評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★星5つのマスターピース)
とてつもない傑作だった。会社半休取って日比谷の映画館に見に行ったのですが、頑張った甲斐がありました。
🔳2つ視点の対立で進む構成
かなり難解との噂を聞いて、予習をしていったのだが、オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)視点がカラー(FISSION(核分裂))で、対立するストローズ(ロバート・ダウニーJr.)がモノクロ(FUSION(核融合))で、異なる時系列(1954年の聴聞会と1959年公聴会)がシャッフルされながら、話が進むという構成の難解さを先に理解しておけば、話は、少なくとも僕には単純明快で、わかりやすかった。ストローズという対立軸を設定したことで、言いたいメッセージが、クリアーになったと思う。これがクリストファー・ノーラン監督か?と思うくらいに、シンプルで驚きだった。わかりにくくないわけではないので、難解なものを、彼のような時系列のシャッフルする演出する技術が円熟味を増しているのではないかと思う。
登場人物が多く出て誰が誰だかわからないとも言われていたけれども、基本的に、オッペンハイマーとストローズだけを柱で追っていけば、その他の登場人物は、彼らが描き出すテーマの背景に過ぎないので、無視しても何の問題もないと思う。もちろん、水爆の父であるテラーやアインシュタインやハイゼンベルグくらい知っていると、面白いかもしれないが、主軸ではないと思う。
ただなかなか日本人には馴染みがないだろう大きな理解に必要だと思うポイントは、劇中ではめちゃくちゃ指摘されていて英語で聞ければかなりクリアーではあるのですが、
2)オッペンハイマーが裕福なボンボンで、ストローズが極貧から這い上がった成り上がりであること。
オッペンハイマーは、ヨーロッパに遊学して、神経を病んでフラフラできるぐらい、むちゃくちゃ金持ちのボンボンで、恵まれまくって裕福だからこそ、繊細で弱いものの味方に見えた共産主義やファシズム抵抗するスペイン内戦にシンパシーを感じたのですね。だから彼ははっきりとした民主党員(デモクラット)だったこと。その比較として、ストローズが、高卒で大学進学をあきらめて靴のセールスマンをしているところから這い上がってきた生粋の叩き上げの共和党員(リパブリカン)であることです。わかると思いますが、金持ちのボンボンのオッペンハイマーは、理想主義者です。苦学して辛酸を舐めてコンプレックスから成り上がったストローズは、現実主義者です。同じユダヤ人でありながらも、見ている世界が全く違うんです。こういう二人が、安全保障上の問題意識で意見が合わなくなっていくのはむしろ当たり前です。
とにもかくにも、この2つの対立する視点が、時系列無視で同時にシャッフルして、比較対立されながら物語が進んでいくというこの一点を理解できれば、とてもシンプルな映画です。映画を見慣れている人が、まずわからないとは思えませんが、ここは肝だと思います。鑑賞前に、先に知っていると、とても楽に物語に入れます。
🔳米国保守派の視点から見たとしてもシンパシーを感じられるところが凄い
この映画を評価する上で、最大のポイントは、米国が分裂の時代において、リベラル視点でも保守派視点でも、そのどちらが見ても、感情移入できるバランスを持っている点だと思います。ところが、この作品を揶揄するというか賢しらに批評するポイントで、
原爆の被害を描かなかった
点がよく挙げられます。真面目にこの映画を見るときに、そこが日本においては最大のポイントになるのは、仕方がないと思います。流石に日本において、被爆国の立場から、米国素晴らしいと素直にバンザイを叫ぶのは難しいと思います。しかし、この結論は、大抵「だからダメなのだ」という話に繋がります。完全な反戦、完全な戦争反対みたいな行き着いた「土下座謝罪」みたいなものが、多分観念の中にあって、そこまでいかないと評価できないと言いたいわけなんでしょう。
あなたと議論するつもりはないのですが、そういう『本当の意味での反戦映画』とかいう発想自体が、「自分たち善人」とは完全に切断処理された「悪」によって問題は起きるのだという幻想に引きこもる欺瞞を含んでいて、それをこそ乗り越えていかねばならない時代なのだと私は考えています。 https://t.co/UplRNSSXXs
— 倉本圭造@新刊発売中です! (@keizokuramoto) April 5, 2024
でも、これが全く話にならないのは、わかると思います。まず、そもそもエンターテイメントとして、面白くないでしょう。そして何よりも、米国の映画ですから、米国人に受け入れ難いでしょう。しかも、最初に2020年代のアメリカ社会の社会的前提は、二極化、分断です。2024年の現在は、トランプ元大統領とバイデン現職が、真っ向から戦ったいる真っ最中にあります。そもそも、ディープステイツ(DS)など陰謀論的なものが受け入れられるようなポストトゥルース的状況であることからも、ちょっとでも「それぞれの陣営の持つ真実」からずれているものは、相手の妄想だと切って捨てて無視する状況なんです。このなかで、原爆の開発は、アメリカの兵士を救い、戦争を終わらせたというアメリカの保守派が持つベーシックな神話への批判を書いたところで、半数は全く身もしない、宣伝映画に成り下がって終わることは目に見えています。
この状況下で、全般的に明らかに、オッペンハイマーは、原爆の開発を罪としてとらえて批判的な視点で、全体が構成されています。にもかかわらず、アメリカの保守派が、これは見るべき、感情移入できる映画だと人気を博したところにこそ、この映画の価値と意味があることは明白です。基本的に大量殺戮兵器を生み出すこと、使うことに強い違和感と疑念が理想主義者のボンボンのオッペンハイマーにはあるので、全体に疑念のあるトーンで描かれている。
