『MOONLIGHTMILE』太田垣康男著 極地を目指すものたち/物語と文学の差

MOONLIGHT MILE 13 (ビッグコミックス)


評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★星5つ)


絵柄から云って、こういうリアリズムに近い・・・劇画タッチといおうか、萌えのカケラもないものは、きっと売れないだろうと、最初に一巻を見たときに思いました。僕はマンガに癒しを求めている傾向が強いので、女の子がかわいくないだけで、かなり減点です(笑)。けど、という感覚「にもかかわらず」すっげーエネルギーを感じてしまったんですね、これは・・・すごいかもって。


そこからはや、13巻目。


もう名作になるだろう、といってもいいかもしれない。この作品は、近未来の宇宙開発を描いていて、それも現代からほんの数十年先ぐらいのイメージの時間設定がなされている。それが故に、科学技術や政治体制などにかなり気を使っていると思うのだが、きっと、こういうものは気を使えば気を使うほど、本職の人からはいろいろなツッコミが入ると思う。たしかに、政治体制で中国と米国との冷戦が・・・というのは、話としてはわからないでもないが、、、うーんそうなるか?っていろいろな突っ込みもしたくなる(笑)。 一応そこらへんの専門家の立場としては。けど、この作品を、名作たら占めている部分は、そういうガジェッド的な部分ではない、と思う。作中で、ロストマンと吾郎がなんどもしゃべっているが、この作品の核は、


日常に埋没できず、極地を目指しててしまう人間の性


という人間存在の大きな動機・ドラマツゥルギーを作品の軸として常に見失わないで、一貫して描き続けているからなんだと思います。つまり、宇宙開発も、ロケットの打ち上げも、戦争も、なにもかもが、『それ自体』を描きたいのではなくて、そういった極地・極限状態でないと息が詰まってしまうという人間のどうしようもない性のようなものを、追求しているんですね。そう考えるとこの作品は、見事なくらいにシンプルな構成になっていることが、わかるはずです。その膨大で複雑な設計や背景の世界観の緻密さは、「これ」を表現するためのすべて装飾であるといえるのです。もちろん、物語の『どこ』を好きに思うかは人それぞれですが、少なくともこの作品関して装飾は本質ではない、と思う。だからこそ、エンターテイメントのとして、13巻も継続していていっこうに飽きないのだと思う。



ネギま160時間目「世界が平和でありますように」 革命家は思想に殉じるべき
http://ameblo.jp/petronius/entry-10022483996.html


魔法先生ネギま! 18 (少年マガジンコミックス)



前に、ここで『魔法先生ネギま!』を書いている赤松健さんの作家性について、作家主義マーケティング(商業)意識が同居しているという意見を書いたのですが、僕の中にはエンターテイメント(物語)というものは、「売れる」=「たくさんの人に支持されて」「感情的カタルシスがあるもの」という定義をしているようです。ある文学好きな友人に、ネギまって何が面白いのかさっぱりわからない、といわれたが、上記の定義を逆にすると、例えば僕は文学というものの定義に、「売れない」=「少ない人にしか支持されなくて」「感情的カタルシスよりも、むしろあるドラマトゥルギーやキャラクターをどこまでオリジナルに、深く描写しきれたか」が、重要な評価のポイントとなる、と思っています。そう考えうると、『魔法先生ネギま!』などは文学的評価としては、二流の駄作と評価されるのは、その通りだと思います。高踏派的な文学的視点からすると、商業主義におもねって、オリジナルな深堀を妥協しているからです。

また『ムーライトマイル』は、その劇画タッチとシリアスな描写ゆえに、過去のアシモフなどの科学的、合理的な背景を緻密に積み重ねた意味でのSF的な評価で、ダメだしをくらったりするかもしれない。けどね、そうじゃないんだ。エンターテイメント(物語)は、文学よりも懐が深くて、集合で考えると物語のほうが大きな枠なんだよね。つまりは、物語とは、人々から支持されカタルシスがありつつも、その中に文学的な奥深さを内包できるんです。だから、そのバランスを取りながら、同時代の読み手にカタルシスを与えつつ、同時代のたくさんの人が持つ集合的無意識を写し取ることによって普遍性に至るという到達の仕方をするんだと思う。つまりは、日本のマンガが世界を席巻する力を生み出したのは、いまだから結論出せるけど、やはり週刊連載という独得の時代反映のマーケティングシステムを津きり出したから、と思うんだよね。というのは、たとえば、この『ムーンライトマイル』のような難しい話は、エンターテイメントとして書くのは、すごく難しいんだよね。だって、専門的なモノが知りたければ専門書を読めばいいし、楽しいものカタルシスが読みたければエロ本でもいいわけじゃないですか。わざわざ、内容的テーマ的なモノを、非常にハイレベルなものに引き上げながら、読者層を理解度の低い層に設定するという行為は、そもそもたとえばヨーロッパやアメリカなどの西欧世界にはないものです。ハイカルチャーとロウカルチャーが見事に二極分化している教養主義的な世界ですからね。根本は。


つまり、これは間違いなく、日本の『源氏物語』からつながる物語の作法や、歌舞伎や義太夫落語などの江戸時代からつながる大衆文化の伝統・・・・・人々が、ほっと一息つけるもの・・・にもかかわらず、その中身をレベル低いものではなく、より自我を高みに引き上げてくれるものを内包するという形式が、広くあまねく文化として定着しているが故に発生した現象なのかもなーと思います。



■恵まれた日本人と自衛隊〜いまの日本人というキャラクターの特徴は何か?



