『エースをねらえ!』 山本鈴美香著 昭和初期の日本人のもっていたエートスがあますところなく表現されている

評価:★★★★★星5.0
(僕的主観:★★★★★星5.0つ)

友人がとても好きで何度も読み返していて、よほど心に深く刺さったんだろうと感心していて、実はそういう人が何人かいる。ちなみに、その人は僕よりも10も20も若い。だから、そもそもこんな古い少女マンガを読むこと自体がとても不思議な上に、繰り返し見るというのは、なんらかの強い吸引力があるんだろうと思っていて、いつかは読もうと思っていた。先週中国に1週間ほど出張行った時の時間を利用して全巻(単行本はマーガレットコミックス(集英社)から全18巻)通して読んでみた。最初の数巻は、やはり古臭いし、イマイチでちょっと失敗したかな購入して、、、ぐらいにおもっていたのだが、後半に入ってボルテージが上がって引き込まれて、宗像コーチや藤堂貴之らがなんで、あんなちょっと頭がおかしいような振る舞いをしたのかが、がちっとわかって解像度が上がってゆき、この作品の全体像がわかってきたときに、ああ、そりゃこれは日本のエンタメ史に残る傑作だと感心した。様々な角度で、とんでもなく深い。

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よくペトロニウスは、「昭和の臭みがある」というような言い方で、昭和中後期、平成の30年、そして令和の比較をします。1960-1980、1990-2020、2020年台以降ぐらいのタームですかね。この世代論というか期間の分け方は、令和の2020年代と、1990年代くらいまでの日本の高度成長期までの思考様式との違い、落差を差していうんです。しかしながら、久しぶりに驚いたのは、この『エースをねらえ!』は、その昭和の臭みすらも超えて、たぶん大正から昭和初期の人間の発想で、そうか、、、僕らのルーツは、あ「ここ」からきいるのか、という衝撃を受けました。いやはやすごい作品でした。ちなみに、そこまでいうか!と驚くような男女差別の意識は、もうぶっ飛ぶほどです。(笑)。でも、この男女差別の認識が、なぜあれほどまでに宗像コーチや藤堂くんが、岡ひろみのために人生と、命と、あらゆるものを捧げ尽くすかの理由になっており、なんというか最良の選ばれた家父長主義者の権化であって、いやはや驚きます。なんというか、あまりのこの漫画が面白すぎて、その後、Kindleの『ベイビーステップ』や『しゃにむにGO』などのテニスマンガを全て読み直していたのですが、「この違い」が、言い換えれば日本の僕らが生きてきた歴史そのものの「変化」なので、この落差を見ると衝撃を受けます。

摩利と新吾 完全版 1

佐藤紅緑による小説『あゝ玉杯に花うけて』(1928)や宮崎吾朗監督の『コクリコ坂から』(2011)、木原敏江の『摩利と新吾』(1977-1984)などが参照にはいいと思います。要は旧制中学のエートスなんですよね。この時代の大学進学率ってのは、社会の0.数%という選ばれた選良。今の大衆化した大学では考えられないスーパーのエリートなんですよね。彼らの持つ倫理、道徳、そして使命感は、我々では想像もつかないものです。この「違い」がわかっていないと、彼らの熱量が理解できないと思います。この時代は、テーマが、われわれの1990年代から2000年代の日本の「個人主義的な視点」とはまるで違います。この時代は、どこまでも「個」が重要で、最も典型的なのは庵野秀明エヴァンゲリオンのシンジくん。仮に世界や日本が滅びても、アスカやレイやミサトさんら家族や大事な人が死んでも、「僕はエヴァに乗りません!」と喝破します。これって、大正から昭和初期の選良たちでは、絶対に言わないセリフです。彼らは、自分が失敗したら、日本が滅びるという実感と自意識を誇りに生きているからです。宗像コーチや藤堂くんらが、なぜテニスの業界全てに対してや、後輩の育成に、自分を自己犠牲を全く厭わずに「踏み台」になろうなろうとするのかは、彼らが失敗したら、日本にテニスというスポーツは無くなってしまうからです。創業期、テニスの黎明期に、その最前線に先導者として生きる彼らは、自分がテニスの共同体にコミットできなければ、この業界がなくなってしまうことがわかっているのです。その激しい自意識が、

"この一球、絶対無二の一球なり”


庭球1920年代の名選手福田雅之助(1897年 - 1974年)

という言葉と結びついているのです。このエートス、倫理の意識がわからないと、なんであんなに無駄に熱くて自己犠牲が激しいのかがわからなくなってしまいます。宗方仁という人は、ひどい毒親の父親に、早くに死んでしまった母親の無念など、もうちょっと今では一人で生きていくの無理じゃないというほどの激しいトラウマを抱えて生きています。しかも、やっと見つけた自分の好きなこと、、、テニスで世界の頂点に向かいつつあるときに、再起不能になってしまいます。その上、余命3年を申告されるとんでもない地獄を味わっても、孤独を踏み越えて岡ひろみのために、人生を使い果たします。この自己犠牲は、本当に凄まじく鮮烈です。そして、ある種、美しい。この自己犠牲の美しさは、痩せ我慢の美しさってやつだろうと思うんですね。リソースというか環境が整っていない、そもそも多様性や次の世代への継続を保障できるほど「社会資本層に厚みがない」状態で戦うとなると、精神論とか感情に頼らざる得ないし、それではもちろん回らないから、バタバタ死んでいくような「気高い」自己犠牲が要求される。ああ、戦前の日本軍だ、ってしみじみしちゃいましたよ。しかし、それが、この近代ライジング時期の日本の美しさの物語でもあるのは事実で、そういう意味で古典だなーと感じました。いやはや流石のでドラマ。

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そろそろ力尽きたのですが、同じスポーツを題材にしていても、『ベイビーステップ』や『絢爛たるグランドセーヌ』を見ると、もう日本が全然違うステージに入っているのことが、見事に伝わってくると思うんですよね。この「落差」は感じると、すごく面白い。だからこそ大谷くんとか、そういうスポーツのスター選手が次々に現れて、しかも、決して「日本を背負う」ような自己犠牲精神で生きているわけではなくて、個人としての幸せもちゃんと感じれるような人ばかり。『ベイビーステップ』を見ていると、見事に科学的にトレーニングが展開されているし、『絢爛たるグランドセーヌ』のような東洋から西洋の芸術をするにあたってさえも、狭き門とはいえ奨学金を取得ルートが複数あって、英国の『ロイヤル・バレエ学校(The Royal Ballet School)』のスクールキャンパス編がいま展開してますが、このグローバルに才能を選抜していく多様性を問う尊ぶ仕組みが全世界に広がっている。そしてそのシステムの中に日本が位置を占めているのが、よくよく伝わってきます。もう戦前の日本のような世界では、全然ないんだな、と。だからこそ「人材の層が厚く、育成選抜がシステムになっている(社会資本になっている)」からこそ、少数のエリートが全ての責任を背負い込む使命感スタイルではなく、「個人の意志が尊重され」ている。これって、『アオアシ』とか見てても全く同じ印象を受けます。あれも高校サッカーという日本的泥臭いシステムとプロのユースによるエリート選抜システムが、「両方並存している」という日本の状況を描いていて、そりゃ世界に通用するような選手が次々に出てもおかしくないよなって思いますよ。いやは、この辺の違いを見ながら古典と比較すると、ものすごい面白いですよ。

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『バービー(Barbie)』2023 Greta Gerwig監督 分断の向こう側を射程距離にし、自分自身を見つめるときには身体性に回帰する

評価:★★★★★星4.9
(僕的主観:★★★★★星4.9つ)

今月(2023年9月)のアズキアライアカデミアの配信でLDさんたちと解析をしようと思い、無理やり半休とって会社抜け出して見てきた。いやはや、見事な作品だった。いつものごとく見終わったらノラネコさんのブログで復習するのだが、この監督だったんだと、驚き。『レディ・バード』(2017)や『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』(2019)の Greta Gerwig(グレタ・ガーウィグ)監督の思想性あふれるキレのある演出が、最初のシーンから鮮やか。キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(1968)の人類の夜明けののように、赤ちゃん人形をぶち壊し、投げつけ、蹴りつけるシーンは、少女のかわいがる人形は赤ちゃんという固定観念の中に、鮮烈に登場したファッションドールのバービー人形の衝撃の歴史が見事に描かれている。このシーンだけで、思想性は深いは、演出はかなりぶっ飛ばして指し込んでくる作品なのは、想像がつく。内容的には、ロバート・ルケティック監督の『キューティ・ブロンド』(Legally Blonde)2001を思い出すんだけれども、思想的な鋭さが、さすがのグレタ・カーウィグ監督。よくぞこの監督を、この脚本を起用したなって感心する。最近のハリウッドのセンスは、なかなかガンバっているなって気がする。『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(The Super Mario Bros. Movie)2023もそうだったし。2023年は、素晴らしい映画の目白押しの気がする。

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🔳男が中心の社会 VS 女が中心の社会の対立構造から何を読み取るか?

この作品は多面的に読み取れる作品なので、色々な解釈はあると思う。何よりも、イデオロギー、思想的、関連的に分断が起きそうなテーマにエンタメで切り込んでいる形なので、簡単に炎上しやすいと思う。だからまず見るべきは、どちらの主観的な感想を抱いたか?ではなくて、どういう構造が提示されているかで分析したほうがいいと思う。この作品の構造は秀逸にしてクリアー。女性が全ての権力を握るガールズパワーの理想郷である「バービーランド」と、「男社会(patriarchy、英語は“家父長制”)」である現実のロサンゼルスとの二元的対立から、「何を読み取っていくか?」という構造になっている。途中でケンが、ケンダム(ケンの王国)を作ろうとするんだけれども、これはすなわち、現実のロサンゼルスの男社会(patriarchy)をモデルにしたコピーだから、対立構造はその二つでいいと思う。この映画を分析するならば、この対立構造から、何をどう読み取るか?という視点だと思います。


🔳単純にフェミニズムでもなければ、その逆の弱者男性からのリベンジでもない

人によっては、現実の「男社会」にハマってマスキュリン(masculine)的な振る舞いでバービーランドの女たちを洗脳していくケンの様子を戯画的に描いて、馬鹿な男だと断罪するフェミニズム映画に見えます。しかしながら同時に、ボーイズナイトでバカ騒ぎしマッチョイズムで女を従属物として軽く扱って小馬鹿にする、そのシーンが、女性を軽視していると嫌悪感を感じれば感じるほど、「全く同じこと」を、バービーランドでバービー(女性たち)が、ケンたち(男性たち)にしてきたことの裏返しでもあり、その告発と復讐を受けていることは、普通に映画を見ていれば実感してしまいます。なによりも、主人公の「定番バービー」であるマーゴット・ロビー (Margot Robbie)が、明らかにケンに対して、申し訳なかったという罪悪感を感じている。この憐れで悲しいケンの姿は、弱者男性からのフェミニズムへの告発にも見えます。

ここがやはり現代的で素晴らしいのは、じゃあ、どっちが悪いのか?というと、そんな単純な善悪二元論にできないところ。バービーがケンを従属物として扱ってきたことも事実だけど、それは現実世界で女性があまりに軽く扱われてきたことのアンチテーゼとして女性に夢と希望を与えるために作り出されたものであるわけで、現実では、女性の立場は厳しい。バービーという商品を作り出したマテル社に「定番バービー(マーゴット・ロビー)」が乗り込むと経営会議のメンバーが全て、男性になっている様は、グロテスクかつコメディ的な男が支配する世界へのカリカチュアライズで、、、、なんというか、怖いというか気持ち悪い「というよりは」、もうここまで一般化するとギャグにしか見えないなと思いました(笑)。現実のマテル社は、それなりに女性の経営陣がいます。さらにいうと、そんな資本主義の権化で、白人・男・老人的な黒幕の裏の支配者の男性たちが、経営、支配しているマテル社のバービーの開発者にして元社長は女性(ルース・ハンドラー)であることなど、全てが入れ子構造になっており、監督の思想性の鋭さと、射程距離の深さが素晴らしい。

僕が、明確に感じ取れたのは、男性でも女性でも、相手を虐げて自分たちだけが主人公になるような「やり方」は、すでにもうダメなんだというメッセージ。そのような攻撃性は、分断と戦争を生むだけ。

最近の日本でもアメリカでも、見事に大衆的評価を得る作品は、「どっちでも読み取れる」にもかかわらず、全体を見ると二元的な、どちらかの正義の側に立つことができなくなるような「分断の向こう側」を考えるものが多い。本当にクリエイターの人々というのは、素晴らしい。この辺りは最近この手の話の分析には、倉本圭造さんの記事がいつも楽しく読ませてもらっている。

