『Turning Point: 9/11 and the War on Terror』2021 Brian Knappenberger監督 対テロ戦争20年を網羅し「いま」見るべきドキュメンタリー

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■歴史となった911からのイラン・アフガニスタン戦争

バイデン大統領は2021年8月30日、アフガニスタンからの軍の撤退が完了したと宣言した。その後、一月くらいは持つだろうと予測していて様ですが、アフガニスタンではイスラム主義組織タリバンが全土をほぼ掌握してしまい、20年間で2兆ドルを超えるコストをかけた「アメリカ史上、最も長い戦争」が終わりました。『Turning Point: 9/11 and the War on Terror』は、ネットフリックスのドキュメンタリーシリーズ。アメリカの対テロ戦争の20年間を網羅して、まさに「いま」のタイミングに見るべきドキュメンタリー。素晴らしかった。いま與那覇潤さんの『平成史―昨日の世界のすべて』を読んでいて、平成がついに歴史になったんだな、という感慨とともに、だからこそ、全体像を「歴史」として俯瞰して見れるポジションが獲得できつつあるという感慨を抱いています。同じように、2001年9月11日から始まるイラク戦争アフガニスタン戦争と続く「同時代のアメリカ」というものが、生々しすぎて、しかも僕は2013年からは米国に移住しているので、なかなかバランスよく見れていなかったのですが、このドキュメンタリーと2020年のバイデンVSトランプの大統領選挙で、一つの区切りというか、まとまりを眺めることができるようになった気がします。こういう「区切り」を設けて、過去の帰結をまとめなおすことは、時々何かのきっかけをもとに行うと、世界が、同時代に生きながらちゃんと罪があっていく感じがするので、僕は好きです。アフガニスタン撤退は、ある意味、米国が中国との新冷戦体制にシフトしていく契機でもあり、新時代の幕開けでもあるので、いったいなぜこうなったかのまとめをしておくことは、とても価値があるタイミングだと思います。僕は、ミドルスクールの子供たちと、家族で見ました。米国が、今どこにいるのかの一つの起点として、これは見ておくべきだと思ったからです。

■『Turning Point: 9/11 and the War on Terror』が示す、対テロ戦の時代の米国の問題点~戦略目標を明確にできず、大統領に白紙委任を与えてしまったこと

911の3日後の9月14日、上下院はテロへの対抗措置としてブッシュ大統領武力行使を認める決議(AUMF)案を採択した。上下院の議員531人のうち、1人だけAUMFに反対票を投じます。バーバラ・リー下院議員(カリフォルニア州選出・民主党)です。彼女は言います。


 「議会は大統領に対し、武力行使白紙委任を渡してしまった」


これ、このドキュメンタリーの軸となることです。というのは、もし映像を見て、1. The System Was Blinking Red、2. A Place of Dangerを見れば、911のテロのすさまじさに、言葉を失うと思います。その臨場感。僕は見ているだけで涙が止まりませんでした。正直言って、これだけの出来事が起こってしまっては、この深い悲しみ、怒り、その激しい感情が「どこかに拳を振り下ろさなければ終わるはずがない」というのは、見ていれば「実感として」感じられてしまいます。ここで理性的に、ソ連の侵略を退けるためにアメリカがCIAを投入して、ゲリラン戦術と暴力を教え込んでいき、それによって911よりはるかに多い数の死者が生まれたなどの怨念を比較したりは、人はしません。とにかく、アメリカを攻撃し、アメリカ人を殺戮した!責任を取らせなければ、ならないというのは、自明のどうしようもなかったことだと思います。世界は、そんなに甘くはないので、ここで平和を叫んでも、むしろアメリカが舐められてもっとひどいテロが起きるだけでしょう。だから、アフガニスタンに、テロリストを倒し、捕まえに行くために侵攻するということ自体は、もうここまでのことが起きてしまったのだから、止めることはできなかったでしょう。

ブッシュJr大統領が、America Is Under Attackと閣僚によって、エレメンタリースクールの子供たちと話しているときに、伝えられた時の表情が、凄まじかった。あんなクリティカルな場面が、映像に残っているんだと感心する。

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とにかく見てみればわかります。これで感情移入できなかったら、その人は、よほどアメリカが嫌いとか、前提がある人だと思います。


しかし、では、最も重要な問いは、この「起きてしまった出来事」の「落としどころの絵をどう描くか?」なんだろうと思います。しかし、もちろん、そんな冷静なことはできません。自国民数千人が本土で殺されて、アイコニックなビルが崩壊させられたら、そりゃそうでしょう。なので、さまざまな情報は集まっていたのですが、国は復讐で熱狂していきます。ここで重要なのは、この熱狂の中、問われたことは何か?でした。バーバラ・リー下院議員は、ただ一人、「テロへの対抗措置としてブッシュ大統領武力行使を認める決議(AUMF)案」を拒否します。実は、彼女自身、戦争に反対という言わけではありません。ここで重要なのは、この「どこまで武力行使を認めるか?」という範囲について「白紙委任」になっていることを彼女は問題視しました。

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アメリカの憲法の、そして建国の父であるワシントンの重要な意思は、絶対権力を握る暴君を、独裁者を作り出さないことです。それは、イギリス帝国という国家の暴力と、暴君ジョージ3世を倒して、共和国を生み出したアメリカの柱です。だから彼女は、「白紙委任」ではなくて、「対象を限定」すべきだとしたのでした。この時点で、アメリカは、ほぼアルカイダ、ウサマビンラディンが犯行であることをつかんでいました。ならば、「そこ」だけに限定すればよい、という話です。アメリカの憲法意志、建国の父たちが意識していた権力行使の抑制の問題点を、アメリカは熱狂によって忘れ去ってしまったのでした。


そして、、、、白紙委任にしてしまった。そして、ブッシュ政権は、全世界に対して活動領域を広げていくことになります。その結果、どれほどの広大な、選別しているとは思えない広い範囲での、ブッシュ政権での「対テロ戦祖という名の軍事行動」が、発動されていきます。これラストシーンで、その国の数が明かされると、戦慄します。


そして、アフガニスタン戦争が、あれだけの大失敗に終わった理由はなぜか?


