岩田氏は、学歴云々を論じる前に、日本社会の能力観には2つのニュアンスが含まれていると言及する。「(1)能力は、ある漠然とした、一般的な性格のものとして受け止められることが多いこと、(2)能力は、訓練や経験によってさらに開発されるべき、ある潜在的な力であり、したがって、ただちに実用に役立つ力、つまり“実力”とは考えられていないこと」(150〜151ページから抜粋)である。
一方で氏は、米国の能力観を「訓練と経験によって現実に到達しえた能力のレベル」(149ページから抜粋)と捉えている。そしてこれらの能力観から、米国では日本の競争とは違った意味合いを持つ競争になると説く。「米国社会では、人びとは、いわば局部的にしか競争にまき込まれていない」「競争における個々の勝敗は、人生における長い一連の“戦い”の局面にすぎない」(149〜150ページから抜粋)
さらに日本の能力観に基づくと、人々が次のような意識を持つことになりがちだと説く。
「“できる人”は潜在的によりすぐれた一般的能力を賦与されており、彼がその気になりさえすれば、いかなる領域においてもすぐれた力を発揮するのであり、逆に、“駄目な奴”は乏しい潜在的な能力しかもちあわせていないために、何をやらせてもうまくゆかないのである」(151ページより抜粋)
http://diamond.jp/articles/-/84419
他人をこきおろす“高学歴な負け組”たちの
底知れぬ心の病み
吉田典史
この記事自体が面白かったというのもあるんですが、おお!なるほど、と思ったのが上の抜粋の部分。日本社会においては、「能力」と「実力」っていうのは、違うものとして捉えられているという点です。
僕は、バリバリの保守的日本企業で、ずっと日本的ムラ社会にまみれてやってきたにもかかわらず、能力というのは実力と思っていたようで、「実際にできないことに意味はない」という信念がずっとあるんですよね。何でこんな能力観になったのか、自分でも不思議なのですが。。。こればっかりは性格ですよね。
でも、この能力=実力という考え方を前提とすると、日本社会では非常にミスマッチな感じで、ずっと僕は、違和感を感じてきたんですが、こう定義されて、なるほど!と思いました。逆にアメリカに来たら、なんだかほっとしたというか、すっきりした感じがしたも、理由がわかりました。アメリカは、能力=実力という前提が普通に浸透している。できないやつは、だめなやつだ!以上で終わるんです(笑)。そもそも、首になるしね。というか首にします。できなければ。
仕事ができないけど、「能力」がある、なんていうことはありえないわけです。非常にシンプル。
しかし日本では、能力というのは、潜在能力、のことなんですね。そして、この潜在能力は、学歴と強く結びついている。
びっくりした!!!
俺はまだ本気を出していないだけ!!!
という、タイトルを見て、僕は大笑いをしたんですが、、、、よくよく眺めていると、、、笑えないなって感じがあって。何か心の琴線に触れるものがある。ずっと、不思議に思っていたんですが、、、、これって、負け組みの人間を、底知れぬ心の闇に誘う、逃げ口上なんだなって思って心が寒くなったんですよね。
同時に日本の人間の評価における大前提でもあるんですよね。
これがあるからこそ、人間は勝ち組と負け組みだけ、言い換えれば結果を出したやつだけが報われる!というわけではなく、万人が平等に評価されるべきという前提が生まれるんですよね。結果が出ないのは、チャンスが与えられていないから、とか本気になっていないから、といういいわけがこの日本的能力観には、インボルブされている。
司馬遼太郎の小説で、日本の学歴の話が出ていて、ある武官が日本は大学を出ると士官いなれるという話をロシアの軍人したら、ものすごい驚かれたというシーンが出てきます。なぜならば、貴族の血筋でなくて、どんな人間でも大学を卒業すればエリートになれる!なんて、なんという平等な社会なんだ!!!と心底驚かれ、それでは、ロシアが戦争で日本に勝てないわけだという話になったそうなんです(笑)。
日本の平等システムは、学歴と結びついている。大学を出れば、出自に関係なく社会のエリート層への道が開かれる。貴族主義が当然だった一昔前までは、それこそが凄い平等化装置だったんですね。
いつのまにか、だいぶ変わりました。東大とか一流大学が、ある種の権威付けのシステムになって、「潜在能力」を担保するという風になったんですよね。
前述の能力観をベースにして考えると、4人は拭い去れない劣等感を持っている可能性がある。それは言い換えると、「恐怖心」なのではないか。自分が「実は潜在的な能力が低い人」とレッテルを貼られることに怯え、ささやかなプライドを守るために、会社員をけなし、否定するのではないだろうか。
岩田氏が唱えるような旧態依然とした日本の能力観が、日本の企業社会の隅々に浸透しているがゆえに、様々な問題が生じることをこの連載では考えたい。たとえば、新卒の採用方法が時代の変化についていけない理由の1つも、このあたりにあるのではないだろうか。社内では、職務給や成果主義がフェアな形で浸透していない。グローバル化が進まない壁の1つも、ここにある。社内でのいじめやパワハラ、セクハラ、長い労働時間、過労死などが発生する大きな理由も、実はこの能力観にあると筆者は考えている。
そして、この記事の結論も、いいところついているなーとうなりました。僕は思うのですが、明治建国期や高度成長期にぴったりフィツトしたアンシャンレジーム、、、というかスキームが、要は時代が変わって反対の効果を生むようになって、内側を腐らせて、日本は滅びの方向にまっしぐらになっているんですよね。これだけ何もかもそろっている世界最高度に、素晴らしい国が、こんなに生活するのが苦しい最悪の国になるなんて、いやはや本当におかしいよ、日本。制度疲労こしているんだと思うんですよ、明らかに。単純い、制度のスキームがあまりに時代に合わないだけ。
