『ココロコネクト ミチランダム』 庵田定夏著 伊織の心の闇を癒すには?〜肉体を通しての自己の解放への処方箋を (2)

ココロコネクト ミチランダム (ファミ通文庫)

評価:★★★☆星3つ半
(僕的主観:★★★★☆4つ半)

■長瀬伊織の心の闇は、体験的なものでなければ解決がつかないと思う

ココロコネクト』 庵田定夏著 自意識の病の系列の物語の変奏曲〜ここからどこまで展開できるか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20121003/p1

このポイントを解析、評価する上で、まずは長瀬伊織というキャラクターをどう救済できるか?が、この物語のポイントだと僕は思って、それは、書きました(記事をどっちの順番で掲載するかわからないので、この記事を出した時にはまだ掲載されていないかも、、、)。・・・・なんか長文になってきたので、伊織ちゃんの記事を次回あげるかわからないので、簡単ポイントを書くと、なぜ、僕がこの人の「ことばによる説明によってカタルシスを展開」を求める「やり方」が、いいかえれば、京極夏彦が示してきた京極堂シリーズの認識論的な展開なのですが、それがなぜ、ダメなのか?と問えば、最初の時点で、この物語の救われる対象が、僕には長瀬伊織に見えていたからです。

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

そして長瀬伊織のテーマは、この女の子の心の闇、自意識のナルシシズムの檻を打ち破るのは、たしかにファーストステップとして認識論的な救済が必要なのは間違いないのですが、ここまで根深く子供時代に心がこじれて刷り込まれてしまった時には、体験的にしか救済は来ないんだという選択肢の方が割合的には大きな答えになると僕は考えているからです。体験的にとは何か?といえば、前に、『マリア様がみてる』のシリーズで、こういうことを書きました。この問題意識と同じものなのです。

同時に僕は思うのだけれども、この手の百合関係には心を閉ざした大金持ちの娘ってよく出てくるんだが・・・見事に、その類型ですよね、祥子って。ロングヘアーに黒髪で、ツンツンキャラ。そして、家に縛られているということは、この手のキャラは、とっても「心を閉ざしている」傾向が強い。かつお金持ちの家の、しかも良い遺伝子を持っている場合は、年齢以上に大人びて(家のあり方がその人を年齢以上に大人として振る舞うことを要求する)、且つそれを支えるだけの頭の良さがあるので、内面が複雑に屈折する場合が多い。


だから、祐巳のような、単純なストレートな心根の人を好きになるんです。・・・とすると、これって文学作品なんかで年齢フリーにすれば当然のように、SEXを真っ正面から描いて肉体的な部分と精神的な部分の話になると思うんですよねぇ、、というか、確実にそうなるわけではないが、僕はそういうのが好き。というのは過剰な自意識は、なにかしらセクシャルなものでしか解放されないと思うからだ。スポーツとか音楽(楽器演奏ね)とか、そういった肉体・感覚開放系に主題が載っていればいいが、祥子さまは、それがまったくない。とすれば、恋愛と家の問題を突き詰めると、、、、と思っていまうのです。


マリア様がみてる ハローグッバイ』 今野 緒雪著 ついに祐巳・祥子編の終わり、大好きだが一点不満があります!
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090110/p1

マリア様がみてる ハロー グッバイ (マリア様がみてるシリーズ) (コバルト文庫)
マリア様がみてる ハロー グッバイ (マリア様がみてるシリーズ) (コバルト文庫)


ようは、SEXやセクシャルな「体験的な次元」もしくは音楽なんかでもいいんですが、体感的な次元でしか、この闇や自意識の問題は解決、昇華されないと思うんですよ。このセクシャルなものを、肉体的な次元と精神的な次元を絡めて描くのは、ほとんど不可能に近いようなテーマで、このあたりのものをうまく描ける人はとても少ない、、、というかまずいない。


というのは、体感・体験的なものは、言葉やロジックによって積み上げられて世界が構築されている小説世界の構造には、非常に合わないからだろうと思います。万の言葉より、『触られる』『触る』触感の方が、一気に理解や感受が進むケースが多いのは、わかるはずだろうと思います。