ほぼ最初の段階から、その理由はわかっていたとこのドキュメンタリーは主張しているように思えます。最初から繰り返し現場の将軍、司令官、だけでなく前線にいた兵士たちの意見は同じです。米軍が、一体に何をしたいのかが、よくわからない。


一言でいえば、戦略目標の不在です。


アルカイダを倒すのか?、アフガニスタンの新国家を建国するのか?、それすら、行ったり来たりしていて、よくわからない中で、兵士たちは戦い続けます。なぜ、アフガニスタンで、米軍が、だらだらしているように見えるのか?。簡単です。アフガニスタン以外に戦線が拡大しすぎていて、アフガニスタンに米軍の兵士が集中していないからなんです。一番わけわからないのは、アフガニスタンが中途半端になったのは、米軍がイラク戦争を始めたからでした。このあたりは、イラク戦争に4度従軍したクリス・カイルが著した自伝『ネイビー・シールズ最強の狙撃手』( American Sniper: The Autobiography of the Most Lethal Sniper in U.S. Military History)の映画化『アメリカン・スナイパー』(2014)や『バイス』(Vice)2018年の第43代ジョージ・W・ブッシュの下で副大統領を務めたディック・チェイニーを描いた映画、『グアンタナモ、僕達が見た真実』などを見ると当時の雰囲気が伝わってくるのでお勧めです。ここで映画かれているのは、白紙委任を与えられた権力が、なんだかんだ理由をつけて、権力を濫用していくさまがよく見えてきます。効果的に暴力を使うのではなく、党派性、私利私欲に歪んでいくのは、「白紙委任」されているからですし、「白紙委任」されているので戦略目標をクリアーにして評価される必要がないんです。

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少なくともこれを見ると、明らかにアメリカが「対テロ戦争の根本戦略」を歪めて間違えているのがわかる。対テロ戦争の根本問題は、「アフガニスタンをどうするか?」であって、イラクは明らかに何の関係もない。これに労力を割かれたのが、戦略不在になった大きな要因になっています。


僕は、いまの2021年から振り返ると、カーター、ブッシュジュニアクリントンオバマ vs トランプのような構図で描かれているアメリカのメディアの報道の仕方や、民主党支持者やリベラルサイドの態度って、物凄く理解できない。少なくとも第43代アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュのほうが、アメリカ合衆国第45代大統領ドナルド・ジョン・トランプより、よほどめちゃくちゃだよって思うもの。


しかし、、、、つくづくアメリカの建国の父と憲法は偉大だな、と感心しました。本当に権力の本質をよくわかっている。この憲法意志に、ちゃんと殉ずる議員が、挙国一致ではなくいるということが、アメリカのすごみだなと思います。


■本質を探ることなしに「世界の警察」はなしえない

ちなみに、歴史をさかのぼると、帝国の墓場(Graveyard of Empires)、アフガニスタン問題が、ソ連による侵略からはじまって、ねじれてねじれていくのが、よくわかる。このあたりは話すと長くなりすぎるので、僕のおすすめは、下記。ロシアの軍事・安全保障政策を専門とする東京大学先端科学技術研究センター特任助教小泉悠の意見。この人は、ロシアの軍事戦略の視点から、この地域をロシアがどのように考えているのかを説明している部分があって、おおーとうなりました。素晴らしいのでお勧めです。ロシアという大国の戦略を、長く深く追っておいて、それをわかりやすい言葉で平易に網羅的に説明できる喜住さんらしい素晴らしい視点でした。

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あとここではほとんど出てこないけれども、僕はやはり、そもそも問題の根本原因は、パキスタンとしか思えない。パキスタンが、アフガン影響力維持のために「タリバンなど過激派、原理主義の神学校を建てまくっている」のが、結局のところアフガニスタンのユースバルジに火をつけているようにしか思えない。「問題の根本は、パキスタン」だと思う。なのに、パキスタンへの対応がほとん描かれない、表に出ないのも、米国の戦略が不在なのがよくわかる。だって、これってイスラム教におけるユースバルジを利用したパキスタンの隣国へ影響力維持戦略だもの。だから、ビンラディンパキスタンに隠れていたわけでしょうに。


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中田のあっちゃんの動画は、僕は網羅的に全体像を追うのには、素晴らしい導入だといつも思っています。ある意味、歴史を知っている人でないと、この複雑な背景は、まったく意味不明になるので、まずはこういった解説動画をざっと見てから、いろいろ細かいところに入るのは、ありな時事問題の理解の仕方だと思っています。


ちなみに、このドキュメンタリーは、イラク戦争が題材ではないのですが、ブッシュ政権が、なぜ石油に固執したのか、、、そしてその結果どうなったのかは、このあたりのシェールが巣のその後の展開を見ると、世界の動き方のすさまじさに、ため息が出ます。2012年ガス・ヴァン・サント監督『プロミスト・ランド』(Promised Land)がよいです。高橋 和夫さんの『イランvsトランプ』がおすすめ。

