『ストレンヂア』 安藤真裕監督 戦士が戦う個人的な理由を物語にすると

ストレンヂア -無皇刃譚- 通常版 [DVD]

評価:★★★★☆4つ半
(僕的主観:★★★★4つ)


おもしろい。アニメーションとしての出来が、素晴らしい。特に、最後のバトルシーンは、凄い。ふと思うんだが、日本の剣士と、中国の剣士、、、、こういったスタイルの違いの名人級が戦うというの異種格闘戦を見れるってのは、うーん、面白いなーと思う。

とはいえ、ただオリジナルアニメーションとしてできの良さを語る前に、脚本で、いろいろ思ったことをまず書きたい。

こんの作品の脚本は、大きく二つのかっかくがあるように見える。主人公の名無しと羅狼のバトルと、名無しが守るべきモノを見つけ出すということ。

まずは、羅狼を追ってみたい。

一方の主人公である羅狼は、異邦人であること(中国の皇帝に仕える白人)が理由でもあるが、マクロのことや組織のことなどどうでもよく、本当に彼が望むのは、渇きをいやすこと、、、、


「この世界に意味はなく、我が求むるは血と戦のみ」


(by月詠-魔法先生ネギま 293時間目 開戦!ラストバトル!!)

魔法先生ネギま!(28) (少年マガジンコミックス)

ちょうど今週の週刊少年マガジンで、このようなセリフを吐く剣士のセリフがあって、ああ、、、この類型ってあるよなーと思っていたところなので、シンクロしました。僕は常々、「人は何の目的で生きているのだろうか?」っていう、えっそんな難しいこと考えてどうするの?というようなことをボーっと考えているんですが(笑)、自分はまず置いていて、こういった物語の世界の人間たちは、いったい何を求めて・・・究極的には、どういった動機を持って、「その世界」を生きているのだる?ということを、よく探そうとします。もちろん現実の自分の問いの補完のためでしょう。

そういった問いを発した時に、この羅狼って男は、ただひたすらに、「自分自身の内的なモノを燃やすこと」を目的に生きているんですよね。えっとこの意味をもう少し敷衍すると、この人って、「孤独」で「単独」で生きているんですね。いいかえると、「人と人とのつながりの中で生きていない」のです。それは、端的に言って、生まれの問題によって彼には、組織に生まれて馴致(=飼いならされて生きる)されて生きることができなかった「異邦人」だからなんでしょう。ようは、異邦人は、そこにある「共同体」に入ることができないつまはじき者なので、その育ちゆえに、彼には、「他人を、仲間を、組織を通して」喜びや生きる意味を見つけるという「発想」がそもそもないのでしょう。こうした人間は、もちろん同時に、「他者を人間」としてとらえることが凄く難しい、というか敷居が高くなります。他者を人間ととらえるには、自分と同じ共通項がなければ、同じ「類」のものであると思えないからです。

そうすると、神鳴流の剣士である月詠やこの羅狼のように、価値があるものが「自分の中にある手ごたえ」だけになっていきます。だいたいに、内的な手ごたえで最もシンプルでテンションが高くなりやすいモノは、基本的に「戦い」です。特に肉弾戦。現代人の退屈を解消してくれる一時の刺激剤としてサッカー・ダンス・セックスといいますが、ようは、「肉体」の開放や「肉体」の感覚を研ぎ澄ませてリズムに乗せることで、ある種の実存を感じる方法と言い換えることができるでしょう。

それが、「命の遣り取り」になって、「自分と同じくらい強いやつを殺したり戦うこと」それ自体が目的になっていく、というような戦士という類型は、物語ではよく描かれると思うのです。

さて、そうなると、この羅狼や月詠にとって最も重要な生きる目的は、「より強いやつと闘うこと」になります。もちろん、微妙にこの類型の目的には差があって、羅狼は「より強いやつと戦うことで沸き起こる心の中の熱い実存を感じること」でしょうし、月詠ならば「より勝ちのあるように見える他者の存在を自分の手で止めることによる命の熱を感じること」になります。

