祭りを起こす才能(=内発性)って、どうやって獲得するものなんだろう? またその構造はどうなっているんだろう?

やっぱ趣味と友達がないと、しあわせになれんよねー
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131030/p1


正論だなー。でもこの正論によって「死ぬしかないじゃない」なかんじになる人は少なくないと思うの


こういうtwitterのコメントが来て、全然違う文脈で考えていたんだけど、ああ、そうか、この話って、Webでよく話している「努力は報われない」って話、結局は「すべて才能なんだ」、という話につながって理解されるんだなーとびっくりした。


この話は、ずっと物語三昧を読んでくれている人はわかると思うのだが、そもそもは、僕に友達がいなかった、という命題から来ている話なんですよね。ざっと解説すると、僕は、勉強もスポーツもできて、いい大学に行って、いい会社入って、いい仕事して出世し、友人に恵まれ、好きなかわいい奥さんと結婚して、子供に恵まれて、、、と典型的なリア充の人生を送っているんだけれども、途中で物凄く気づいたんだよね、、、


自分には友達がいないってこと、凄く孤独だってことに。


えっと、どういうことかというと、僕は子供のころからヲタクな人で、ずぅぅぅぅーーーと物凄い内圧を自分のなかに抱えているんだけれども、ずっと体育会系だったし、会社はいってからもリア充マッチョイズムに囲まれてくらしてたので、ヲタクのクラスターの人とかかわったことが全くなかったのね。そんで、7−8年前にアマゾンとかブログとかで感想を(もともと感想を書くのは癖で小学生から書き溜めている)書いたら、それを読んでくれたりコメントくれる人が出て友達が増えて・・・・となっていく過程で、自分がいかに自分最も好きなものを通して世界とつながっていなかったのか!!!(=孤独だったんだっ!!!)ということに強烈に気づいたのです。そして、もともとコミュニティや友達作るのとかは、シゴトでも部活でもゼミでもなんでも得意だったので、その技術で全力でヲタクの友人作りに傾けたら、もう7−8年ぐらいたつんだけど、、、ここまで世界が広がればもう仕事だってできるじゃん!ってぐらいに広がりと深みを増して、ああ、、、おれ、真の友達に囲まれて、好きなことにまみれて!なんて幸せなんだっ!と、自分で感動しちゃって(笑)。この幸せ感は、すべてに勝るものだって!。これ重要ですよ、会社の勝ち残り、社歴、学歴とか名誉や彼女のとかとのリア充生活とかよりも、こっちのほうが幸せ度が大きいんだってことを、体感したってことなんで。(ほんとは別に選ぶ必要性はなくて、全部取ればいいんだけど、みんな選ぼうとするんだよねぇ、、、アホだなぁ、、、あっちなみに、何度も書いているけれども、全部取るのが簡単にできると思っちゃだめだよ、10年以上の単位で死に物狂いで考え抜いて行動しないとできないことだから。何事も簡単ではない。


そんで、うーんなんというのかなぁ、僕はもすぐ40台で、出世競争にバリバリ生き残っているんだけど、なんちゅーかなー自分たち父親の世代(=団塊の世代)の人の定年退職後の人生とか見てたり、、、、40台だともうほとんどのケースで出世競争では脱落しているのは普通なので、それで灰になってしまったりしている人を見ていると、、、まぁ、ぼくはパンピーサラリーマンのなかでの上下の話をしているので、特異な才能で生きている人はこの話では除外なんだけど、、、まぁ虚しいねぇーーって思って。僕は負けず嫌いなんで、ずっとマッチョイズムというか競争の世界で勝ち残っているのも、いいレファレンスになったなんだと思うだよ。ちゃんと比較できる。幸せは、そういう目に見えてお金やポジション的にいいものがあっても、けっして幸せではないというのがよくわかるもの。現実に、そこで成功しているやつが、そう思うのは説得力あると思う、自分の内面的にも。客観的なことではなく、僕の中の主観的な感覚だから。