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🔳アホなケンにとてもシンパシーと愛情を抱くんだけど、バービーが全く恋愛対象に感じないところが秀逸

そして、これが、最後の最後で4.9であって、5.0になりきれない、しかし大傑作だと僕が感じてしまったところ。この作品で最も、僕がグッときたのは、権力を全て奪い返されて、定番バービー(マーゴット・ロビー)が、ケン(ライアン・ゴズリング)が、憐れにもめためたにやられてしまっているシーン。このシーンで、バービーは、初めてケンの思いを知る。ケンは、Beach off(ビーチで競争しようぜ?ぐらいの意味かな?)ばかり連発してたアホですが、彼は、住む場所もな職業も何もない、ビーチのそえもの、、、バービー&ケンであって、脇役に過ぎない。脇役にすぎず、従属物のパーツとして軽く扱われる苦しみをバービーは、たったいま味わったばかり。二人は、初めて「対等な目線」を手に入れたんです。定番のバービーにしても、アイデンティティを探して、独り立ちせよと言われても、本当に苦しい。だって、何もないままで、バービーランドで生まれ落ちてしまったのだもの。だから、僕は、胸がキュンキュンするくらい、この「負けちまって弱さを曝け出している」ケンに、胸がときめきました。定番バービーも、これには痛く感慨深く、深い同情心を示して、愛おしく感じるのが伝わってきます。こういう弱さをさらけ出した男の子って、胸がときめきますよね。

これは、定番のロマンチックな恋愛路線の発動か!?。

が!!!しかし!!!、それでケンが抱き寄せてキスしようと迫ると、「いやそっちじゃない」と、軽やかに拒否します(笑)。これが素晴らしかった。恋愛関係や対象でなくとも、愛おしさや共感や絆の意識は持てる。けれども、やはりこの流れで「流される」ほどバービーはアホじゃない。この辺りの、バービーの主体性というか、バービー自身が一人の人間として見て、ケンは必要ないわなというのが、ちゃんと感じれるところにうまい脚本だなーと感心する。定番バービーにとっては、対等に見たときに、非常に共感できる存在であるケンですが、彼と恋愛関係の一般的な物語が発動しても、全く幸せにはなれないし、なによりも「男社会(patriarchy、英語は“家父長制”)」の再生産なるだけというのは、ナチュラルにわかっているですよね。頭でっかちではなく、身体で。これも素晴らしく現代的。2020年代の感覚だなと思う。


そして定番バービーは、現実のLAの世界に足を踏み入れていく。自分のアイデンティティを探すために。


僕には、「閉ざされた理想郷からの脱出劇」の類型、ジム・キャリーの『トゥルーマン・ショー』(The Truman Show)1998やトム・クルーズの『バニラ・スカイ』 (Vanilla Sky) 2001を連想するのですが、Greta Gerwig(グレタ・ガーウィグ)監督の描き方には、この時代の脱出劇のカタルシスが全くないように感じました。だって、現実の男社会であるロサンゼルスに、言い換えれば我々が住むこの世界に生きるのって、かなりしんどいじゃないでか?す(苦笑)。れはカタルシスにはならないことを、我々は幾多の脱出劇で知ってしまっています。けれども、ケンとかと恋愛にしても、王道のラブロマンス路線も、それって男社会の再生産に貢献するだけで、全然面白くない。なので、カタルシスという観点から、僕はマイナス0.1をしました。物語として、どういうオチをのもちかでカタルシスを感じさせられるか?というのは、もう一捻りいるのかもしれませんね、次世代の物語には。とはいえ、この構造を示すだけでも、全米の巨大大ヒットを生み出すことからも、今の時代の観客には、この多面性を受け入れる度量と需要があるのだと感動します。少なくとも、これはアメリカの良識、懐の深さを、クリエイターにも観客にも感じるすごい出来事だと思いますよ。

トゥルーマン・ショー (字幕版)


🔳イデオロギーの関連に毒されないことが大事

ちなみに、Greta Gerwig(グレタ・ガーウィグ)監督は、女性の作家らしく、では、定番バービー・・・・才能も職業も何もない普通の人である彼女が、「自分探し」をするときに、何が必要か?について、明確なメッセージを打ち出しています。ラストシーンが、嬉々として、誇らしげに足を踏み入れたのは、「婦人科」でした。何を示しているかというと、えっとですね日本語字幕だと「お股ツルツル」とか「性器がない」とても上品な表現になっていたんですが、英語で聞いていると超強いメッセージで、ヴァギナねえぞ!みたいなもっとお下品どストレートに僕は感じた。これ男性優位とか女性優位の世界を二元的に創造しようとするとSF定番の問題意識があって、「生殖をどう扱うか?」で世界の基盤が決まってしまうんですよね。バービーランドの世界は、役割が固定化しているので、生殖による再生産がない世界だったわけです。監督は、この生殖がない世界に生きていた「お人形さん」としてのバービーに、自分自身を知る第一歩にして本質として、「自分の身体性を直視する」ことだと喝破しているんですよね。やっぱ、この場合、婦人病の病院行って、自分の体をケアしなきゃ!というのは、イデオロギー的な観念論に毒されない、2020年台の等身大の物語に感じて、僕はいやーいいなーなるほど、と唸りました。「そこ」を忘れちゃいけないよね。さすがの、監督でした。


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『機動戦士ガンダム 水星の魔女』2023 小林寛監督・大河内一楼シリーズ構成 新世代の物語の最前線をガンダムサーガのフォーマットで

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評価:★★★★☆星4.8
(僕的主観:★★★★☆星4.5つ)

1クール見た時の印象が「結局、主人公が何がしたかの軸がよくわからない」だったので、たぶん、物語のコアは2クール目でもわからないんだろうなと思っていました。それに学園ものの舞台設定をした時点で、ガンダムのテーマ上重要な設問の枝葉である「虐げられたものをどう救うか?(=地球と宇宙の格差をどう埋めるか)」という部分を実感させるための描写も弱いんだろうなと思っていた。


一言で言えば、まぁ話題作だから見るけど、期待できないだろうな、と。


舐めてました。


いやはや素晴らしかったです。新しい世代へガンダムを伝えるためというコンセプトが完璧以上に描かれ、しかも、新しい令和的な世代の価値観へのパラダイムシフトもされていて、いやはや「いま見るべき物語」でした。なによりも、面白かった。途中から止めることができないで2日で2クール目全て見ました。ガンダムって、本当に良作に恵まれるしスタッフ素晴らしいよなって思う。どの角度で見るかというのは人それぞれだけど、僕は、やはり元々コードギアスで大ファンの大河内一楼さんの脚本が素晴らしかったと思う。


1クール目がダメだったわけではなくて、ガンダムシリーズのリブランドを目指しているだけに、「新しい踏み出しが見られなかった」部分と、2020年代の作品の完成ってナチュラルに群像劇になりやすい上に、ガンダムの過去のテーマが行き着いている視点を丁寧に盛り込んだため脚本が複雑多層化していて、なかなか理解しきれなかったので、僕の頭がハレーションを起こしていたんだなと感じる。でも「その見方」はダメなんだよね。この作品は明らかに、キャラクターの良さ、関係性の良さでフューチャーされている作品だから、キャラや関係性に萌えるというか、ハマる見方で見るべきだったんだろうなって思う。僕は、すぐテーマ性や文脈、分脈を「どのように進めたのか」という点や主人公の動機を問う癖があるので、ハマりきれなかったんだと思う。でも丁寧に分析していくと、そこじゃない作品だなって感じる。


🔳女性が主人公のガンダム〜百合とかBLといった単一の価値観からではなくて


僕はこの作品の描き方が、衝撃でした。`Youtube`の解説で詳細に説明しているけれども、この作品のエポックメイキングなところは、やはりスレッタ・マーキュリーという女性が主人公だった点にあるのは間違いない。そして、そのパートナーのもう一人の主人公、ヒロインポジションもまたミオリネ・レンブランという少女であったことですね。


要は百合なのか?


と、最初は思いました。でも、驚くべきことに、グエル、エラン、エラン5号くんなど、男の子の色気が、素晴らしい(笑)。僕自身も、スレッタとグエル、スレッタとエランのめちゃラブラブの雰囲気に満ちたシーンが、強く印象に残っています。


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僕はこのガンダム水星の魔女のアドステラの世界が、「性差にあまり意味を見出していない」点に、とても令和的な価値観を、2020年代の物語の感性を感じます。


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僕、昔から女の子の制服で一番可愛いのは、ショートパンツだと思っていて、セーラー服とかスカートにそういうのにあまり幻想がないんですよね。まぁ、好みなんですけど(笑)。なので、アスティカシア高等専門学園制服が良いなとニマニマしてたんですが、ふと気づいたんですが、グエルくんがあまりにカッコ良すぎて、あれ、男の子のショートパンツもカッコよくない?って途中で衝撃を受けてあんですよね。

そう考えると、あれもしかしてこのショートパンツのデザインの制服って、作中の「性差を区別して考えない」という思想にガッチリミートしてるんじゃないの?、運営(違う)は、最初から、それ考えていたのじゃ!?って思ってきたんですよね。



公式が否定したりと色々話題にあった、百合婚エンドですが、あの物語の流れ、スレッタとミオリネの関係性の積み重ね、「家族になるんだから」というミオリネのセリフ、「ホルダーの花嫁」という設定、そして最後の、二人の指輪のシーン(指輪はミオリネの母親のものだったと思います)から考えて、結婚エンド以外にとりようがないでしょうと思う。3年後の二人の、寄り添い方って、明らかに夫婦の距離でしょう!。愛のある家族って感じがとてもする距離感。


しかしですね、百合婚エンド・・・という言葉の響きとは違うんですおね。これ百合ものじゃないんだともうし、レズビアンものでもないんだと思うんですよね。かなり話が複雑ですが、僕が言いたいのは、アドステラの世界では「性差が重きを置かれていない」ので、たぶん、男性✖️男性でも女性✖️女性でも、もちろん異性婚でも、どれでも差があまりないんですよ。少なくとも時代のコモンセンス(常識)がそこまで行き着いているんじゃないかなって思うんですよ。だから、スレッタとグエルくんやエランくんとの恋も、ミオリネの物語と対等に描かれている。まぁ、その中で、ミオリネさんを選んだから、胸熱なんだけどな!(笑)。


だから、女性同士の結婚であっても、そこに特に意味はない。だから多分、ガンダム初の女性主人公で、パートナーが同性の女性という設定から「考えられる突破した描写」ってのは、あり得ないんですよ。この場合の期待値って、多分、いままで描かれてこなかったポリティカルコレクトネスの文脈でのルサンチマンを解放して、その恨みを晴らして、描くところまで描いて「新しい基準を示せ」ということなんでしょうが、たぶん、もうそれって、少なくとも物語の世界ではかなり「古い昭和の価値観」なんだろうと思います。昭和の価値観ってマッチョイズムなんですよね。敵を叩きのめして、自分の勝利を天下に知らしめて、今まで自分を虐げてきた敵を、世の中の常識ぶち壊し、ひれ伏させて、叩きのめせ、という。これって「格差がある時の発想」なんですよね。多分、令和的な2020年の世代的なメッセージというのは、もうそれではないと感じます。「性差にあまり意味がない」のだから、晴らすべきルサンチマン自体がないって、いっているわけですから。これ、もの凄い最前線の描き方だなって、驚きました。キャラクターの関係性が売りの作品で、これって素晴らしすぎる。物語の世界は、こうなっているんだと、しみじみ思いました。


だから、制服がショートパンツで、男の子も女の子も、等しく同じユニフォームになるわけか!と感じ入ったんです。



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上の配信が1クール目が始まった時に、このテーマをどう描くか?って、僕が考えていた問題設定です。この問題意識に、さすがの回答を出していて、素晴らしい作品でした。



この他、ガンダムのテーマの「戦争をなくせ!」についてどう描かれているか、戦争シェアリングの是非をどう評価するべきかは、2クール目の完結後の`Youtube`の配信で解説しています。文字でまとめる気力がないので、今日はこの辺で。

『怪物』2023 是枝裕和監督 坂元裕二脚本 たぶん是枝監督が初期から目指したものが、坂元裕二さんと組むことで到達できていると思う

評価:★★★★☆星4.9
(僕的主観:★★★★★星5つ)

全くのネタバレなし、前情報なし、なんなら是枝裕和監督の5年ぶりの邦画新作というのすら知らないで見に行った。音楽が坂本龍一さんの遺作だというのすらエンドロールで知った。映画評価において、この人は!と信じる友人が二人とも絶賛していたので、仕事を無理やり終わらせて、何も考えず日比谷TOHOシネマズに、駆け込んだのです。