『MOONLIGHTMILE』太田垣康男著  恵まれた日本人
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20091101/p1


さてムーンライトマイルに戻りましょう。上記の記事で、ここに描かれる近未来での日本人像というものの典型というテーマを書きました。戦後50年も平和に堕している日本は、世界の弱肉強食からいうと笑えるくらい甘えた意識を持っています。これは、外国で暮らしたり商売したりすると非常に良く分かって、すぐに海外至上主義かナショナリストに分化してしまいやすい日本人の自意識のあり方を見ると、よくわかります。宗教的な普遍性がない日本社会では、絶対性というものが心理の基礎にないので、常に環境によって自意識が揺らいでしまいまうのです。


でもね、、、、それは確かに気が弱い甘えた自意識かもしれません。けれども、よく考えてみてください、、、その意識の根本は、「殺しあう前に話し合おうよ」とか「どんな理由があっても逃げであっても人を殺すことがこわくてできない」とか、とっても人類の理想的なこと純粋に信じているわけですよね。これって、ある種の大馬鹿者で、同時にある種の眩しい理想なんです。


馬鹿者、というのは、国際社会は均衡から成り立っていて、そのパワーゲームの均衡という現実に対して、目を背けてしまったり、理解できないで右往左往する可能性が高いのです。とりわけ国家レベルの判断が稚拙になりやすい。これをされると、日本は世界第二の経済大国であるが故に、その他の国々が非常に困ります。ゲームを理解していないトランプの相手とポーカーをするようなものだからです。


驕れる白人と闘うための日本近代史 (文春文庫)
驕れる白人と闘うための日本近代史 (文春文庫)



でも、こと個人に目を向けると、実は、日本人の戦後ずっと平和で殺し合いのない世界で暮らしてきた人が持つ常識感覚は、とても重要なものなんですね。競争よりも調和を、殺しあうことよりも楽しむことを、強い自意識よりも適度なヘタレを(笑)、、、などなど。たぶんもし殺し合いを平気な国の人々と友人になったら、相手は隔靴掻痒してイライラすること請け合いな純粋さです(笑)。ある意味、馬鹿なんじゃーねーの?って思われることうけあいです。



プラネテス (1) (モーニングKC (735))
プラネテス (1) (モーニングKC (735))



この作品でも、中東のエネルギー宇宙開発から見放された民族の一人が、テロリストになるんですが、その彼はハチマキ(日本人)に



「日本人にはわからないさ」




と語りかけています。



語りかけるところが、わかってほしいということなんだな、と(笑)。



ちなみに、上記で、ずっと殺しあうことを拒否した平和な国日本は、それが故に、平和が故に起きる病理というものが突出している国でもあります。村上春樹吉本ばななが世界的に評価されたりするのも、ようは、極端な現実(殺し合いのパワーゲーム)がない空間にいても、世界で最も極端な宗教テロリズムが発生したり、自殺率が極度にのびたり、結局は資本主義文明の最も勝者の空間であっても、こういう風に人間は苦しむんだっていうこれからの地球の大きな課題を表明しているからなんですね。

アンダーグラウンド (講談社文庫)
アンダーグラウンド (講談社文庫)

キッチン (角川文庫)


うう・・・・また話がズレた(笑)。




えっと戻すと、、上記の記事で、マレーシア人のルーシーとの話です。



>月面に基地を建設するネクサス計画の候補生として、それに見った援助を出すことができる日本人が当然、筆頭候補に挙がります。耕介とルーシーは、訓練の帰り道に強盗で出くわし、ルーシーは耕介を守るために犯人を射殺します。




全米でこの勇気ある行動に賞賛の嵐が吹き荒れ、耕介を差し置いてアジア人枠一名の筆頭候補に躍り出ます。




しかし「たとえどんな理由があっても」人を殺すことを容認することのできない耕介は、そのことに悩みぬきます。



この二人は、結局のところ結ばれませんでした。



そして、年月が流れて、、、今回のロケット打ち上げで日本はテロリストに妨害されるのですが、そこでこの種子島の国産宇宙ロケットプロジェクトの広報を担当している自衛官の女の子は、最後の最後で、テロリストを射殺します。



「なんだか・・・・あの雨の日からとても落ち着かない気分なんです・・・・テロリストとはいえ、自分の手で人の命を奪ったわけだし・・・戦うことを覚悟して自衛隊に入って訓練をしてきたのに・・・なんだか・・・・」


中略


「あんたは・・・・最高の自衛隊員さ!! その事はわしらの仲間がみんなしっている!!」

この女性は、その後耕介と恋仲になる予感で、物語は進んでいきます。いやーこれだけ長い尺を経て、このテーマにちゃんと決着をつけているところに、なかなかやるな!ってニヤってしました。ルーシーは、市民の射殺でした。今度の話は、大事なものを守るための射殺でした。



その差が本当に「差」か?問ういうのは難しい問題ですが、ね。



どちらにせよ、耕介も大人になったもんだ、と思いました(笑)。