『異自然世界の非常食 2』 青井 硝子著  社会に参加する動機がなければ、自然に帰ればいいじゃないか!って、そっちの方がどう考えても厳しい選択しかも(苦笑)

異自然世界の非常食 2


『異自然世界の非常食』 青井 硝子著 めっちゃグロテスクで目が離せません(笑)。これ、凄いSFですね。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150418/p1


これ、これまでこのブログの思考の過程では、袋小路に陥っていた問いに対する一つの鮮やかな可能性を突き進んでいるので、、、、僕的な定義でいうと、文学(可能性の分岐の系を見極め踏破しようする物語)なのかもなぁ、でも、これ文学じゃないよなぁ、、、文学の定義を少し考えなければなぁ。えっと、


「どうしたって救いようのないものを救えるのか、それを描く価値はあるのか」


って問いを立てたとき、救済があるというのは、自分で変わっていける(=成長)力がある、この場合の力とは動機が持てることが、その出発点の条件でした。なので、議論がどうやって動機=内発性を持てばいいのか?ということをしていました。物語の主人公になる条件は、その物語を支配する動機の軸を持つことというぼくの発想からすると当然の話でした。しかし、そもそも、内発性を持てない人ってのはある割合でいるらしい。その場合、この問い自体が、それらの人々を切り捨てるこういうのなるのでは?という方向に話が行きました。ただし、このある割合というのは、社会的にはほとんど無視できるぐらい特例の比率であって、たぶん想像上の仮定である可能性が高く、ほとんどいないのではないか?とも考えられています。というのは、これは言い張っているだけで、見方によるからです。絶望しているといっている人のほとんどが、努力も何もしていないし、そのための手段もある場合がほとんどで、甘えているだけだからです。そもそも、声を上げれる時点で、この層には該当しません。そんな甘っちょろい状況を想定して今いませんので。


ただし、時代のシンパシーが、こうした動機が壊れた存在に仮託をしている時期が、1990−2010年ぐらいまでの続いていました。それは、たぶん日本の高度成長期というある種の全体のルールが壊れていく時期で、アノミーが社会的に発生している、いいかえれば、自分の存在に自信を持つのが非常に難しい厳しい時期だったからなんだろうと思います。まぁこの厳しさというのも相対的で、徳川幕府から明治維新のころの社会の大変動やアノミーだって相当厳しいわけで、まぁ、けっこう世代のズレこそはありますが、みんな結構しんどい時代を生きるもんなんですよ。あまり疑問を持たないでみんなが幸せになった高度成長期ですら、物凄い過剰人口世代の大競争で、楽だったかといえば、この時代の人はいかに自分たちの世代が苦しかったかを力説しますよね(笑)。まぁ、そういうものなんですよ、いつの時代も年寄りは、今の若者はと後続世代を批判し自分ノスタルジーに浸る。若者は、おれたちは特別だといいたがる。一度しかない人生、次の世代や前の世代を経験できるわけではないので、世代論で、いいわけをこじつけても本当は意味がないんですよ。歴史を読めば、そういうのはよくわかるようになります。ようはいつの時代にも、その時代なりの厳しさがあるわけで、比較で話をしても仕方が無いんですよ。現実は、生きるの大変、ということです。


えっと、とはいえね、社会のほんの少しの層に、強烈な虚無、ニヒリズム、要は価値を価値として認識できない層、というかロールモデルがあって、世界を滅ぼしたい(=世界の意味が無い)という価値否定にコミットして生きています。これへのフォロワーは、常に時代の状況で増えたり減ったりしています。このフォロワーの大きさが、成長していく物語へのシンパシーと否定に関連していると僕はおもっています。成長する物語というのは、価値へのコミットですから。ちなみに、物語において、この価値否定、世界への虚無、ニヒリズムというのが、実は、最も巨大なラスボスであり続けているのではないか、というのが最近の僕の仮説です。


そして、過去の議論では、社会のこれからのマクロで判断すると、ニヒリズムに陥っている人の行くべき方向性というのは、自滅するだけです、と僕は判断しました。それは、社会が余裕がない限りは、社会の生産に寄与するコミットをしない層を、飼っておく余裕は社会にはないからです。人権が常に、それが守られるのは、それを守れる武力と富がある時だけに限ったことである事実を歴史で見れば、それは当然のマクロ的帰結です。社会にとって、社会建設の価値を、それが哲学的にはニーチェではないですが、簡単に否定できる偽りの価値だとしても、それにあえて乗って、人生を、正の豊かさを感じ取れる生き物でなければ、人間と認めにくいからです。大きな声で人間ではないとは言い切れないでしょうが(またいってもだめでしょう)、少なくとも社会でそれを守る予算は限りなく割かれることはないでしょう。特に時代が税収が不足していくわけですから。またグローバルな経済にリンクして生きていく気合のないものは、食べていく資格が与えられません。


