【AzukiaraiAkademia2020年2月ラジオ】新世界系の先はどこに向かっているのか?『鬼滅の刃』に見る前提としての絶望は、人をオポチュニストに変える?


Academia

AzukiaraiAkademiaの2月の放送です。1月の内容とかなりかぶる気がします。でもマインドマップで見る物語の物語の(いまのところ)最終章は、新世界系と脱英雄譚の解説なんですが、ここでテーマになっている先に、昨今の特に週刊少年ジャンプの作品があるという流れで観察しています。『鬼滅の刃』『約束のネバーランド』『チェンソーマン』『Dr.STONE』などなのですね。この辺りは、新世界系------この世界に希望はなく絶望に満ちていることを、人は主人公になれないことを、痛切に突き付けてくる作品群として、代表作は『進撃の巨人』をあげていましたが、まだこれは未完ですが、、、、「その先」に何が来るのだろうという問題意識が、最近ガンガン展開しているような気がします。


『鬼滅の刃』公式PV


簡易にロジックを追うと、『鬼滅の刃』の特徴に、世界が「残酷(一話のタイトル)」に満ちているのに、「それが前提」となっていて、「世界が残酷なことそれそのもの」に絶望を感じない。なぜならば、既に主人公たちが、「残確な世界」というのを、所与の、既に与えられていて疑問に思うことのない前提として受け入れているから。

その中で、最も重要なことは、過酷な環境の中で、「生きる気力」をどう調達するか?というのが旧世代のテーマ。たぶん今の20代後半以上の世代は、そう感じてしまう。少なくとも、今40代半ばの団塊のジュニアの僕にとって、日本のサブカルチャー歴史(1980-2010年代くらいまでの)の重要なテーマは、「生きるモチヴェーションの調達」だった。いいかえれば、20-30年は、ずっと、この世界が残酷なことに対する怨嗟の歴史であった。しかしながら、少なくとも、「世界が残酷」なことを外部環境の基本としていながらも、昨今のキャラクターたちは、楽観さを失わない。これはおかしい。


なぜ絶望に満ちた「残酷な世界」をなぜ嘆かないのか?。


先に言ったとおり、どうも若い読者も、物語の登場人物も、残酷な世界を「絶望」とはとらえていない。それは、「余裕がある世界にそもそも生きていない」し、「将来が良くなるという希望も生まれた時からそもそもない」から、絶望(現実との落差)落差がないからではないか。いいかえれば、僕等年寄りの受け手、消費者は、絶望が足りなかっただけの、甘ちょろい発想で世界を見ていたので、「生きる気力がない」などという甘えたことが言えたのではないか。もっといいかえれば、高度成長期から、そのストックで生きれるほど、余裕がある世界に生きていたので、「生きる気力がない」などといったとても(今から見ると)甘すぎる問題意識がテーマになっていたのではないか。少なくとも、2010年代後半からは、こんな毎発想は、物語の世界から消えている気がします。


そして、そもそも、いつ死ぬかわからないのが前提で、嘆くような希望もそもそもない中では、実は、人は、楽観主義者になるようだ。ちなみに、このことは、絶望と希望というキーワードをずっと考えてきた時に、下記で考えたことの連想です。


先進国の持つ病〜社会が成熟していくと失われるモチヴェーションー希望がなくても頑張れるか? - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために


なぜ楽観的になるかというと、世界の残酷な真実が突きつけられすぎると、甘ちょろい自我の幻想(自意識のナルシシズム)に逃げ込む余地がなくなるため、世界のリアリティが人に迫ってくる。そのリアリティというのは何かと問えば、ほぼすべての新世界系的な物語群の答えはすべて同じだった。


世界は残酷だ。けれど美しい。


petronius.hatenablog.com


残酷でいつ死ぬかわからないし、自分の夢や希望や思いは、突然死のようにあっさち消え去るけれども、それ以上に「この世界を生きるリアリティの強度」というものが、美しすぎて圧倒されるので、「生きててよかった」と感じるようなのです。ようは、唯我論や、自我のナルシシズムを超えて、世界(他者)と出会ったという風に考えられますね、哲学のワードでいうと。


