『結城友奈は勇者である』 (2014日本) 岸誠二監督 女の子を悲惨な目に合わせたい系の代表作だと思うんだけど、この行きつく先は、新世界系だとすると、何が表現したいのかがよくわかる気がする。

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評価:★★★星3つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

不思議な作品だった。見ごたえあった。引き込まれて息もつかせぬ吸引力で最後まで引っ張られて、アニメの世界に入り込む至福の時間を過ごさせてもらった。『Angel Beats!』をつくった、さすがの岸監督って感じがした。カタルシス的にも、最後にハッピーエンドっているのも、とても視聴後の感覚もよかった。しかしながら脚本の論理的に言うと、敵がなんだかさっぱりわからないし、その後の世界がどうなるの?とか、そもそもなんで、生贄に捧げられたものが最後に帰ってくるのかの論理的な理由がさっぱりわからない。ただしドラマトゥルギー的には、積み上げが見事で、主人公の結城友奈のエネルギーでそれをブッ飛ばせるので、物語としての完成度は高く感じるんですよね。なので、とてもいい作品を見た、という感じがする。が・・・・やっぱり、それでも終わって客観的にみると、やはり論理的に破綻しているから何が言いたいのかわからないし、SF的な整合性というか説明がないので、どうしても不全感が残る。結城友奈の章となっているので、この続きがあるのかもしれないので、評価しきれなことなのかもしれないが、、、やはりこの作品単体としては、未完成に感じてしまうので、客観的な評価は★3と低くなってしまった。

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雰囲気で、この出口のなさの感じって、『Angel Beats!』に似ているなって思っていたら、監督が同じ人だったので、やっぱりその人のテイストって出るなーと驚きました。この世界が滅びてしまっていて、もうどうにもならない感じってのは、なかなか出せるものではなくて、僕は、もう一つずっと『ゼーガペイン』を思い出していました。ああ中学の頃に読んだ『幼年期の終わり』にも同じ感じを得ました。ようは、もう人類が滅びちゃって、終わってしまったという、寂寥感と終末感覚。こういうのって、前向きに生きていたり、前向きなハッピーエンドんが好きな人だと、なかなか見ることのできない衝撃的な感覚なんですが、いやぁー、ぼく好きです。その感じが見事に出ていて、この『結城友奈は勇者である』って傑作だなーと思いました。なので主観が★5つ。とっても好きでした。ちなみに、LD教授からすすめられてみた『ゼーガペイン』ですが、本当に素晴らしい作品なので、ぜひとも見てほしいです。


神殺しの物語「ゼーガペイン
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/4f84eeae4d0439a20ba301c762e1aeb9


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女の子を悲惨な目に合わせたい系の代表作だと思うんだけど、この行きつく先は、新世界系だとすると、何が表現したいのかがよくわかる気がする。ああえっと、ラジオでしか言っていないので、去年、2015年前半ぐらいのラジオで、海燕さんが、最近は女の子をいじめて悲惨な目に合わせる系統の物語が多いですよねといったことが始まりだったと記憶しています。新房昭之監督の『魔法少女まどか☆マギカ』のことを念頭に置いていた感じですね。僕自身は、そんなに女の子を悲惨な目に合わせるものってあったけ?と思っていたんですが、LDさん曰く、その代表作みたいなのが、『結城友奈は勇者である』と『WIXOSS』だというので、何とかして時間を見つけてみたいと思っていたんですよね。それで、やっと友奈、全部見終わりました。



確かに、見事に、女の子をひどい目に合わせる系(笑)だって思いました。



えっとね、大きな文脈の流れでいうと、日常系の流れの作品の中で、作中から男性の視点がどんどん抜けていくことで、女の子同士できゃははウフフと戯れる世界が完成形だとして、その到達地点を僕らは『ゆゆ式』といっているんですが、、、、これはこれで完成しているんですが、どうも同時期にその反対ともいうべき、女の子を徹底的に悲惨な目に落とし込んでいく物語も目にするよねっていうんですよね。


ゆゆ式』(2013) 原作:三上小又  監督:かおり 関係性だけで世界が完結し、無菌な永遠の日常を生きることが、そもそも平和なんじゃないの?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140504/p1