シゴトって僕大好きで面白くいてたまらないんだけれども、アホみたいに働くんだけれども、いくつかルールがあって、家族を養うために金に執着するっていう(=食べていかなきゃならん!)ことをある程度除外すれば、、、ちなみに、除外できるぐらい僕は物凄い努力をしてきたしやってきたんだから、ここをずるいといわれても仕方がない、、、、なるべくねぇ、趣味で仕事をしようと思っています。ビジネスも不確定な未来に欠ける行為なので、、何が起きるのか、何が正しいことなのか、さっぱりわかりません。さもわかったように分析資料や説得の資料作るけど、そんなのわかるわけないよーーー(笑)。そうしないと、自分にコントロールできないことで、出世しなきゃいけないっ!!!とか、志がって!!とかいうと、疲れて壊れやすくなるんだもん。真面目になんてやれません。それに、うーんなんというのかなぁ、、、人生の成功って、、、シゴトの成功って、努力はまぁ当たり前としても、ぜぇーんぶ、なんというか偶然が重なって起きることで、自分が努力で獲得できるもんじゃねぇーんだよなーって思うんだよなー。なんか、そんな自分のアウトオブコントロールなことに、一喜一憂して、どうするんのって感じがする。


もちろん、ゲームとして、ある程度人生をかけて一喜一憂をするのは、面白い人生にとっては重要なことです。「あえてする」というロジックです。前にも書いたけれども、永遠に続く不毛な日常を生きるのが人間の人生です。なら一発、自分で祭りを起こして、物語を作り出して、それに生きるという賭け(=ベット)をしないと、人生が凄まじく無味乾燥になってしまうからです。けど忘れないでほしいのは、それのベットは、自分のリアルの人生です。それって、どんなにゲームでも、達観してても、なかなかしんどいよー。自分という人生の物語は、書き換えは難しいし、リアル感はすさまじいし、ハードな賭けだからね。でもこの賭けに慣れていないと、人生は生きていけない。人生は賭け。保障されたり、先を見通せることは全くない。・・・意外にこの「人生が偶然だけでできている」ことに対して耐性がない人が多いんだよなー。みんな、努力は報われなきゃいけないとか思っているのかなぁ、、、バカだなぁ、、、努力なんて報われるわけないじゃんっ!!だから、努力なんかしちゃダメなんだよ。だから、死ぬほどの修練、クンフーをしなければいけないことは、好きなことでやらないとだめなんだ。できることでないとだめなんだよ。まぁ、そうだねー高校生ぐらいまでは、このクンフーって基礎教養なので、自分で選んでいてはだめだけどねぇ。義務教育とかそういうのってよくできていて、世界をよりよく把握するためには、勉強は大事なんだよ。けれども、社会人になってからは、そんなの「何が正しいかわからない偶然の世界」で生きてサバイバルしなきゃいけないので、自分にできること、続けられることで努力しないと、努力ってものすごく苦しい地獄になってしまうじゃない?。ちなみに、努力なんかしちゃだめだよーって、ことあげであって、その逆が楽をできるってのでは全くないんだよね。勘違いされると、凄い困るんだけど。人生が豊かでリアルな充実に満ちるためには、同様の苦しさや厳しさを体感していなければいけないんだよ。そんなの、当たり前だっちゅーの。ただ、それは自分が内発性が担保できる、結果がなくともいいことがなくても、やっているだけで楽しいものを探していかなければならッていこと。またここもことあげだけど、最初から楽しいだけなんてこともないからね。「繰り返すこと」「量をこなすこと」で異様な量の体験による刻苦によって、基礎土台って出来上がって、そこから本当のことが始まるんだよね。楽しいことを探そう!なんて、バカな行為はしちゃだめですよ。本当に楽しいのって、自分の中に体験を積み上げた先に来るものだから、そんな「端的に楽しいもの」なんてものはこの世界にはないからね。


あっ、つながってきた。。。なるほど。


最初にね、「でもこの正論によって「死ぬしかないじゃない」なかんじになる人は少なくないと思うの」ってコメントなんだけど、これって、できないマイノリティを切り捨てるのか?という脅しのコメントなんだよね。本人がどう思ったのかはともかくとして。そして多分文脈の中に、努力してもどうにもならないことで、マイノリティとして取り残された人を切り捨てるのは悪だ、という意図がセットされているんだよね。いやこの手の議論は、僕がbasic skillsを書くときにはしゅっちゅうコメントやらメールやらで文句言われてきたことなんで、またこの系統か〜と思うんだけれども、この反応ってネットではデフォルトというか、基本反応みたいなんだよね。