しかしながら、じゃあ、全部切り捨てか?というと、そうではないんですよね。それほどそもそも、人類はシンパシーがない生き物ではありませんし、なによりも、現在の資本主義にはそれを何とかするだけのギリギリですが余裕はあると思うのです。でも、さすがに、人類の最前線で帝国を形成し、全力で人類の可能性を生きている組織や人々にすれば、社会参加の動機を持たないという人を、助ける義理はありません。なので、日本的な現代の表現では、大都市と地方という風ですが、もう少し抽象的に言うと、「グローバル経済にリンクしたメインシステム」と「自然環境に限りなく接続されたサブリンクの自立共生型システム」の二つのコミュニティが用意されていくのではないかと思うのです。それで、これは緩やかにつながっているので、どっちに行き気もできるし、それをバランスよく生きるライフスタイルが、50−100年後ぐらいには、一般的になっていくのではないかと僕は想像します。

里海資本論 日本社会は「共生の原理」で動く (角川新書)

そんで、藻谷さんの里山資本主義や、下記の里海資本主義のサブシステム的な、なるべくグローバル経済の景気循環の余波を受けないシステムの構築というのが、僕は何かなんとなくイメージがつかなかったのですが、、、、究極は、『異自然世界の非常食』で描かれた話なんだ、と僕は今思い始めています。ようは、救う価値がない人はどういきればいいのか?といった時に、社会への強烈なルサンチマンがこの層を二つに分けます。


社会にルサンチマンを持つ人々は、徹底的に社会権力によって抹殺されるでしょう。事後ですが。それは、劇場型の、この社会に虚無をまき散らしてやる!というテロリズムになるからです。それは、社会としては絶対に認められません。けど、では、ルサンチマンがなければ?。それで社会に参加に動機がなければ?。社会はもちろん、そういう人には何もしません。社会の建設に労力を払わない人を、社会は必要としないからです。


ちなみに勘違いしないでほしいのですが、社会は、徹底的な包摂を目指しますので、全力で社会の多様性を増やそうとしますので、たとえばディスアビリティの人々など、意欲があるものに対しては限りなく参加をできる仕組みをテクノロジーによって強制(笑)します。それくらいに人間は、シンパシーの生き物なのです。なので、やる気も動機も無いのに、切り捨ててもらえない!(=成長は素晴らしい!死ぬ気で働け!動機を持て!社会を肯定しろ!)というのが、実は最も強烈なニヒリズムを生んでいるのではないか、とぼくは思っているくらいです。僕はここは、アダムスミスの道徳感情論が正しいといつも思っています。唯一はじくのは「意思がないこと=動機がないこと」です。動機がないことがマクロの原因ならば、それを取り除こうとする社会運動、社会改良は、際限なく続けられていくでしょう。より多様性にあふれて、動機がある人が、その動機にふさわしいリターンを得ることこそが、近代社会建設の基礎であり理念だからです。なので、一般的に、まず99.99%の人は、社会参加を求められるし、それ参加できる仕組みが、努力して建設され続けていくでしょう。なので、切り捨てるというとすぐ自分を想定するものなんですが、この社会の息苦しさは、すべての人間に際限なく、成長と自己肯定と社会建設とを求め続け、包摂し続けることが息苦しさをもたらしているのではないかとぼくは思います。

道徳感情論 (講談社学術文庫)


