5:サンフランシスコ・チャイニーズ・チャイナタウン
チャプスイ・chop sueyは、広東省の小さな村の人々が移民してきて、それをアメリカナイズしたもの。これを、本格的な中華料理に変えてきたレストランや人々を紹介する。移民の第一世代は、チャプスイを作るしかなかったり、本格的な中華を紹介しなければならなかったり、、、それを、二世、三世は、誇りを持って新しいものを再定義しようとしている。2-3世代は、、、背景がたくさんある若者は20代で、アイデンティティに向き合い始まる、そのときに、彼は、中国の野菜をアメリカの土壌で作る仕事を始めた、そうすると、中国系アメリカ人のコミュニティに深く関わるようになって、自分が何者か悩まなくなった。中国人ほど中国人らしくないし、アメリカ人というほどアメリカ人らしくない、自分は何者だろうって。そのとき、この仕事につけて幸せだ、と。中華料理ではあまりトマトを使わないが、中国系アメリカ料理では、よく使う。そのあとは、シリコンバレーで、中国から来たらあまりにご飯がまずいので、自分で美味しい店を紹介するサイトを立ち上げた。めちゃくちゃわかる話だ。
6:ロサンゼルス・ペルジアン料理
ロスなので韓国料理かと思ったけど、ペルシャ料理(イラニアン料理)できた。イラン系のコメディアン、マズ・ジョブラニと一緒に。
僕もロサンゼルスに住んでいたので、1970年代のイラン系が、たくさん移民しているのを知っています。周りに裕福なイラン系がとても多かった。1979年にイスラム革命が発生。それで、たくさんお裕福な人々が、アメリカに移民したり、亡命したりした。移民は、すべて差別の歴史を抱えている。これまでのエピソードは全てそれを示している。
ウェストウッドのイラン料理店に向かう。
まずなんといっても、クビデ・ケバブから。クビデ、の意味は、手で叩くこと。ロサンゼルスに住んでいるときは、色々、イラン料理店に行きました。
次は、料理本のナズ・デェヴァニアン(Naz Deravian)。
ペルシャ料理のターディグ(おこげ)。
detective-gohan.hatenablog.com
学校にランチボックスを持っていって、開けるときには、いつも恐怖だった。という、イラン人のシェフの話が出てくる。彼女は、お弁当を開けると匂うコリアンダーの匂いとかが嫌だったと。うちの子供たちも、おにぎりを持っていくとみんなに見られるといっていました。そもそも、色が黒いものを食べるってのが、信じられないらしく(笑)、なんか黒いもの食べてる!って驚かれるらしい。
ネイティヴアメリカンは、健康的な食べ物にアクセスするが難しい。だから、伝統的な料理をもっと深っつして、アクセスしやすいようにしたい。18000年代に作られた、リザベーション(居留地)システムに遡る。揚げパンがナバホの伝統料理だと思っているアメリカ人は多いけど、歴史はたった100年ほど。ナバホのロングウォーク、強制移住で、砂漠の土地に来て、野菜やさまざまな食べ物が手に入れられなくなった彼らに小麦粉を渡して揚げパンが作られるようになった。小麦粉などの税料は、インディジョネスのものではなくて、「強制された食べ物」だった。だから肥満がアメリカの平均よりは、はるかに高い。
ニューメキシコの北部の治療師のクランデラ。伝統食を通して人々のつながりを取り戻す仕事をしている人のところへ。
8:パターソン市・ニュージャージー州・ペルビアン料理
1970-80年にペルーの移民が急増。ペルーで革命の暴力が吹き荒れたから。政府とテロのゲリラ組織の攻防で、住むのが苦しくなり、たくさんの移民が生まれた。どのように、住んだこともない未体験の文化を、米国生まれの人々をは受け継いでいくのだろうか。
ペルー・スクエア。コミュニティがある。アヒ(唐辛子)・チリなど、ペルー料理関連の様々なものがここで手に入る。移民してきた第一世代は、そこでペルー料理を作る材料を手に入れ、子供たちに食べさせた。コリアンダー入りのアロス・コン・ポヨ、パパ・ア・ラ・ワンカイナなど、ペルー料理で育った。エリックは、高級フレンチなどの店で働きながら、素朴なペルーの家庭料理の味を再現したくなった。そして、ラマ・インというペルー料理の店を開く。セビーチェ、生魚、玉ねぎ、にんにく、コリアンダー、アヒ・リモ、ライム果汁のマリネ。国民食。スペインと、アフリカと、インディジョネス(原住民)の伝統の組み合わせに、さらにそれをベースに日系や中国系のセビーチェが生まれた。
僕が好きなのは、ceviche(セビーチェ)。
Lomo Saltado(ロモ・サルタード(牛肉と野菜の醤油炒め))。中華風の味付けがベース。異文化のフュージョン(融合)。
