対等に結ぶためには」、「好きなものを通してしかなされない」という時代の物語類型(日本的エンタメの文脈)の結論があるからです。


強調したいのは、抽象的な頭の上での、学校空間での平等ということはあり得ないんです。だって、それぞれに能力が違うから。頭の良さや、運動のできるできない、容姿の恵まれている恵まれていない、、、、、さまざまな属性能力による「違い」「上下」は常にあるので、抽象的な意味での平等なんてものはあり得ません。抽象的な理念としての平等を考えた途端、そこは「権力を奪い合う地獄のカースト世界に様変わりします」。だって、属性が同じであったら、違うのは「権力を持っているかいないか」だけで判断されるので、権力を奪ったやつの価値になってしまうからです。しかし実際には、属性が違うので、属性同士の種族絶滅戦争になってしまいます。それが、壮絶な学校カーストといじめを生み出していきます。そりゃそうだ。種族絶滅戦争をやっているわけですから。


リア充vs非リア充の対立は、属性が違うことを無理に抽象的に「平等に押し込めた」ことによる、権力を取ったほうが勝ちというゲームルールによる種族絶滅戦争なんです。しかも、このルールは怖くて、「結果の平等を維持するため」、すでに持っているものをプレーンで真っ白にするために、暴力ですべて奪いつくすことからはじまります。差や多様性を認めると、スタート地点が平等にならないからですね。


けどね、ここに属性は違うなどの具体的な多様性は、「多様性そのままに好きなことにコミットする」という具体な目的(好きなこと=趣味)を設定したとたんに、物事は全く変わります。伝わっているでしょうか?。まりんちゃんが、属性の違う五条君に声をかけた理由を覚えているでしょうか?。そう、彼女は「コスプレを着れる美しい容姿」は持っているのですが、「衣装を作る能力は持っていない」です。また「趣味の題材のエロゲーやマンガは、自分の属するメンバーで共有できる人がいないん」ですよ。だから、「自分の持っていないものを持っている」五条君に声をかけるんですね。そこからラブコメが始まったわけですが。


そう、ここでまりんちゃんたち学園カースト上位のリア充グループ側が、次のステージでどういう振る舞いを前提にしているか?


という設定に戻ると、すでに彼らは「自分たちの属性だけが「上」にあって「下」よりも上位にあるという「階層感覚」がなくてリベラルな-----水平な世界観を持っているんですね。しかし、これは「抽象的な平等」ではないんです。ポリティカルコレクトネス的な「理念としての白く漂白された抽象的な平等」じゃなくて、「それぞれの属性にはいろんな能力や価値があるという多様性を前提」にしているんですね。しかしながら「異なる属性の能力や動機」が意味を持つには、「異なる目的と具体性(=この場合、好きなこと趣味)」がないとだめなんです。この具体性に対する執念というか前提がないと、「漂白された平等の中での多様性」を考えると、すぐ権力闘争で殺しあって上下関係に落ち着くものしか出てこないんですよ。


だから、僕は、この学園祭の話は、ぐっと来たんです。柏木くん(メガネ君)が森田くん(脳筋バカ)に、いつも「言い方を間違えて、もめごと起こすことをたしなめる」形式になっているのは、この二人の友人関係が、「こういったもめ事をたぶんもっと小さな子供のころから繰り返して」経験して、「そこ」に落ち着いているのが、ありありとわかるからです。そして、森田くん(脳筋バカ)が、ちょっといっただけの社会科見学の「人形づくり」に対して、めちゃくちゃ大絶賛-----言い換えれば、強いリスペクトを示していることが、彼らがとても水平な世界観の中で生きているのがよくわかるんです。このあたりが実験されていて、おおと思うのが『八城くんのおひとり様講座』でした。ようは、このリスペクトというのは、容易に違う世界の人が、あまり話し合えないディスコミュニケーションの世界になるからです。お互いにかかわりあわないディストピアを描いたはずのこの作品が、なんかすごい素敵で理想的な世界に見えるの(笑)のは、それは多様性のリスペクトが前提になった世界では、物凄く関係性がフラットだからだとおもうんですよ。この方向がポジティブに向かうと、とても素敵な世界なんだと思います。読んでみてください、ラノベとしての出来も、特に後半が素晴らしい!ですが、前半の「ディズコミュニケーションになって学校空間」に、互いの多様性に対するリスペクトがあった場合、こんなにも優しい世界になるんです。