そして、「それ」が最高に、この映画体験を最高のものにしてくれた。

ネタバレを気にしないで、むしろネタバレを聞いて良いと思ったら見に行くような僕にしては本当にめずしく、そして運が良かった。最高の映画体験だった。あまりにネタバレが勿体無いので、いつもはネタバレ上等の知り合いたちが口をつくんでいるのも頷ける。でき売れば、前情報なしに、この映画を体験するとを、祈ります。ちなみにネタバレ全開ですが、アズキアライアカデミアの7月配信でネタバレ解説をしていますので、そちらもご参考に。


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この映画をどんな映画かというならば、『羅生門』のように、それぞれの視点から見ると全体像が浮かび上がっていくモノというのが最も多いのではないかと思う。構造はそこが、主軸。だから、前情報なしに「何が起こっているのか?」「真実はなんなのか?」を疑いながら、頭がシャッフルされながら見るときに、この映画が最も輝く構造になっている。最初タイトルが「なぜ」だったものが、「怪物」に変わっていったのは、このシャッフルした状態で観客に届けることが、至高の映画・物語体験を感じられるだろうというプロデューサーらの意思だと思う。また物語自体の本質も、多面的に「どの側面でも解釈できる」ものであるからこそ、「なんの物語か明確にわからない」マインドセットで見るのが最高だと思う。あきらかにタイトルの「怪物」は、ミスリードをねらっていて、全然違うじゃねえか!と感情移入にどっぷりハマっていると、これ全部が組み合わさって出てくる、小さな嘘の、誰かを守るための嘘の積み重なっていくときに生まれるこの「加害性」が、これが、タイトルそのものじゃないか!とつながる快感は、本当に素晴らしかった。カンヌ脚本賞クィア・パルム (La Queer Palm)の受賞は、そりゃそうだよなの納得しかない。個人的には、ポリティカルコレクトネスの文脈で見ていて、それをこんなふうに物語の文脈に組み込むのかと感嘆した。ちゃんと意味ある物語は、やはり最高ですよ。

そして脚本は、『花束みたいな恋をした』の坂元裕二さん。この緻密で、全く隙がなく、すべての要素に意味がクリアーにある人と、ドキュメンタリー作家で即興性を重視する是枝監督のマッチングが、いい味を出しまくっている。是枝監督のキャリアベストだと僕は思う。また坂元裕二さんの脚本と見た瞬間に、『花束みたいな恋をした』のあの二人のカップルの幸せさをまざまざと思い浮かんで、なるほど、なるほどだよ、とうなずきまくりだった。


僕が注目したというか全編の要点を上げるのならば、麦野湊(黒川想矢)と星川依里(柊木陽太)の秘密基地でのシーン。映画そのものは複雑な構成をとっている、さまざまな解釈を要求する多層構造なのだが、それでもなんの映画か?と言えば、この二人の少年のスタンドバイミー的な青春の最も「幸せな時」と、それが「いつまでも続かない」という残酷さの狭間にある「その時」が映画で映し出されているポイントだと思う。もちろんラストシーンとストレートに結びつくので、僕はこれが主題だろうと思う。いろいろ複雑な構造を持つ映画だが、コアで「これが主軸」と感じるのは、湊と依里の淡い恋の部分で、この二人がどんどん追い詰められていく構造だろう。

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ポイントはラストシーンと、秘密基地であるの廃電車の中の楽園だと思うのです。ここに「彼らが二人が等身大の二人でいられた」楽園の時間であり、「ここ」からどこへも行けないことが、強烈に「死」というか時間が止まった世界の感覚を喚起させる。もうあからさまに、銀河鉄道の夜のオマージュであるのですが、この「感覚」を再現できるのって非常に難しい。この直後の2023年の7月の公開の宮崎駿の新作『君たちはどう生きるか』でも感じたのですが、この銀河鉄道の夜のテイストの主題というのは、とても最近多い気がします。そして多分、これを最も見事に物語としてエンターテイメントに昇華したのは、新海誠監督の『すずめの戸締り』でしょう。これは、新海誠監督が、2011年の『星を追う子ども』で、このエンターテイメントに仕上げるのが難しい構造を、十分に経験したからこそのように思えます。


まぁ、湊と依里の二人が、ラストシーンで秘密基地を抜け出し、原っぱを歩き、走るシーンの意味をどうとるか、彼らが到達した場所を「どこ」と考えるのかで、この映画の受け取り方は決まると思う。いやはや素晴らしい作品です。僕もまだ「意味」は考えているのですが、それ以上に素晴らしい解放感のある「映画体験」でした。


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宮崎駿濃縮還元100%体験(笑)でした〜『君たちはどう生きるか』と威圧の強いタイトルと内容から「承継」を描いた物語としてとらえる

評価:★★★★☆星4.5
(僕的主観:★★★★星4つ)

2023年7月。君たちはどう生きるか?を見てきました。宮崎駿御大の最新作。この時代に前宣伝一切ないしという驚くべき手段で、僕は2日前くらいに予約したが、たった2日前ですら「本当に上映するの?」と思わせるほどの情報のなさだった。結果として、僕は「前情報完全ゼロ」の状態で劇場に臨むことになって、これは「宣伝が行き届いている今時代ではありえない状態」だし、なによりも、わざわざその手段を選択するという意味で、鈴木敏夫プロデューサーが、「このように見てほしい、見えるべきだ」という賭けに出たわけなので、良い悪いの判断は後にして、「そのように」臨みたかった。現在82歳という高齢を考えると、次があるかどうかはわからないから、同時代に生き、アニメーションを宮崎駿作品を愛したものとして、これは経験しておきたかった。日比谷ミッドタウンのTOHOシネマズで。2040の回。IMAXで。



あ、ネタバレ多いので、見てから読みましょう。


まず感想を一言。意味が全くわからなかった(笑)。


しかしながら、宮崎駿濃縮還元100%的な見ていると意味がわかちゃう!(過去に見た膨大宮崎駿体験が脳内に喚起される)という物凄く不思議で、多分日本社会のこの世代との「関係性」抜きには語れない作品。今、ペトロニウス、アラフィフ。宮崎駿ジブリとの体験抜きに人生を語れない。星で言うと、星4つ(4.5)かな。素晴らしい作品だが、「物語ではない」だよなー。これ、嫌いな人は、すごく嫌いだと思う。そして嫌いな人(=ダメで受けつけない)は多いと思う。なぜならば「物語の次元で語ることを放棄している作品だから」。僕も、映画芸術的な現代アートを体験するという文脈で、最高に素晴らしく面白い体験だったけれども、おもしろくはない(笑)。しかし、素晴らしい宮崎駿体験として、超ウルトラ体験でもある。だから、僕的には面白い、というアンビバレンツな気持ちになってしまう。82歳にしてこのチャレンジか、、、、前情報(宣伝なし)に観客に見せようという仕掛けは、良し悪しはあるものの、「前提を持って臨むべきではない」意図は非常によくわかる作品だった。

初見の解説分析は、7月のあアズキアライアカデミア配信で対応しています。

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まだ感想も何も一切見ていない。初見のペトロニウスの見るべきポイント(初見のメモ)。


1)解釈を拒む「物語」ではないファンタジーとして描いたことの選択の是非


2)『君たちはどう生きるか』と威圧の強いタイトルと内容から「承継」を描いた物語としてとらえた


・タイトルから「継承」をずっと感じたけれども、「自分が継承してきたこと」なのか「これからの若い世代への継承」なのか?
・日本の物語の傑作は常に銀河鉄道の夜に戻っていく
・これぞ正しくの古典的なファンタジーの冒険活劇〜ゲド戦記ナルニアなどの古典的ファンタジーを「本で読んだとき」の感覚の喚起
・全編シュナの旅を連想していた〜麦を求めて世界を旅するロードムービー
・脚本が破綻していてドラマ的な感情移入が一切できないしのに、イメージの本流に突き動かされて物語にグイグイ引き込まれるのはさすがアニメーションの大家
・多分「母からの自立」をめぐる言説が増えるんだろうなぁーと思うが、それは僕には一切響かなかった、それじゃないと思う
・物語のコア文脈を考えるのならば、やはり「男の子の物語」の問題意識へのアンサーになると思う。風立ちぬに続いて、男の子が主人公に戻ってきている。


この辺りかな。映像、アニメーションともに宮崎駿濃縮還元100%の宮崎駿体験だったというのが初見の振り返り。脚本が基本的に破綻しているというかとっ散らかっていて「イメージの奔流」になっているので、体験を問う感じの作品で、意味解釈を非常に拒否る作品だと思う。ただし、これって意図して、選択してやっていると思うので、それがどういう意味だったのか?というのはこれから、いろいろな人の考察を待ちたい。


というのはね、宮崎駿って、イメージの人なんだと思うんですよ。過去の作品の制作過程のいろいろ資料や情報を見ていると、アニメーション作家として、こぬいうイメージを、こういう動きを再現したいという情熱が、ほとばしってっている。その制作過程で、鈴木敏夫さんのような強権的かつ高圧的な人が、この「わがまま」に形を与える壁打ちを、圧力をかけて、さまざまに濃縮されたものが水割りになったり、マイルドになって、「普通の観客に理解できる筋の通った商業的に価値のある人にわかりやすく伝えるパッケージになる」という感じがするんですよね。宮崎さんは、もともとそういう人なので、鈴木敏夫さんは、もしかして最後だから、自由にやらせてみようか?って、はっちゃけたのかな?って感じがしました。だって、これ「物凄く売りにくい」やつじゃないですか(笑)。ここの意図を、僕は、知りたいなーと思います。でも、もう長いジブリの歴史の中で、一度くらいは、自分のかせなくして自由に描かせたら?って感じがして仕方がなかったです。それくらいに「まとまっていない」。


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僕は宮崎駿が描く物語の系列には2つのパターンがあると思っていて、


1)現実の世界で大冒険するもの→未来少年コナン


2)内面の世界で大冒険するもの→ハウルやポニョ


3)この真ん中のあたりの現実を生きようとするのが、風立ちぬ

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ファンタジーを描いていくと、この2)の内面の世界で冒険をする系統の典型的な作家が、村上春樹だと思っています。いやね、ぶちゃけね、匂いが全然違うんですが、めちゃくちゃ手法的には村上春樹だよね?。これ、宮崎駿セカイ系だったハウルの手法の延長線上だよね、と思うんですよね。南米文学とかの「マジックリアリズム魔術的リアリズム)」の系列というか、この話、手法的に『羊をめぐる冒険』、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『ねじまき鳥クロニクル』めちゃくちゃ連想しますよね?。


まぎぃさんと話していて思ったのは、村上春樹類型の内面冒険型は、面白くない!!!!!って(笑)思うんですよ。


だって、今日、朝起きたら虫になっていたとか、いきなり、明らかに内面世界のメタファーで、自分の内面を深ぼっていく2000年代以降の日本の物語の特徴でしたけど、やっぱり宮崎駿さんには、『未来少年コナン』ばりの現実世界での冒険モノを描いてほしいと思うんですよね。でも、ここの部分が宮崎駿さんは、消化不良だったのかーこれを描きたかったんだなーと思って、うーんその選択かぁ。ちょっと残念な気持ちが。ああ、そうか、僕は宮崎駿さんにもう一度『未来少年コナン』を描いて欲しかったんだな。だって、『風立ちぬ』で、男の子がもう一度現実世界で生きていく動機を取り戻したんじゃないですか!。あのキラキラした、少年が世界を生きる物語もう一度見せて欲しかった。今の技術で。もちろん、風立ちぬで青年でしか描けなかった、少年の動機の部分の「内面の森」に踏み込む作業をもう一度したかったのかもしれない、、、。


が、では、そうは言っても、内面世界に潜るという方向性であろうとも、そうはいっても「大冒険活劇」であるのは間違いない。



この物語の少年が目指しているモノ、動機はなんなのか?を軸をおかないと、とっ散らかっている物語に形を与えられない。



それを考えると、ペトロニウスは、この作品を見ているときに、強烈に「承継」のメッセージを感じてしたかがなかった。僕が解釈するならば、この「なぜ生きていくのか?なぜ表現をするのか?」という人生のボタンをどういうふうに引き継ぎいできたことを見せつけることで、若い世代に、見ている人に、お前たちも「何かの選択をして今生きているんだろ?」「どう生きるかちゃんと考えてるか?って威圧的に迫ってくる感じがすごかった。



大叔父が高畑勲、青サギが鈴木敏夫で、少年が宮崎駿って説があるらしいんですが(笑)