これらの行為が、傍目には、殺人マニアやバトルマニアに見えるという意味では、外側からそっくりです。大本の動機は同じですが、そのための手段は少しずれていますね。こういうロジックのある動機を僕は、「自分自身の内的なモノを燃やすこと」と呼んでいます。

一言でいえば、彼ら彼女らは、「自分の内部にある喜び=価値」を「肉体を使った死を天秤にかける行為」でしか、実感できないということです。

現実の社会にもいますよね、こういう人。現代社会ではソフィスティケートされますが、「えっ!なんでここで喧嘩売るの?」というようなちょっと壊れている行動をとる人や、リストカットなどの自傷もこの類型の行為が自分の身体と「身体を傷つけることによる実感(=肉体の使用)」と同じものだと僕は思います。

ちなみにこの類型の性格・動機が、バトルモノを描くにおいては非常に都合のいいものであることは、いわずもがなでしょう。

しかしながら、こうした類型の動機を描くと、物語を描く上で、どうしても「虚無の深淵」や「破滅」に向かっていること、、、、究極的には上述したように「この世界には意味はない」と思って、意味ではなく肉体の強度を求めている人々なので、物語の落ちという意味での「意味」を描いてくれない(にくい)のです。

では、こうした「この世界には意味がない」だから「肉体の強度による生きる手ごたえ」だけで生きていくのが正しいのだ!と叫ぶやつらの対抗馬としてどんなドラマツゥルギーが必要か?ということになります。つーかそれを用意しないと、そもそも観客は、バトルは楽しいかもしれませんが、羅狼や月詠にはなかなか感情移入できません。なぜならば、意味を求めていない動機なので、読んだり理解してみるということを基礎とする「感情移入」はされにくいのです。その代わりにその「動き」や「雰囲気」に感情移入する人はいるでしょうが、、、大多数にはなりにくいでしょう。

すると、こういった破滅に向かう(=戦って戦って死ぬまで破壊しつくすまでギリギリに行こうとする)類型に対して、「それを止める」ということが正しいという論理が要求されます。


そこで登場するのが、主人公の「名無し」という男です。主人公の「名無し」という男が、問われているのは、武士として戦争をすることで「守れなかったもの」の悔恨を抱えて生きている。武士という存在は、その存在の意味が「何かを守るモノ」として想定されています。そうでなければ、戦士という暴力装置には、いっさいの倫理や基準がなくなり、そもそも上記の破滅へ向かう「戦うこと自体を目的とした永久運動」になってしまいます。もちろん、そもそもが、そういった「死」や「死を秤にかけて現実と相対する」という存在として、文化人類学でいうところの「聖なるもの」として見られていたようですが、そこを起源にしていても、やはりその殺戮技術は、何かしらの防衛を行う価値体系に刻み込まれていきます。戦士が組織を作るというのは、共同体の防衛を目的とするに決まっていきますから。

そうすると、武士・・・野武士や浪人には、ある種の哀愁が漂うことになります。それは、「守るべきモノ」を無くしたある種のアノミーの状態にある人々ということになるからです。放浪している浪人には、美しき実存回復の物語は二つしかなくて、1)仕えるべき主君を見出す(=戦うべき大義を得る)か、2)大切なモノを守る(=自分の個人的つながりを持つ何かを守る)ってことです。この基本的に、守るべき対象を失ったにもかかわらず、倫理を保ち続けているモノを武士と呼ぶんでしょうね。いや、ここでイメージしているのは、黒澤明監督の『七人の侍』です。野武士であるってことは、別に野党になっても盗賊になってもいいじゃないですか?にもかかわらず、ある種の、倫理やルールに縛られて生きているエリートである武士たちと、それを利用するしたたかな農民(=大衆)という構図は、なかなかに黒澤的です。彼は、武士をある種の特別な世界にきるエリートとして描きますが、エリートと大衆という二項対立を描くために、結局は、大衆に利用されるだけされてポイという悲哀のエリートという構図になります。この辺が、ダイナミックです。