八城くんのおひとり様講座 (オーバーラップ文庫)

そして、戻るとそれは、「衣装が作れる」という異なる属性への「偏見なしの尊敬」になるんです。ここで重要なのは「偏見なしの」というポイントです。通常はね、「偏見なし」ってのは、無理なんです。「漂白された平等の多様性の中」では、みんな「なにものでもない真っ白な自分」におびえて生きているので、とにかく権力闘争で上に立とうと競合します。わかりやすいのが、容姿、金、学歴、家柄です。けど、それって、他者からの承認欲求なので、物凄く不安定です。けれども、具体的な「好きなもの具象性にコミットしている自我」というのはとても安定しているんです。そして、社会が豊かで多様性にあふれてくると、「相手の好きなものに対して一定の尊敬を示す振る舞い」というのは、子供のころからの常識になっていくんだと思うんですよ。


これは、少なくとも、僕らの世代までにはなかったです。だって、団塊のジュニアくらいまでの世代には、「いい大学に行って、いい会社に入って」みたいな、立身出世的な「三角形のピラミッドの頂点の階層に駆け上る動機が価値ありとされる」世界観に生きていたわけですから。けれども、平和が長く続き、自由主義的で、それなりに社会が安定している空間で長く生きていると、「権力闘争=上下意識」ではなくて、「好きなもの(=属性いろいろあって多様)へのコミットの深さ高さを称揚する=水平意識」が価値を持つようになってきている気がします。そういう意味では、僕は、日本社会は、素晴らしくいい社会になっていると、断言できます。自分の子供見てて、そう思うもの。たぶん、アメリカも。こういう価値観が出てくるのは、「社会が極端に成長したりも、壊れたりもしない、水平の、多分少し斜陽の状態」のほうが、安定するんだと思うんです。


ちなみに、こういった水平意識が、平等だとか良いものだとか勘違いしちゃいけません。なぜならば、ここには、当然、「好きなものを見つけられるのか?」とか「それをどこまでやれるのか?」という深さ高さへのコミットの競争や差が出てくるからです。これは、多分、今後問題になるはずです。まぁ『スーパーカブ』の物語で、この方向への答えもすでに出ているんですけどね。なにもなくても、OK!というのが。



■『かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜』にみる空気の支配権をかけた権力闘争から、皆が幸せになるために抗う一致団結へ


かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~ 12 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)


かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜』について書くのは力尽きたんだけど、タイトル詐欺にならないように、ちょっと追加(笑)。えっとね、石上優くんと子安つばめ先輩の話が、この「リア充の側からの世界の見え方」が如実に表れていると思っているんだよね。というか、具体的に行く前に、すでにかぐや様の物語世界って、すでに「リア充VS非リア充」の典型的なドラマトゥルギーが、ことごとく破壊されながら進んでいるんだよね。作者の天才に唸るんだよねー。この人エンターテイメントのパターンからスタートするので、その差がわかりにくいけど、どんどん通常のドラマトゥルギーの殻をぶってて、いつもめちゃくちゃ感動する。素晴らしい物語。こんな一発逆の設定でのラブコメからはじまって、これほど多様に具体的に展開した群像劇になるとは予想できなかった。素晴らしい作家さんです。何より、面白い!。


www.youtube.com


www.youtube.com


これ読んでて、新世代ーーーという感じが凄いする。細かい話は、ほかに譲ろう。ここでは、子安つばめ先輩が-----言い換えれば典型的なハイカーストのリア充の視点から見た世界が、描かれている。この辺の評価で、大仏(おさらぎ)さんの話も描かれているんだけど、「美人な女の子」で「コミュニケーションが下手だったら」それだけで人生つむって、身もふたもないリアリティ(これ実際ほんとだと思う)が描かれまくってて、これってルッキズムの勝者が、実はどれだけ生きにくいかってことを、これでもかって表している。この時点で、さすがだなーって、うなるんだけど、、、、