こういう風に幸せになれるのって、最初から決まっている才能で、おれ何をどう努力すればそうなるか全然わかんないよっ!。努力しても、取り残されて他人より劣っている感じがするし、どうにかしてよっ!って感じなんだろうと思う。


これに対して、努力していないんだから悪いんだろう!(=そいつが行動していないからそうなったんだ)という議論の返し方は、ある意味、マッチョイズムとは言わないけれども、共感のない返し方ではあると思うんですよね、確かに。しかし通常は、そういう返しをする。なぜかってポジティヴに物事をとらえている人は、とにかくこの「何もやる気力がわかない闇の次元」から脱出に成功した人々なので、自分の力で(=自分の努力で)そこに脱出したという強い信念を持っている傾向が多いし、なによりも、実績と体験に裏打ちされているので、これはかなりの確度で譲らないことが多いと思うのだ。実際、僕のBasicSkillsの記事の論調も基本は、そこに起源がある。ようは、何はどういわれようと、「俺(=ペトロニウス)はこうやって闇の次元から自力で抜け出てきてこうなったんだから文句言われる筋合いはない」というね。体験と実績は、強いプルーフになるので、まぁこれは一つの論拠ではある。でも、少なくとも、無気力の闇の次元にいて、かつ「何をどうすればいいのかが全く分からない」という循環に陥っている人には、共感のない言葉ではあると思うんだよね。僕にも確かに共感はない(苦笑)。理由は二つ。


身も蓋もないけれども、マクロの分析として、じゃあ、そういう取り残されたそうに手を差し伸べる合理性が、マクロの設計の観点から必要か?というと、既に時代的に全く必要なくなった、と僕は考えています。一つ目は、もっとも端的に同定できる層をどこかというと、バブル直後ぐらいからの20年間の日本の高度成長が失われたせいで、本人の意思とかかかわらず就職できなくて、できないがゆえに社会からはじかれた層がいるとしましょう。その層、若者の層を、切り捨てることは未来の日本を切り捨てる行為だ!とかそういう議論。けどね、、この層を切り捨てて何が起きるのか?という部分を考えると、、、、。ちょっと時代をさかのぼって、左翼が労働者を切り捨てるな!といったときに、なぜそれが正当性をもったかというと、まず第一に国民の過半が、いやほとんどが労働者だったこと、また若年層を切り捨てようとしたときに、人口構造がピラミッド的だったので、若年層のボリュームがとても大きかったのね。何が問題だったかというと、最も大きいボリュームゾーンを切り捨てようとしたり搾取しようとすると、社会の構造自体が揺らいで、壊れてしまう可能性があった。近代の封建社会からの変化は、とにかく特権層から一般市民を、『市民』という消費する単位に開放することで需要を底上げして資本主義を回すことだったので、無視はできなかったのだ。だから市民権、参政権、そして戦争に参加する権限(=国政に参加する権利)などが付与されていったんですよね、無産市民に。それと、ボリュームゾーンなので、社会が不安定化して、こいつらが結束すると革命が起きるのね。バーグじゃないんだけど、革命って、社会をずたずたにするんで、実はあんまりいいことがない。ちゅーかろくなことにならない。社会の基礎を壊す行為なので。なので、どうしてもこのマクロ構造を維持しようとすると、労働者の権利を保護していく方向になるわけだ。なので、きばってケアしたわけだ。


・・・・何が言いたいかというと、まず一つとして、この辺の20年ぐらいの層がいったん脱落して社会の底辺に行ったとして、、、だれが助けるのだろう?ということ。規模がそもそも小さいので革命にもならないし、そもそも中産大衆が没落しているにしても、相当数のボリュームゾーンで維持されている先進国では、ある一定の層に対するケアは絶対にしないと思う。だって、全体の平均値を下げる行為にになってしまうもの。ようは、マクロ的に、ここを助ける理由は、経済的には全くないんだよ。別に僕がどうのこうのいうんじゃなくて、そうでなくとも先進国はこれから国家としての基礎が失われて税収が不足していく超借金時代に入るんだ。その中で、そんな一部のマクロ要因としてそれほど変数にならないところ手厚く保護なんか絶対にしない。僕がどうのこうのではなく、「みんな」が切り捨てるんだ。多数決というのはそういうもの。そして本当に全体が厳しくなれば、話題にすら出なくなるよ。