いってみれば、「新世界系」の物語群は、「これ」が到達点であった。


しかし、「その先を描く物語」は、「これがスタート地点で、疑うこともない前提」として始まるようだ。


炭治郎の心理描写、敵対する鬼との関係、取り扱い、強化などのドラマトゥルギーの取り扱いから、この辺りを検証しています。


ちなみに、ここでLDさんが主張する坂本ジュリエッタ理論(『エアマスター』の登場人物)のドラマトゥルギーとしての類型は興味深いです。

f:id:Gaius_Petronius:20200307024224j:plain
坂本ジュリエッタ理論

エアマスター 1 (ジェッツコミックス)



僕のブログのテーマで善悪二元論御超克を扱ってきましたが、その主軸の発想は、


悪にも理由がある!


でした。これらの系譜や積み重ねを踏まえて、炭治郎は、すべてのエピソードで、時にはそこまでわざわざ必要もないのに過剰に、敵の鬼に共感してシンパシーを感じています。


が、結論は、すべて同じです。


「だが、死ね!」


(笑)です。悪を為したものは、許されないというまぶしいくらい鮮やかな、信念が繰り返されます。いや信念とか甘ちょろい感じじゃないな、当たり前のように、どんな理由があろうとも、悪を為したら、許されることはないんだ、という「世界観」が、「前提」として空気のようにあります。


これは、とても興味深いです。



そして、この「世界は美しい!」という感覚でもう一つ連想したことを。


セカイ系や新世界系の突破の一つとして、『嫌われ松子の一生」を、LDさんといつもあげているのですが、この評価が、まさにこれですね。人生は残酷で地獄で、いいことは何一つないけれども、、、、、そのすべてをまとまって眺めていると、そのリアリティの強度の「美しさ」に圧倒される。


映画「嫌われ松子の一生」


ちなみに、最近、息子が大好きといって見ている『痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。』のアニメを今ある奴全部見たんですが、これが、『転生したらスライムだった件』と同じ感覚を受けるんですよ。ドラマトゥルギー的には、実際の起伏が全然ない。俺強ぇぇや強くてニューゲームみたいな感じなのですが、なんというか、そういう「くさみ」すらもない。ただ平坦にいろんなことが起こるのを眺めているだけの感じがする。これは、仮に、成長物語=主人公がドラマのエピソードの連なりによって変化していくというものを物語の基本形に置くと仮定すると、非常最低な、だめな、評価に値しない物語になります。だって、主人公の動機が駆動しないし、エピソードの連なりがカタルシス(LDさんのいう結晶点)がないものになってしまうので、「物語」の体をなさない。小説家になろうの昨今の作品に、これが多い。


TVアニメ『痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。』ティザーPV


2019-3-24【物語三昧 :Vol.12】『転生したらスライムだった件』2018 菊地康仁監督 この素晴らしい世界に祝福を!と同じ文脈を感じました。


ただ「現実」を描いて、その「連なり」を、ロードムービーのように眺めているだけでは、なんの感情的起伏も生まないじゃないか、という評価です。ただこれを、どうも様々な感情的起伏、生きる動機の悩みの果てに、「世界自体は残酷だけど美しい」という強度を「眺めたい」という欲望の系譜で考えると、もしかして、だから今は受けるのかな?という気がします。この文脈で考えると、物語のカタルシス的には、ほとんど起伏を感じない、『転生したらスライムだった件』が、でも、いいのはなぜだろう?と不思議に思ったときの上記のラジオの分析がつながってくる気がします。



さて、前に進んできた感じがします。楽しいです。ちなみに、2月は、記念すべき、小川一水さんの『天冥の標』が読み終わった時で、けっこう熱く語っています。めちゃ傑作なので、みんなも読もう!。

天冥の標Ⅰ メニー・メニー・シープ(上)