石上優くんの話って、典型的な非リア充というか、陰キャの文系系のコミュニケーションがだいぶあれな男の子が至る道を、描いているんだよね。ちょっとしたことで、いじめに発展して、孤立して、一人孤独に生きている。その「ちょっとした理由」が、自分が好きだった?(自分に対して攻撃的で否定的でしかなかった)女の子を守るためとかいうめちゃ泣けるドラマなんだけど、まぁ理由はどうあれ、彼は、クラスのカーストの最下層で、「噂の空気」に支配されて、学校空間の生き地獄を生きていました。それから、人生は楽しいよ、友達ができるよ、というドラマトゥルギーの展開は、僕が上で指摘した、

「非リア充ナルシシズムにとらわれて不自由な自意識に苦しむ自分」をどのように解放するか?

なんですよね。この石上優君の物語は、これはこれで切ないほどいい話なのですが、いってみれば、「今までの想定範囲内」なんですよ。もちろんこの話は、スクールカースト下位の人が、上位に下克上、成り上がっていくサクセスストーリーとして組まなければエンタメになりません。これはエンタメ的縛りです。であれば、

抑圧されている「自分」を、学校空間の上下の階層がある権力闘争の中でどのように生き抜いていくか?

という権力闘争でどう下克上をするかって話になるんですが・・・・・これが、石上君の視点だけではなくて、子安つばめ先輩の視点で描かれているところに、僕はしびれるほど感動したんですよね。えっとですね、彼女が石上君に「何か返せるもの」を考えたときに、「学園の噂+空気をコントロールすること」を選択し、実行するんですよね。これって、今までのドラマ、物語類型では、「空気による支配」というのは、陰キャや非リア充を抑圧する「世間という地獄」という日本的学校空間の陰惨さ-----そしてなによりも、リア充側が特権的に持っている既得権益の武器として表現されてきたんですよね。なぜならば空気は、学園上位カーストリア充のコントロールするものでしかなかったからです。非リア充からすれば。でもここでは、


子安つばめ先輩ら学園ハイカーストのリア充集団だって、それは実はコントロールするのは容易ではない


ことが描かれています。


そして、この「空気を変えてしまおうという壮大な権力の行使」が、「石上君が、だれにも伝えることなく積み上げてきた人への正しさと優しの積み重ねに感化された人がいるからこそ」なしえるという構造になっているんですよね。えっとわかりますかねぇ、、、、


リア充リア充の両方の協力がなければ、空気による権力(学校空間の地獄)は変えられない


っていっているんですよ。そして、リア充のハイカーストのかぐやや子安先輩の心を動かしからこそ、こういうことが起きている。


僕は「日本的学校空間の地獄」と呼びますが、このテーマで重要なのは、「空気の支配をかけた権力闘争」なんです。日本社会は、日本の集団は、つねに、「空気の支配」をコントロールする権力闘争をしていて、「お互いを殺しあっている絶滅戦争をしている派閥争い」なんです。このあたりがめちゃうまいのは、ココロコネクト。物凄い好きです。


petronius.hatenablog.com



かぐやさまに戻って、ここでいわれているのは、「種族が違うリア充と非リア充」とか「本来ならば種族が違うハイカースト(陽キャ)とローカースト陰キャ)」が、お互いの種族を超えて、協力し合うと、プラスの方向へ空気を変えることだって、十分にあるんだぜ!!!!ってことが描かれているんです。


ぜえぜぜ、、、、今仕事忙しくてこれ以上かけないので、今んとここはこの辺の言及で止めておきます。



■「漂白された平等フィールドでの種族絶滅戦争」ので生きるとはどういことか?