非常に正しいよな(笑)って思いました。これは、ウブでナイーブな宮崎駿少年が、東大仏文のマルキスト高畑勲にめちゃくちゃ影響を受けて、難しいことを考えなきゃいけなくなってしまった!!!。世界をどう正しく導く責任が!!とか考えまくって、、、僕は、え、なんでそんなこと考えなきゃダメなの?って思いましたよ(笑)。


というのと、青サギという下品で、世俗的で、現実的な商売人に、いいから」現実の欲望に正直なるぜ!、そんな世界の真理とか、正しさとかどうでもいいじゃねえかよ!と、同伴者にされてしまう。いや、まぁ憎めないんだけど、その下品さどうにかならない?っていうアクの強さ。でも、この人がいないと、牧眞人(まひと)くんは、一歩も動かないよな。お上品で育ちのいい子だから。



という彼の現実の人生(物語作品の遍歴)を見ていると、いやそんな感じ!って思ってしまった。



僕は、大叔父から、「この世界にコミットしろ」という激しい世界の真理の維持者というか「世界を作るんだ!」というエリートの責任感を強く引き継いでいて、ああ、これを「無理やりバトンを渡されそうになった」けど、いやまって、そんなバトンおかしいから!、セカイの秩序を良きモノで形作るとか無理だから!、もっと世界は汚濁に塗れて、鳥のフンが象徴的でしたが生々しくて、気持ち悪いモノだから!それこそが命の生きる真実ですから!という葛藤を、選択を感じました。



この作品で鳥の持つイメージが、素晴らしくて、この方も指摘されていますね。そして、この鳥というのが、大叔父が作って維持している「世界の清浄なバランス」というものの中で、それを維持できない、生々しく汚濁に塗れて肉感的なものの象徴、、、、清浄な世界におさまらない汚濁にして、そして人間的なるものとして配置されている。高畑勲=大叔父VS青サギ=鈴木敏夫の対立の中で、宮崎少年は、何が世界の正しさをかんをロードムービーのように体験していく。青サギは、品行方正な牧眞人(まひと)宮崎少年からは、気持ち悪い攻撃的な存在に見える。自分達を食おうとするインコも。でもペリカンの描き方を見ていると、清浄な世界では生きられない苦悩の中での存在が、浮かび上がってくる。この辺は、もう少し記号を整理して語る人が今後増えてくると思うので、その辺りの分析も待ちたいですが、ざっくり見て、これって、漫画版風の谷のナウシカで描かれた深いと人類の関係ですよね。宮崎駿のセカイ、世界に対する責任意識を総括した、答えが「いのちは闇の中のまたたく光だ!!」です。これを表している、、、そして、この問いを、バトンを受け取ろうが受け取るまいが(笑)、強制的に人生としての課題として、課されてしまうのは、なんというか、「私の血筋に連なるもの」と言いきちゃっていて、これが「表現者としてこの世界で何かを表現するならば」、これを考え続ける義務があるという、無理やりのバトン承継が僕には強く感じました。

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ちなみに、宮崎駿の心残りの大きなモノを占めるのは、この大傑作『シュナの旅』なんだと思います。ちなみに、NHKのラジオドラマが素晴らしくて。高校生ぐらいに聞いたのですが、この物語のロードムービー的なつくりで、神話をめちゃくちゃ喚起してくれる素晴らしい作品でした。それでのこの物語の設定が、チベットの民話がベースなんですが、ある貧しい村の長の息子が、あまりに続く飢饉と貧しさで苦悩しているんですが、そこで西の方に黄金の麦という収穫生産性の高い作物があって、それを手に入れれば豊かになれると、世界に探しに出るですね。でも、街や大きな村に出ると、この麦の生産性に支えられて、人間たちはずっと侵略をしあって殺し合った大戦争をしているんですね。そういうのから背を向けていたのが、彼の小さな村だったわけで、、、黄金の麦というテクノロジーを手に入れたら「貧困と餓死の絶望のサイクルからのけ出すことはできる」けど、それによって、人は殺し合いを始めるんですよね、要は欲望が制御できなくなっていくわけです。テクノロジーに対する二律背反な、宮崎駿の意識が伝わってきます。でも、基本的にこの主人公の男の子なんですよ。宮崎駿は。この村を餓死から救うためになら、どんなテクノロジーでも手に入れてやる!という強い意志があるんですね。クシャナ、ラオ博士の系列のキャラクターです。『風立ちぬ』の記事の中で、『未来少年コナン』『もののけ姫』と続くモダニスト(近代主義者)の夢と現実というところで書いた話なのですが、たとえ人間が欲望を制御できなくなって争う悪であったとしても、そのテクノロジーによる未来を強く夢見るんですよ、宮崎駿は。そしてその楽観主義のオポチュニズムが、それこそが戦争という悪を生んだ、という「悪」へ食材意識になっていく。これは、宮崎駿さん世代の日本人の、いわゆる戦後民主主義者と言われる人々、坂本龍一さんや大江健三郎さんのなんというか体感感覚なんですよね。僕らは、アズキアカデミアの中まで出版した2巻で語っていますが、日本のエンターテイメントで富野由悠季さんや石ノ森章太郎さんがこだわり結論が出なくなってしまった、「戦争は、人類は悪ではないのか?という問い」に、宮崎駿寄生獣の作者が鮮やかに答えていく様を分析しました。まさに、この部分が、濃縮して、そして抽象化されて(笑)←だから初見じゃ、わからない人は全然わからない形で描かれていると思います。でも、確かにアニメーションで、内面世界の冒険活劇ファンタジーとして、「描かれている」んですよ。そこは、さすがの宮崎駿。これって、小説の『ゲド戦記』で描かれているものとほぼ同じだと思うのですが、宮崎吾朗監督のアニメーションでは、僕は一歩及ばなかった気がします。でも、じゃあ、宮崎駿も描けているかというと、、、、だいぶ力技だなぁと思います(笑)。


シュナの旅 (アニメージュ文庫)


◾️日本の物語の傑作は常に銀河鉄道の夜に戻っていく


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この辺は長くなるので、メモだけにしておきますが、物語としては脚本が破綻しています。でも、内面世界の中に潜ってファンタジーをするのは、まさに「それこそが古典的ファンタジーの王道の中の王道」なんです。ヨーロッパの古典や御伽噺と日本を融合された大正とかの日本をすごく感じさせる世界観は、ああ宮崎駿的な世代の日本人の世界観だなぁととても思います。それのイメージの美しさったらない。ヨーロッパだけでも、日本だけでも描けない両方をブリッジする美しさ。そしてこの内面に潜るときに、やはり重要なのは、人の内面に潜るときは、闇と死にどう繋がるかということを見せることがポイントになると思うんです。ここでは、母親の死ということを契機に、「死の世界に潜る」ことのメタファーが、発動していて、正しくファンタジーでもあり日本的な神話でもあり、ほんとうにさすが。でも、この「感覚」を喚起させてくれるだけの映像表現、空間設計、なんというか、、、これが本当にむずかしい。でも宮崎駿監督は、これが描けるんですよね。『千と千尋の神隠し』でこの辺りは見事に表現されています。あの電車のシーンとかですね。


ちなみに、最近この記事で書きましたが、是枝裕和監督の『怪物』のラストシーンが、まさに「これ」で、マジでこの年でこんなすごいもの見るのか!と唸ったの覚えています。これって宮沢賢治さんの『銀河鉄道の夜』ですよね。日本の内面系の物語は、ここで描かれた「死をめぐるロードムービー的な体験」に凄く親和性というか、同調する国民性があるような気がします。ちなみに、最近では、すごい良かったのが打ち切られて手に入りにくくなってしまった『アクタージュ』の銀河鉄道編なんですよねぇ。ああ、宮沢賢治関係を読み直したくなってしまいました。


とりあえず初見の感想は、こんなところです!。


ちなみに、地方のことを考えると、なるほどなーと思いました。

ボクラノキセキのユージン王子のベロニカへの告白を見ていて、、、なんかジーンとしてしまった。

2023年の5月。28巻新刊が、面白い。いやーやっぱり『ボクラノキセキ』面白い。2007年の読み切りからだから、16年くらい連載しているわけで、これってどこまで最初の時から設計していたんだろうと感じる。ただ、ずっと、娘との新刊待ち望んでいるので(笑)、こういう長期に好きな漫画を追えるのは、幸せなことだなって思います。ただ、毎回、、、10数年に渡り、ずっと同じことを持っているのだけれども、この漫画の「どこ」が面白いのか、自分でもうまく分析ができない。ただ「好き」というのは、簡単だし、そういった感情の発露は大事なんだけど、それだけじゃなんか寂しい。どんな「角度」やテーマで見るべきかが、これだけ執拗に長く「好き」ということは何かがあるんだろうと思うんだけど、いつもなんなんだろうとつらつら考えている。これはいい視点だなと思ったのは「『ボクラノキセキ久米田夏緒 前世の記憶と引き継ぐことは、現世との価値観のコンフリクトを物語にできる」という視点なんだけど、今回は28巻を読んでいて、あーなるほど、ここに自分は引っ掛かっているのか、という別の視点を見つけたので、これまたつらつらと書いてみる。あ、ちなみに、ウルトラネタバレだし、過去の記事読んでいないと、この記事読んでも何が何だかわからないと思います(笑)。興味がある人は、物語三昧のカテゴリーで検索して、過去の記事とか配信とかも見てもらえたら。

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えっとですね、今回めちゃドキドキして見てたのが、瀬々(せぜ)ことユージン王子と皆見ことベロニカ姫の二人の、カラオケ密室での告白トークなんですよね(笑)。


ポイントは、ユージン王子が、実はベロニカ姫のことをとても好きだった!という告白


なんですが、これ色々な意味で、うーん、尊いって唸って読んでいたんですよ。


1)ユージン王子とベロニカ姫の考える「自由」ということのと愛情がとても密接になって実はとても深いこと言っている


これと


2)そもそもこの二人、男性に転生しているので、男同士の告白(すわBL(ボーイズラブ)か!)って緊張感?というか不思議な感じを感じる



えっと、実は両方ともとても関係あるコンセプトなんだけど、まずは(2)が分かりやすいので、(2)を追って見たいんだよね。えっとね、細かい文脈とか、いろんなこと無視しても絵面的に、めちゃドキドキしますよね(笑)。だって、皆見も瀬々も両方とも、なんというか、めちゃ男の子!じゃないですか。ボーイズラブの匂いが全然ないんですよ。そもそもそういう物語ではない上に、基本的にヨーロッパ中世ぐらいの価値観だから、わざわざ同性同士の視点による必要もない。なんだけど、ガチでこの二人、男の子なんですよ。


うーん、うまく伝わるかなぁ。絵面を見せれば、わかるんですが、瀬々くんは、むちゃくちゃ深い愛の告白をしているんだけど、、、、カラオケボックその密室で二人で、男同士なんですよね(笑)。


「にもかかわらず」、なんですが、、、、まったくボーイズラブの匂いがしないんですよ。だから、見ていて、読んでいて、不思議な感覚を感じたんですよね。なんか、おかしいなって。僕は、百合でもBLでも好きでみるんですが、いつも持っている不満は、「その世界観で固定」されているところなんですよね。百合は、女の子同士が基本的に性的、恋愛の対象ですし、ゲイのものはその逆。でも、、、なんというか、世界って、「そうじゃない!」でしょうっていつも思うんですよ。


世界のあり方って、「どの組み合わせもありでしょう!」のはずなんですよ。


ある種に、百合でもゲイでも、もしくはストレートな恋愛でも、「それしかない」とか「それ以外はマイナー」みたいな扱いになってしまう。もちろんそれはそれで世界観が「集中している」ので、分かりやすいし、良いと思うんですよ。まぁジャンルのようなものですものね。たとえば『私の百合はお仕事です!』とか、とても好きで新刊出て、尊いわーってほんわかしているんですけれども、これだけ可愛い女の子が集中していて、全ての組み合わせが少女✖️少女だと、それはそれで尊いいんだけど、陽芽ちゃんとか、このタイプはストレートじゃないの?って気がしてしまうんですよねー。

私の百合はお仕事です!: 12【カラーイラスト特典付】 (百合姫コミックス)


あ、いやいや、これはこれでめちゃくちゃ尊いので、文句を言っているわけではなくて、物語のリアリティレベルを維持するために「お約束」ってあるよね、という話。だけれども、これだけ、同性同士の物語がメジャー化して、当たり前になってくると、僕(ペトロニウスアラフィフ男性)ぐらいの昭和の頭の人でも、もう時代は、それが当たり前だよね、LGBTQとか、別に言われなくても、自然とそれを受け取るようになってきている気がするんですよね、、、、少なくとも日本のエンタメの物語の世界では、僕にはもうすでに違和感がない。


