だんまち 5話〜6話  自己実現を求める内面の煩悶と、さわやかな成長の物語きれいに重なると、こんなにもさわやかに嫌みのないものになるんだな

井口裕香 /「Hey World」<アニメ盤> CD+DVD (2枚組) TVアニメ「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」オープニングテーマ

届かない憧れに出会うことによって、上へ向かおうとする動機を調達するシナリオを、まず最初に持ってくるのは、基本中の基本中だよね。やっぱり成長の物語、ビルドゥングスロマンというのは、最初に「どこへ向かうか」ということをびしっと、決めると、物語に強烈なしまりが出るというか、読んでいてブレがなくていい。『僕のヒーローアカデミア』もストレートに最初に、力がない段階で、それが不可能であるにもかかわらず、ほしい!と望むところから物語が始まっている。それは、契約・再契約の基本構造で、自分に力がない状態でほしがったことだからこそ、とても純粋性があることになる。それに、力がない時だからこそ、ほんものだということがいえる。だんまちは、この基本形を非常に忠実に守っている。ヒロインも、追い求めるヒロインとしてのヴァレンタインと、ヘスティアさんは、これってまさにお母さんだよね(笑)、というか形でわかれているところとか、非常に構造的。ヘスティアさんかわいーーーけど、、、これってお母さん的ポジションなので、彼女への気持ちと、ヴァレンタインに本当に近づけたときに、その気持ちの在り方をまとめるかは、興味深いなぁ。


。。。。久しぶりにこうしてコツコツ、分析できているなー。


魔導書の中に引き込まれて、後天系の魔法を、自己実現と言い切って、憧れの英雄を目指すことを再確認させて、「それが僕だ」といい切らせるところなんか、本当に演出が効いている。これって、長い、、、、かなり昔、もうかなり昔なんだなーエヴァンゲリオンの電車の中に引き込まれて自己を自問自答するない憧憬の演出なんかが典型的だったんだけれども、あれって、答えが出ないことを延々と問いかけ続ける、自己空転の演出に当時はなったものなんだけれども、同じ演出を、あさっり数分で終わらせて、1話はしぐらいで、シナリオの演出を完結させるなんて、本当に現代のアニメーションは、シナリオ演出のレベルが上がっているんだなー。感心する。もちろん、アニメーションだけではなく、小説も読んだんだけれども、ライトノベル自体の演出が見事なんだと思う。このシーンあったしね。そう思うと、ライトノベルの演出技術が物凄い成熟しているんだろうと思う。最近、平坂読さんの『妹さえいればいい』とか伏見さんの『エロマンガ先生』とか読んで、物語の構造的には、動機が失われるという、、、、2000年代の果てに現れた結論のような物語構造なんだけれども、これって、動機がないので、成長もないし、物語も進まないものなので。物凄い難しい物語なんです。でも、めちゃくちゃ読みやすくて面白い。この面白さが、僕のような文脈読みで、2000-2010年代の物語構造の結論として見ているような見方をしているから面白いのか初見で面白いのかはわからない。けれども、成熟したライトノベルの技術の果てに、LDさんがいう快楽線というのかな、とにかく「手数」というか、小さい演出が、次々の読ませていく構造を持っていて読んでいて飽きないのですよね。これって、超絶の成熟した技術だと思うんです。動機がないというような、要は物語を支配する大きなマクロの構造がないし、主人公のルサンチマンによる反発に寄って前に進む理由を作るという成長物語、、、少年の物語の基本構造がまったくないなかで、物語を進ませるというものなんですよね。これって、物語の時間構造がなかった、4コマ漫画や、それをベースにした関係性の物語のみで構成される永遠の日常の物語類型の、壮絶なる積み重ねによって獲得されてきた技術なんだろうと思います。


僕の物語類型の基本分析は、もともと好きだった、成長物語のビルドゥングスルロマンをどう解体するか?という筋道をこの10年たどってきました。



しかし、ヒーローアカデミアもそうなんだけれども、たぶん、去年ぐらいにデイアフター、マブラヴのクロニクルズを見たときに、ほんの3-4年前までに、古くなったと思っていたマブラヴのあの暑苦しい成長物語、ギリギリの綱渡りで自分が変わっていくことを求める演出が、凄い新しく面白くなった感じがしたんですね。この感覚は『進撃の巨人』が出てきてから、感じられるようになってきた感覚です。この作品が、マブラヴをモデルというかリスペクトした作品だというのはとても興味深いつながりです。


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この成長物語・ビルドゥングスルマンの解体の歴史が、再構成に向かっているということなんではないか?と最近おもっています。なので、いってみれば、この10年ま前、1990年代にあった、成長物語に対する不信や古臭さが、もう一度まわりまわって、新しさを帯びてきているんです。たぶん、そうなんだろうと思っているます。僕はそんなに多くの物語を浴びているわけでも最新のものを体験できているわけでも今はないですが、ヒーロアカデミアのようなこのアニメのような、成長物語を探してみつけてしまうのは、そういう感性が働いている気がします。皆さんはどう思いますか?



新世界の話、そしてベイビーステップでいっていた、目の前のことに集中していることで、遠くの目標を目指すことによる自己否定によるルサンチマンを生み出すことなく、その強い動機をばねに進ませるのでは「ない」形で、現実の過酷さを直視して、健全な形で成長する方法があるのだ、、、、いうとてもいい症例というか具体例だと思うんですよね。


このリリという女の子は、彼が一人で生きているところで、仲間を見だしていくというシナリオ的には、非常に典型的ですよね。でも、とても洗練されていて、しかも、ヘスティア様、これってマターナルなものですよね、、、要は、お母さん、、、、というか、きれいな形でのハーレムも形成していて、、、いやーほんとよくできてる。小説はまだ途中だが、アニメはどおさめるのか、楽しみ--だ。・・・・かんがえてみれば、このマターナルなものへの耽溺と、そこへ/からの逃避って、日本の物語類型の基本なので、、、、この全てを肯定してくれる、帰る問いころである大母さん的ポジションのヘスティアさまって、、、どう、これから関係性を展開させるんだろう???って凄い気になります。


やっぱりアニメはたのしー


ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか (GA文庫)