その2(←ほんとか?)へ行く前に、とはいえでも、平等には常に「漂白された平等フィールドでの種族絶滅戦争」の危険性があふれています。ディスコミュニケーションが極まった、世界では、とにかく「分かり合おうという話し合いすら、もしくはそういう異なる種族がいるということすら知らされていない」という陰に種族同士の殺し合いがビルトインされている超陰惨なディストピア社会が、常に内包されていることになります。この光の方向を描くのか、それとも影の方向を描くのか?は、同じものの二側面だと思います。それが、めちゃめちゃ端的に、うわー出てるなーと感じたのが、下の作品です。物凄く後味悪いので、ぜひとも読んでみてください。これが僕が言う種族絶滅戦争的な世界観におけるディスコミュニケーションの具体的な在り方の一つです。僕は、この文脈でこの作品を読みました。もちろん、それに限らないんですが、とにかくしんどい話です。


山田夢太郎、外へ行く - 畠山達也/修行コウタ | 少年ジャンプ+
shonenjumpplus.com



読んだら、思うでしょ、陰惨すぎるって。。。これ、まだまだ違う形で、壁の外と内があるのだなぁと思いました。壁の外に出たら、種族殲滅戦争をしている弱肉強食の世界だったってこと。ちなみに、これは僕らが住むメリトクラシーによって分裂しつつある現代社会での一側面でもある、と思う。



最近のペトロニウスの考えていることでした。ちなみに、2021/9/19の日曜日に月例のアズキアライアカデミアやるときに、この話話すと思います。

メリトクラシーによる人類の平等をはなしえない、それによって分裂する世界をどのようにつなぎとめるのか?

www.youtube.com


岡田斗司夫のさんのこの配信がめちゃくちゃ面白かった。ムチャクチャおすすめです。最近自分が考えていることと、ドッカンドッカン接続したんで、ぜひとも。


えっと感想としては、2つに分けて考えたいなぁと思いました。(見終わった前提での話です)


1)サンデル教授のメリトクラシー能力主義)批判について


いまの世界の思想の最前線って、まさにここなんだよね。メリトクラシー能力主義)批判。これを物凄くわかりやすく解説していて、見事!と思いました。これは、あまりにいまの話の最前線すぎるので、知らないってのは、ちょっと不勉強なくらいの常識化している話ですよね。岡田さんのこの解説で、かなり見事にまとめているので、メリトクラシー能力主義)っなに??と思う人は、ぜひとも見てみましょう。ちょっと本気の人は、サンデル教授の本も読んでみるといい。このあたりは、何か考えるうえでのコモンセンスというかパラダイムとかしてきていますね、最近だと。


2)メリトクラシーでなければ次は何なのか?


A)階級社会を肯定するしかない!(メリトクラシーよりはまし!)

B)上級国民・下級国民のどちらにたいしても、「より大きな共同体の一員だと自覚させよ!」という戦略

A)

実際、A)の階級社会を肯定しているというのは、実は衝撃的な結論じゃないかと僕は思うんです。福沢諭吉先生の「封建制度は親の仇です」など、僕らの近代社会ってのは、この階級による差別を否定して建設されてきたものじゃないですか。それが、むしろ、階級社会のほうがましという結論になっている。


これは2つのロジックによって支えられている、と僕は思う。


一つ目は、「結果の平等」と「機会の平等」というものの両方を求めるときに、機会の平等を設定したら、その結果として「結果は平等にならない」ということが明白になったからだ。人間の自由競争による健全なダイナミズムを維持しようとすると、「ある程度」の結果の不平等は、認めざるを得ない。


ちなみに、「結果の平等」のみにフォーカスすると、なぜだか世にも恐ろしい「不平等なディストピア社会」が到来するというのが興味深い。ポルポトでもソ連ノーメンクラツーラでも文化大革命紅衛兵でも何でもいい、人類の歴史が証明している。きれいごとが、一番やばいということは。この矛盾は、常に念頭にないとだめですね。「機会の平等」と競争が否定されてしまうので、人々の成長や進歩へ向かう自由意志が抑圧されてしまう。自然に生まれてくる「結果の違い」を暴力で押さえつけて、なだらかにするしかなくなるからなんでしょうね。


二つ目は、「機会の平等」による「健全な競争」をすれば、結果として「メリトクラシー能力主義)」に偏っていく。しかしながら、社会の階層秩序を、メリトクラシー基準で構築すると、信じられないくらい弱者に厳しい過酷かつ不健全な社会が形成されてしまい、社会が分断され、社会のサスティナビリティが維持できない。無理やり極端に「結果の平等」にフォーカスした社会よりは、ましなものの、ここまで格差と分裂が進んで、公共のプラットフォーム自体が食い物にされてメンテナンスされなくなると、人類の存続にかかわる。。。


