時々癒されるので、『ビビッドレッド・オペレーション』を見るのだが(これって2013年の9月に書いています・・・・最近、掲載する時期がすごいずれる・・・・)、これって見ればわかるが、あきらかに『ストライクウイッチーズ』のインフラを利用したというか同じような作品だよね。マネとは言わないけれども、コンセプトは全く同じ。言い換えれば、たぶんこの企画を通す時のマーケティング・コンセプトって、いわゆるそのへんの流行ものと全く変わらなかったと思う。
とはいえ、お金がかかっているのかどうかわからないんですが、とってもちゃんとした作品で。キャラクターのデザインやストーリーの展開、ガジェッドの類など、どれも最先端とは言わないが現代の最前線の水準に十分到達していると思う。『ラストエグザイル-銀翼のファム-』でも思ったんですが、、、、すごく「まとも」な作品です。・・・・とっても、なんというか考え抜かれて、必要なパーツがすべてそろえられている感が凄くする。しかし、、、、電化製品で言えば、なんというかなーいまでいえば、i-phoneのすべての機能はあるんだけど、アップルのロゴがなくて微妙にデザインが悪いとか、そんな感じ。
何がダメなんだろう?ってずっと考えていました。
そこでふと『ガッチャマンクラウズ』を見ていて、実はそれほど物語的には、まだ見ている途中なので超最高にいい!と言い切れないんですが(これも13年の9月に書いているのでまだ終わってない時の記事です)、そういうことを何も考えなくてもこの作品は見るべきだ!という感じがしていました。えっとこの辺の感覚は難しいのですが、もしかしたらこのガチャクラは、駄作で終わるかもしれません。まだ結論が見えていないので、そんなにまで盛り上がる必要があるのか?といえば、かなり???です。
けれども、周りの友人も、また僕自身もとてもはまって、これは「見るべきだ!」という、ただ単に消費する(=好き嫌いのレベル)のより、もう少し次元の違う部分での「良さ」を感じているんです。それはなぜか?。
ちょっと戻ってみると、このただ単に消費する(=好き嫌いのレベル)というのは、記号というか表層の部分で、『ビビッドレッド・オペレーション』なんかをみれば、女の子のデザインの可愛さや戦闘シーンの動きや大枠の物語構造などなど、とても同時代的です。同時代の記号や必要なフォーマットをよくよく吟味して、総合してバランスをとっています。こういう同時代性やジャンルの感度を無視すると、どんなに素晴らしいものでもヒットしません。時代文脈的に、いろいろな女の子の種類を用意して、彼女たちが日常に学園で戯れて、それで非日常と対比するというのは、ありきたりではあるとはいえ、よく考え抜いています。これは揶揄ではありません。パッケージがちゃんと時代に沿わないと、全く人は受け入れませんから、重要なことです。
けど、もう少しの次元の違う部分での「良さ」ってのが、ないんです。何がないの?といえば、それは同時代の文脈なんだろうと思います。
ん?、上記の記号とか表層だって、要は文脈なんじゃないの?って思うかもしれませんが、もちろんそれも文脈です。でもそれは、記号の部分の文脈で、ここで言いたいのは、物語のテーマの持つ内在性の文脈です。ちゅーても、僕もこの『テーマの内在性の文脈』っていま適当に思いついた用語なので、この言葉や整理が適切であるかはよくわかりません。でもまー何となく言いたいことを組んでもらいたく。
『ビビッドレッド・オペレーション』『ラストエグザイル-銀翼のファム-』なんかを見ていると、、、、はっきりいって、水準は群を抜くレベルのお金と労力が投下された素晴らしい作品だけに、この内在性の文脈に関する致命的な欠如は、僕は衝撃を受けるんです。
なんなんだ、、、この、あまりにわかってない感は・・・・と。
えっと、内在性とかかっこつけて、テキトーに書いた言葉なんで、意味はないんですが(笑)、物語三昧を読んでくれている人は、僕がいくつものテーマをベースにたくさんの作品の共通項や、そのテーマをどこまで掘り下げたか?というような評価というか、見る姿勢で物語に臨んでいるのがわかると思います。
たとえば、橙乃ままれさんの『まおゆう魔王勇者』のメイド姉の話。
なかんずく『まおゆう』の解決の鋭さは素晴らしいものがあった。
この物語のなかで、「メイド姉」と名付けられたキャラクターは「勇者の苦しみを共有したい」と云いだします。
つまり、彼女はヒーローとしての勇者ひとりにすべての責任を課すシステムの限界を悟り、それを自分でも背負いたいと云い出したのです。
ヒーロー(個人)からクラウズ(集団)へ。
全員が少しずつ痛みと苦しみを背負うことで勇者がいらない世界を生み出す。これは画期的な「脱英雄」の物語でした。
まさに傑作と云っていい。しかし、ここにもやはり限界があるのです。
