うんうん、僕もそう思う。

今どき、司馬遼太郎で近代史を語るセンスはいかがなものか。日清・日露戦争までは日本がアジアを指導した栄光の歴史だが、1930年代以降は軍が暴走した、という彼の歴史観では、日本の近代を統一的にとらえることはできない。軍だけを悪者に仕立てるご都合主義は、いまだに大江健三郎氏のような幼稚な歴史観として根強く残っている。


池田信夫 blog/日清戦争─「国民」の誕生
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/df5c66807f3b8daa18265b4fe1d92714


ああうん、そうだよね。同感です。これ読もう!。でも、ふと思うんだが、知識というのは「解体」されていくことで前へ進んでいくものだけれども、そもそもナショナリズムすらない今時の世代では、いったいん司馬的な「坂の上の雲の物語」をたたきこんで、それからバラバラに解体するというようなスタイルをとると、本当はいいんだよなぁ、と思う。できれば、高校までは思いっきりナショナリスティツクで、大学ぐらいでそれを思いっきり解体とかすると、いい塩梅な思考ができそう。いきなり司馬的な単純なナショナリズムを超えるやつって、なかなか人を動員できないんじゃないかなぁ。・・・ほんとうは、こういう反対方向なものを同時に摂取できてバランスよくい頭の中で整理できるのが、ほんとうのインテリジェンスってもんだと思うけど、それは、、、まぁ無理だよなぁ。まぁこの辺のメディアの・・・いってみれば、国民を動員していく空気の形成に大きな力点を追うのは、いまの学問のトレンドですね。