だから、ある程度、制限をかけた「階級社会」のほうが、メリトクラシー能力社会よりましだ、という結論。


このあたりからSF的な妄想は、恐ろしいほど広がりますよね!。


B)

ある程度の緩やかな階級社会を認めるとしても-----これって、今の僕らが生きているアメリカ型の自由資本主義社会そのまま-----分断された「それぞれの共同体」におけるフリーライド(ただ乗り)が横行するので、岡田さん的言い方では、上級国民と下級国民、それぞれが、「より大きな共同体の一員たる自覚」を促されなければならない、となる。


けど、この具体的方法は、どんなものか?って、まったくわからないですよね。(←これからの物語の最前線になると思う)


これって、たとえば、より矮小化して小さなものでいえばは、リア充と非リア充の対立の果てに、「両方が交わらない社会」が予測されるけれども-----そうすると、それぞれが同じ場所に生きているという共通のプラットフォームがなくなって、全体としては社会が壊れやすくなったり、両共同体の最終戦争にいきついて「万人の万人に対する闘争」というディストピアになってしまうのを止められないって思う。そういう感じのやつ。


サンデル教授は、これを「議論を通しての自覚」しかありえないって描くのだけれども、こんなのお上品な「議論」なんかじゃ無理だよって思う。要は啓蒙や教育によってということだと思うけど、実感とか損得のメカニズムがないと、「これ」ってなかなか難しいぞーと思う。


たぶん、この「より大きな共同体の一部である自覚」が、一番強制できるのは、明らかに戦争。


この場合の「より大きな共同体」を、「ネイションステイツ=国家」と考えて、下級国民が徴兵制でガンガン戦地で死にまくっているのだから、戦争に行かないなら財産を差し出せって!ってのが、最も効率的バランスの良い「平等化装置」だった。徴兵制システムは、無作為に、階級に関係なく「国という幻想のために命を懸けて」「同じ釜の飯を食った仲間」にしていくという装置。このシステムというか方法はいまだ生きているので、何かあると戦争圧力が高まると思う。でも、これも核戦争の可能性がある中では、なかなか限界まで行きにくくなってきた。


toyokeizai.net


丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。
http://www7.vis.ne.jp/~t-job/base/maruyama.html



お互い、「とにかく交わらないのが最善手」となっている状況で、フリーライドにならず、公共のプットフォームを守るために、どのようにすればいいのか?


これって次の時代への重要な問いかけなんですよね。


これって、「とにかく同じ国民である」とか「とにかく同じ民族」であるとか「とにかく同じ人類」とか、いろいろな「共通項」を探して強調する手段が要求されるんだけれども、、、、これってネイションステイツの国民国家、民族という幻想で、物凄く苦しんだ20世紀を振り返ると、単純にこの幻想発生装置による高揚の一体化は難しい。このあたりは、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』で本当に当たり前になってきましたね。昔は告発口調で、国家や民族(ネイションステイツ)などというものは幻想だ!と叫ばれてしましたが、もうこれが当たり前になると、歴史の流れの中から必要だから生まれてきた装置だったという感じがしますね。幻想なのは当然わかっているけれども、それをどう有用に社会工学的に利用するのかという視点が大事だと思いますね、これからは。

diamond.jp


幻想発生装置による高揚の一体化、それ以上に、「お互いが異なる種族」だというような、絶対的にコミュニケーションの断絶が強調されている昨今で、それはいったいどこに見出せるのか?というのは、興味深い。ここでペトロニウスは、「種族」と書いているのは、異なる民族とかだと、「同じ人間じゃん」とか「同じ言葉しゃべるじゃん」とか、そういう共通項で処理されちゃうけれども、例えば、ネアンデルタール人ホモサピエンスって、共存できなかったじゃん。なぜかはわからないけれども、ちょっとどうも交配もできなかった?みたいだし、まったくホモサピエンス側は、妥協せずに駆逐しているよね-----っていうあの感じのイメージです。