何度も繰り返すんですが、僕の歴史観として最近はっきりわかってきたことなんですが、たぶん大きな制度変更を目指さないことすなわち、日本を滅ぼすことなんだろうと思うんですよ。なので、護憲とか憲法を守ると主張している人たちは、戦前の日本を滅ぼした人たちと同じことをやっている。理想的な意図は疑いません。けど、複雑な現代は、意図と逆の結果を生むことは、基本です。またこのナショナリズムが横行する時代において、レフトサイドの理想のほうが、社会にとって価値があるのは、僕も共感します。しかし、ならばこそ、日本で最もやらなければいけないのは、たぶん憲法改正。別に中身は何でもいいんじゃないかって思うんです(笑)。
そして、もっともしなければならないのは、9条とかそんなのは、はっきり言ってどうでもいいんです。隣国の中国が台頭するんだから、軍拡と地域とのアライアンスしないなんてのは、現実的にありえません。なぜならば戦争がもっとも起きやすく悲惨なことになりやすいのは、軍事バランスの均衡が失われた時だからです。戦前の日本がアジア各国に侵略したのは、最もシンプルに言い切ってしまえば、他のアジア諸国に防衛能力がないので調子にのったんですよ。ヨーロッパが中国を食いものにして植民地化したのも、それが理由です。平和は軍事力の均衡でしか保たれないんですよ。それ以外の、何があるのか、歴史を見てほしいです。中国の牽制と東アジアの平和のために、日本は、軍事的にはがんばるしかないんですよ。いやでも。そういうなかで、9条とか、もうどうでもいいんですよ。理念で、平和なんか守れないだから、お題目は無駄。日本人は現実的なプラクティカルな人々なので、基本的には、攻められたらみんなで死ぬか奴隷になりましょう!というような殉教意識は、メインの支持を得ません。それは戦後のすべてを見ればわかります。
なので、日本の高度成長期にフイットしたアンシャンレジームを最も変えるのは、まず第一に、自分たちの住む国は自分たちで変えられるのだ!という国を運営する主体意識をとりもどすこと!!です。この自立自尊の感覚が、日本人の若者にはない。憲法を長く変えてない害悪が、究極そこだと思うのです。甘えるんだもん。憲法変えなければ、平和が来るとか国が豊かになるとか、バカなの?っていうよな甘え意識が生まれる。すべては自分たちの手で守り、育てなければいけないという市民意識があまりに低すぎると思う。それは、制度スキームを変えられるという実感がないから。なので、僕は憲法はどうあれ変えるべきだと思うんです。それが、風穴になるから。もう一つは、たぶん変える時一番しなければいけないのは、この一票の格差の是正。とかそっちのほう。9条とか、どうでもいい。あれ、あのままでいいじゃん。現実運用できるなら。あんなとこ争点にするなんて馬鹿にしか見えない。むしろ、選挙制度の方が問題だよ。日本は民主主義が機能していないんだもの。あとは、僕もまだ勉強しきれいないのですが、日本は、司法がちゃんと機能していない。日本的なブラックボックスとムラ社会主義、お上的テクノクラート的正義の最後の砦にしてコアが、司法だと思うのです。特に検察。あのへんが、ちゃんと機能するように国家のデザインを変えるべきだと思うんですよ。。。。そうしないと、日本のエネルギーと未来が、正しい方向に向かわない。
話が大きくなった。。。。いやね、なんちゅーか、、、この能力と実力に関する概念や、それが学歴主義に結びついているところとかが、明治の建国期のスキーム、、、徳川期の日本に対するアンチテーゼとして設計されたスキームと全く環境が合わなくなっているのに、それがずっと継続しているので、みんなバカみたいに道を迷い、おかしなことになるんだと思うんですよ。学歴が平等化システムとしての輝きを持っていた時には、この実力と能力の定義は正しかったし、機能したんですよ。けど、もうそれがバラバラになっている。外部の環境とリンクしていないこと、制度に反映しないことに、縋りつくほど、悲惨な人生はありえません。それを自力で見つけられない頭の悪さは、まぁ、バカだなとは思いますが、、、、しかし、人間は、その制度の中にはまって生きている限り「そうとしか生きられない」ものなんです。外側に行けた人間が、中にはまって泥沼になっている人を笑うのは、僕は違うと思うのです。だって、自分もありえたかもしれないわけですから、そのように。アダルトチルドレンとか、こうした学歴主義こじらせた俺は本気を出していない系の人って、ようは、日本人である限り、必ず「ありえたかもしれない自分の姿」なんですよ。こういう人がいると、凄いうざいので、なかなか現実には、遠ざけますが、、、けれども、自分だって、その予備軍だったし、いまもそうなんだということを忘れてはいけないんだ、といつも思います。
だから、その桎梏にしがらみに雁字搦めから、どのように抜け出るのか?、そこからの話を、いつも考えたいなって僕は思います。だって、しょせんパンピーな日本人なんだもんおれ。「なにものでもない、なにものにもなれない僕ら」、に常に立ち返って考えないと、等身大の自分を失うと思うんですよ。年をとると、勘違いして、若者を見下しやすいんですが、まぁ、しょせん俺なんてそんなもん、的な常にマイナスから出直せ感がないと、なかなか等身大に世界の空気を吸えません。等身大はしんどいけど、最も楽しく、ナチュラルに生きられる生き方だと僕は思います。