で、あるならば、「どの組み合わせもあり」という世界を見たいと思うのですが、彼がどうもなかなか難しい。これは!と思ったのは、びっけさんのBLの真空融接シリーズかなぁ。これはガチのBLなのに、なにか、僕の中でビビッとくるものがあるんですよね。『あめのちはれ』(←ギャー好き)なんかもそうなんですけれども。


真空融接 春 (B's-LOVEY COMICS)


そこで、はたと、ペトロニウスは思ったのです。


あれ、僕って、どうも性転換モノ、TSものとか、性別が転換する話が、こういういうのがすごく好きすぎない?って(笑)。氷室冴子さんの『ざ・ちぇんじ!』が好きすぎて、これってたぶん学生の頃から好きで好きで、たまらんかっていうまでも好きなので、「この感覚」が好きなんだと思うんですよ。

ざ・ちぇんじ! 1 (白泉社文庫)


話が長く遠いのですが、戻ってくると、ボクラノキセキの、


ベロニカ(女性)✖️リダ(女性) これはシスターフッドモノですね


ベロニカ(女性)✖️グレン(男性) これは身分違いの悲恋モノですね


皆見(男性)✖️春湖(女性) これは普通の高校生男女の恋愛だけど、春湖は明らかにベロニカ様が好きですよね、というか、引きずっている


広木(女性)✖️皆見(男性)


ユージン(男性)✖️ベロニカ(女性)


瀬々(男性)✖️皆見(男性)


えっと、ベロニカ=皆見とユージン=瀬々に限っても、ベロニカが女性から男性に転生しているので、この組み合わせ全てに、とても理由もある深い恋愛とか愛情の関係になっている、、、というか、愛するに足る背景の物語が描かれているので、


むちゃくちゃこんがらがってくるん(笑)


ですよね。「こんがらがる」というのは、男性が女性を好きになる異性愛でも、シスターフットものの女性同士の友愛でも、男性同士の友愛でも、全てが「同一戦場(線上)で並んで」いる感じがするんですよ。これくらい「同一線上」にならぶと、まぁ、性別とかのカテゴリーとか、どうでもいいや的な気分位なってくるんですよね。あれ??これって、おれが求めていたモノじゃね???とふと思ったんですよ(笑)。


もう少し言うと、この世界には、様々な愛情の関係がある。異性愛は多分そのまま性愛接続しやすいし、これに封建制とか家の存続が絡むとすぐ役割の牢獄になる。『大奥』とか『ザ・クラウン』とかですね。リダとベロニカの関係とかは、シスターフット的な女同士の友愛の絆の話になるし、、、、あと、なんというのですかねぇ、、、モースヴィーグ王国やゼレストリア王国の騎士たちの関係性とかって、基本的にホモソーシャルな男社会の友愛の絆じゃないですか。男の騎士や兵士の戦争、国家のために命を捧げる集団って、基本的にミソジニーホモフォビアをベースにする体育会系的な男社会じゃないですか?。えっと、セレストリアの騎士たちって仲がいいじゃないですか?、、、で、その中に、広木悠(グレン)が入っているのをみると、なんか、、、うん?ってグッとくるんですよね。彼女って、めちゃ雰囲気も容姿も思考も女の子なんだけど、でもやっぱりグレン(男の子)なんですよね。本当に自然にホモソーシャルな絆の中に女の子として自然に入っている。その境界がすごいバラバラ。でも、彼女(彼)は、悠でありグレンである「だけ」なんですよね。「自分」が「自分」であるだけなんです。


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この物語を全体的に見ていると、この「関係性が入り乱れている様」が、なんか自分的に、グッときてたまらないんですよ。


話がすげぇ飛んでますが、、、、自分、ペトロニウスの嗜好って、なんで百合ものが好きかと言うとシスターフット的なものへの憧れがあって、それって、成長とか勝つとかいった価値をベースにしているホモソーシャルな体育会男子校的なものへの拒否からきていると思うんです、だから「女の子になりたい」と言う性転換の物語やTSへの物語にグッとくるんですよね。『ざ・ちぇんじ!』が子供の頃から好きなのって、多分このラインだよなって。性別が変わりたいと言う逆転もの物語への希求が強くある。

TS衛生兵さんの成り上がり
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この辺も、そう(笑)。


えっとね、「しかしながら」、ペトロニウスの人生って、基本、男子校体育会系の生き方なんですよね。ホモソーシャルな絆の中で、勝利と成長を目指す!ってやつ。だから、このこと自体の尊さやかっこよさも、身に沁みて好きなんです。やっぱり、ホモソーシャルな男性同士の絆ってかっこいいし、良い物語なんですよ。立身出世の物語ですよね。やっぱり成長してなんぼじゃないか!との思いが、実人生からすごくある。


するとね、こんがらがるんですよ?


でも、、、、世界って、シスターフット的な百合的な関係性でも、ホモソーシャルな男同士の絆の、二元的な戦いじゃないわけじゃないですか?。そのどっちも尊くない?って思うんですよ。偏る必要なくないか?って。



そう言う話を物語を見て見たい!



と思った時に、『ボクラノキセキ』の、群像劇で転生モノで、しかも、いくつかのメチャクチャ王道をいっている恋愛もの(たとえばグレンとベロニカの恋愛とかね)を転生後だと、同性同士になちゃっていりくんでいるじゃないですか。


そんで、瀬々(ユージン)から皆見(ベロニカ)への愛の告白かよ!!!カラオケの密室で!!!(笑)



って、鼻息荒くなってしまって。



しかも、この愛の告白が、とても切ない。これって、とてもピュアというか尊いもので、、、、



封建制の中で家の「役割」の牢獄に生きている自分やベロニカの「役割」の牢獄からの自由であってほしいと言う思い、、、、



いいかえれば、「その人」が「その人自身である」ことができない世界の中で、「その人自身であったほしい」と言う切ない思いなんですよね。



これ、いい!!!



って唸ってしまった。この役割からの自由というのは、最近気づいていきたけれども、ぼくの人生のテーマなんだよなぁ。だから、これにグッとくる。この話が、容易に、封建制の家の存続の話に接続するので、ファンタジーの話とかと親和性が高いんだろうと思う。「自分」が「自分」であろうとする話。とはいえ、その話は、また今度。

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Landreaall: 10【イラスト特典付】 (ZERO-SUMコミックス)

ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー 2023 評価が二分すると言われるこの作品をどう鑑賞すればよいのかについての補助線

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評価:★★★★☆星4.5
(僕的主観:★★★★星4つ)

2023年の5月に映画館に10歳の娘と見に行ったんですが、いやはや面白かった。娘と、クッパ(Bowser)がピーチ姫への熱愛の歌う熱唱するシーンで、大ウケで爆笑。どうでもいいことですが、バウザー(Bowser)の発音が自分にはサウザーに聞こえて、ずっと北斗の拳の聖帝サウザーを連想して一人含み笑いしていた(←どうでもいい感想)。娘が英語で見たいとせがむので原語版で見たけれども、4DXや3DXで「体感すべき」映画だなって思った。ゲームをしているもしくはテーマパークでのライドに乗っている感覚でした。スーパーマリオのゲームをやったことがある(ない人探す方が難しいかも)であれば誰でも楽しめて、基本は家族で行く、年齢を問わない映画ですね。年齢性別をこれだけ問わないタイプのお話は本当にめずらしい。デートにもファミリーにも、全てにOK。これぞ映画興行だ!。さすがの任天堂。誰と行っても、確実に楽しめる。ヒットしない方がおかしい素晴らしい作品。子供の頃から慣れ親しんで知っているゲームの世界の入り込み、立体空間を縦横無尽に「体感・体験できる」というのは、それだけで価値であり感動だと思います。

批評家受けが悪くて、この作品の評価を話題にする人が多いですが、そういう人は「言葉で語る」意味の呪いにかかっている人だよなって思います。明らかに、これって脚本の意味の一貫性などを問う作品ではなく、「体験の質」を問うべきであって、「ストーリーの意味」を問う時点で、かなり極端な映画の見方をしていると僕は感じます。映画の見方が悪い。これ主人公のマリオの成長物語として意味文脈を読み取ったら、薄いどころか何にもない話になってちゃうじゃないですか。「負け犬であるマリオ兄弟」が、何の努力もしないで異世界でヒーローになりましたっていう、陳腐すぎる瑕疵のある脚本と見るしかなくなる。いや、社会的なルーザーでダメな奴が、異世界に転生して、何もないのにチートで無双、夢想するって、どこかの国の「小説家になろう」サイトとかライトノベルとかマンガやアニメであふれているので、本当はこれこそが人が望んでいることだと僕は思うけど。それで、何が悪いのだ!。でも、その見方は、この作品の本質を何も問うことにならない。批評としては、批評するにレベルの低い視点だと思う。だって、そんなの言っても意味ない視点なんだもん。何にも生産性ない。

これって多分、フランスのリュミエール兄弟の発祥まで遡って問われてきた「映画とはなんなのか?」って本質の話なのかもしれないですね。僕は、映画ってのは、リュミエールの時代から本質的に、見世物小屋のエンターテイメントだと思っていて、面白い体験ができればそれで正しいと思っている。初期は、メリーゴーランドの映像だけで、「高さ視点(人の目線より高い)の違い」「速度(当時は村から出ない人がほとんど移動の自由が少なかった)の違い」のセンスオブワンダーを観客は感じてたわけだから。それで十分だった。そこに、近代的な一貫性の脚本の意味文脈なんか、問わなかったでしょうに。映画を総合芸術として、脚本の一貫性、キャラクターの動機の設定、目的・テーマから演繹的に逆算して、受け手に意図の通りの感興を引き起こせたかの評価をしたがるんですよね。特に批評家とか、文字を職業としている人は。それは、一つの評価の軸ではあると思うけれども、それではこの映画の「面白さ」や「観客が興奮することの本質」に何一つ届かない射程距離の低いものだと思う。

あの音楽とマリオがジャンプしまくるだけで、めちゃくちゃ満足しますよ。僕らは、任天堂ファミコン以来のゲームキッズなんですから。これってゲームをする楽しさと、本質的に同じものなんだろうと思う。
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最初に、自分の初見の感想を強く打ち出すのは、前情報や「分析的な解釈の視点」に毒されない自分の生の感想をメモしておくべきだからだと思っています。そうしないと、すぐ人はイデオロギーとか、「こういう角度で見るのが世の中の空気」みたいなものにからめ取られて、「自分の内面の声」が聞こえなくなってしまいます。この声はとても音が小さいので。


さて、自分的には、かなり面白かったのですが、この作品は、「批評家の評価と一般の観客の評価が正反対」というような「視点」が話題になって、そこにグダグダとこだわる人が散見されるという空気が、2023年の5月の時点で色濃い。この「空気的な視点」が、来年とか数ヶ月後にどうなっているかは、全然わからないので、この「文脈で話題になったんだよ」という経緯は残していくと、自分の思考・思索のアーカイブになると思っているので残します。この映画評価サイトのロッテントマトの評価も、数年後とかはどうなっているか全然分かりませんけどね。また日本語の記事で視点は提供されていたので、英語圏で本当にそんな視点で話題になっているのかは、よく分かりません。


The Super Mario Bros. Movie - Rotten Tomatoes


ただ、5月のアズキアライアカデミアの配信で分析しましたが、海燕さんが、この視点に内輪のライン雑談で異様にこだわるので、なんでそう感じるのか掘り下げてみようということになりました。

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この場合、海燕さんは基本的に、この映画の否定派で、僕が肯定寄りの中間で、LDさんが肯定派という3軸の感じで立場を設定して議論を進めてみました。ちなみに、まぁ、テーマパーク的体験世では素晴らしくて、シナリオはいまいちというのは、基本的に、すべての人が大体感じる「落ち着きどころ」なんですが、そういってしまうと、話が面白くない。ようは、鑑賞し終わったあと、ポジティヴな感情なのかネガティヴな感情なのかってのは大きいと思うんですよね。海燕さんは、マイナス。僕とLDさんがプラスとなった理由はどこにあるのか?を話すことを通して、この作品の「分析の仕方」の立て付けを用意したいと思いました。

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2時間強長いですが、今の時点で分析的に鑑賞しようとしたら必要なパーツや視覚はかなり網羅したと思います。やはり三人が同時に見ていて、リアルタイムの話題性があるやつは、議論が濃いですね。これだけ掘り下くと、かなり満足度が高い。議論の枠組みを簡単にサマっておきます。ちなみに僕の用語による、分かりやすくするためのかなり強引なまとめです。LDさんとかは、付帯意見や分岐の条件をつけたがるし、海燕さんはもっとマイルドなんですが、極論に言い切るように書き換えました(笑)。配信でも、僕がそのように誘導、司会していますし。ちなみに、もちろん長いだけあって、Youtubeの配信の方が、言語化して丁寧にブレイクダウンの議論をしているので、分かりやすいと思います。

1)批評家VS一般観客という視点は正しいのか?