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■同時代をまとめなおす物語群

こういう機会なので、いくつかの物語をお勧め。『生きのびるために』( The Breadwinner)2017は、ノラ・トゥーミー監督による、タリバン政権下の少女の物語です。また、このあと、ウサマビンラディンオバマ政権の時代に暗殺するわけですが、それを描いた2012年のキャサリン・ビグロー監督の『ゼロ・ダーク・サーティ』(Zero Dark Thirty)などもおすすめです。

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メリトクラシー(能力主義)による分断を乗り越える次世代の物語を考える~ラノベ的ラブコメ空間から(笑)『その着せ替え人形は恋をする』『かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜』にみるリア充と非リア充の対立後の世界

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さてさて、前回の記事は最近のペトロニウスの思考を凄く言語化できていて、いろいろ思い浮かんでしまったので、メモ的に書いておきます。前回の記事で、言いたかった大きな要点は以下です。いつものごとく、「その2」があるかわからない、「その1」です(笑)。

現代社会(2020年代)は、能力主義メリトクラシー)-----才能によってできる人とできない人の格差が際限なく広がっていくこと、また同時に「才能のあるとんでもなく優秀な人」を基準に社会が制度設計されるために、「普通の人がまともに生きていく方法がない」分断社会になる。


●こうした分断された社会は、1)全体を維持するための公共のプラットフォームを「みんなでメンテナンスする」という意識に欠ける、2)社会統治上の上層部になる上級国民にとっては、自分の努力「のみ」で現在の立場を獲得した自負があると思うため、努力をしない怠惰で怠け者の下層国民に対して激しい憎悪と差別意識を持って臨むため際限なく差別が容赦なく冷酷になる。

このあたりは、まぁメリトクラシー的な議論では、まとめみたいなもので、特に目新しさもないと思います。ちゃんとソースというか議論の正確さを確かめたい人は、以下をどうぞ。

実力も運のうち 能力主義は正義か?

それと、それが展開されている映画というのは、下記のあたりがよいです。ペトロニウスは、2021年現在はアメリカに住んでいますので、特に、2020年のトランプVSバイデンの選挙をめちゃくちゃ追いましたので、このあたりに、アメリカ社会のグローバル化の影響がいろいろ分析してあります。こうしたメモとともに、当時の映画を見ると、だいぶ具体的に「我々が住む超格差社会が具体的にどいうところか?」が伝わると思います。映画や物語を、アドホックな(目の前の)問題意識と関連させながら体感すると、強度が凄く上がって感情移入できます。こういう「文脈読み」や「社会還元論」的な読みには、「作品そのものの面白さやドラマへの共感をともすれば失いやすい」という欠点があるのですが、そういう問題もあるという前提をかみしめてみると、非常に豊かな物語体験ができると僕は思っています。


ここで、アメリカ映画を中心にペトロニウスが持っている「文脈」というのは、「僕らが今住んでいるグローバル化が進んでいくメリトクラシーを軸にした超格差社会で生きること、というのはどういうことか?」というのの、さまざまな場所、文脈での疑似体験です。イギリス、米国、日本、韓国、なので、この場合は、旧西側諸国でかつ新自由主義が極まっている場所ですね。

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ちなみに『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016)、『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』(2018)や『万引き家族』(2018)、『パラサイト 半地下の家族』(2019)、『ノマドランド』(2021)、イ・チャンドン監督の『バーニング 劇場版』(2018)でもなんでもいいのですが、現代社会の問題意識に超格差社会の到来というものがあります。その中で、どれほど悲惨な生活を送るのか、そういった作品が2018年ごろを中心に山ほど噴出しました。

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こうした社会で人々はどのような生活を強いられるのか?、また生きる希望はどこにあるのか?などなど、このラインに沿ってたくさんの傑作映画が生まれています。『万引き家族』、『パラサイト 半地下の家族』、『ノマドランド』や『The Rider』でペトロニウスが追ってきたのは、このグローバル化による超格差社会の到来にいったい何を監督たちが見ているのか?と問えば、明らかに「家族の崩壊」----もっといえば、こうしたかグローバルエコノミーが、個人個人を駒として使用していくため、もともと自然に存在していたはずの「親密圏的共同体」がそれによって崩壊しているさまが問題の提起されています。これは、メリトクラシー能力主義)の処方箋のとしてのコミュニタリアニズム共同体主義)への流れを意識してのものだと思います。

まぁ左翼、リベラリズムの系統の問題意識は、常にこのラインですね。グローバル化-----言い換えれば資本主義の高度化が、人を疎外(アリエネーション)していくことへの抵抗。これが具体的に表現されると、要は「過去の共同体に戻れ的な田園主義」にすぐ回収されてしまう。この田園主義がポルポトスターリニズムの強制労働上等のディストピア超管理社会にしかならないのは、歴史が示している事実です。なので、いつも思うのですが、共同体-----親密圏の典型モデルである家族の崩壊を訴求するのはわかるのですが、かといって、それに代わる代替案がないのが、常です。


あたりのメカニズムと歴史的経緯を知るには、いつも紹介のするのは、『コンテナ物語』とそれの説明をしている岡田斗司夫さんの解説です。残念ながら、後半の有料版ですが、この部分の解説がウルトラ秀逸で------コンテナのイノヴェーションが、グローバル化に貢献して、「なにものでもない僕ら」普通の人々が、普通にがんばって生きていけば食べていけた中産階級が生きれた時代が終わりを迎えていく様を、米国、ベトナム戦争、そして日本で解説していく様は、うぉぉぉぉぉぉそうつながるのかぁ!!!と驚きます。そして、「ここで語られる超優秀な人しかまともに生きていけない」グローバル化が進む高度資本主義の実感がよくわかります。むちゃくちゃおすすめですよ。なぜモノは安くなって、僕らが貧乏になったのか?が、なるほどーと分かります。