ペトロニウスさんはある雑誌のなかでこう書いています。
ただし、最後にひとつ指摘しておくと、メイド姉の解決方法には大きな問題点があります。それは、「すべての人が勇者になろうとすること」という解決方法は、基本的にエリート主義(=すべての人が英雄になる)の考え方であり、大衆化して数に埋もれた人間の醜さや個人の持つ深いルサンチマンの闇などを考えれば、そもそも、ほぼ不可能に近い選択肢だということです。それは、歴史が証明しています。なので、この次を描く作家は、作品は、どうなるのか楽しみです。
つまりはここでも「人間悪」の問題が顔を見せるのです。
人間そのもののなかにどうしようもなく悪が内在している以上、その人間を結集させ「直列につなげる」ことをもくろんだところで、だれかの悪意が足をひっぱって失敗に終わることは間違いない。
「全員がヒーローになる」プロジェクトは、いかにも楽観的な、空論的な側面を持つことを否定できません。
西暦2013年の最前線。『ガッチャマンクラウズ』がテン年代のコンテクストを刷新する。(6885文字)
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar322009
この辺の文脈は、いろいろ複雑に入り組んでいるので、わかんない人は、気長にこのブログとか海燕さんやLDさんの発信を見てもらいたいのですが(はっきり言って複雑で難しいので、すぐ理解するのは無理です)、たとえば、
少女が世界を救う
という典型的なアニメーションや漫画の物語類型を採用した瞬間に、現在の物語には、上記のメイド姉やガッチャマンクラウズの示している倫理的問題点が強烈に付きまとうのです。理由は簡単、それが同時代性で、みんなが意識しているからです。何もこれについての「解決」をもたらせとは言いません。そういうのは物凄く難しい。
が・・・・まったく「わかっていません」というのは、作品としては、相当ひどいです。気づかない人のほうが大多数ではあるかもしれません。みんな意識して自覚しているわけではないので。また、『ガッチャマンクラウズ』や『C』のように、ミクロの記号ではなく、マクロのストーリーに寄りすぎて人気がむしろひどく出なくなるという傾向もありがちなです。とはいえ、「そこ」は無視、とするのは・・・・
消費者は、正直言って「そこ」までわからないかもしれませんので、上記の作品群ぐらいのレベルを作りこめば、まぁ売れることは売れると思います。けれども、たとえば、クリエイター側や、クリエーターにかなり近い解釈する消費者層や、批評家的なスタンスでものを見ている層は、たぶんこの部分を酷評というか、見るべき部分がないと切って捨てると思うんです。あまりに、モノづくりに対して真摯ではないと思ってしまうと思うんですよ。だって、オリジナルの基盤をの積み上げを無視して、パーツを流用しようというわけですから。パーツの流用自体も技術なので、それ自体をくさしても仕方がないし、そのような基本すらしない、オリジナル至上主義もまた困ったちゃんですが・・・・別に、消費者じゃない層が、しかも物凄く少ない小さい層が、だめだといっても意味がないように見えるかもしれないんですが、「ここ」って、作品がただ単に消費されるだけで終わってしまうかどうかのポイントなんでじゃないかって思います。もちろん、そういう打ち捨てられるただ単位消費されるものこそがいいんだ!という考え方やプライドもあるかもしれませんので、それをどうのこうのいっても無駄なのかもしれませんが…。
僕は何も、だからこれらの作品がダメだ、と告発したいわけではないです。好きで見ているわけだし。しかも「そこ」を除けば超一流に揃っているので。・・・それだけに、惜しいって思うんですよ。このわかってなさ加減が。このあたりは、なんというかエンターテイメントの制作に携わる姿勢のようなものが、表現、、、特に自己表現のエゴイスティツクな部分があるかどうかで分けると思うのですが、、、少なくとも、このエゴのような「俺はこれが描きたいっ!」というような強烈な情熱がないと、傑作は絶対に生まれません。そういう言う意味で、あまりのわかってなさ加減を見ると、、、なんか、もうしわけないけれども消費して消えるだけのものだなーと思ってしまう。まぁ逆に、文脈的に強くわかっている!というのは、それだけ難しいことなのかもしれない。特にアニメーションは、そういう、何が善きことかわからないところで、いままでにないチャレンジングなことを、しかも過去の蓄積を考え抜いて、、、というのは、組織で通す企画なので、なかなか難しいのかもねー。
なにも、文脈に沿えばいいわけではないし、モノづくりの正しさって、どのへんなのかなーと、うつうつと考えつつ。
いつものごとく、まことに、人生に関係のないどうでもいい話でした。