   ポリコレ的でないから世界中で一般観客に売れて受け入れられているのは正しいのか?
   Twitterなどの空気で肯定派以外受け入れないという全体専制主義的な二元論(正しいか間違っているか)に対する海燕さんの嫌悪について
   ペトロニウス的な感覚では、作品についてイデオロギーで判定する人々は、そもそも「映画そのもの」を見ていない人たちなので、聞くに値しない
  
作品の具体的分析に入るのならば、シナリオのマリの成長物語のドラマ性がポイントになるはずなので、そこを掘ろう

2)マリオの成長物語として分析的に見た時に、シナリオの瑕疵があるから、この作品は駄作なのか?

  海燕さん立場:成長物語として瑕疵がありすぎて作品としてダメ
   →冒頭の家族のシーンによるマリオの問題点の指摘がオチに回収できていない
   →スターをとれば無敵だというオチがあまりに杜撰(ならばなんで最初にクッパがそれを使わない?)破綻しすぎ。

  ペトロニウス立場:成長物語としての構造的問題は同意。しかし、それを上回ってライド、テーマパーク的な体験性が豊かなので、全体的にプラス。

  LD立場:冒頭のエピソードから成長物語として捉える「ドラマ性」が発動しないので、マイナスとは思えない。
 
この物語のプラスマイナスの最終的な感覚は、マリオの成長物語としてのシナリオのドラマツルギーへの感情誘導が発動した人としない人で分かれている。であるのならば、冒頭の家族のシーンなどのマリオの「成長物語のしての克服ポイント(=克服される動機づけ)」から成長物語に突入したと感じる人とそうでない人の差はどこから生まれているのかの掘り下げが必要


3)文脈としての批評的視点の価値〜マリオの世界観、ブランド、積み上げ文脈からこの脚本には瑕疵があるけれども、瑕疵としては発動していない

ペトロニウスの立場の結論として、この作品を評価するには、二点。

(1)体験とシナリオのリンクをどう文脈から評価するか?

A)ライド・テーマパーク性としての映画の喜び

B)マリオの成長物語としての瑕疵のある脚本構造でのドラマへの感情誘導へ成功か不成功か?(要は気持ち悪いか悪くないか?)

観客、受け手がどちら側により多く誘導されているかで、この映画を楽しめた楽しめないが分かれる。この分かれ目は、A)とB)の「つながり」においてA)の体験のセンスオブワンダーに対して、シナリオの瑕疵、失敗が重大な阻害をしているかどうか?で評価できる。そういった批評的な視点では、「阻害していない」というのがペトロニウスの立場。だから、星が4.5の評価(満点は5)になる。この分析は、アバダーの1と2の評価をするときに同じ構造の例として取り上げている。アバダー2は、この「体験のセンスオブワンダー(=この場合は未知の星を探検、見ることができる喜び)」は、脚本の「白人のインディアンのへの贖罪」や「少数民族独立戦争の物語」と全然リンクしていないで、阻害してしまっているのでアバダー2は最低の作品。同じ構造だけど、脚本と映像体験のコンフリクトがあると、総合芸術としての映画としては駄作。邪魔しないスーパーマリオのような映画では、そこはマイナスポイントではない。

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(2)小説家になろう異世界転生物語の類型のプリミティブな物語の野生の喜びは否定すべきではない

「成長物語としての瑕疵・欠陥」は、確かにそうだが、近代的な物語の視点で見過ぎであって、「意味の病」だと思う。この辺は書くのしんどくなってきたので、配信聞いてください(笑)。


4)脚本をもっと突き詰めると『ドラゴンクエストユアストーリー』になるんじゃない?、むしろそこにまでいかなかった部分を評価すべきなのかも?

海燕さん、LDさん的立場

「成長物語としての瑕疵・欠陥」をさらに突き詰めて、このあたりの近代的な視点で掘り下げていくと、山崎貴監督の『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』(DRAGON QUEST Your Story)が思い浮かぶ。これと似た構造では?。けれども、マリオはそこまでいかなかった部分に成功があるんじゃないのか?等々。


ここはペトロニウスは未見なので、詳しく語れません。次回の6月のアズキアライアカデミア配信までに見て勉強しておきます。



ドラゴンクエスト ユア・ストーリー Blu-ray通常版




🔳ピーチ姫躍動の意味〜自己目的化した内ゲバポリコレから、自然な目線として安定化したポリコレへのシフト

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個人的には、ピーチ姫が、ノリノリでとても好き。CVは、『クイーンズ・ギャンビット』アニャ・テイラー=ジョイ(ANYA TAYLOR-JOY)ですね。ノリノリで、愛されて育った健康的なかわいさにあふれてる。捨て子というか親がいないでキノコ王国で育てられた設定ですが、それが故に国へ、まわりの人みんなへの愛あふれる様が、かわいい。QGのエリザベス・ハーモン役とかぶって感じてしまい、ちょっと涙目に。(←この見方は、だいぶレアケースだと思いますが(笑))。マリオたちは明らかにニューヨークのイタリア系ですが、ピーチ姫は、何系の顔立ちなんだろう。ちょっと、悪役令嬢っぽいというか、キツめ感じのなのに影が全くない感じが、健康的な魅力になっている。いや、この子、いい子だろ、、、。かなり好き。

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ちなみに、この部分に、LDさんが非常に、「過去のオリジナル作品の体験の一回生」との違いを見ていく中で、ピーチ姫はもっとおバカだったよね、昔という話が、すごく面白かった。僕は、この部分がすごく良くて、


ピーチ姫最高じゃん!!!



と感想を書いているのですが、その差異がどこからきたのかについて、倉本さんが丁寧に言語化していて、物凄く同意します。

これは多くの人が指摘していることですが、ピーチ姫が主役級にアクティブにバンバン戦いまくってる時点で、「昔のハリウッド&初期マリオゲーム」的な感じとは随分違う。

「いわゆるポリコレ」が嫌われている理由は、その作品自体の功罪というより「ポリコレ的な作品を褒め称えるために他のコンテンツをディスりまくる人がいる」というところにあると私は考えているんですが、実は「女の子もどんどん戦う」の歴史は日本コンテンツでも結構古くからあるんですね。

マリオにおいてもスーパーマリオRPGという作品があって、これは96年の作品ですが、最初は「いつも悪役にさらわれてその度にマリオが助けにいなかいといけないピーチ姫」みたいなネタから始まるんですが、途中から仲間になって大事な戦力になる展開になっているらしい。

ただし、「スーパーマリオRPG」のピーチ姫は、「ちょっとおバカな女の子」感があったし、戦闘面でも能力が回復寄りのサポート役だった…という話を聞きました(とはいえ最強武器を手に入れるとかなり前線でも結構戦えるキャラになるらしい)。

だから、「ポリコレの嵐が吹き荒れた時代」にも意味はあったんですよ。

スーパーマリオRPGのピーチ姫」から、「映画マリオのピーチ姫」の間には、興味がない人にはどうでもいいように見えるかもしれないが、自分たちも自然に社会参加したいと考える女性にとっては”非常に大事な違い”があるのだと思います。

でも、多くの人々は、バラバラの社会的党派の内側だけに引きこもってお互いを非難し続けるようなコンテンツよりも、多少アホっぽく見えても「みんな」と繋がれる理想主義を求めているのだと私は感じています。
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僕は、ポリティカルコレクトネスに対して、とても肯定的なんですが、同時にある種の人々のものの言い方が本当に嫌いなんですよね。この「違い」がよくわかっていなかったんですが、まさに、倉本さんがいうこの言語化は、同感です。

「いわゆるポリコレ」が嫌われている理由は、その作品自体の功罪というより「ポリコレ的な作品を褒め称えるために他のコンテンツをディスりまくる人がいる」というところにある

本当に良い作品は、ポリコレが自己目的化していなくて、ちゃんと意味ある自然な形で物語に浸透していると思うんです。昨今の支持されている作品はすべて、この「ポリコレ視点の自然な内面化」が起きていて、もうこれは前提だと思うんですよ。配管工のような職業を下に見るようなセンスのギャグはいっさい入れないというようなとても自然な形での「フェアネス」が入っている。このあたりの違いではなく共通部分での最適値を探そうという理想主義への回帰は、僕も次の時代の物語の大きなポイントだと思っています。

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この辺りはまた今後語って行きたいと思います。

『マイスモールランド』2022 川和田恵真監督 日本映画から難民問題を扱ったこのような映画がみれるとは思わなかった!と批評視点で言うよりもまず、嵐莉菜さんの演技が素晴らしすぎた!

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評価:★★★★★5つ(4.8)
(僕的主観:★★★★★5つ半)

🔳見たきっかけとあらすじ
映画通の友人におすすめされたのですが、それ以上にトレイラーの嵐莉菜さんガツンとやられた。だって無茶苦茶存在感あるでしょ、彼女。もちろん、ViViで専属モデルで、イラン、イラク、ロシア、ドイツ、日本(Wikiより)にルーツを持つとびきりの美人さんなんですが、失礼な言い方をすると、モデルって往々にして、整いすぎていて人形のような感じになってしまい、あまり存在感の圧を感じないことが多い気がするのですが、適当な検索の写真を見ただけで、圧倒的な圧があって、もうそれだけで見なきゃと思ってみました。そして、それは全く裏切られなかった。初の演技とのことですが、ちょっと信じられないくらいの見事な演技でした最初は嵐さんのバックグランド、前情報なしに、知らずにみていたので、こんなに可愛いし、かといって、あまりに普通の日本人高校生だし、日本語もトルコ語も綺麗だし、でもって顔立ちは確かに外国の血が入っているのもわかるし、いったい監督は、この役者をどこで見つけてきたんだ???と唸ってみていました。いやはや、極端な話、普通の日本人のティーンの女の子を抜擢しただけなんですが、こんな存在が普通のいるのか日本!って、ちょっと驚きました。いや普通じゃないか、、、演技力、本当に驚嘆するレベルでした。


非常に単純にまとめると、日本で生まれ育った埼玉県川口市にクラス17歳の女子高生チョーラク・サーリャ(嵐莉菜)というクルド人の日常の物語。けれども、日本の学園ものの日常系ではありえないような、非日常が彼女と彼女の家族にはついて回る。それは、サーリャの父であるチョーラク・マズルム(なんと嵐莉菜の実のお父さん!)は、クルド難民として申請をしていたのだが、難民申請が却下されるところから物語は始まる。

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https://www.imdb.com/title/tt16410620/

下記で別項立てて説明しているが、これが日本における難民認定問題などの社会問題を扱っている硬派物語であるだけではなく、まるで少女マンガなどの青春成長物語になっているところが、素晴らしいと思っている。こう言った物語でリアルさ(=現実がどれだけ厳しいか)みたいなリアリズムを追い詰めていくと、いくらでも悲劇的な結末に持って行くことは可能だ。お父さんが難民認定を取り消されて、無期で入管に拘束されてから、働くことも法律上できず、どんどんサーリャは追い詰められていく。三人兄弟の長女的な、長女気質の真面目になんでも抱え込む難儀な性格が、あますところなく表現されていて、生真面目だなぁと思いながらも、こう言った生真面目さはとても危うく、ごろごりとすり鉢で削られて蟻地獄に落ちていくような堕ち方をしやすい。ものすごくわかりやすく、友人に勧められてパパ活を初めてしまって、リーマンの男とカラオケをするのだけれども、襲われそうになってしまう。このルートでお金がないと、通常は水商売や風俗にまっしぐらだろうなと思う。こういう物理的に落ちていく悲劇の物語って、よくありますよね。


ただ、「そのルート」としても見ててものすごい怖いっていうか恐怖があって、彼女はたぶんスーパー男尊女卑の部族社会の中で生きているんです。明言は避けているけれどもイスラム教的な(チャーシュー食べているからイスラムではないと思うけど)宗教を頑固に信じている父親に育てられていると、これ、たとえば、一旦風俗に堕ちたりしたら、もうコミュニティにも戻れないし家族の崩壊感半端なくなるし、、、それに、コンビニのバイドで一緒で同学年の聡太(奥平大兼)とほのかな恋仲になって話は進むんですが、見ててキスしそうになるのすら怖い。ノラ・トゥーミー 監督の『生きのびるために(The Breadwinner)』とかでもいいですが、厳格な部族で男尊女卑のあの辺の社会の拘束の中で生きてたら、日本の少女マンガ的な唇に触れただけのキスとかでも、親に殺されちゃうんじゃないって(彼女の父親はそんな狂信的フアナティックではないけれども)見ててハラハラしてしまう。日本の社会(日常)に生きながら、異なる文化文脈に生きているコンフリクト感をとても感じる。