だから先ほど言ったように、社会から本当に切り捨てられるレベルの人は、ほんとうに、仮想レベルの話であって、まずないんですよ。特に内面の動機が壊れているかどうかの、客観的な判断はほとんど不可能とも言っていいほど難しく、劇場型のテロリズム犯罪でも起こさない限り、事後的にしか判断がつかないんですよ。なので、積極的に、社会が切り捨てる層を特定することは、不可能です。それって、優生学の思想のようなもんじゃないですか。なので、そんなに僕は、社会のありように不信は抱いていません。近代国家の理念とは、相当に国家ってやばいリヴァイアサンなのですが、マクロの世界の地政学的な動向とかには簡単に左右されるものですが、だからといって、近代の理念が簡単に捨てられることはないです。特に、伝統が100年以上続く、旧西側諸国の近代国家では、まぁ、何とかなるでしょうとは思います。国家を信用するのはとんでもないことなので、大きな流れでしか言えないことですけどね。それになによりも、資本主義そのものが、個としての消費者を必要とするし、後期資本制の帝国ともいえるグローバルな組織の維持には、信じられないくらい高度にトレーニングされた官僚集団が必要で、それの育成のための母集団はほぼ全人類に該当します(苦笑)。なので、切り捨てるなんて悠長なことを言うのではなく、どこまで人間を徹底的に成長に駆り立てられるか?が後期資本制の課題なんですよ(笑)。簡単に切り捨ててくれると思ったら大間違いです(苦笑)。ぼくは、そもそも、この近代社会というやつは、人々をどれだけ駆り立てて徹底的に利用しつくすかという個を重視しまくる理念で作られているので、俗流優生学のような選別エリート思考は常に出てくると思うのですが、それは所詮、この近代社会の理想とは別のものだと思っています。もちろん、地政学的要因やナショナリズムでどうにでも動くのが国家であるビヒィーモスなんで、安心していいってわけじゃないんですが、、、、なので、ぼくは前提として、近代社会の理念が機能している中で、個々人が、徹底的に、駆り立てられて動機を底上げされて成長を、坂の上の雲を目指せといわれ続けるという中での話を常に前提としています。なので、切り捨てられるというのは、社会が切り捨てるのではないと僕はおもっていて、それは、その競争と成長に耐えられなくなった個人が、動機を磨滅させて、『降りる』ことから始まっています。これは自己責任で、よくいわれることですよね。けど、この降りたことは、マクロが強制したことなのか、本人の努力が足りなかったのか?という議論は意味がない気がします。水掛け論で、どのみち次の世代までに30−50年かけて、この構造的な問題点は、変わるか、社会改良されていくからです。まぁ社会が改良されても時代が変わると別の問題が出るもんなんですが(苦笑)。今の議論は、この個人が成長を降りることに対しての議論ですね。この責任を、このことをどう考えるのか?と。ぶっちゃければ、本人のせいか?社会のせいか?。けど、この二択はほとんど答えが出ない、無駄な議論を喚起するようだというのもわかってきました。どっちのせいでもあるから、難しいんですよ。まぁ、こんな先進近代国家の中で、切り捨てられるられないの議論は、本当はおかしな話で、そなこといったらISなんかの制圧地域とか、いま内戦をしているアフリカとか、そういう近代の価値を受け入れない場所を見捨ててほっておいていいのか?という議論が同時に無くて、自分たちだけの話しをするのはぼくは卑怯な気がします。

文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)

あっと話がずれた、、、、そんで、切り捨てられるというわけではなく、なるべく、グローバルな資本主義経済のダイナミックな成長至上主義になるべくリンクしない形での、サブシステムって、里山とか里海資本主義でいうんですが、じゃあ、何に支配されているんだ?っていると、自然に支配されているんですよ(笑)。ようは、科学と資本に支配されない代わりに、過去支配されて苦しんだ自然に帰りましょうっていっているんですよ。でもあまり帰りすぎると、やばすぎるんので、中途半端に。中途半端が悪いわけではありません。自然に支配されたら、病気になったら死にましょう。怪我したら死にましょう。日照りになったら、飢えましょうといっているようなもので、そりゃーいまさらないですよ。そんなこといってたら中世のペストのように、人口が淘汰されて現代の社会は維持できませんもん。もちろんパンデミックの危機は増しているので、そういう可能性は、つねにあるでしょう。テリーギリアム監督の『12モンキーズ』の世界ですね。宮崎駿の往年の大傑作『未来少年コナン』でもいいのですが、社会が大規模になり魔法のようなテクノロジーであまりに高度に管理され過ぎると、一つのほころび、もしくはごく少数のマッドサイエンティストの虚無への志向だけで、世界が滅ぼされて文明が無に帰す可能性があるからですね。なので、ああういう恐怖があり、ああいう物語が描かれ続けるのでしょう。

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えっともう一度本筋に戻って、では「自然に帰る」ということはどういうことか?。中途半端ではなく徹底的に、描くとどうなるか。また物語の類型の分岐点である、社会が救えなかった層が、社会にルサンチマンを持たない層、、、、まったく動機が失われてしまった層を、どう救済するの?そっれはどういう存在なの?っていうと、要は自然の支配を疑問なく受け入れていることなんですね。動機を持たないというのは、自然というマクロの支配に対して、戦う意思(=社会と組織を建設し、自然に逆らう=もののけ姫のえぼし御前ですね)を持たないということなんですよね。エボシ御前と宮崎駿が描いてきた科学者たちと逆の意志の持ち主なんですよ。おお、そう考えると、宮崎駿と全く逆の物語価値の話だとも思います。


風立ちぬ』 宮崎駿監督 宮崎駿のすべてが総合された世界観と巨匠の新たなる挑戦
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130802/p1


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ということで、この物語はそういう文脈で読むと、僕は大いなる答えに進んでいて、僕はとても興味があります。


異自然世界の非常食 1