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あ、なんか難しくなった。僕の「めりとくらしー(能力主義)」とか使うときには、こういった物語や映画の展開が「頭の中に念頭にあります」ので、ぜひとも、気合がある人は、グローバル化批判、格差社会批判の文脈で、このあたりの作品を見て考えてもらえると、ペトロニウスの問題意識が共有されるのではないかと思います。


さて、こうしたメリトクラシーによる分断社会では、とにもかくにも、イシューが「社会の分断をどうつなぎとめるか?」という問題意識になる。


というような背景のある社会で、僕らの愛する物語はどういう展開を、ソリューションをみせるのであろうか?というのが僕の問題意識。その手掛かりをいろいろな方面で追ってみたいとおもっている。


閑話休題

やっとタイトル関連へ(笑)


■『その着せ替え人形は恋をする』にみるリア充と非リア充の対立後の世界~世界の厳しさをひっくり返すには、分断を埋める絆を作り出さないとだめだぜ

さてさて、めちゃくちゃ議論は矮小化(笑)しているけれども、こうした分断の一形態が、過去の日本のエンタメの文脈、非リア充リア充の対立の大きなバックグラウンドになっていたんではないか?とペトロニウスは思うのです。これって、「社会をうまく生き抜けるであろう陽キャとかコミュニケーション能力の高い人々」に対する嫉妬で構成されているわけですから。要は上級国民と下級国民の嫉妬と軽蔑のいがみ合い。


ちなみに、ライトノベルの議論では、この非リア充リア充の対立というのは、非リア充側が、「リア充の連中も、案外おいしい人生を生きているわけではなくて、その世界にはその世界の中での過酷な競争や苦しみがあるんだ」ということを理解することで、この対立が雲散霧消していく様を見てきました。


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このあたりの議論で、2010年代の輝かしき主軸となる作品である『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』この話は展開してきました。このあたりの具体的な分析に興味がある人は、このあたりのタグを追ってもらえれば、ザクザク書いてあると思います。


この対立が消えた世界がどうなっていくのか?。次のイシューは何がテーマになるのか?と考えていたところ、僕は、この次のステージに展開している物語を、福田晋一さんの『その着せ替え人形は恋をする(そのビスク・ドールは恋をする)』だ考えています。というか、この物語の5巻と6巻で書かれているエピソードは、まさにこの「リア充と非リア充」とか「陽キャ陰キャ」の対立が消えていく過程が描かれています。←おおげさ?(笑)

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『その着せ替え人形は恋をする』では、主人公の五条新菜君は、クラスでなじめないいわゆいる非リア充、オタク(この場合は人形作りね)をしているのですが、重要なのは、彼の不全感が、小さいころに、多分幼馴染であろう女の子から雛人形が好きなことを否定され「気持ち悪い」と言われたことがトラウマになって、自分の好きなことを回りに言えなくなって、引っ込み思案になっているとること。この主人公の動機の問題点。

なので、この世の中の人から「気持ち悪い」といわれることで人間関係が壊れる恐怖というのをどう克服するか?というのが実存上のドラマトゥルギーになるんだけど、この答えが、5-6巻で出ているのね。


それは、「気持ち悪い」と言われたのは誰に?という問いから始まる。


ようは、彼は、自分の好きなものを否定されたことは、「この幼馴染一人」からしかないんですよね。だからといって、その他のすべての人が、「気持ち悪い」というのであろうか?という風には考えられずに、「すべての人がそう思うはずだ」という思い込みにとらわれてコミュニケーションが取れなくなっているんですよね。でも、いくつかのエピソードで、彼は、自分を否定した相手が、「その幼馴染一人」でしかないことに気づくわけです。


なぜ気づくか?というのが、その具体的なエピソードが圧巻かつ具体的。いくつもあるのですが、そのうちの一つをピックアップ。


喜多川海夢(きたがわ まりん)という超リア充のクラスの陽キャカースト上位のメンバー(笑)(←この言い方も手あかにまみれてきたなぁ)の、彼女のコスプレの趣味を手伝うことで、パートナーとなることで、今まで疎遠であったクラスメイト達-----特に超リア充のまりんちゃんのまわりのメンバーと行動するようになることで、彼らのだれもが、そんな差別や、好きなものを否定するような心の腐ったやつがいないことを知っていくわけです。ようは、ちゃんと五条くんが、自分から一歩前に出て、自分を素直に伝える努力をしていれば、そのような劣等感やディスコミュニケーションの分断に悩む必要がなかったんです。