もう一つは、低成長で、先進国の圧倒的な財政難が基本的になった世界では、、、、まぁEUができるまでの(今でも変わらないかぁ)ヨーロッパ病の世界なんだけど、そもそも若年層が就職できないのは基本的に常識なわけ。若年層の失業率だけが突出しているのが。熟年労働者とか既得権益者が、そこを手放すはずがないの。社会の流動性は下がるのが普通なの。成長がない社会では。なので、失われた20年ぐらいの間の部分は、高度成長期との「落差」で話題になったけれども、今後は、我々の社会の常識として、あーーーそんなの普通だよねーーとコモンセンスになって行くと思うのだ。ヨーロッパは、200年はそういう社会が続いていたわけ。そしていまも。切り捨てるというほどでもなく、そもそも、若者には希望がないのが当たり前の時代になるんだ。高度成長がない、社会というのは、そういうものなんだ、そもそも。しかしここでいう、希望というのは、資本主義的な物質的な流動性や行動成長によってもたらされる希望なんだ。実は、そうじゃないものを探す時代に入ったんだ。みんな、たぶんここを混同している。アメリカなどは、すでに明らかにこういう社会になっているし、西ヨーロッパは言うまでもない。ただし、アメリカの一部や新興国は、まだ高度成長しているので、そこと比較して勘違いをしてしまうんだろう。


なので、物質的水準で、幸福を買うことができない時代に入ったのだ。逆説的に言うと、1980年代くらいまでの日本では、金でかなりの部分の幸福が買えた。1950-1980ぐらいの高度成長期の日本は、とにかく物質的な成長、、、、何よりも頑張れば報われるという、、、、実際は、頑張ったから報われたわけでもなんでもなくて、高度成長しているからほっとけば所得が上がって、社会的流動性が高いのでどんどん上のクラスを体験できて、心理的にも物質的にも、すさまじい急角度の「成長」が経験できた。それが、報われてている!!という感覚につながっていたんだ。ましてや団塊の世代などのボリュームゾーンは、常に社会の主人公だったので、多少遅れることはあっても、社会のシステムは、彼らにフイットするように再度設計されなおしていった。けど、もうそういった「成長」が当間のマクロトレンドは終わりを告げた。


というような理由で、もう社会で叫んでも、相手にされないんだよね。社会の超多数派(=ボリュームゾーン)でかつ、資本主義が回るための駒というかパーツとして重要性がなければ、無視されるんだよ。そういうロジックでは、もうほとんど叫んでも意味がないんだ。ちなみに、これから50年ぐらいのトレンドは、団塊の世代が超高齢化(80歳以上ね)していくので、そっちになるんだよね。若者や心理的なマイノリティは、相手にされなくなると思うのだ、社会に。実際のマイノリティは別だと思う。物理的な民族や移民とかは、社会をどう設計するかの重要なポイントなので、そこは別物だとは思うけれどもね。


という背景を考えると、「死にたくなる人がいるだろう」といっても、、、まぁそういわれると良心の呵責はあるけれども、きっと、僕ではなく社会が切り捨てるだろうなーそして、それを救う理由もメカニズムもないなぁ、、、と思うんだよね。死にたくなる。。。。言い換えれば、成長トレンドの部分に自己を仮託しているような生き方をしている人は、もう確実切り捨てられるしかない。社会から置いていかれるもの。というような状況を分かって、発言していないと、、、無駄なことで人生浪費しちゃうよ、、、とかおもうんだけど、、、、。まぁ、マクロトレンド(10年以上の)って実感全くないから今の体感から外れるので、ほとんどわからないんだけれどもね。まぁ、僕はそう思っちゃうわけよ。なんというか、これは僕が個人的に思うとかそういうことじゃなくて、マクロのトレンドと歴史を振り返れば、そうにしかならないと思うよ、ということ。・・・・・話がへヴィーな方向に行ってしまった、、、また文句いっぱい言われそうなー(苦笑)。まぁこれが正しいかどうかはわからないけれどもね、僕の「見立て」だから。