Tamales(タマレス)。トウモロコシ粉の生地「マサ」をラードで丸め、中に味付けしたチキンなどの具を入れ、トウモロコシの皮で包んで蒸した料理。ペルー移民の第一世代で、自分はペルー人と言い切り、その伝統を守ることを、踊りと料理を子どもたちに伝える努力をしている。子供立ち、移民第二世代は、第一世代を尊敬しており、、、本来は大学の学位を持ったいたり、レストランのシェフをできるほど料理の腕前があっても、掃除婦などの下積みから始めない親の苦労をよくみているからだ。そして、大学を出た第二世代の人々は、アメリカ人として溶け込み成功しても、自分の故郷の味やコミュニティーに貢献すべく帰ってくる。そうして、移民の文化はアメリカと融合し、アメリカに大きな貢献をしていく。
9:アリゾナ州・ラスベガス、タイ料理
1960年代に、タイ移民がラスベガスに来た。まったく、誰もタイ料理など知らなかった。どうやって、このようにゼロから広がったんだろうか?。今は、アメリカのどこでも、タイ料理を食べることができる。
パッタイ(phat thai)は、アメリカで最もポピュラーなタイ料理。タイにおいても国民食。でも、1930年代に生まれた比較的新しいタイ料理。パッは、炒めるという意味。タイの炒め物で、ライスヌードルを炒めた料理。甘い。
パドマも移民なので、移民の若者たちが、米国でどのような思いを抱えているのかを、シンパシーと共に話すことができる。
ベトナム戦争でタイで休暇を与えられたアメリカの軍人が、結婚して移民してくるケースが多かった。ここで紹介される女性たちも、それでアメリカに来た。元々、米軍のタイの空軍基地の食堂で働いていた。そしてラスベガスに、全くゼロから始めて、全米最大のタイコミュニティができるまでになった。
ソムタム(Som Tum)。タイの東北地方(イサーン地方)の郷土料理で、青パパイヤをたたいて潰して作るサラダです。イサーンの方言で「ソム」は酸っぱい、「タム」は叩くという意味。
米国で大成功したレストランのオーナーの女性は、タイには何もない、とアメリカに来たがった。裕福な家でもないし、何もない。だから、母親にせがんで、米兵と結婚して!といって(笑)、ほんとにお母さんが米兵と結婚(笑)。そしてミルウォーキーでレストランを出す。35年前のアメリカは、誰もタイ料理をしらない。そこから、少しでも本物のタイ料理を伝えたくてレストランを経営してきた。
https://www.lotusofsiamlv.com/
カオソーイ(Khao Soi)。タイ北部のチェンマイ地方を代表するカレーラーメンで、クリーミーなココナッツ風味の麺料理です。タイ語で「カオ」は米、「ソーイ」は「細く伸ばす」という意味。
ラスベガスの有名なタイレストラン 『LOTUS OF SIAM』のシェフSAIPIN CHUTIMA(サイピン・チュウチィマ)は、「米国の料理界のアカデミー賞」と言われるジェームズ・ビアード賞を2011年に受賞。米国最高のタイ料理レストランと言われている。1999年に、ロータス・オブ・サイアムをラスベガスで開店。「なぜアメリカの人に、本物のタイ料理を食べさせたかったの?なぜ諦めなかった?」とパドマ。最初は全然流行らなくて、アメリカっぽい油っぽいものばかり客から要求された。でも、「パッタイだけがタイ料理じゃない」と自分を信じた。
9:ハワイ周ホノルル・日本料理
ハワイ料理のポケにも日本食の影響がある。新鮮な魚を確保するために、築地市場をモデルに市場が作られている
ガイ・タマシロ
ポケとは、ぶつ切りという意味。
クリス・カジオカ
祖父は、砂糖(シュガーケーン)農園で働いていた移民。1868年に148人の日本人が移民してきた。1941年に日本が、ハワイを攻撃。4年、日系人は収容所に入れられた。本土に比べると、ハワイは、そこまで収容所に入れられず、その代わりにたくさんの若者が陸軍に志願した。そして米国に同化する努力したので、たくさんのファミリーヒストリーが失われた。しかし、クリスのように、食事から、自分ルーツを見直そうとする人が今では出てきて、誇りを取り戻している。
ケイジ・ナカジマ(寿司職人)
2016年にホノルルに来た。東京で修行していたが、江戸前寿司をハワイで再現した。技巧は日本で、魚はハワイのもの。日本でも食べれない、特別なものが創り出せる。日本の伝統を尊敬し、そしてハワイの若者に伝え、ハワイ産のものを使用して、新しいものを作り出す。
ランディ・コサキとキミ・ワーナー。兄妹。
マグロが乱獲されすぎて、州外からの輸入に頼っている。しかし、漁と環境保全は、相反するものではない。
・・・ここれを思い出した。キングス・ハワイアン。ここのパン、また食べたいなー。日本であるんだっけ。
マーク・ノグチ。パドマは、最後にポケ丼を作る。