これちょっと話すがずれるんだけど、、僕が好きなマンガの『ボクラノキセキ』の矢沼孝史と手嶋野尚って二人の関係を見ているときにも、思ったんですが、人間って「自分の思い込み」を超えて積極的に「一歩前に出る」というのが凄い難しいんですよね。矢沼くんって、プライド高いけどコミュ力と能力が悪くはないけどいまいちで、自信がなくて空回っている男の子なんですよね。そういう彼からすると、常に自然体で、普通にしていても女の子からの一番人気になるコミュニケーション強者で、しかも実力もある手嶋野って、まぁリア充のようにまぶしい嫉妬の対象なんですよね。別に、手嶋野は、矢沼のことを「特に下にも上にも見ていないで等身大に普通の友達」と思っているけれども、この劣等感と嫉妬が、常に矢沼君に付きまとって、「きょどってしまう反応」をさせるんですね。「きょどった自分」にさらに落ち込んで、とどんどんマイナスが反復される。けれども、実は、手嶋野は、キョどっていること自体も、あまり特に気にしていないんですね。自然体で自身がある人からすると、そういったマイナスのキョドりや反応は、よほど大げさでない限り、流してしまえるものだからなんです。そして、その「流してしまえる自然体」に対して、さらに矢沼は劣等感を感じて、、、、と繰り返されて、決裂していくわけです。でも、この場合、この二人には、「前世の記憶がある」ことなど一緒に行動しなければいけない出来事が多いので、その矢沼の「ちぐはぐ」感が、繰り返されているうちに、矢沼自身が「あ、手嶋野って、本当に気にしていないんだ…気にしているのは自分自身なんだ…」というのが、繰り返される会話の中で、実感されてきて、なんとなく友達になっていくんですね。


ようは、共通の目的でかかわっていくうちに、お互いのディスコミュニケーションの問題点が、解消されていくさまが、最近の作品では本当によく見れるんです。

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えっと、これは非リア充側「から」の「気づき」なんですが、柏木四季(メガネ君)の森田健星(かっこいいけど、ちょっと脳筋バカっぽい)の二人の五条新菜への会話が、この逆バージョンをしめしていて、面白いってうなったんですね。ええと何が言いたいかというとですね、そもそもマンガやラノベ読む層なんて、いいかえれば、僕の自意識って非リア充で、「うまくコミュニケーションできない・自然体の自信が持てない」自意識の人が多かったと思うんですよ(今は実は違くなっているんですが・・・)。だから、非リア充の立場から、「自意識の解放がどのようにすればいいのか?」という物語の主観設定がされることが多かった気がするんですよね。僕の過去のブログの記事もすべて、実は非自明的に、「非リア充のコミュニケーション弱者」が、どうやって自信を持とうとするのか、とか、自らの自然体のなさを克服しているかばかりに焦点が合っています。つたわりますかね?。ようは、コミュニケーション強者、自然体の人、リア充、学園カースト上位の「視点から」、もう少し歩み寄る、自分の至らなさを考えるという視点がないんです。


けど、柏木四季(メガネ君)の森田健星(かっこいいけど、ちょっと脳筋バカっぽい)この二人の五条新菜への会話は、カラオケルームの話も、学園祭の決め事のクラスでの会話も、究極的には五条新菜(自分の自信がない視点)が、自分の思い込みで「周りのすべてが自分を気持ち悪い時つけている)というナルシシズムから気づくという文脈でありながら、いわゆるクラスのリア充イカーストメンバーの柏木くん(メガネ君)が森田くん(脳筋バカ)に、いつも「言い方を間違えて、もめごと起こすことをたしなめる」ことで気づかせる構成になっているんですよね。これって、あきらかに「リア充からの自分たちの至らなさへの自己言及」になっていて、ちゃんと「みんな(いろいろ差がある多様性ある人々)が、仲良く、それぞれが等身大でバランスが保てるように必要な知恵」があるんですね。そして、この会話の感じに、リア充と非リア充、コミュ障とコミュ充、上級国民と下級国民というような「上下の間隔が全くない」雰囲気、空域で物語が、学校空間の感じが進むんです。


これって、めちゃくちゃ新しくねぇ???


って、ペトロニウスは思うんですよ。いやあのね、、、、僕にはティーンエイジャーの息子と娘がいるんですが、彼らの生きている世界や「世界のとらえ方」って、まさに「これ」なんで、多分若い世代-----僕の感覚では2021年時点で20代前半くらいの層までは、すでに「このリベラルが浸透して、さらに、それぞれの違いも許容したうえでバランスを取ろうよ」といった空気感覚がすでに当たり前だとは思います。けれども、少なくとも、ペトロニウス、僕はアラフィフの1970年代生まれの団塊のジュニアのおっさんですが、この世代から「過去の物語の類型の変遷」を見ると、「この」感覚って、物凄く新しい世界に突入していると思うんです。特に、学校空間において、どのような物語が展開してきたかの2000-2010年代20年くらいは、ライトノベルがこの類型の深堀りをして時代をリードしてきたと思うんですが、柏木四季(メガネ君)はこれが「行きついている世界」のにおいを凄く感じるんですよ。この世代にとっては、すでにこの感覚が当たり前なのかもしれないですが、スクールカーストのような「上下感覚による劣等感の克服」がテーマだって、1980年代以降を生きていた僕のような世代からすると、、、、マジか、こんなに違うのか、と物凄く驚くんです。この「ナルシシズム的自意識の解体」と「日本的学校空間での権力闘争」をテーマとした解釈はたくさん書いてあるのですが、、、、、下記がその典型ですね。


やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。渡航著 (1)スクールカーストの下層で生きることは永遠に閉じ込められる恐怖感〜学校空間は、9年×10倍の時間を生きる - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
https://petronius.hatenablog.com/entry/20130406/p2

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。渡航著 (2) 青い鳥症候群の結論の回避は可能か? 理論上もっとも、救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか? - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
https://petronius.hatenablog.com/entry/20130603/p2

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』8‐9巻 渡航著 自意識の強い人が、日本的学校空間から脱出、サバイバルする時の類型とは? - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
https://petronius.hatenablog.com/entry/20170818/p1


これが、僕が上記で言及している


抑圧されている「自分」を、学校空間の上下の階層がある権力闘争の中でどのように生き抜いていくか?


