『ラストエグザイル ]銀翼のファム』 18-20話 千明孝一監督 GONZO原作 丁寧な人格の積み上げがないと、受け手はマクロを理解できないよ

『ラストエグザイル-銀翼のファム-』 DVD No.01 【初回限定生産版:村田蓮爾設定画集(ファム/ジゼル)/プレミアムDVD付き】

評価:★★★3つ
(僕的主観:★★★3つマイナスα)

見る意欲はかなり減退しているんだけれど、せっかく見たので感想を引き続き。ワンクールに1−2作品ぐらいは、何とか追ってみたいなーとは思うんだけれども。同時代性の記憶がないと、ジャンルそのものに興味がなくなってしまうからさー。ルイさんとLDさんの語りがいつも素晴らしいのは、僕のように外からぱっと見えるところを、自分のフレームで評価するというやり方ではなくて、地道に功夫を積むように、いろいろな物語をジャンルの中ならばまったくレベルを問わずに、『楽しむ』ことを繰り返しているからなんだよね。このジャンルで戯れ楽しむには、それなりに功夫を妻にゃーなーと思いつつ、時間がないと言い訳に逃げているペトロニウスです。


さて、念的に絶対に成り立たない和平が、成り立つのは、もっとうまく演出しないと、信じがたい、、、。18話を見ていて、あまりに嘘くささに苦笑してしまう。物語的には、いったんここで和平がなって、悲劇があって、そして最後へなだれ込むという上からの視点で考えると演出の流れ的にはわかるんだよ。でも、見ていて納得性や自然さが全然ない。だって、ここで和平ができるくらいなら、何で今まで殺しあっていたの?って思いませんか?。それに、自国を滅ぼされたり、国民を皆殺しにされている侵略をうけた民族の生き残りが兵士の中核を占めているヴァサント側、トゥラン側の脳が和平をでき折る可能性なんて、まったくないと思わないのかな?。だって、怨恨なんだか。それを超えるような圧倒的な理念もなければ理由もないただの集まりの集団なんだから、、、、。ここで和平を言われると。???ってなる。根本の構造は、ネオリベラリズムをベースする地球統合の意思、それに対して、人道的に反発した個々の民族や共同体、ネイションステイツの争いは、永遠の殺し合いに発展するだけだ。その構造で戦争まで発生させていて、和平がなることがおかしい。だって、どこで妥協案をまとめるのか?といっても、やりようがないんだもん。ましてや、トゥランなど、そもそも滅ぼされた国食いにの外交をつかさどる官僚群を消失しているんじゃないかな?それでは、どうやって今後の土地や権利関係、武力の比率などを詰めるyか?ってもうできないじゃん。殺し殺されなきゃ終わらないんだよ、この構造は。

とはいえ、ルスキニア総督とリリアーナの物語は、非常に類型的で、いいドラマトゥルギーなんだよね。世界のゆがみを一身に背負うつもりの純粋なルスキニアという青年に恋をした女の子の物語、としてはさ。けど、、、それの演出が全然尺的に足りない。もしくは、人格が全然説明されていないし、エピソードも積み上げがないので、彼女が、どうして、そういう風に魔女になる覚悟を持つに至ったか?という心理的な納得の積み上げがない。これ、見ていて、普通になっとく来ます?。抽象的に考えると、ああ、そうだろうなーーーとか、リリアーナって結局、ルスキニアがすきだtぅたんじゃない?とか、類推して保管することは可能だけれども、あまりに描写がなさすぎるので、感情移入が入りにくいんだよ。物凄いちぐはぐな印象を受けてしまう。GONZOの演出は、どれをとっても、見事なくらいにキャラクターの個々人の人格の描写、積み上げ、同期の構造がものすごくレベルが低い。個々のエピソード間のつながりの演出が最低。けれども、全体の背景となる構造はかなり明確でしっかりしているので、それくらい演出のレベルが低くても、必ず平均点に着地する。不思議な制作集団だ。