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これがなんなんでしょう?ってずっとこの辺(2014-15)で疑問に思っていたんですが、この後の新世界系という概念を考えると、よくわかる気がします。つまりは、人間には、マクロに関係のない日常の世界で埋没して、世界つ世界で関係性を楽しんで生きるという気持ちと同時に、ここから変化しなければいけない、先に行かなければならない、どこか遠くへ!という相反する気持ちがあって、その気概をベースにすると、日常世界に埋没する安寧は、打破すべき、脱出すべきものになるんだろうと思います。物語の作劇的にいうと、日常で幸せになるドラマトゥルギーを描いていたりそれが溢れてくると、それをぶち壊したい動機が生まれてくるんでしょうね。これ、ハーレムばかり書いている作家さんに話をしていた時に、こういうの書いていると、全部世界が壊れる話とか書きたくなるんですよ無性に、とかいっていたのをすごく思い出します。


ということで、これを新世界系(=世界の過酷さを告発する方向)への途上だと考えると、女の子「が」、悲惨な目にあわされることは実は本題ではなくて、この世界がどういう風になっているか?のオチをつけないと、ダメなんですね。そういう意味では、この世界が欺瞞に満ちて、英雄、勇者の生贄の犠牲の上に成り立つという告発までは素晴らしいのですが、ではどうするか?の解決策が描かれていないので、この作品は、尻切れトンボで終わってしまっているのだと思います。この解決策がないものは、この系統の作品としては、どうしても不発なんですよ。


新世界系という概念、まぁ、ハンターハンターが特徴的ですが、どうも最近、「次の物語はどんなものか?」と問う時に、最先端の漫画や物語は、新世界に到達するという物語を描く傾向があるという話でした。では、この新世界って?なんなんだ?というのが問いの始まりです。この世界では、物語の予定調和が排されていて、それまでのレベルではありえないような強さやリスクが一気にやってくることによって、それまで安定していた物語のドラマトゥルギーが成り立たないような状況を出現させて、それに主人公を直面させることが、どうも作者がやりたいことのように見えます。これを、LDさんは、「当然死」というような形で、ドラマトゥルギーが通常積み上げられている状況ではありえないことをわざと挿入することによって、物語世界の安定性を壊す行為だと表現しています。ようは、デウス・エクス・マキナのようなものですね。この場合は強引にオチをつけるのではなくて、逆に、物語の中に内在する因果関係の積み上げから必然的に導き出されるものを飛躍によって壊してしまうことですね。


もう少し具体的に言うと、日本のこの時の文脈では、日常系の作品が行きついてしまい、日常それ自体を楽しむという部分はある種の飽和を迎えてきたんだと思うんです。同時に、日本の成長を支えるドラマトゥルギーって、やっぱりジャンプシステム的なもので、僕の表現でいうとランキングトーナメント方式による序列付けっていっているんですが、ようは戦ったかってかって!ということを、ある一つの基準で進めて行くことによって、一番になる!というものなんですが、それが土台から崩されている時代において、説得力を持たなくなったんで、それでゲームのルールが全部変わる新大陸・・・・フロンティアを設定したんですね。ようは、既得権益とアンシャンレジームに疲れたんですよ、時代は。これを、もう少し日本的文脈に具体的に結びつけると、日本の生活空間を愛して関係性に特化して、「今この時を幸せに生きる」という方向性は、日常系に集約して現れている感性ですよね。同じ類型としてハーレムものもそうなんですが、これがずっと続くと、そこから脱出したい、って感性が生まれるようなんですよ。『あずまんが大王』が卒業するかしないかは、だからすごく重要なポイントだったんですね。そこがポイントになっているからこの作品は時代を代表する作品で、作者は天才なんだろうと思います。


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そこで日常系の作品においては、その日常がどのようにマクロで作られているのか?という問いになっていきやすいんですね。誰もがわかっているように、平和はただでは買えません、もらえません。だれかが、守り、それをメンテナンスしなければ、維持されないものなんです。その責任を放棄することが、成長することを拒んだ究極の日常系になるわけです(だから卒業を設定するかしないかが重要なポイントになります)。なので、この解体を目指すとすると、この安楽な日常世界を、誰が守っているのか?という真実みたいなものを、その楽しさを享受している少女にぶつけると、ちょうどいい日常告発系の物語になるんですね。それが、女の子を悲惨な目に合わせているような物語になってしまう。別に、女の子でなくてもいいわけですし、最終的には、新世界=フロンティアという形で、物語世界すべてにおよぶわけなんで。これらの魔法少女系の日常系に向かう作品を壊すとすると、この方向しかないわけで、誰が気づくか?誰がブレイクスルーするか?って話だったんだろうと思うんですよね。一番最初に、センセーショナルな形で出てきたのは、虚淵玄さんだったんでしょうね。まどかマギカ。ちなみに、どっちが優れている物語か、どっちが、世界の現実を表しているか?とかいう方向での評価は意味がないことだと思います。だって、どっちも、僕らが生きる世界の真実だもの。表現する面が違うだけ。