という主観視点で設定解釈されていて、「リア充の側がどのように世界を見ているのか?」彼ら側の解放が「行きついたときに何が考えられるか?」という視点がほとんどないんです。柏木四季(メガネ君)の森田健星(かっこいいけど、ちょっと脳筋バカっぽい)の会話や行動は、いってみればまりんちゃんたち学園カースト上位のリア充グループ側が、次のステージでどういう振る舞いを前提にしているかを、よく表している気がするんです。



■「非リア充ナルシシズムにとらわれて不自由な自意識に苦しむ自分」をどのように解放するか?→「友達はいらない」「好きなものを探して、それに打ち込め」

えっとね、話は少し迂遠になるんですが、この「非リア充ナルシシズムにとらわれて不自由な自意識に苦しむ自分」をどのように解放するか?という設問に対して、日本の物語類型が出した答えは、「好きなものを探して、それに打ち込め」でした。この履歴の最終地点は、『スーパーカブ』でした。そこでは、「友達すらいらない」。能力も何にも入れない。ただ、中古のカブがあれば、世界は輝く、でした。


スーパーカブ』(2021) トネ・コーケン原作 藤井俊郎監督 そこにもう救われない最後の1%はいない。観た最初の1話でずっと感動して泣いていました。
https://petronius.hatenablog.com/entry/2021/07/02/082518

ゆるキャン△』(2018) 京極義昭監督 原作あfろ どこにいても、独りぼっちであっても、一緒にいるという共時性
https://petronius.hatenablog.com/entry/20180505/p1

宇宙よりも遠い場所』(2018) いしづかあつこ監督  僕らは世界のどこにでも行けるし、そしてどこへ行っても大事なものは変わらない!
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20180415/p1


ここで問われていた課題は、「好きなものがあったら本当に友達は必要か?」でした。この答えは、明確でした。「友達なんか必要ない」でした。けれども、ここでいう友達とは同調圧力の奴隷となる自分を抑圧する他者であった、というのもわかってきました。いいかえれば、「好きなものを持った」それぞれの自立した(=好きなものがある)個人が、「好きなものを通して緩やかにつながる」ことは、実は、自然に発生することで、そうしてできた友達は、十分に「ほんとうの友達」といえるのだ、ということがわかってきました。ちなみに、「ほんとうの友達」という虚構の話はずっととしてきたのですが、これは、「友達という言葉にまとわりつく同調圧力の奴隷」というアンチテーゼで出てきた宗教であって、これは全く解決方法になっていないので、それでは友達はいらない!という結論になってという話はしました。


さて話を戻します。


まりんちゃんたち学園カースト上位のリア充グループ側が、次のステージでどういう振る舞いを前提にしているか?


というのは、この「2020年代の若者の学校空間での前提」を考えるときに、「この流れの文脈」が抑えられていないと、意味が分からなくなるからです。なぜ、『その着せ替え人形は恋をする』という作品が、まりんちゃん(リア充)と五条君(非リア充)の


コスプレという趣味-----好きなものを通しての関係性(この場合はラブコメ


になっているかということを踏まえないと、わからないからです。先ほども言いましたが、「この世界で立場の異なる属性同士が真に友人関係を対等に結ぶためには」、「好きなものを通してしかなされない」という時代の物語類型(日本的エンタメの文脈)の結論があるからです。


強調したいのは、抽象的な頭の上での、学校空間での平等ということはあり得ないんです。だって、それぞれに能力が違うから。頭の良さや、運動のできるできない、容姿の恵まれている恵まれていない、、、、、さまざまな属性能力による「違い」「上下」は常にあるので、抽象的な意味での平等なんてものはあり得ません。抽象的な理念としての平等を考えた途端、そこは「権力を奪い合う地獄のカースト世界に様変わりします」。だって、属性が同じであったら、違うのは「権力を持っているかいないか」だけで判断されるので、権力を奪ったやつの価値になってしまうからです。しかし実際には、属性が違うので、属性同士の種族絶滅戦争になってしまいます。それが、壮絶な学校カーストといじめを生み出していきます。そりゃそうだ。種族絶滅戦争をやっているわけですから。


リア充vs非リア充の対立は、属性が違うことを無理に抽象的に「平等に押し込めた」ことによる、権力を取ったほうが勝ちというゲームルールによる種族絶滅戦争なんです。しかも、このルールは怖くて、「結果の平等を維持するため」、すでに持っているものをプレーンで真っ白にするために、暴力ですべて奪いつくすことからはじまります。差や多様性を認めると、スタート地点が平等にならないからですね。


けどね、ここに属性は違うなどの具体的な多様性は、「多様性そのままに好きなことにコミットする」という具体な目的(好きなこと=趣味)を設定したとたんに、物事は全く変わります。伝わっているでしょうか?。まりんちゃんが、属性の違う五条君に声をかけた理由を覚えているでしょうか?。そう、彼女は「コスプレを着れる美しい容姿」は持っているのですが、「衣装を作る能力は持っていない」です。また「趣味の題材のエロゲーやマンガは、自分の属するメンバーで共有できる人がいないん」ですよ。だから、「自分の持っていないものを持っている」五条君に声をかけるんですね。そこからラブコメが始まったわけですが。


そう、ここでまりんちゃんたち学園カースト上位のリア充グループ側が、次のステージでどういう振る舞いを前提にしているか?