とはいえ、共感がないちゃーないんだよね、切り捨て論というか、努力の仕方がわからないで立ちすくんでいる人に、努力をしろ!というロジックをぶつけたうえで、できない人間は切り捨てられるだけだから、戦うしかないよ?といっているわけだから。とはい原則構造上の問題はこうなっている、と僕は思う。人類も生物だから、なんでもかんでも許容して助けてくれるわけじゃない。ある程度は、競争の原理は常に働いているし、全体のマクロ動向でその敷地は下がったり上がったりする。すべてが弱肉強食なんて、子供みたいなことは言わないけれども、トレンドやメカニズムはあってこと。なので、この議論にマッチョイズム(=努力をしてこの円環の無気力の輪を抜け出すぞ!)と思わない議論に賛成する人は、基本的に人生を損して失敗しやすいと思う。人生は、そんなに余裕もなければ時間もないんだよ。僕はそう持っているので、自分の大事な人や近しい人には、そういうことは進めないし、全力でそれを回避してもらおうとする。家族や親友でもなければ、どうしてもネガティヴにとどまりたい人がいれば、まぁもう関係なくなるね、一緒にいていいことも何もないもの。ただ、一つ言えるのは、この円環からの脱出は、いままでは、成長志向のマッチョイズムを指したんだけど、これからはそう単純じゃないと思うのだ。と、それは後で話す。


さて、このぶつかりあいのロジックでは、とはいっても、共感はないし、発展性はない。僕は「そこ」の層にかかわることは、すでに社会の動的なマクロメカニズムにはかかわってこないので、無駄だと思っているんですが・・・・とはいえ、それを無視するのはなんというかブレイクスルーがない。ではどういう軸を立てるかといえば「人生が偶然で出来上がっていることの虚無に対する耐性」という軸です。どうもね、絶望する人って、無気力の円環の輪を出る気力がわかない、、、なぜ気力がわかないといえば、才能がない(=小さな祭りを起こして世界と人生を豊かにする)のに、努力して結果でなかったら、そんな悲しい絶望はさらに自分を絶望にさせてしまうので、動きたくない、というループなんだよね。


これって虚無(=ニヒリズム)の思想です。


小さく言えば、体験も経験もしていないのに、さもわかった風に、俺はできないと「最初の小さな一歩を踏み出す勇気」がないという風に露悪的にいやらしく言うことができるかもしれません。けれども、「これ」がもっとも難しいのも事実。内発性というのは、行動の積み重ねの中から生まれることはわかってきているので、そっちの方向に自分を振るしかないはずなんですが、ここでは保証がないことは気力がわかないので動けない、というのが、動機LESSの人々の主張なんですね。まぁ、、、やっぱり僕はマッチョイズムの人なんで、そういわれた瞬間にきれてしまいそうですが・・・・でもまー全般的に、動機が駆動しない、やる気が起きないというのは、確かに共感するところではある。人間そういうものだもの。


前回の無職転生の記事の時にも書いたんですが、こういう、どこのボタンの掛け違え、で、人生が変わってしまって、ちゃんと行動して前に向かっていく人と、そうでない人を分けてしまうんだろう?という感慨はいつもああります。答えは偶然、としかマクロというか俯瞰してみると答えようがない部分はあるんですが、とはいえ、最初のスタート地点は何かあるはずです。また危険なパターンのメカニズムもあるはずだと思うんです。それを知りたいなぁ、と思うのです。それを知れば、自分の人生の落ちていくのを止められるし、家族や大事な人、子供の教育でもすごく意味と効果を発揮すると思うんですよ。