僕は、次世代の物語において、この「お互い種族が異なるので殺しあうしかない共存不可能性」の物語から、どのように「次へブレイクスルー」していくか?ってのにとても興味があります。


それはすなわち、今現在の人類の課題だから。


この最後の結論が、「これからの来るべき社会」の予測になっている点は、非常に注目したいと思います。そして、この分断が「共存不可能性」への言及だと僕は思うんです。この共存可能性に注目するという点で、僕は『進撃の巨人』と『天冥の標』小川一水さんを出した下記の議論と、ガチっとはまるのがわかると思います。『天冥の標』で描かれている、「共存の絶対的不可能性」に、ウィルスが注目されているのは、さすがの慧眼だとうなります。

f:id:Gaius_Petronius:20210824071434j:plain
   
www.youtube.com



www.youtube.com

この回のアズキアライアカデミアは、僕の中ではかなり良かった。物語の最前線に到達した感じがあって、それがどんなメカニズムかってのは、だいぶ具体的なものが出てきている。この感覚から『ふかふかダンジョン攻略記: 俺の異世界転生冒険譚』への言及はいい線行っているのではないかと自分でも思っている(笑)。KAKERUさんの話をすべて読んでいると、この人は、いい点を突いていて、ゴブリンなどと人類との関係を、「種族殲滅戦争」をしているととらえているんですね。だから、お互いにとって害虫だから皆殺しをしているわけで、そうした「種族殲滅戦争」において、お互いを害虫(皆殺しにしてもよい)と判断しているルールの中で、人権をとくことの無意味さを、あげつらうように強調するのが、この人の作風なんですね。ようは、個や個々の属性の(マイノリティの)権利が際限なく拡張されていくと、社会の存続可能性が壊れちゃう。なぜかというと共生するためのプラットフォーム(=お互いがある程度我慢せざるをえない)を破壊しちゃうからですね。もう少しいかえれば、マイノリティの権利を守るために、マジョリティを殲滅皆殺しにしていいって発想につながってしまっている。ウィルスの話で、ある特定のウィルスと共生している民族を守る話をしていたら、人類が絶滅しちゃったという、この話です。それって、サスティナビリティなさすぎじゃない!という話。この辺の整理は、もっといるし、今後知恵を考え出さなきゃいけないけど-----人権を盾に権利ばかり主張していると、「多様なみんなが生きる器」まで壊しちゃう可能性が高いんですよね。うわ、これ興味深い。人権の範囲拡張をガチガチに言いすぎると、多様性の否定になるんだ。。。それを「どういうことなの?」と表現するときに、ファンタジーの世界では凄いやりやすいんですよね。ゴブリンとかオークとか、要は亜人種をどこまで人間ととらえるかって話と接続するから。人間と亜人種との違いをどこに置くのか、ってすごいSFになる。もしくは、どうしてそういった「共通性の高い、しかし違い種族が生まれたの?」という問いになる。『BASTARD!! -暗黒の破壊神-』とかだけど、どっかでこの遺伝子組み換えをデザインして生態系を設計したやつがいるんじゃないか?って発想につながりやすいもの。んでもって、これ敵対種族とすると、KAKERUさんの殲滅戦争(=ルール)をしているんだから!という話になる。これって現代の問題点の物凄く見事なカリカチュアライズになっている。この発想を、逆で考えると、「どこまでが人間か?」という問いで、『Vivy -Fluorite Eye's Song-』とか『ソードアート・オンライン』のアリシゼーションシリーズなんかもこの類型の派生形。この線引きをどう考えるか?ってのは、AIやロボットものでよく問いかけられる問いですよね。人間なるものの境界線の設定は、常に物語の最大テーマの一つ。『デビルマン』の「シレーヌよ、血まみれでも君は美しい」です。

ふかふかダンジョン攻略記 ~俺の異世界転生冒険譚~ 1巻 (ブレイドコミックス)