という設定に戻ると、すでに彼らは「自分たちの属性だけが「上」にあって「下」よりも上位にあるという「階層感覚」がなくてリベラルな-----水平な世界観を持っているんですね。しかし、これは「抽象的な平等」ではないんです。ポリティカルコレクトネス的な「理念としての白く漂白された抽象的な平等」じゃなくて、「それぞれの属性にはいろんな能力や価値があるという多様性を前提」にしているんですね。しかしながら「異なる属性の能力や動機」が意味を持つには、「異なる目的と具体性(=この場合、好きなこと趣味)」がないとだめなんです。この具体性に対する執念というか前提がないと、「漂白された平等の中での多様性」を考えると、すぐ権力闘争で殺しあって上下関係に落ち着くものしか出てこないんですよ。


だから、僕は、この学園祭の話は、ぐっと来たんです。柏木くん(メガネ君)が森田くん(脳筋バカ)に、いつも「言い方を間違えて、もめごと起こすことをたしなめる」形式になっているのは、この二人の友人関係が、「こういったもめ事をたぶんもっと小さな子供のころから繰り返して」経験して、「そこ」に落ち着いているのが、ありありとわかるからです。そして、森田くん(脳筋バカ)が、ちょっといっただけの社会科見学の「人形づくり」に対して、めちゃくちゃ大絶賛-----言い換えれば、強いリスペクトを示していることが、彼らがとても水平な世界観の中で生きているのがよくわかるんです。このあたりが実験されていて、おおと思うのが『八城くんのおひとり様講座』でした。ようは、このリスペクトというのは、容易に違う世界の人が、あまり話し合えないディスコミュニケーションの世界になるからです。お互いにかかわりあわないディストピアを描いたはずのこの作品が、なんかすごい素敵で理想的な世界に見えるの(笑)のは、それは多様性のリスペクトが前提になった世界では、物凄く関係性がフラットだからだとおもうんですよ。この方向がポジティブに向かうと、とても素敵な世界なんだと思います。読んでみてください、ラノベとしての出来も、特に後半が素晴らしい!ですが、前半の「ディズコミュニケーションになって学校空間」に、互いの多様性に対するリスペクトがあった場合、こんなにも優しい世界になるんです。

八城くんのおひとり様講座 (オーバーラップ文庫)

そして、戻るとそれは、「衣装が作れる」という異なる属性への「偏見なしの尊敬」になるんです。ここで重要なのは「偏見なしの」というポイントです。通常はね、「偏見なし」ってのは、無理なんです。「漂白された平等の多様性の中」では、みんな「なにものでもない真っ白な自分」におびえて生きているので、とにかく権力闘争で上に立とうと競合します。わかりやすいのが、容姿、金、学歴、家柄です。けど、それって、他者からの承認欲求なので、物凄く不安定です。けれども、具体的な「好きなもの具象性にコミットしている自我」というのはとても安定しているんです。そして、社会が豊かで多様性にあふれてくると、「相手の好きなものに対して一定の尊敬を示す振る舞い」というのは、子供のころからの常識になっていくんだと思うんですよ。


これは、少なくとも、僕らの世代までにはなかったです。だって、団塊のジュニアくらいまでの世代には、「いい大学に行って、いい会社に入って」みたいな、立身出世的な「三角形のピラミッドの頂点の階層に駆け上る動機が価値ありとされる」世界観に生きていたわけですから。けれども、平和が長く続き、自由主義的で、それなりに社会が安定している空間で長く生きていると、「権力闘争=上下意識」ではなくて、「好きなもの(=属性いろいろあって多様)へのコミットの深さ高さを称揚する=水平意識」が価値を持つようになってきている気がします。そういう意味では、僕は、日本社会は、素晴らしくいい社会になっていると、断言できます。自分の子供見てて、そう思うもの。たぶん、アメリカも。こういう価値観が出てくるのは、「社会が極端に成長したりも、壊れたりもしない、水平の、多分少し斜陽の状態」のほうが、安定するんだと思うんです。


ちなみに、こういった水平意識が、平等だとか良いものだとか勘違いしちゃいけません。なぜならば、ここには、当然、「好きなものを見つけられるのか?」とか「それをどこまでやれるのか?」という深さ高さへのコミットの競争や差が出てくるからです。これは、多分、今後問題になるはずです。まぁ『スーパーカブ』の物語で、この方向への答えもすでに出ているんですけどね。なにもなくても、OK!というのが。



■『かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜』にみる空気の支配権をかけた権力闘争から、皆が幸せになるために抗う一致団結へ


かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~ 12 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)


かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜』について書くのは力尽きたんだけど、タイトル詐欺にならないように、ちょっと追加(笑)。えっとね、石上優くんと子安つばめ先輩の話が、この「リア充の側からの世界の見え方」が如実に表れていると思っているんだよね。というか、具体的に行く前に、すでにかぐや様の物語世界って、すでに「リア充VS非リア充」の典型的なドラマトゥルギーが、ことごとく破壊されながら進んでいるんだよね。作者の天才に唸るんだよねー。この人エンターテイメントのパターンからスタートするので、その差がわかりにくいけど、どんどん通常のドラマトゥルギーの殻をぶってて、いつもめちゃくちゃ感動する。素晴らしい物語。こんな一発逆の設定でのラブコメからはじまって、これほど多様に具体的に展開した群像劇になるとは予想できなかった。素晴らしい作家さんです。何より、面白い!。