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聡太(奥平大兼)めちゃいい男の子だし、二人のほのかな恋愛は、とても尊い感じがして、少女マンガ風味がある。この流れなら、軽いキスとか、抱きしめるとか、ありでしょ!という日本の少女マンガ文脈を感じるが、同時に、彼女の生きている文化的背景を連想すると、胸が重くなって、、、、これもまた異文化理解というか体験なんだろうと、非常に感心した。日本の普通の女子高生であるサーリャに許嫁がいて、父親から強制的に結婚を指示される文脈が常に暗黙で隠れていて、周りのコミュニティもそれを当然の如く受け取っている、、、、普通の日本人の女子高生のサーリャにとって、ものすごい心的負担になるのは、見ててもう明らかで、感情移入している分、ほんとしんどかった。イスラム系の女性の生き方の話では、『サトコとナダ』なんかも補助線になると思うのでおすすめ。

サトコとナダ(1) (星海社コミックス)


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それにしても、ああ、昔の日本の家の許嫁とかも、こういう縛りなんだろうなぁと思う。そうか・・・そう考えると同じものなのか。先日、邦画の『あの子は貴族』を見てたんだけど、最上層階級の上級国民の男が、後継、結婚など、ブリーダーがその血統を繁殖させつ増やすような無理がかかっていて、お金ががあってエリート極まる方の良家の子女こそむしろ、きつい拘束に縛られて生きているのだなぁとしみじみしたものと重なった。

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これってよしながふみさんの『大奥』なんかもそうだけれども、決して女性だけが苦しいわけではなくて、「家」を存続するための血統維持という呪いにも等しい拘束が、関係者全員の人生を支配している。いまコテンラジオのエリザベス1世の回を聞いているのだけれども、ヨーロッパの歴史もひたすら家の歴史ですよね。この頃は、フランスのヴァロア王家とスペイン(だけじゃないけど)ハプスブルグ家。この辺りのヨーロッパの王家って、ハプスブルグ怪我特調停な戦略だけど、結婚よって領土を拡大するから、もうこのブリーダによる繁殖の血統維持の呪いの悲劇の塊ですよね。話がずれましたが・・・。

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おっと、青春物語の話でした。なぜこの日本における難民を扱った悲劇の物語が、青春映画のようにポジティブに、ペトロニウスは感じるか?の視点ですね。人によって、かなり解釈や受ける印象が、分かれる部分ではないかと思うので、ここがこの映画の脚本のイシューだなって思うのです。これね、さっきの貧困でお金がなくて水商売に落ち込んでいくルートとか、厳格な男尊女卑の社会の父親に支配される少女のストーリーみたいなパーツは、たしかにあるんですよね。それぞれのエピソードで過去の昭和的ないわゆる「日本映画」みたいなのは簡単に一本作れてしまう。僕的には、いわゆる「昭和的な物語」だと思う。貧病苦がベースにあった頃の物語。一直線で、避けようがなく、物理的。この作品も、やっぱりその「流れ」は感じるんですよね。だって、わかりやすい「苦しみ」の物語なわけだし。物語としては作りやすい、悲劇だよね。


けれども、ああ、新世代の物語というか、令和の時代なんだなぁと思うのは、やはり見事なラストシーン。監督は最後のこのシーンを、どのように演技指導というか、指示したんだろうってとても興味深く思いました。というのは、この最後のシーンは、明らかに未来に対する「意志」を感じさせるからです。このシーンから逆算すると、全ての苦しみが、なんというか単なる苦しみや悲劇で回収しない強い意志を帯びるので、とても爽やかな感じがするんです。ネタバレ的ですが、この最後の見事な演技のシーンから、この映画の全体像を逆算して捉えてほしいのです。


えっと、このシーンから逆算する意味の解釈をする前に、、、、これほどの強い意志を感じさせるドアップのカットの演技って、いやはや嵐莉菜さん、素晴らしすぎる。なんというか、まるで演技のマンガの『ガラスの仮面』とか『アクタージュ』とか見ている気分になるくらい、もう明確に演技力がすごい。


洗面所で顔を洗って、両手で顔を叩き、目をギュッとつぶって、それからゆっくり目を開けて意志的な眼差しで少し上の方を見る。


いやはや、このワンカットのシーンだけで、彼女がこれから、これらの「自分がコントロールできない出来事に翻弄される」だけではなく、それに意志を持って対峙していくことが明示的に伝わってくる。監督の脚本意図は明確だとは思うが、これを「演技で表現しろ」ってかなりの無茶振りだと思う。だって新人のティーンのモデルの女の子にだよ。いやはや、本当にすごい。天才というのか、それとも彼女の役にあっていたのか、どちらにせよ、素晴らしい演技で、僕は胸に突き刺さるような勇気をもらいました。いやまぁ、めちゃくちゃ美人なんですが、それにしても映画の中の演技は、素晴らしかった。等身大の日本の女子高生の感じがとても伝わってきて、不自然さを全く感じなかった。不自然なくらい美人(笑)なんだけど、あまりに演技がナチュラルで。

ええと、まとめると、昭和的な日本映画の悲劇ならば、難民認定がされずに、生きていく術もない、この3兄弟には、地獄しか待っていないわけです。長女と次女がなんとか水商売にでも堕ちて稼いで生きていく悲劇になっても、長女はお姉さん気質の真面目なタイプで融通が効かないから、多分パパ活とか売春とか明らかに上手くできなさそうだし、破滅しか思い浮かばない。日本映画的には、いかに「世間、社会の悲劇と悪を告発」して、リアリズム的に映画を終わらせることができる。社会のリアリズムってこいうものでしょという、なんというか「そのようにまとめておけば」評論家とかに評価されやすいでしょう?という感じで。逆に、これを、希望を持たせる「これから意志的に頑張っていく」シーンを撮影すると、エンターテイメントとしては美しいし、気持ちいいけれども、批評家ウケをしにくくなる気がする。だって、エンタメにおもねったなとか、簡単に文句言われそう。つまりは、ラストシーンをどう扱うかで、この映画の難民認定問題や日本の入国管理制度の壊れている問題点を、どのように「意味づけるか」が決まってしまうんです。だから、あまり意志的で希望に満ちたシーンにしてしまうと、社会のマクロの問題点を、個人の意思で還元して戦わせるのか?というお決まりの批判が出てくるように感じます。


なのに、川和田恵真監督は、ここに強く意思的な女優の意志的な目線のシーンで終わらせている。


こうした「意味の文脈」ぶっ飛ばすくらいの存在感のある演技を女優に要求するほど、信頼があったとしか思えない。そして、それに見事に嵐莉菜さんは、返している。この存在感ある演技があっての話だとは思うのですが、とても令和的だなと思うのは、これは僕の個人的な心象風景なんですが、


1)平成の30年を過ぎて、既に高度成長もバブルも終わり、低安定の衰退していく日本社会の中で、既にそこに住んでいる子どもたちは、貧病苦的な悲劇の物語(立身出世と対になる大きな物語)というのは受けつけていない感じがするんですよね。これは僕らアズキアライアカデミアでもずっと分析している「新世界系以後」とかの概念なんですが、これ同級生の聡太(奥平大兼)くんも、決して裕福じゃないですよね。片親だし。でも、既にそういうのを嘆く時代は終わっていて、まぁ「そういうこと(貧乏などで人生が閉ざされる)」というのはランダムによく起こり得るし、それは所与のものとして受け入れて生きるしかないという、明るい諦念がある気がするんです。だって、社会が高度成長でもしていない限り、基本的にパイの奪い合いで、あまりラッキーな解決策や希望に未知な未来なんか運よく訪れない。そんな中で、あまりご都合主義の期待をしても仕方がないと諦めているんです。けどこの諦めは、けっして、暗い悲劇としての我慢とかではないし、まぁ、しょうがないよね、ランダムに死んだりするよね、的な絶望を超えていると、これが意外に明るいんですよね。この辺りに話はマンガの『鬼滅の刃』や『約束のネバーランド』などで話してきた感覚です。


2)しかしながらこうした、ポジティブな諦念を描くと、すぐ批評家から批判がくるんですよね。「社会問題を、自らの主体的な意思で変えていく意志を放棄させるような作品はダメだ」と。これって新海誠監督の『天気の子』でかなりされていた批判ですが、これ自体は、まぁ論理的にはそうかもなぁって僕も、感覚的には嫌いだけど、思っていました。この辺は近代人の呪いだなって思います。主体的な市民の意思で、社会をよりよく建設していく「べき」というコントロール至上主義。近代市民資本主義社会での、前提。

けれど、最近、あ、これは違うなって分解できるようになってきました。この「成長至上主義」に自分が嫌悪を感じる感情的なものに、少しづつ言語化ができる気がしています。

えーとですね。批評家の三宅香帆さんの上記のツイートを見て、ビビッと思ったんですよね。えーっと、僕の勝手の解釈というか連想なんですが、昭和的な物語のルーティンであれば、多分貧乏に追い詰められて、社会の底辺の人間がすり潰されて抹殺されていることに「告発の声をあげる」ような左翼的な、もしくは近代人的な言説が、意味もあったし、リアリティがあったんですよ。なぜならば、社会に余裕がなかったから、社会の底辺にいるような弱いものは排除されて切り捨てられる・・・・・・というような悲劇の物語がベースに共同幻想としてあった気がするんですよね。でもこれ、ちょっと嘘があるんじゃないかと思うんですよね。「近代の成長の物語という大きな物語」に社会の過半の人々が参加して邁進しているので、「そこ」に外れた人を抹殺して切り捨てているだけなんじゃないのかと。ええと、どういうことかかというと、令和の、2023年の2020年代の日本って、高度成長期よりも余裕はないし、未来はないですよね?経済的に物理的に衰退しているし、パイがどんどん小さくなっている。


「にもかかわらず」、結構みんな、優しくない?って気がするんですよね。


もっとストレートにいうと、貧しく苦しい(はずの)2020年代のいまの方が、社会に余裕があって、みんな全体最適の「善」に気を配っていないか?と思うんです。赤坂アカさんの『かぐや様は告らせたい』や福田晋一さんの『その着せ替え人形は恋をする』、渡航さんの『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』ような学園ものの、描き方で、問題にぶちあたった時の解決方法がかなり変わってきているんじゃないか?と思うんですよね。どれも、一昔前の、僕的な「昭和的な」物語であったら、解決が難しかった学園内の問題や家庭内問題を、けっこう鮮やかに「全体最適的な善」で解決するんですよね。これって、ものすごく社会の構成員たる若者ものたちが、知恵があるって感じがするんですよね。あと、基本的に善人。


上記の三宅さんの指摘が、なるほど!と思ったのは、大きな社会のパラダイムの転換があると思うんですよね。


僕がここでいう「昭和的な物語」というのは、サバイバル(=生き残り・強者が勝ち、弱者を切り捨てる)ゲームをしているんですよね。


けれど、令和の今のゲームは、リソースこそないけれども(社会が貧しくなっている)、構成員の若者が、「昭和的な物語の問題点や行き着く果て」をコモンセンスとして既に共有の知識にしているんですよね。だから、そうならないように、知恵を少し絞ろうよというふうに「みんな」に働きかける。『かぐや様は告らせたい』におけるいじめの解決方法が、素晴らしく秀逸だったので、僕は感心したんですよね。これSNSの問題点、同調圧力の問題点とか、日本的な共同体やテクノロジーの行き着く先を、みんな理解しているんで、それを、ちょっとした善意を集めてズラしてしまおうとするんですよね。かぐやが、石上優の学年内での評価をひっくり返してしまうエピソードのことです。これっていじめ問題とか、サバイバル・ゲームによる生き残りゲームの戦い方は、誰にとっても得じゃないよね、というのを「最初からわかっているメンバー」によって、「違う解決方法を考えようよ」という新時代のコモンセンスを感じるんですよね。物語の類型的に、サバイバルの生き残りバトルロワイヤルが、時代遅れになりつつあるのって、大きなポイントだと思いませんか?。


これって、社会問題があるのを「受け入れてしまう」という心性や物語の描き方はダメだという、左翼的、近代人的な批判に対して、有効な射程距離のある物語の返答・反論だと思うんです。