話がずれましたねぇ、、、虚無(=ニヒリズム)の思想で思い出すのは、ニーチェです。ニーチェは、知識は大衆にとっては劇薬だ、というようなことを言っていました。内発的にものを考える力がない一般の人々に、広く高等教育を与えてしまえば、きっと無気力化して生きる意欲を失った豚みたいな人間になるだろうとニーチェは予言しています。それが、ニヒリズムと呼ばれるものです。えっと、ニーチェさんってのは、自分の心の中に基準を打ち立てて、それに従って現実を変えるという思考形式を持つ人が、とても少ないってことを言っているんです。逆に言うと、ほとんどの人は、過去の思考形式や現実の構造の奴隷もしくは家畜として生きているのであって、人生をリアルに生きている人はほとんどいない、と思ったみたいなんだよね。だから、自分の心の中に自分独自に基準を打ち立てて(=内発性を持つということね)、現実を自分の思うがままに変えていこう(=現実の構造よりも自分の持つ開智基準のほうが優劣で優位にあるという確信)ということができるのが真の人間、、、彼はそれを「超人」と呼んだんだけれども、そういう人間になるべきだ!と喝破するわけね。


とはいえ、コリン・ウィルソンが人類指導的5%と呼んでいるように、そもそも95%の人は、馴致された家畜で豚なわけですよ(苦笑)。実際のところ内発性を持つというのは、とっても難しくて、しかも教育で動機(=内発性)は伝えられないことも大体わかっているのね。特に大衆教育とかそういうレベルではほぼ不可能。


ところが、そういった豚ども(=大衆)に、資本主義の消費者であり工業産業社会のパーツになるために、高等教育や文字を与えてしまうんですよね、近代は。結果何が起こるかといえば、無気力と蔓延とルサンチマンの広範な支配だろう、と呼んでいます。


知識と教育が与えられるとどうしてそうなるかってのを簡便にテキトーに説明してみると、要は知識が与えられると、マクロの俯瞰したマップみたいなものを与えられるんですね。そうすると、世界と社会の中で、「自分がどこの位置にいるか?」ということと「自分がどこまでいける可能性があるのか?」ということが、大体把握できちゃうのですね。そして、重要な人間という生物の性癖に、「わかったことはやらない(=やる気が出ない)」という性癖があります。これは重要な、動物と人類を分ける脳の清野の問題なんですが、「予期」ができるってことですね。動物は脊髄反射で生きているんですが、人間は類推や先を予測するなど、いま目の前で起こっていないことを予測想像して、行動に規制を与えるということができるんです。これが動物と人間を分ける最大のものの一つ。なんですが・・・・・それが、「自分の心の中に独自の基準を打ち立てて現実を変える」という思考形式を持たない人間に、「現在位置と行ける可能性があるかの予測」が与えられると、現時点の構造と、世間一般が言っている可能性の平均値みたいなものから「予測されうる」ものを見通したうえで、予測できたので、だからら、やる意味がないと結論付けて行動をしなくなるんですね。すごい昔からあるこの典型的なパターンは、「どうせ死んじゃうんだから何もしない」というやつです(笑)。ニーチェさんは、内発性(=自分の内面に独自基準を打ち立ててそれが現実よりも優位だと感じる意思)がない人間に、知識を与えるとニヒリズム(=動機がが失われる無気力)になる。そして大衆社会に、広範に高等教育を与えれば、虚無の思想が強く蔓延するだろうと予測しました。これは半分あたりで、半分間違い。たしかに、大衆社会には強い虚無が現れましたが、ニーチェが超人といって、なかなかそんな現実を変えようとするような強い意志を持った人間は少ないだろうといいましたが、どっこっどっこい、人類のこの進歩のスピードと発達を見ると、以外にこういうことができる人は多いのです。また、ニヒリズムではなく、現実世界のバリューをもたらす人間が、社会にとって優先されるという選別のシステムが、資本主義社会には健全に組み込まれています。


まぁ、一言でいうと、人類は、そんなにバカじゃないって感じです。


とはいえ、一般的に、本来は、そこまで考えなくてもいい層の人間に、死ぬほど強い動機を要求して、社会の構成メンバーであることを強く要求するのが、資本主義社会や近代社会です。市民って、かなり要件が厳しい存在なんだけど、そうならないとだめだ、、、と強い要請が社会からマクロからなされるがゆえに、それによっていろいろなものがゆがむのです。といっても、この平等志向社会で、貴族政とか階級性的に、階層を分けましょうというのは、あまり許容できる発想ではない。現実に緩やかにそうなっていたとしても、理想として認めるのと、そうでないのは大きな違うですからね。