メリトクラシー能力主義)によるグローバル化が進むと、「何者でもない僕ら」の不安が交わる

petronius.hatenablog.com

それともう一つ関連で、、、、前回の記事、今「何者でもない僕ら」って不安が多く生まれているよね-----という話があったんですが、それと『コンテナ物語』の岡田さんの解説がつながってんですよね。えっと、数ある岡田斗司夫さんの動画の中でも、この二つは、特に素晴らしいと僕は思っていて、無料公開終わったからコンテナ物語のほうは最後まで聞けないんですが、結論が素晴らしんですよね。


コンテナの効率化が、世界経済に影響を与えて、僕らが住む「グローバリズム化が浸透する地球」が描写された結果------普通の能力の普通の仕事をする人が住む場所がなくなっていく究極のメリトクラシー社会になってく僕らの住む世界があぶりだされていきます。考えただけでも怖い。。。僕も、たいがい世界中で仕事しているし、いまはアメリカの会社で働いていたりするけど、そんなグローバルエリート(笑)な自分でも、もうあまりに新しい仕事が難しすぎてついていけないって、青色吐息になるので、普通に生きていくことすら難しい時代だと思いますよ。こわすぎ。。。


その社会では、「普通の人」が仕事とを見つけるのはほぼ不可能で、「何者かである!」くらいの極端に頭のいい人でなければ、生きていくの難しい社会になってきています。


だから、社会から「何者かであれ!」という強烈なメッセージに反応して、人々は苦しむことになります。


これメリトクラシーグローバル化は、コンビネーションなので、ぜひともここで上げている二つの本を読むのはおすすめです!。


人類の課題の最前線。


www.youtube.com


コンテナ物語 世界を変えたのは「箱」の発明だった 増補改訂版



さて、ここまでいったところで、「共存不可能性」が「種族の違いによるディスコミュニケーションによる殲滅戦争」というテーマって、なんかあったけ?と思いながら、これだ!と思いだした作品。



■分かり合えないので、どんどん違う種族になってゆき、経ては銀河を分けた永遠の戦争闘争状態になっていくこともまたSF

f:id:Gaius_Petronius:20210827020924j:plain

ちなみに大好きで何度も見直しているアニメに村田和也、虚淵玄原案の『翠星のガルガンティア』(2013)というのがある。この「種族の違い」という話を、SF的に広げていったら、どこへ行きつくかの、究極地点の一つだと思っていて、子供にも見せておかなきゃ!といつも思う傑作です。SF的にえば、「よくある発想」といえばよくあるものなのですが、なんというか構成が素晴らしくいいのと、映像によるインパクトが、うおっ!!!って思うのです。


ネタバレですが、

遠い未来、宇宙に進出した人類は「人類銀河同盟」を結成し、宇宙生命体ヒディアーズとの殲滅戦争を続けていた。銀河同盟軍のパイロットレド少尉はヒディアーズとの戦闘から撤退する際に母艦のワープに巻き込まれ、人型戦闘機「チェインバー」に搭乗したまま未知の宙域に転送されてしまう。

翠星のガルガンティア - Wikipedia


人類銀河同盟 VS 宇宙生命体ヒディアーズ


この2つの殲滅戦戦争が、物凄い長きにわたって続いているのですが、その起源がわかったときに、おお!と思うのです。僕のブログは、面白く物語を楽しむガイドみたいなもので、あまり親切にわかるように説明しないのですが、ぜひともこの記事の中のものをすべて見てもう一度この記事を読んでいただければ、ペトロニウスが何を言わんとしているのかが、実感をもってわかると思います。


petronius.hatenablog.com


↑アニメを見て、この記事を読んでもらったという前提で(笑)、話すと、この二つの争いって、


人類銀河同盟(保守派) VS 宇宙生命体ヒディアーズリベラリズム


なんですね。これが20世紀末に、コミュニケーションの断絶があって、お互いがお互いを無視していった結果・・・・・

それと、LDさんが話していたのは、これスターシードの物語なんですね。宇宙に進出した人類の「人類銀河同盟」と、宇宙生命体「ヒディアーズ」と争いを描いているんですが、これどちらも、人類なんですね。最大のネタバレですが、まぁSF好きな人には、見た瞬間連想するくらいのレベルの話なので、まぁこのブログはネタバレ基本なんで。