2020年代の若者のというか、僕のようなアラフィフのおっさんですらも、既に、サバイバルゲームの、弱者切り捨てゲームに飽きてきているんですよ。それは、簡単な話で「昭和的なサバイバルゲームでは99%の人は切り捨てられる」わけで、ほとんど全ての人(自分も含まれちゃう)が切り捨てられるゲームなんか、やるのいやじゃないですか。でも、物理的に「それ以外の選択肢」がなかったので、悲劇の物語に回収されるしかなかった。弱者切り捨てられて、すり潰されるしかなかった。だからメディア、映画や物語のリアリズムは、「それへの告発機能」を重要視せざるを得なかった。けど、、、、このゲームが、ルールチェンジというか、ゲーム自体が変更されてきていて、それは、たぶん社会の構成員が、このサバイバルゲームという大きな物語にコミット=参加したら、死ぬだけだからしない方がいいよね------違う方法を考えようよ、いうふうに教育が、実感が行き渡ったんじゃないかと思うんですよね。なので、「異なる選択肢を考えよう」という振る舞いに、賛同が得られやすくなっている。なので、「全体最適な善」への賛同が集めやすいんだろうと思うんですよ。


かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~ 28 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)



という新世代以降的な文脈の中で、ラストシーンの意思的な視線は、成熟し低位安定している日本社会なら、やりようはあるぜ!という希望を感じるんです。


もちろん、物理的な日本の難民認定の問題とか、昭和の遺物というか、そういうものはたくさん残っています。しかし、たとえば、同級生の聡太(奥平大兼)くんとか弁護士の先生とか、助けてくれる、知恵を結集してなんらかの物理的なブレイクスルーと一緒に探してくれるくらいには、日本社会は、いい奴がたくさん増えていると思うんです。移民問題や入国管理の問題は、別に日本だけが、クズで最低なわけではありません。ここガが治外法権なのは、世界中どこでも同じです。でもそれを変えていこうという成熟した意思は、僕らは、日本社会に住まう人々は持っていると思うんですよね。


というような、希望をすごく感じるし、何よりも、それにふさわしい、若く、意思的な視線の演技は、本当に素晴らしかったです。



🔳日本映画の中から雇用な難民・移民を問いかけるテーマの物語が出てくるとは?


川和田恵真さん、すごい良い仕事をしたなと思う。上から目線な言い方で恐縮ですが、素晴らしい物語だった。

普通の高校生として、教師になることを夢見るたり、コンビニでバイトする姿は、まごうことなき日本の高校生。たしかに、彼女はトルコ語を話し、クルドのコミュニティの中で生きているのだけれども、「嵐莉菜さん」と言う存在の中で、リアルとして地続きになっているのがあまりに自然に伝わってくる。これ彼女以外が演じたら、この「圧倒的な自然なシームレス感」生まれなかったと思う。このシームレスーーーー言い換えれつなぎ目がない感じがあるからこそ、日本人で男性でというマジョリティ側の僕のような受け手も、日本語を話す日本人として自然に感情移入がなされてしまう。これは、素晴らしい傑作だ。


なぜならば、こういった社会問題がテーマになっていいる物語で最大の演出ポイントは、受け手の視聴者に「自分ごと」として感情移入を迫れるか?ということが往々にして問題だからだ。


自分とはまるで関係のない、難民認定問題が、日本の自分が生きているコミュニティにシームレスにつながっているという手応え、実感をさせるという意味では、監督の川和田恵真さんは、見事な仕事をしていると思う。あまり細かいことを言っても仕方ないのだが、しゃべらせる言語の選択や、宗教についての名言を避けること、クルディスタンに住むクルド人の話としながらも、具体的にどこの国家からの難民かなどが明言を避けて属性を絞っているのは、監督が脚本を考え抜いて微細に作り上げている証左だと思う。

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日本社会の同質性の強さの中に、別の切り口をもたらして、センスオブワンダーを感じさせてくれる、、、というと物語のためにあるみたいでよくない言い方かもしれないが、同じような感覚をヤンヨンヒ監督の『家族の国』でも感じた。脱北者の問題は、『トルーノース』も同時に見てみたいところ。


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🔳アメリカ映画との移民の比較

上の話とリンクするんですが、この作品って移民問題の日本版じゃないですか。最近見た『ブルー・バイユー(Blue Bayou)』とかめっちゃくちゃ同じ話だよなって思うんですが、受け取り方があまりに違って自分でも驚いた。自分でも長くアメリカに住んでいて、VISAとかの滞在ステイタスについては色々な体験があるので、それほど夢のようなファンタジーではないはずなのに、それでも、やっぱりどこか遠い国の出来事的な「実感なさ」があったんだなと、今回の映画を見てしみじみ思いました。やはり日本語で、、、、単純に日本語だけではなくて、サーリャ(嵐莉菜)が仁保の女子高校生としての存在がとても自然なので、自分の頭の中で「日本の日常生活」とものすごくスムーズに接続されたから、実感が強いんだろうと思う。そういう意味で、これが日本映画というのが、本当に素晴らしいと思う。


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2023-0406【物語三昧 :Vol181】『ブルー・バイユー(Blue Bayou)』2021 韓国系アメリカ人の経験した強制退去の実話ベースの物語188


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2018年の町山さんの記事ですが、難民や移民の問題、滞在ステイタスの問題は、本当にどこの国でも、さまざまな闇がある。この機会に、こういう視点で世界を眺めてみるのも良いと思います。

町山智浩)それは州政府ですね。カリフォルニアの州の問題で。カリフォルニア州はずっと80年代から累積赤字がすごくて。それを返済するので大変なんで赤字なんですけど、それとはまた別の問題なんです。これは赤字でストップしているんじゃないんですよ。予算案が通らないから、ストップしているんですね。その原因は、ドナルド・トランプが秋に「ダッカ(DACA)」というんですけども。物心つかない頃に親に連れられてアメリカに入国した人たちがみんな、大人になりつつあるわけですけども。彼らを国外に叩き出そうとしているんですね。そういうことをドナルド・トランプがしようとしまして。

山里亮太)はい。

町山智浩)どうしてかというと、彼らは結局アメリカ以外は知らないわけですよ。自分の過失や意志ではなくて、親に連れられてアメリカに不法入国したんで、それをアメリカしか知らない、アメリカ人でしかない彼らをアメリカから叩き出すのはおかしい!っていうことで、オバマ政権の時に、彼らがアメリカ人になれるよう、市民権を取れるように法律を整備したんですけども。ドナルド・トランプが彼らを全部、とにかく叩き出すと言っているんで、民主党共和党の一部がそれに反対して、真偽が進まないんでストップしていたんですね。

山里亮太)ふんふん。

町山智浩)で、その彼らのことを「ドリーマー」って呼ぶんですけども。「夢見る人たち」っていうことですね。で、それはアメリカン・ドリームですよ。アメリカ人になるという夢ですよね。で、彼らはアメリカしか知らないんだから、アメリカ人になるって言われても、困るわけですけども。アメリカはアメリカで生まれれば、誰でもアメリカの国籍を取れるんですけど、ちっちゃい頃とか赤ん坊の頃に連れてこられた人たちは取れないんですよ。

山里亮太)へー!

町山智浩)ただ、彼らはアメリカしか知らないから、完全にアメリカ人ですよね。社会的にはね。その人たちの地位を守ろうと言っている派と、全部叩き出せ!って言っているトランプとでモメているわけですよ。
町山智浩 2018年アメリカ政府機能停止を語る | miyearnZZ Labo


🔳記号で感じ方が変わることをどう捉えるか?


今回は、入国管理の問題で日本の入管の酷さが、とても際立って感じました。司法と並んで日本の近代化されていない闇の部分の一つですからね。でも同時に、ちょっとバイアスかかりすぎるなぁと感じもしました。だって、サーリャ(嵐莉菜)かわいすぎるんで。こんな美人で、いい子であったら、無条件の応援しちゃうじゃないですか。記号が、あまりに良すぎると、それもまたバイアスってかかるよなぁとしみじみ思いました。ふと、セーブザチルドレンが作ったプロパガンダ映像を思い出しました。あえてネガティブにプロパガンダと書きますが、最初は捏造であること伏せていたので、人々の意識を喚起するためならば嘘も構わないという正義の独善が見えて怖いなって思いました。まぁ、こういうのもそのうち増えすぎて世の中に溢れて影響力がなくなっていくものなんでしょうけれども。でもこの映像を見たときに、白人の少女だからこれだけ反響を産んだんじゃないか?というよう話も多く出ていました。

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アフリカで紛争はたくさんあるのに無視されているのに、なんでウクライナの戦争だけ、そんなに感情移入されて支援されるのかというのも、「感情移入しやすい記号」をどう操作するかというメタ的な視点が出ていつもいろいろ考えていまします。結論は、やはり慣れて、勉強して、バイアスに騙されない体制をつけるしかないよなって思います。コントロールしたり表現を規制することは、難しいでしょうから。


🔳日本の入管難民制度には、法の支配が及ばない欠陥があること

ウィシュマさん死亡事件は、2021年(令和3年)3月6日、名古屋出入国在留管理局に収容中のスリランカ国籍の女性が死亡した事件ですが、入管の問題を扱うと、最近だとこれをすぐ連想します。正直に話し、僕はこの辺りにはほとんど知見がなくて、この事件すらもよくわかっていない。ただ、人伝で聞いていてるレベルであるが、日本の入国管理は本当に酷いらしい。皆一様に、最低だというような吐き捨てるような反応する人が多い。そして最後に必ず締めとして言われるのは、反日の人間の製造装置という言葉。ここにお世話になった外国人は、皆日本を恨みまくって帰国らしい。

劇中でも言及されているが、一度収容されると、出ることは極めて難しくなる。
個人が心身の自由を奪われるのだから、普通の刑事事件なら当然裁判所の令状が必要になるが、なぜか入管の収容では不要とされているのだ。
外に出るために再び仮放免を申請しても、許可する許可しないの裁量権も入管にあるため、よほどの事情がない限り認められず、数ヶ月も、時には何年も収容されたまま。
事実上、入管施設という名前の刑務所であり、強制収容所である。
裁判に訴えて勝つか、諦めて日本を去らない限り、未来の見えない状況は、収容者に多大な肉体的、精神的なストレスを与える。
名古屋入管でスリランカ人女性が死亡した事件は記憶に新しく、過去にも自殺者や、ハンストの末の餓死者も出ている。
現在の日本の入管難民制度には、法の支配が及ばない欠陥があることを、日本人は知っておくべきだろう。

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2020年代の日本社会は、僕はとても成熟した議会制民主主義の国だと思うが、それがすなわち闇や問題点が一切ないというわけでは、もちろんない。僕がパッと思うだけで、司法・検察がウルトラ優秀ではあるものの、まだ封建社会のレベルだと思うし、この入管もまた酷い闇だと思う。でも、個別のミクロの「悪さ」を批判して憎んでも仕方がなくて、要はこういうのは制度的な問題で、何が問題か考えるべきだと思う。入管がなんで、そんなにおかしなことばかり起きるのかといえば、非常に簡単で第三者における監視、監査がないからに決まっている。要は治外法権なんだろうと思う。日本の司法とか検察も、三権分立がちゃんと機能してないが故の、バランスオブパワーが効いていないから、極端になっているんだと思う。でもシステム的に手を入れるに一番大事なのは、僕はやはり「みんなが知っていること」「社会の構成員が、そのシステムは問題点があると認識していること」なんだろうと思う。上で、かぐや様のマンガで言及したような、リテラシーというか、、、うーんリテラシーというよりは、みんなが常識だと思うこと、それって当たり前だよねと思うこと=コモンセンスなんだろうと思う。日本では、この司法や入管に問題があることが、ほとんど認識されていないように思える。非常に単純な話で、それをテーマにしたエンターテイメントの物語が、ほとんどない。警察を描いた刑事物のドラマやエンタメは、腐るほどあるのに、その上位機関である警察官僚や司法官僚についてのドラマだと極端に少なくなる。それを問題だと認識している人が少ないので、テーマとして取り上げにくいんだろうと思う。だからこそ、『マイスモールランド』のような物語が登場してくれたことは、僕はすごい嬉しい。それだけでなく、何よりも大きいのは、面白い。とても爽やかな青春モノでもあるとと思うから人に薦めやすい。女優の嵐莉菜さんも、めちゃくちゃ演技うまくて、推せる。。。。僕は、大事なのは「そういうこと」なんだと思うんです。一言で言えば、硬派で硬い話で、社会問題を知るきっかけになるけれども、それ以上に、「面白かった」もの。本当に良い映画でした。