ようは、、、、、こういう風に心がねじれてしまった人の救済って、もっと抽象度を上げていえば、アダルトチルドレンの救済って、セクシャルなものや恋人との対幻想の再構築(=これは認識論的な方になるね!)のミックスによってしか解放されなんじゃねーかなーと、自分の数十年の経験を分析してても、たくさんの量の本や物語を積み重ねてきたものを通しても感じます。まぁ、これは、実際のこの手の話の救済が、結婚詐欺にかかったり、怪しげな恋愛教祖の(食い物にされるだけ)餌食になったり、もしくはどっかの相撲さんではないですが整体師(苦笑)とかに懐いてしまうとかいう現象が起きるのは、健康とか身体性の解放・拡張に関わる転換(=救済)がなけえれば、自分が、変われた!これでいいんだ!という世界への肯定感が訪れないからです。スポーツやダンス、もしくはさっき言った整体とかの健康(=身体の調整、調律)によって解放されることもありますが、これは、訓練(=ディスプリン)がいることなので意志力が問題になるケースが多く、、、、ほっといて自然に訪れるという意味では、恋愛関係から深みにはまってセクシャルなものを通しての方が、非常に個人体感的には容易に感じられます。実際は難しさはどっちも同じくらいなんじゃないかと思うんですが・・・。


まぁ、そして、学園ものステージを選んでしまった時点で、このセクシャルなものによる解放というのは、ほぼ選択できなくなってしまうっているうえに、作者が体験的な次元でエピソードを展開しないという手法の限界から、この作者は、伊織ちゃんをどこまで救済してくれるのかな?と思っていました。そして、「まだまだとても不足している」というのは、この前の話でちゃんと展開してくれたので、ああ、作者やっぱりわかっているんだな、と感心しました。


そう、ネタバレですが、太一と結ばれてしまっても、もう一つ物語の、いま言ったようなセクシャルなものにドロドロにまみれた(笑)物語を経なければ、セカンドステップの伊織ちゃんの救済はあり得ません。そして、そのことは、この『学園の仲間との絆』というファーストステップで構築されつつある重要な絆を崩壊させてしまいます。セカンドは、ファーストに支えられる構造にならなければならないので、神様である作者としては手法的にそれは採用できないし、なによりも伊織も太一も、、、特に伊織は、その選択肢は選べません。


本当の恋だったけど、おわってしまった。


というのは物凄く正しい物言いです。この辺は、作者の言葉の選択がとても素晴らしい!!。ここでいうファーストステップ(=認識論的な転換による救済)は終わってけれども、その次に進む相手は、あなたではなかった、ということを明確にあらわしているから。というか、まーそんなこと作者が考えているかわかりませんが、僕にはそう思えて、伊織ちゃん、、、、ちゃんとモノがわかった、子だ、、、、と感心しました。この子は、難儀な子だけど、凄いいい女になるよ!!!。ずっとこういうアダルトチルドレンちっくな女は、臭みがあって僕は大嫌いなんですが(=自分が間違いなく幸せになれないから)、このシーンとセリフで、なんというか、めっちゃ好きになりました。この子、いい女になるわーーーって。。。「自分自身のことがわかっている」ということが、生き抜くうえで、幸せになる上で、凄く大事なこと。彼女は、セカンドステップが、まだその「時」ではないことを明確に「体感している」上で、論理的に上記の言葉をしゃべりました。これは、作者が、そういうことを自覚しているからだろうと思います。それは、人生において一番大事なことです。正しいステップを踏めば、「時」がある限り、必ず人生は自分は変わっていくからです。

このテーマは、「この先」があるんだけれども、この作者が見事だったのは、「この先(=セカンドステップ)」は、太一とではいけませんと、はっきりと伊織ちゃんに意識させて物語を止めているところです。ファースト・ステップの恋の物語は、ここで終わった…けど、『終わったという認識』は、認識論的な段階での解決はしたんだ!という納得感を彼女たちに与えています。だから、伊織ちゃんは、ねじれたこともなく、またファーストステップの次元でうろうろすることもなく、次の恋では、きっとちゃんときれいに正しい形で、セカンドステップに踏み込んでいくことでしょう。ちゃんと段階を踏んで、へんに物事をねじれさせないのも、正しく生きていくコツです。伊織ちゃんは、自身の持つ闇、自身の人生のテーマについて、かなり重いものであるにもかかわらず、高校生レベルで解決できる限界ぎりぎりまでちゃんと物語を進めています。そして、それについての納得もあるので、そこに戻ることもない。これは、うん、素晴らしいね。物語としてもいいし、なによりもこの子の人生にとって、凄くいいモノであろうと思う。いい小説でした。