七人の侍 [Blu-ray]

さてさて、「名無し」にもどります。彼は、ようはここで出てくる「仔太郎」という少年に、守るべきモノを見出し、殺し合いに倦み、自分の殺戮装置としての機能に嫌気がさしてしまっている中に、「その暴力装置を正しく使うための倫理」を見出して、自己回復を図るというダンディズムになるわけです。ストイックな人ですよね。そうい意味では。非常に狭い範囲の目的。

つまり、この映画って、というか脚本からすると、そこで「個人の倫理」を問うているよな、と思いました。

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それは、黒澤明監督の時代劇『椿三十郎』なんかもそうなんですが、思いっきりミクロで個人視点。というのは、こういう武士、浪人、野武士の物語って、ようは「戦うべき理由を探している物語」なんですね。羅狼のような人間の答えは簡単。それは、ただ人間同士が死をかけて肉体の極限で戦うという、「その行為そのもの」に価値を見出しています。けれども、ミクロのバトルを描こうとすると、その戦う相手が、「名無し」のような「守るべきモノを守りたい」人間になる。

というのは、これって・・・ようは、「仔太郎」という少年を守りたいといういう理由は、ミクロの話なんですよね。ミクロというのは、凄く個人的なレベルの話、ということ。

非常に象徴的なのは、「寺」という組織の命令に逆らうことができなくてかわいがっていた「仔太郎」を中国人に売った祥庵という僧と名無しの会話が典型的。このエピソードは、組織に逆らえないのは仕方ないよな!!!と抗弁する祥庵に対して、まず不可能でも「ここ」で少年を救いに行かなければ、「個人の内的倫理」として生きる尊厳がなくなるというという問題設定になっています。そこで、名無しは助けに行く。行かなかった祥庵は、わかりやすく自殺します。ここでは、守るべきモノは、「どんな理由があっても守らなければならない」という倫理があって、それが為されないならば「生きる価値がない」という風にエピソードが物語っています。実際に、そこに「助けだせるかどうかの実行可能性」とかそういうことは問われていません。


これって、こういう究極の立場に立たされた時に、組織の命令やマクロの状況(=実際にできるかどうかの可能性)を超えて、個人の倫理は全うされなければならないという「倫理」が背景にあります。これって、、、いいかえれば、英雄至上主義の論理なんですよね、、、、そう思いません?。だって、とっても小物で情けない男だけど祥庵の気持ちの方が僕わかるよ。大きなマクロの組織に使えてい生きている人は、「それ以外の生き方を知らない」ので、そもそもアウトローで一人で生きていける実力持った名無しや羅狼とかと一緒にして比較しちゃーいけないんだよ。アウトローとか野武士、一匹狼系は、「そもそも一人で生きていける動機と才能」をもっている人なんだから。また「組織におけるしがらみ」もない。だから、究極は、個人の内面で割り切れば、その倫理は貫徹できる。


・・・これって、、、、最近思うのは、ちょっと卑怯な問題設定だなーと思うようになりました(昔はカッコイイと思っていたけど)。というのは、たぶん大組織に長々仕えている社畜だからでしょう(笑)。この対立軸は最後の最後で、個人同士のバトルシーンにしなければならない要請、、、またアウトロー的に世界の無意味さを告発するマイナスのキャラクターに、プラスのキャラクターをぶつけるとなると個人の倫理使命感で戦う人間を想定しないといけないってことなんでしょう。