これは、光と波の幻想的な映像、人々の足踏みの音に代表とされるイメージと音で、表現されています。この作品は、IMAXよりも、むしろ音こそが主役であると言ってもいい作品だと思います。オッペンハイマーが、原爆の開発に感じ取る罪と恐怖を、つねにこの音で表現しているからです。
しかしながら、たとえそうだとしても、この巨大プロジェクトを、マネジメントと経験のない若手の繊細なオッペンハイマーが、癖があり過ぎてどうにもならんだろうという知の巨人たちをチームとして機能させて、プロジェクトを完遂させたことには、驚嘆を禁じ得ない。正直、これが日本人で、被爆国である我々の視点で見ているから、視点が批判的にどうしてもなってしまうが、それを除いたら、こんな大成功、歓喜して叫びまくって自尊心肥大して、USA!、USA!とか怒号を叫びまくってもおかしくない、大成功だ。いやはや、アメリカという国のプラグマチィズム、底知れない潜在力に圧倒される。ナチスを止めるために使命を帯びた巨大プロジェクトを成功させたアメリカの凄さ!は、これほど不安が貴重低音で描かれながらも、それでも、胸にブッ刺さってくるほど、偉大さが圧倒してくる。
この二極化する分裂するアメリカの両サイドから、どちらもシンパシーを感じる形に攻めた構成になっていることこそ、この映画の真価だと僕は思う。であるならば、この背景において、単純に原爆の被害を描くことなく、その恐怖を音やさまざまなものでクリアーに(僕にはクリアーに感じる)原爆の被害の恐怖を伝えて、しかも、反対の神話を信じる米国の保守派にさえ伝えているところが、ものすごいのだ。まさにオスカー納得の作品だ。
🔳見る時のスタンス〜自分とは逆の立場に「自分」を連れ出してくれること
アメリカに住んでいるときに、『ミッドウェー』を見にいったときに、前の席のおばあちゃんが、日本の空母に爆撃する米軍の部隊が失敗するたびに「ああー」とか「あたれー」とか、ハラハラどきどき呟いているのを聞いて、あれなかなか微妙に気分になるのと同じ感覚を味わったことがあります。
https://petronius.hatenablog.com/entry/2019/12/07/032912
自分の祖父母の世代だものね。祖母は東京大空襲で死にかけてるし(死んでたら僕は今ここにはいない)、Jpaneseという言葉が出てくると、「ああこれはファンタジーでもただの空想の映画でもないんだ」と、不思議な気持ちになりました。巨大なプロジェクトの成功には、血湧き肉躍る高揚を感じるけど、それがすなわち、自分たちの国に向けられる大量破壊兵器なのだと突きつけられる恐怖。
こういう映画は、本当にいい映画だ。
🔳リベラルの視点から見た
日本公開が延期したとかいろいろ問題になったというが、よく理解できない。原作のタイトル、American Prometheus(アメリカのプロメテウス)もそうだし、
Prometheus Stole Fire from the Gods and Gave It to Man. For This, He Was Chained to a Rock and Tortured for Eternity.”
で始まるところも、とてつもないものを作ってしまったというオッペンハイマーの自らの罪への苦悩がテーマであるであると思う。配給を決めたビターズエンドには、感謝を。
それにしても基本的なアメリカの世論は、原爆が戦争を終わらせたというコモンセンスがある中で、批判的なメッセージで中和するハリウッドの大作をつくり、それがオスカーを受賞するのは、素晴らしいことだと思う。同時に、このような映画と同時に、『ゴジラ-1.0』のような反核のメッセージと共に育ってきたコンテンツがアメリカでヒットすることもまた、そういうのこそが大事なことだ、と思う。
またもしこれが、原爆賛成の映画だったとしても、それならば尚更日本で公開しなければならないと僕は思うけれども。日本も、アメリカと同じく、この硬直化して結果を何も考えられなり純粋リベラル派の浸透は根深いんだろうなと、なかなか頭を抱えます。この映画を見て、原爆さん生映画だと感じる人も結構見ます。いやはや、ちょっと信じられない。文脈を読む力無さすぎだろうと、お決まりの批判を言いたくなるけれども、多分そこではなくて、二極化した極端脳の世界に住む人々はエコーチェンバーの世界に閉じこもって世界を眺めているから、そもそも文脈を「読む気がない」のが基本なんでしょうね。
でも、『バービー』を見た時にも思ったんですが、アメリカ映画には、この二極化する社会の分裂に対して、いかにして「共通のものを見ている」感覚を抱かせながら、その両者に、「自分お立ち位置」の欺瞞性を、批判生を気づかせる仕組みになっているのが素晴らしい。仮に「気づかない」でも見れてしまうところが、素晴らしい。
この映画のポイントは、保守派には、大量破壊兵器が生み出す罪を突きつけるし、リベラルには、ナチスが原爆を開発しようとする時にどう対抗すべきなのか?、この争い合う人類社会で力を制御し、安全保障を考えるにはどうすればいいのか?と、そのどちらも、自分を「正しい」立場だけには置けない、しかし解かなければならない難問に直面させる。素晴らしい物語だと思います。
ちなみに、この2020年代の二極化の時代の米国の背景を知るには、この本がベストです。
🔳米国の保守派もリベラルも、同じものを共有できることにどれだけの価値があるか!
本当に同感。社会がpolarize(二極化)している中で、同じものを受け入れられるギリギリのラインを攻めた、考え抜かれた傑作だと思う。あの表現に留めた、攻めたということの深さを体感できなければ、今を生きる視点が抜けていると思う。 https://t.co/1er4ibUuaZ
— ペトロニウス (@Gaius_Petronius) April 4, 2024