「見方」の技術


のりしお 2010/04/19 10:31
わーペトロニウスさんに感想書いてもらえるとは思ってなかった。すごいうれしいです。

私はそもそも論としてけいおんが何をやろうとしているのかがあんまり分かってませんでした。
レールガンも最終話が来るまでかなり反発しながら観ていました。

だからついこの同人誌を紹介してしまったのですが、
どちらについてもまさに90年代の読み方をしていたような気がします。
この同人誌の解釈と合わせて少し理解できたような気がします。大感謝です。


別の記事なのですが
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20100417/1271473038 2話

とらドラの、古くさいドラマツルギーの力で底上げされた激動の物語はないですが、
 だからこそ幻視できるんです。「ふつう」の女の子というものを。
 疲れんだよ、大河みたいなの見てるのって>

って部分がまさに私の問題を指摘しているように思えました。
私は「とらドラ」みたいに分かりやすくないと理解できないんだなーと。
私も、いつまでも昔の読みに固執しないで、今の時代を理解できるようになりたいです。

しかし、そういう訓練はどうやったらできるんでしょうかね・・・。
ただ数をこなしても身につきそうにありません。社会学の勉強とかするべきなのか・・・。

このコメント、、、のりしおさん、何度も取り上げてすみません、、、が、すごく、なんというか、いろいろ思わせられました。

というのは、僕が強調しているところで、


私も、いつまでも昔の読みに固執しないで、今の時代を理解できるようになりたいです。


これって、僕が高校ぐらいの時に、、、もう量という意味では、異様な量を読んでいて、物語に慣れ切った僕は、凄い飽き始めていたんですね。物語に。それで、部活や剣道の道場などの肉体系にシフトしていた面があります・・・・。そんな時に、悩んだのが上と同じこと。僕は、物語が大好きなのに、あまりに読み過ぎて(笑)、ものの見方が「固まってしまって」、それ以外で見れなくなってしまったんですね。

僕は、「経験の絶対化」と呼んでいますが、人間という物の意見や持つイメージやりアクションは、基本的に自分自身の経験から形作られた「感情」によって支配されます。これに無自覚なほとんどの人は、自分が、過去の自分が作り上げた「ものの見方」の奴隷であること、もっとくだけていえば、「過去の自分」の奴隷であることにあまり気づいていません。

けど、この「経験によって作られた世界の捉え方(=価値観)」というものを、アップグレードするのは、物凄く難しいんです。そもそも、自分が奴隷であることに気づく(=相対化に慣れたとか、再帰性を感じるとかいうこと)ということ自体が、物凄く難しい。まぁ基本的に、人間は動物ですしね。また、いまの現代都市文明というのは真綿でくるまれたような無痛社会で、かつ動物化していくこと(=表面的な欲望の肯定)が推奨されている社会ですからねー。


「ものの見方」をアップグレードするという思考方法そのものが、古き教養主義の概念なんですよね。


だから、現代には非常に、適応しにくい。なぜならば、教養主義は、修行とか・・・・ある種の「訓練によってレベルをあげていく」エリーティズム(選別主義)だからです。なんで、エリーティズムになるかはわかりますよね?。努力によって「差」を作り出すというのは、差異の肯定をしているので、この差異の肯定による優越が、動機を生み出すという構造上の前提があるからです。しかし基本的に、大衆社会は、差異を非常に嫌悪するので、差異による「いい面」も「悪い面」もいっしょくたに、差異だからという理由で排斥されます。


でも、この疑問、いい疑問だと僕は思うんですよ。なぜならば、自分が過去の自分の奴隷であることに気づけば、かなりいい未来が待っている気がします。物語をより深く楽しむ可能性が生まれるわけですから。


じゃあ、どうすればいい?というのは、実は僕良くわかっていない(笑)。


うーんと、、、どうしたっけ????。


えっとね、僕は、まず一つ思ったのは、「経験の量と質をあげよう」と思いました。


そして、なるべく自己分析しながら(日記を書くのは習慣だったので)自分と遠いと思われることに努力を傾けました。僕は、運動とかスポーツとか集団行動が嫌いだったので、死ぬ気でスポーツに打ち込みました(笑)。そして、どんな小さなものでもいいので、リーダーとなるように努力しました。たとえば、小さいのは、飲み会とかカラオケとかの幹事ですねー(ちなみに、僕はものすごい集団行動嫌いな人だったで、これは革命的な努力でした)。


それと、できる限り、「自分とま逆だと思われる意見」収集して、頑張って共感する姿勢で理解しようと努めました。


これはね、いまの僕の理念ちゅーか、考え方の基礎なんだけど、例えば好きな物語があったら、それと全く真逆のジャンルを攻める、ということをやったわけです。ちなみに、どこまで?といえば、わかるまで!!!です。たとえば僕は恋愛モノとか日常ものが、苦手というか、吐くほど嫌いで(笑)だったので、がんばって理解するように読みまくりました(今考えるとなぜだか物凄く不明・・・嫌いなことなんかやらなきゃいいのに、おれ)。けど、やっぱりわかんなかったので、これはマジで恋愛するしかないと、女の子の友達をつくったり、デートを頑張りました(笑)。それも、年齢の幅を上下に振って、性格も左右にふって、、、、というこだわりよう・・・・いま思い返すと、バカじゃねえの、おれ、とか思う(苦笑)。・・・・本をもっと楽しみたいので、リアルで頑張るって、どんだけ倒錯してるんだおれ!とか、いまは思いますが、当時はマジでした(笑)。


なんなんでしょうねー、、、たぶん今思うと、物語でも何でも、とにかく「深い充実や実存」を探していたんだと思いますよ、僕は。で、コリン・ウィルソンなんかよんじゃっているもんだから、そのためには3面のアプローチが必要で、「知」と「感情」と「肉体」の3つのレベルを等分にバランスよくレベルアップしないと、実存は訪れない!とか、妙に理論的に考えちゃって(笑)、、、若いというか、アホというか・・・。


これね、結局何言っているかっていると、「人生経験の幅を広げろ」って言っているに等しいんですよね(笑)。非常にオヤジ的言説。


けどね、やっぱね、ものの見方を変えていくには、貪欲に経験の質と量を重ねて、それを内省・沈思によって内面に織り込んでいくしかないんですよね。つまり、経験がいかに増えても、それを洞察して「どういう意味があるのか?」ということを内面で考え抜いて、内面に蓄積しないと、動物が一杯長い間生きました、とかそういう一時的なモノにしかならない。ああ、そうか、うん、、、そうそう経験は、実は、量が少なくても質が悪くても、「内省によって深くその構造や意味を見抜き理解する力」が伴うと、ただ広く豊かな経験だけの人よりも、はるかに深いところに行く可能性があります。だから、必ずしも特異な経験やいろいろなものに恵まれている人が勝つとは限らないんです。経験は、「一つの事実」からどれだけ深くを体感理解できるがで決まるわけですから。



つまり、動け!!!感じろ!!!考えろ!!!!(この順番が大事)



ってことですね。ちなみに、コリン・ウィルソンは、3つのバランスで最も重要なのは「知」であるが、かなり罠に陥りやすいのも「知」であると書いている。「知」が先行すると、意味がないこの世界に絶望して無感動になり、人生を破壊する、といっていました。



などなどざれごと。