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んでもって、この系統の作品を描こうとすると、常にぶち当たる物語作劇上での問題点があります。


それは、悲惨な目に合う女の子を最終的に、殺すかどうか!です。


だって、この世界の厳しさを女の子にぶつける物語ならば、殺しちゃうのが、死んでしまうのが、ドラマトゥルギー上は正しいでしょう。そういう積み上げ模索中でなされるのは演出上当たり前だし。これ、毎回この系統の作品では論争になるんですよね。僕は、この話で、なんで最後にすべての登場人物が死に絶えなかったんだぁ!!と怒っていらっしゃっていたLD教授を思い出します。『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』の話ですね。


ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』 神戸守監督 精密な風景の密度がとても美しい秀作
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100404/p2


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このどちらを選ぶか、どちらが正しい物語だと感じるか!ってのは、見る側というより、クリエイターとしての資質が試される気がするんですよね。これは矛盾の命題なんですよね。


1)主人公たちを殺してしまうと、ほぼ万人が望むハッピーエンドを裏切る形になって人気が出ずに、忌み嫌われる


2)しかしながら、殺さなければ物語として破綻してしまうし、そもそも駄作になり下がってしまう


というのは前提であって、これをどう回避するか、どう料理するか?がこの系統の物語には、必要とされる。ちなみに、『結城友奈は勇者である』において、岸監督は、殺さないことを選びました。しかしながら、生贄がなくなって、欠損が返されるご都合主義の代償が何か?ということが明示されていないので、物語としては破綻していると思います。この破綻をどう超えたかといえば、友奈の持つ気合という気迫ですね。これ、あながち馬鹿にできません。人間というのは、気合に感染する生き物で、気合のテンションが高いと、ありえないことでも受け入れてしまうことがあるものなんです。少なくとも僕は、この物語で積み上げている、友奈という女の子の振る舞いや言動で、おお、なんかやってくれるかもっ!って思いましたよ。勇者であるとか、英雄である、ヒーロであるというのは、こういう気合の感染力をどれだけ持つか!ということなんだろうと僕は思っています。


ちなみに、この『結城友奈は勇者である』の物語類型は、ヒーローに関する解体である、脱英雄譚の類型も同時に描いていますね。ようは、世界を守るために、英雄を生贄にする構造を描く。英雄は、生贄なんです。世界の苦しみを一切を引き受ける。このことを受け入れていく素地がある人格かどうかが重要で、僕は彼女は確かにそういうこだよなと思いました。だから、その彼女が、全てを守る!と宣言することは、感情的にとっても納得したんですね。これは、クリエイターの能力が問われる部分で、この手の物語は、論理的には明らかに破綻していても、ヒーローのそれを超える気合の感染力で周りを納得させてしまうという、そのことが描けるかどうか!が勝負なんだなって僕は思います。だって、上記の1)と2)の構造で、1は避けなければいけないのは基本なんですよ。だから物語は絶対に破たんする。しかしその破たんを破綻と感情的ん納得させることができたら、そこで物語は閉まるし、終わらせることができるじゃないですか。


でも、それはやっぱり破綻は破綻。。物語の類型としてみれば、よくある類型になってしまうんですよね。その先を、どう描けるか?というのは、とても見てみたい。そういう意味ではこの物語はまだ全然を終わっていない。そもそも外の敵は何なのか?というような、マクロの構造がほとんど明かされていません。この勇者を生贄に捧げるシステムは、どうやら後輩に引き継がれているようであるのならば、それがどういう仕組みでそうなるのか?その子たちはどうなるのか?、もわかりません。また世界は等価交換であるべきで、生贄にした部分が戻ってきているのならば、何らかのものがさらに必要になるはずで、それは普通に考えれば、その後勇者システム引き継いだ後輩たちが受けているはずです。それをどうするの?ということも問われます。このあたりの解決を出さなければ、この物語の類型の先を描いたとは言えないと思うんですよ。



先を描こうとする時は、原点に帰って、すべての構造をおさらいしないとだめです。なぜ勇者は、英雄は、世界の苦しみを引き受ける生贄にならなければならないのか?。そこからです。この問いは、魔法騎士レイアースの時からずっと続いている問いですよね。


とかとか、そんなことをすごく感じました。まぁ、そういうのはともかく、この世界が滅びちゃっている中での絶望感と終末観は、素晴らしいですよ。なかなか味わえない感覚です。


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