その事実、マクロのリソースの不足という背景構造を知った時、どうするか?という話を、姉妹に仮託して、もともと反対派の中心人物が、その事実と権力を持ったときどうするか?とか、そういう設定の妙は見事だと思うんだよなー。いろいろうまいんだけどなー。なんというか、この姉妹の葛藤を持たせる設定は、見事だと思うんだよなー。これを丁寧に書けば、それだけで、すごく面白くなると思うんだよ。ところが、積み上げがない、つまりほとんど断片の演出しかなくて???って感じではあるけれども、ちょっと想像するだけで豊かなイメージが来るのは、設定が凄くいいからなんだろうと思う。類型としては、とってもシンプルだし。なのに、なんで、こう???って感じてしまうのかなー。この場合は、リリアーナの心理的な積み上げが全くないから、彼女が「魔女になる覚悟」といっても、は?って感じてしまうのだ。感情的に。理性で考えると、言っていることはよくわかるんだが。それと、上にも書いたけど、人間は、理性だけでは生きていない。本当のリリアーナは、王族の誇りと責務よりも、ルスキニアに惚れてた女としての自分を選んだ(僕はそう見える)というほうが、よっぽどわかる。けど、そういう描写は皆無なので、そんなやつに覚悟とか言われても、、、と思ってしまう。


みていて、ふと思うのは、これって地球資源の有限性をベースにした1980年代くらいのと思う。古い価値観の世界のビジョンだな、と思う。というのは、地球資源の有限性の奪い合いの話をしているからだ。けど、本当にそうか?ってのは、いろいろ見え始めている。そういう時代から完全に外れているところからも、同時代性の共感を得にくい設定になっていると思う。むしろ僕は今こそ宇宙開発の時代になっているし、そうでないなら精神内奥の世界の閉じるのが90−10年代の世界観のパラダイムであって、80年代は、今更、、、と思うのだよ。ちなみに、この類型は、ルスキニアが世界を平和にもたらした後、統合したレジスタンスに殺されるという構造がなければ、、、、つまり、ルルーシュとかアマテラスの類型でしかあり得ないんだよなー。そこまで考えていないところが、、、だめなんだ、、、。もしくは考えていても「そこ」へシンプルに持っていく演出の潔さがないところがダメなんだ。

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SFの物語を書くときは、同時代性の累計やパターンがどこまで行っているか?という勉強というか真摯な問いかけがないと、気の抜けたサイダーみたいな作品になってしまう。いやそういうのはいいんだ、と居直る方法もあるけれども、ならば、次に必要なのは古典的でもあたりまでもいいから、脚本を絞ることと、登場人物の心理的な積み重ねを視聴者に丁寧に演出することだ。GONZOの作品って、同時代の類型を全部見通している頭の良さは感じるのに、その癖にチャレンジがなくて、「当たり前の売れるもの」に堕落してしまう。そして、「当たり前の売れるもの」を目指すと商品は、大体において、つまらない平均点にしかならないケースが多い。まぁ、平均点でいいんだ、という考え方も、商業的にはあるだろうが、、、、それでは現場のモチヴェーションも保てないし、視聴者だって、つねにそこそこの評価(=売上)しか与えないと思うんだ。地球の有限性から、リソースの奪い合いの話になり、民族自決主義とネオリベラリズム的な武力による統合(=永遠の平和の志向)ってのは、90年代にはすでに同時代の政治状況からの常識になっており、これをアニメのような話数の少ないもので描こうとすると、どうしても、コードギアスルルーシュ皇帝のような構造をとらざるを得ない。『風雲児たち』などの大河ドラマにすると、たぶんアニメの尺では収まりきれないし、群像劇でないとこの複雑な政治状況による3つどもえ以上の政治体制という力学を描ききれないし、視聴者がそれを理解して感情的カタルシスに達するのが不可能になるからだ。というような、ぎりぎりの、。「この先に何があるか?」という真摯な問いかけというかリスクを冒す感じが、GONZOの作品には、いつもない。世界観の設定とか背景になるもの積み上げとかが非常にレベルが高いので、いつも超残念な気持ちになる。具体的にイメージしているのは、たとえば大傑作の『不思議の海のナディア』とかを、庵野監督は、あれは失敗作みたいなことを言っているじゃないですか?。あれって、岡田斗司夫さんも書いているけれども、世界征服の「悪」というものがしょぼくしか書けないという、善悪の基準がわからなくなった時代で、世界を征服する意味は何か?とか、そういうマクロの問いをよく考えると、ああー構造に限界があるなーというのが、時代背景的にわかるんですよ。

「世界征服」は可能か? (ちくまプリマー新書)