そんでもって、どちらの選択も、見事な覚悟があって、よし!!!とLDさんは喝破している。チェインバーという戦闘機械が人型であるのも、戦うためにデザイナーズベイビーや極端な全体主義国家の形態を選んでさえも、人類銀河同盟は、「人型であること」を貫いているんですね。やつらには、どんなことになっても、人類である!ということに殉じたんですよ。かっこいいやつらです。同時に、宇宙生命体ヒディアーズ(自発進化推進派イボルバーの共生体)も、宇宙で生きていき繁殖できるために、人であること捨てた人類ですが、そうして全宇宙に大繁殖していくわけです。これも、覚悟がいけてますね。


旧地球において、自発進化推進派イボルバーとコンチネンタルユニオンの争いがあるのは非常にわかるんですよ。人類が人類でいることはどういうことか?という線引きは多分に感覚的なもので、こうした感覚的に相いれない戦いは、宗教戦争のよなものですものね。際限がない。僕はこういう基本的な理念の奥にある感情的なもの、底の基底まで行くと、人間って、コンサヴァティヴがリベラリズムか、はっきり分かれる気がします。これって、理論や論理じゃなくて、感情なんじゃないかって。自発進化推進派イボルバーとコンチネンタルユニオンは、LiberalismとConservatismの究極の対立な気がします、その帰結も、そうなるよなーって感じが凄いします。ガンダムSEEDの新人類「コーディネイター」と遺伝子操作されていない通常の人類「ナチュラル」との対立とかを思い出します。

www.b-ch.com

A)人類銀河同盟(保守派)

保守派は、人間が違う生物になるなんて許せない!とヒト型を貫くんですが、その結果、長いヒディアーズとの戦争に勝ち抜くために、超極端な軍事全体主義になっているんですね。「そこ」が、保守派の一番譲れないポイントだったということ。自由とか全くない超軍事独裁全体主義でも問題ないわけですよね(苦笑)。

B)宇宙生命体ヒディアーズリベラリズム

同時に、自発進化推進派イボルバーつまりは、ヒディアーズにとっては、ヒト型であることなんか、意味をなさない。これって、遺伝子操作によって環境によってどんどん変わっていってもいいじゃないか!、それが生物だよ!という思い切りの良さがります。これ人間の格差をなくそうと思うと、一番ありっちゃーありな手段ですよ。人体改造して、違う生物になってしまえば、人類の格差とかなくなるし!!!って。←こいつも極端だけど、とても合理的なのは合理的(苦笑)。


ぼくは、この二つの発想の違いに、コンサバティズムリベラリズムの、まぁ極端ケースですが(笑)を感じてしまって、お互いに、もう相手とは話してらんねぇ!と思い切った結果、種族が違うところまで分裂してゆき、そしてお互いの殲滅戦争になって数千年(笑)とかなっていくわけですよ。まぁ、どっちも、どっちだよ、と思いますが(笑)。いやに、現実感がある発想だと思うんですよねぇ。


ああ、思い出してきたんですが、これってはるか未来の海に沈んだ地球の巨大船団「ガルガンティア」を舞台にするんですが・・・あ、ケビンコスナーの『ウォーターワールド』だと思えばいいんですが、「船団」ものなんですよね。船って、共同体であり、どのように目的に対して「共存していくか」に特化した共同体なんですよね。ちなみに『ウォーターワールド』は、だいぶ大コケした作品ですが、ユニバーサルスタジオのショーっがあって、これ何回も見に行っているので、物凄く印象に残っています。水に覆われてしまった地球での、水上北斗の拳マッドマックス的なお話です。

f:id:Gaius_Petronius:20210827024606j:plain

この作品のテーマが、「共存」だというのもわかります。ウーム、2013年で、これが出ているんですねぇ。さすが。もう一いっかい見直したい。ちなみに、海賊船というのは、非常に興味深い共同体で、このあたりは、「共存」を考えるとき、アソシエーション(目的を持った共同体)を考えるときには避けては通れないものです。それが面白おかしく説明されているので、岡田さんの以下のものも超おすすめです。

www.youtube.com


などなど、最近ペトロニウスの思考の、あれこれでした。