うーんんん、、、、長くなってしまって、、、話がそれているんだけれども、、、


僕が言いたいことはね、内発性がないということの地獄について、まず一つは、マクロ環境の変化が起きていることをよく見極めなきゃいけないって思っているんですね。一つは上に書いたように、「高度成長」はもうとりあえずはないんだっていうこと。日本は、超先進国なので、階層の急激な流動的な成長社会にはならないということ。少なくとも、僕らが生きている間は、なかなか難しいと思うよ。ここ50年ぐらいはね。凄い発明とか、宇宙開発とかがあれば別だけど、、、そんな数百年に一度のことが、おいそれと起きるとは思えないしね。なので、高度成長のもたらすような輝きは、そもそもありえないんだって思うんですよ。そこが、何かこんがらがっているような気がする。リア充死ね!みたいなルサンチマンも、この成長に関することを取り違えているような気がしてならない。このフェイズが変わった、マクロ環境がスライドしたんだ、という事実を踏まえると、実は、成長がそれほどいいものではないということもあるし、成長という喜びが、高度成長に結びついた特殊な感受性なんだ、と僕は思うのです。がんばればなんとかなる!とか、この典型的なエートスだと思うんですよね。それって、高度成長期の、さまざまなマクロ要件に結びついたものであって、もう今の時代は普遍的というかコモンセンスとしては成り立たないものなんだ、ってことが意外に浸透していない。成長が、特権的なエートスとして崇められる時代はすでに終わったのだ。


そして、新しい適応が必要!ということ。


ようは、ヨーロッパ病のような、基本的に成長しない、流動性が低く、階層が緩やかに出来上がって、かつ若者に雇用のや成長の機会が全くない、というマクロ環境下で、永遠(に感じる)日常が、明日も明後日も続いていくという世界で、どのような希望を感じるか?どのような夢を見るか?そこで何を求めて生きるか?ということ。


そこで、このブログでは、一つは、内発性。もう一つは、友達との関係性と戯れること。その場を作り出すこと、という具体的な解決の方向性をこれまで描いてきました。それが正しいかどうか、別として、僕はそれを、成長ではなく成熟にいたること、というイメージで描いています。また、たくさんのサブカルチャーのイメージにあふれた、永遠の日常を生きるモチーフのも、この新しい適応への一つの極端な表現だと僕は思うのです。


なので、内発性を求めることや、友達を求めること、関係性から豊かさを引き出す行為などの、文脈を、高度成長という文脈ではなく、成熟へ至る永遠の黄昏の日常を生きるときにどう引き出すのか、という文脈で見ないとなりません。高度成長であれば、常にマッチョイズムが勝ちます。金が、地位が、力が勝ちます。けれども、マクロ環境が反転すると、これが物凄い逆転を見せます。なので、実は、チャンスなんですよ!!。いままで、成長のフェイズの中で虐げられていた価値が逆移を起こせる実はいいチャンスなのです。


そう、ゲームのルールが書き変わりつつあるのです。


もちろん、成長の文脈、行動成長を求める文脈が消えるわけではありません。資本主義が駆動して、全世界が成長し続けている人類社会では、これがモザイク状になっているにすぎないので、極端にすべてが変わって、デジタル中世が来るわけではないんです。中世と近代(モダン)がまじりあったモザイクの時代がこれから訪れるんだろうと思う。


そこで、問われるのは、どのセグメントで、あなたは、どのように生きたいですか?


あなたの幸せは、どんなものですか?


ということ。グローバルの帝国が支配する競争社会で成長を追い求めてダイナミックに生きるのか?


それとも、永遠の日常が続く黄昏のデジタル中世の中で、手ごたえのある絆をベースに実感のある生き方をするのか?