モテキ』 久保ミツロウ著 本質のコミュニケーションか・・・http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110611/p6

モテキ (1) (イブニングKC)

ちなみに、モテキもこの辺のテーマをかすっていますが、、、作者が意外に健康で、闇に落ちないなー(笑)。落ちないので、ギャグで止まってしまう。まぁそれも、クオリティだけどね。・・・・これならば、やっぱりこのテーマは、花沢さんの『ルサンチマン』が大傑作です。

ルサンチマン 1 (ビッグコミックス)

ちなみに、これらテーマ僕は、性愛と自意識のサーキュレーションという名前でいつも考えていますが、考えがグロイ上に、真っ黒で、しかも体感的なことは、やっぱり体感的なので、なかなか考察が進みません。いや頭では凄い進んでいるんですが、、、ちなみに、J・さいろーさんの『クラスメイト』とか『SWEET SWEET SISTER』は、こんな表紙ですが、見事な傑作でした。ああ、自意識と性愛を描くなら、こうなるんだよなって思わせる素晴らしい作品です。なかなか読む人がそんなにはいないマイナーなものの上に、その表紙は、どうなの?って言う売り方ですが(笑)、まぁマーケティング的にはそれしかないんだろうと思いますが、これはこの系統の物語類型のフォーマットになるモノだとおもうので、おすすめです。

http://ameblo.jp/petronius/theme-10004579510.html

クラスメイト (CORE NOVELS)SWEET SWEET SISTER (コアノベルズ)

ボディ・レンタル (河出文庫―文芸コレクション)

この世からきれいに消えたい。―美しき少年の理由なき自殺 (朝日文庫)
この世からきれいに消えたい。―美しき少年の理由なき自殺 (朝日文庫)

このへん読んでいたころが、自分の考察が一気に進んだ時の話ですね。このころ、そういえば、SomethingOrangeの海燕さんにすすめられて?だっけか、エロ小説をがんばって読もう!という強化月間だった気がする。たしか、おれの妹が王様でどうのこうの?的なのを読んだの覚えています。フランス書院かなんかの。あっとちなみに、この『ボディ・レンタル』も、この時期の自傷系の女の子の心象風景がよくわかって、物語的には???というか、そんないい出来でもないけれども、私小説の文学として考えると、なるほど、こういう理路でこの人は「自分の肉体に対して客体視の感覚」を持つのか、ということがよくわかって、よかったです。これの男の子版は、宮台真司さんの『美しき少年の理由なき自殺』っていう、たしか宮台さん信奉者だった学生が自殺した話を受けて書いたこの本が、とても秀逸な解析でした。これは、ようは僕がまさにナルシシズムの檻という地獄にはまった時に発生する「精神と肉体の分離感覚」による「世界からの拒絶感と不感症」のテーマを、まさに追っているものです。このへん、あと小池田マヤさんの『聖☆高校生』なんかもお薦めです。

聖☆高校生 11 (ヤングキングコミックス)

ああ、基本的に、恋う自意識、ナルシシズムの檻にはまっている時に、最も端的に表れる現象は、自分と自己の遊離感覚です。自分というのは、(自我・精神+肉体)で出来があっていて、そのミックスが自分です。人は、大地と空気の肉体的体感から離れては生きられません。けど、自己遊離の感覚とは、この肉体的感覚と精神のロジックが分離してバラバラになって空転をする現象です。こうすると、ひどくなると、ナイフで自分の手首を切っても痛みがあまり感じられません。僕は自傷したことはないですが、中学ぐらいにものを考えすぎて、まったく肉体感覚がなくなってきて、、、あれ、やべーこれ、、、と思って、そこから武道と部活にめちゃめちゃ、はまりました。皆さんもご存じでしょうが、僕は汗とスポーツと肉体が大嫌いない人なんですが(笑)、そうしないと自分お子の地獄は抜けられないな、という認識が論理的にありました(笑)。当時実存主義哲学を読んで、どうも中学生の僕はそういう結論に達したようなんですね(苦笑)。ほんとは、女の子とのガチの肉体込の恋愛でもよかったのですが、それは、中学生の内向的文学少年にはハードルが高すぎたので、今後の課題にとっておきました(笑)。あの時は、部活と道場の掛け持ちで、あほみたいにやってましたねー。けど、肉体的訓練を、継続してやっていると、焦点が戻ってくる感覚がありました。特に、武道がよかったですね。武道には、そういった、気・剣・体の一致(たしか北辰一刀流千葉周作?)など、このことに関する理論がきちんと訓練に反映されています。これは東洋武術の中国的な宇宙観からくる発想でしょうね。東洋武術には、宇宙と一体になって私を消すという、アニミズム的な気の概念が体系づけられているので、正しい形で訓練していると、肉体を通しての自己の解放が得られるようになっているんです。by拳児(笑)。まぁ、東洋武術の理論に関する本を読めば、どこにでも出ている当たり前すぎて説明も必要がない事実です。