それに対して、見事なくらい古典的な王道の演出で、物凄い大傑作になっているんだけれども、それでも、『不思議の海のナディア』は失敗と言い切ってしまう、同時代文脈に対するセンシティヴさが、結局、そういう世の中の主人公に選ばれるということがそんなにいことか?、とか本気で戦う集団に必ずしも「僕は乗ります!」という風にコミットするものか?、もともと破壊的な人間関係はどこまで行っても破壊的でどうにもならないんじゃないか?などの、90年だ特有のテーマに結実していき、時代を象徴するような『新世紀エヴァンゲリオン』のような稀有な傑作が生まれるわけですよ。ものづくりに携わるからには、いつもこんなのばっかり狙う必要はなくとも、、、と思うんですよねー。というか、過去の作品から全然改善が見られないんだよなぁ、、、。まぁ、改善しないということは、あれでいいということなんだろうけどなぁ、、、。どういう観点でみるかによって、良し悪しは変わるしねー。でも僕は、せっかくここまで設定があるなら、、、と思うんだよなー。監督とかの違いは、僕はよくわからないんだけど、GONZONのクレジットがあると、いつもこういう、何でかなーという平均点に収束するんだよなぁ、、、。


閑話休題


さて19話です。ここは、和平が壊れて行くところの方が、非常にわかりやすい。これは、自然だからだ、起きていることが。だから普通に演出すると、とてもよくなる。18がものすごい違和感があったのに、こっちがいいと思うのは、これが自然なことだから。この世界の資源の有限性による内ゲバの殺し合いの継続、それに対するネオリベラリズム的な武力による侵攻、統合。それに対する民族自決概念による徹底的な反抗。うん、殺しあっているのが普通な、世界背景だよ。このへんが、悪くないなーとお思いつつも、この作品ダメだなーと思うところだなー。18話の演出のすごい違和感の後に、こういうのが来ると、まぁ悪くはないんだけれども、その分18話の演出のおかしさが目立ってしまう。


閑話休題


このじいさん元帥が凄い叡智に溢れていていい男だなー。こういう長老的な人っていいなー。



ヴァサント将軍って、凄いいい女だったんだけどな、、、。髪が解けたのって、凄い美人でおしかったなー。でも、ものが見えないままで死んでしまったふうにしかみえないのが、、悲しい。あれだけの人物が、世界の厳しさ、、、マクロおリソース不足に対する試作、理解がないとは思えないんだよ、本当は。もっと、民族主義とかに狂っている描写があれば、それでよかったのだが、妙に頭はいいんだよ、、、、。すぐ、わかりやすい物語の先を書いてしまう、、、のわりには、エンターテイメントに逃げようとするので、平均点しか作れなくなってしまう野だろうと思う。もっと、バカになって脚本を作らないと、叡智あふれる上層部を描いてしまうと、こんなにバカなことないだろう?って思ってしまう。もしくは、それでも、わかってても許せない!!!という感情的な積み上げを作らないと、おかしいのだ。

20話。


まぁ、、、この類型でしかしかないんだけどさ、、、。でも、この大戦争で、メインの軍隊の過半が消失すれば、たしかに世界は戦争に疲れて、かつレジスタンスもしにくくて、、、となるんだよな、、、とか、、、。うーん、構造的には、すべてのコマがそろっているし、なるようなっているんだけど、、、。

けど、この演出では、この背景がわかっている人は、ほとんどいないないんじゃないかな?といいうか、、、、といういい方はよくないか、、、わかっても、なんか、物語として明示的でないので、だから?って言うもので終わってしまいそう。・・・・うーん、、、、。この場合、レジスタンス軍のシンボルとして、トゥランの王がなるわけなんだけど、、、その積み上げが少ないだよな、、、、それに、圧倒的な軍事力であるエグザイルに対する、現行戦力での戦術的突破方法が、なにも示されていない状態だと、なんで、特攻できるのかが、まったくわからない、、、。

もっとわかりやすく、何がダメなのかをうまく説明できないものかな?。SF的作品で、現代的視点を入れると、妙に賢くなって、物語が駆動しなくなるんだよな。これってSF作品を描くときに必ず起きる問題点の気がするから、もう少しわかりやすく説明できないものか、、、と考えてみる。。。

まぁなんといっても、次で最終回とすると、ファムっていう主人公の存在意義が全くなかったことと、彼女のグランレースをしたい!という物凄く素晴らしい主題(テーマ)の積み上げもカタルシスも全くない傍観者だったということが問題。だって、彼女タイトルの名前にある主人公なのにだよ!!。何で主人公を置いてきぼりにするのかが、よくわからないです。