けど、、、これって、極端な話、舞台設定、物語の範囲が、ミクロの話なんですよね。だって、どこまでいっても、羅狼と名無しの個人的な喧嘩と、名無しの少年を守るという「個人の倫理の次元」のみなんですもの。ちなみに、黒澤明の『椿三十郎』なんかも、非常に狭いミクロの話なんですが、、、でおもそれでも、物凄いスケール感があるんだよね・・・。それが、なぜか僕にはまだわかっていない。それこそが、黒澤明の才能であり特徴なんでしょうが・・・。


ちなみに、ここで思い出すのが、『コードギアス 反逆のルルーシュ R2』のスザクのセリフ。体制側に迎合して、日本を植民地にしたブリタニア帝国の二級市民として働き、そこの中で栄達を図るスザクに対して、ブリタニア人の貴族の血を持ちながら日本解放のレジスタンスに身を投じたカレンの「弱きものを踏みにじるな!」という告発に対する返答。

「組織の中でしか生きられなかった人はどうすればよかったんだ!」

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これ前にもどっかで記事を書いたんですが、スザクは、日本が植民地支配されてしまったマクロの状況に対して「マクロのレベルで」言い換えれば「組織を動かして歴史を変えていこうという手段」を選びました。しかしそれには時間はかかるし、途中で意図を骨抜きにされてしまう可能性が高く、「いまこの時大切なモノを奪われる」ことへの抵抗としてカレンはテロを選びました。テロのままであれば、それは話になりませんが、それが「独立戦争」になった時点で、戦争になったので、それは正統性を持ちました。ちなみに、テロは許されないが、正統性を担保できれば戦争は許されないことではない、というのが怖いところですよね・・・。


えっと、話がずれた。


ようはね、この『ストレンヂア』って、素晴らしく完成された洗練された面白さなんですが・・・・そこの評価とは別に、この類の作品を、キレイにまとめると、「マクロを描く」ことが失われるんだな、と思ったんです。というのは、祥庵という僧の描き方が・・・あまりにかわいそうだったなーと思ったんです。だって、かれが仔太郎を中国で救わなければ、仔太郎は死んでいたわけでしょう。基本善人な人なはずなんですよ。彼がもっとしたたかで政治力があれば、、、とか、そもそもそれなりの国の一級の武士だった名無しにしたって、武士のくせに「戦争の現実」「暴力背うちである才能を持った自己の存在意味」がすぐ揺らぐようでは、それって子供だよなーと思うのです。


一番のオトナなのは、虎杖将藍ですよね。彼は、自分の野心のために、組織のトップを目指すこと、、、その間に、矛盾を戦い抜くことを知っています。家族がいることからもそれはよくわかるし、また「身の丈に合っていない」と自分の才能を、そこまで評価していないにもかかわらず、夢を捨てないところ、、、など。この姿の一端に、『もののけ姫』のエボシを思い出します。彼女が最も生き方としては、高貴だったと思います。自分の守りたいモノや大切なモノのために、「国を作ろう!」と決意するところが。


などなど、いろいろ考えました。ちなみに、『もののけ姫』と黒澤明は、日本時代劇の重要な作品だと思うので、このへんの見比べは、面白いですよ。


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あっと、そうそう今日の感想のまとめをすると。人は何のために生きてるの?という、益体もない問いに対して、とにかく世界なんか無意味だから、バトルだバトル!!!と混乱を愛する人間というのはいるもんです(笑)。ちなみに、僕も、どっちかというと混乱Loverです(笑)。けれども、そういったもんに相対する大きな個人の倫理は、「おれには守るものがある!」と行動することだよ、、、と。けど、「そういった守るもの」を、「本当に守る」ってのは、個人の力やバトルだけではどうにもならないんではないの?ということ。個人のバトルでは守れるものは限られてくる。ちゅーことは、「組織」を作ったり組織に従うべきか?となるんだが、そこにも矛盾がある。というのは、「組織の犬」は、大体において、組織の大義のために、直接的に自分の守りたい対象を守れない、ということが発生してしまうからだ。さて、そういった世界で僕らはどう生きるべきか?。難しいねーというのが今日の考えたことでした。