拳児 (1) (小学館文庫)

どこかのコメントで、ナルシシズムの檻を出るにはどうすればいいのか?という質問がありましたが、当時中学生の僕の結論は、これでした。そして3年ぐらいやって、ああ、これは正しかったんだな、とわかりました。ちなみに、訓練は、すべて簡単には変化を及ぼしません。だいたい全てにおいて、3年くらいかかるものです。なんでも。また、正しい年齢で、正しいステージでそれをやらないと、うまく習得することもできません。そのへんの『学ぶ時と順番』に関する、ことは、これも『拳児』に書いてありますね(笑)。漫画かよ、と言わないでくださいね。この漫画、李書文から連なる八極拳の正統な後継者になった日本人の男の子の物語ですが、東洋武術の真髄を学ぶ順番が見事に描かれているビルドゥングスロマンです。


まとめると、ナルシシズムの檻という地獄、言い換えると自意識の空転にはまった人が、どのようにそこから自己を解放するかという問題。さらにいえば、アダルトチルドレンが陥った心の闇とルサンチマンをどう解消すればいいのか?。それは往々にして子供時代のトラウマを反映している実存なので、なかなか変化させにくい。ここでは、1)認識論的転換+2)肉体的解放の二つがミックスにあって、2)の肉体的解放には、運動やスポーツなどによって世界とつながる系統とSEXによって世界もしくは対幻想で世界とアクセスしなおすという手法があることが確認された、というところかな?。ちなみに、ナルシシズムの闇とは、端的に言うと、自己と肉体の遊離という定義を僕はしていて、「肉体を通して感じる世界との一体感」「世界とともに自分が存在するという実存の存在論的感覚」という「世界に対する肯定感覚」が失われることを言っています。これを「取り戻すため」には、肉体を通しての世界との一体感を、精神に接続させてあげるという処方があるようです。ここでは、概念として、自己、肉体、世界という3つのフェイズをの概念を分けて考えています。この接続がそれぞれに断絶している状態が、僕が言うナルシシズムの檻です。だから、これをコネクト!(=接続)させてあげることが、処方箋になるというのはわかりますよね。抽象的には。これを、あとは、いかに、具体的な方法を見出すか、が勝負になります。ちなみによく「自己の解放」という言葉が文学で使われますが、これは、「自己」という精神が、肉体と世界とのアクセスを失って「閉じ込められている」という感覚が心に訪れるので、それを「開け放ってあげる」という意味があります。ここでよく風や光が比喩や暗喩に使われるのは、ドアが開かれたときに最初に入ってくるものだからです。


いやー、あいかわらず、僕の文章は、なにをいっているのか、ほとんどわからないですねー(苦笑)。こんなの読む人&わかる人いるんかいな?、といつも思う。


■参考記事

ココロコネクト』 庵田定夏著 自意識の病の系列の物語の変奏曲〜ここからどこまで展開できるか?(1)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20121003/p1

ココロコネクト ミチランダム』 庵田定夏著 伊織の心の闇を癒すには?〜肉体を通しての自己の解放への処方箋を (2)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20121126/p1

『コロコネクト ユメランダム』 庵田定夏著 あなたには思想がない〜Fate/staynightの衛宮士郎のキャラクター類型と同型(3)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20121030/p2