選択ができる時代なんです。


そして、豊かさとは、選択の幅を刺します。選択が豊穣で多様であるほど、人生は、可能性の束を感じて幸せに感じます。


また、もちろん可能性の束を目の前に、選択して決断して、狭い道を歩くのが人生であるという、任下にとっての心理も別にこのゲームの中で変わるものではありません。人は死によって規制されており、有限の時間を生きていく存在であることには変わりないからです。


もっかい、問題意識を戻して、内発性がない人間、、、自分で祭りを起こせない場合にはどうすればいいの?、という質問に戻ってみましょう。


この話は、ベイシックスキルというこのカテゴリーの主軸ですし、これまでのブログの文脈も、ほとんどこの問題意識をベースにしているので、いろいろ言及してきました。まだ端的な答えはありません。いろいろ答えているつもりではあるけれども、そんな単純でできる答えはそもそもありません。なので、端的な答えではなく、まず、この問題意識がどのような構造の上に立っているのかの前提を、読み解いてきています。僕が大きく着目したのは、マクロ要因が大きくスライドしている分岐点にいまあるという部分です。そして、価値観の対立が起きているので、古い世代の専横と洗脳が横行しているので、何をどう適応するかの問題意識に、あいまいさや揺らぎがあるってこと。目的は、クリアーでシンプルにしないと、何も獲得できません。できるようになるまでは、とにかく目的は狭めて、そこに専心集中する。


えっと、このへんの内発性がない!、祭りを起こせない!、動機が起きないんだ!という時に、だらだらと文章あっちゃとびこっちゃとび考えてきたんですが、僕がまず思っているのは、成長と成熟の取り違いをしないように注意しないと無駄なルサンチマンや恨みを発動してこんがらがってしまうよ、という部分なんだな、たぶん。


そんで、もう一つは、人生が偶然でできていることへの耐性がない人が多いんだな、という点。ちょっと極論を言うと、そういう人は、それなりの人生しか送れないんで、まぁ、僕のリアルな感覚では、どうでもいい人たちなので、好きに人生を浪費してびくびくしたり無気力に過ごせばいいじゃないか、自分の人生なんだしね!としか言いようがないとは思っています。一番最初の部分で、死にたくなる人が多いだろう!というなら、そう感じてしまう人は、努力して変える以外方法はないってことですよね、としか言いようがない。他人の無責任な意見を聞いただけで、死にたくなるような個体とか、生物としたあまりに弱すぎて、それじゃあ生きていくのままならないじゃん、、大変だよね、、、。僕は関わりたくあいなぁーそんな人。とはいえ、世界が、非常にソリッドに、なんというか固く法則が決まっている、保障がないと動けない、という感覚は、、、たぶん、よくある感受性なんだろうと思います。それを壊すにはどうすればいいんだろうなぁ、、、いや、構造はわかってきたんですよ、、、要は社会学でいう偶発性に極端に弱い感受性に対してどうするの?という質問だろうと思うんですよね。どうも、まぁ、、、現代はナルシシズムの時代だし、ダブルループに弱いってことなんだろうと思うけど、予期が複雑に交錯すると限界量をすぐ超える感受性が多いってことなんだろうと思います。・・・・まぁ、多いって言っても、人類社会は問題なく前に進んでいるし、その「多い」ってのは、平均値が底上げされた日本社会で目立っているだけで、まぁ現実は、その人たちによってはほとんど影響を受けないので、どうでもいい問題なんですが、、、マクロ的には、、、、(苦笑)。ああ、だめだ、どうしても、どうでもいいって思ってしまう、、、。なんというか、マクロ的にはもうどうでもいい問題なんだよなー。でも、ミクロ的には、とても重要な命題だし、共感する部分もあるんですよ。ナルシシズムの檻の中で生きるのがデフォルトな現代社会で、このルサンチマン(=現実の否定)や、動機レスの問題は、誰にでも起こりうるベーシックな心の動きのメカニズムなんで、あまり極端な例に人を何とかしようとか言う、そんな高尚な動機はさらさらなくて、自分だっていつそうなるわからないし、いやむしろ、自分だってそういう不安や心の弱さと闘って日々生きているわけだから、問題の構造を明らかにして、なるべくよりよくそういう現実のリアルと、ちゃんと対峙していきたいって思うんですよね。ベーシックスキルの問題意識もそこにある、、、、ちゃんと「生き抜く(=サバイバルする)」って、どうやってするんだろう?って、すごく単純な質問。


あーーーなんか、こんがらがってきたので、何が言いたいのか自分でもまとまりませんでしたー。


って、こんなわけわかんない文章、読む奴いるんかいな?と毎回思うような物語三昧てきとー思考クオリティでした。最近、考えてた思考の流れだったんで、わけわかんな感じですが、まぁとりあえずあげておきます。