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これ読んでて、新世代ーーーという感じが凄いする。細かい話は、ほかに譲ろう。ここでは、子安つばめ先輩が-----言い換えれば典型的なハイカーストのリア充の視点から見た世界が、描かれている。この辺の評価で、大仏(おさらぎ)さんの話も描かれているんだけど、「美人な女の子」で「コミュニケーションが下手だったら」それだけで人生つむって、身もふたもないリアリティ(これ実際ほんとだと思う)が描かれまくってて、これってルッキズムの勝者が、実はどれだけ生きにくいかってことを、これでもかって表している。この時点で、さすがだなーって、うなるんだけど、、、、


石上優くんの話って、典型的な非リア充というか、陰キャの文系系のコミュニケーションがだいぶあれな男の子が至る道を、描いているんだよね。ちょっとしたことで、いじめに発展して、孤立して、一人孤独に生きている。その「ちょっとした理由」が、自分が好きだった?(自分に対して攻撃的で否定的でしかなかった)女の子を守るためとかいうめちゃ泣けるドラマなんだけど、まぁ理由はどうあれ、彼は、クラスのカーストの最下層で、「噂の空気」に支配されて、学校空間の生き地獄を生きていました。それから、人生は楽しいよ、友達ができるよ、というドラマトゥルギーの展開は、僕が上で指摘した、

「非リア充ナルシシズムにとらわれて不自由な自意識に苦しむ自分」をどのように解放するか?

なんですよね。この石上優君の物語は、これはこれで切ないほどいい話なのですが、いってみれば、「今までの想定範囲内」なんですよ。もちろんこの話は、スクールカースト下位の人が、上位に下克上、成り上がっていくサクセスストーリーとして組まなければエンタメになりません。これはエンタメ的縛りです。であれば、

抑圧されている「自分」を、学校空間の上下の階層がある権力闘争の中でどのように生き抜いていくか?

という権力闘争でどう下克上をするかって話になるんですが・・・・・これが、石上君の視点だけではなくて、子安つばめ先輩の視点で描かれているところに、僕はしびれるほど感動したんですよね。えっとですね、彼女が石上君に「何か返せるもの」を考えたときに、「学園の噂+空気をコントロールすること」を選択し、実行するんですよね。これって、今までのドラマ、物語類型では、「空気による支配」というのは、陰キャや非リア充を抑圧する「世間という地獄」という日本的学校空間の陰惨さ-----そしてなによりも、リア充側が特権的に持っている既得権益の武器として表現されてきたんですよね。なぜならば空気は、学園上位カーストリア充のコントロールするものでしかなかったからです。非リア充からすれば。でもここでは、


子安つばめ先輩ら学園ハイカーストのリア充集団だって、それは実はコントロールするのは容易ではない


ことが描かれています。


そして、この「空気を変えてしまおうという壮大な権力の行使」が、「石上君が、だれにも伝えることなく積み上げてきた人への正しさと優しの積み重ねに感化された人がいるからこそ」なしえるという構造になっているんですよね。えっとわかりますかねぇ、、、、


リア充リア充の両方の協力がなければ、空気による権力(学校空間の地獄)は変えられない


っていっているんですよ。そして、リア充のハイカーストのかぐやや子安先輩の心を動かしからこそ、こういうことが起きている。


僕は「日本的学校空間の地獄」と呼びますが、このテーマで重要なのは、「空気の支配をかけた権力闘争」なんです。日本社会は、日本の集団は、つねに、「空気の支配」をコントロールする権力闘争をしていて、「お互いを殺しあっている絶滅戦争をしている派閥争い」なんです。このあたりがめちゃうまいのは、ココロコネクト。物凄い好きです。


petronius.hatenablog.com



かぐやさまに戻って、ここでいわれているのは、「種族が違うリア充と非リア充」とか「本来ならば種族が違うハイカースト(陽キャ)とローカースト陰キャ)」が、お互いの種族を超えて、協力し合うと、プラスの方向へ空気を変えることだって、十分にあるんだぜ!!!!ってことが描かれているんです。


ぜえぜぜ、、、、今仕事忙しくてこれ以上かけないので、今んとここはこの辺の言及で止めておきます。



■「漂白された平等フィールドでの種族絶滅戦争」ので生きるとはどういことか?


その2(←ほんとか?)へ行く前に、とはいえでも、平等には常に「漂白された平等フィールドでの種族絶滅戦争」の危険性があふれています。ディスコミュニケーションが極まった、世界では、とにかく「分かり合おうという話し合いすら、もしくはそういう異なる種族がいるということすら知らされていない」という陰に種族同士の殺し合いがビルトインされている超陰惨なディストピア社会が、常に内包されていることになります。この光の方向を描くのか、それとも影の方向を描くのか?は、同じものの二側面だと思います。それが、めちゃめちゃ端的に、うわー出てるなーと感じたのが、下の作品です。物凄く後味悪いので、ぜひとも読んでみてください。これが僕が言う種族絶滅戦争的な世界観におけるディスコミュニケーションの具体的な在り方の一つです。僕は、この文脈でこの作品を読みました。もちろん、それに限らないんですが、とにかくしんどい話です。


山田夢太郎、外へ行く - 畠山達也/修行コウタ | 少年ジャンプ+
shonenjumpplus.com



読んだら、思うでしょ、陰惨すぎるって。。。これ、まだまだ違う形で、壁の外と内があるのだなぁと思いました。壁の外に出たら、種族殲滅戦争をしている弱肉強食の世界だったってこと。ちなみに、これは僕らが住むメリトクラシーによって分裂しつつある現代社会での一側面でもある、と思う。



最近のペトロニウスの考えていることでした。ちなみに、2021/9/19の日曜日に月例のアズキアライアカデミアやるときに、この話話すと思います。