感情の怨念とは?

アメリカの宗教保守派は妊娠中絶反対に異常にこだわっているわけですが、その背後にはヨーロッパやアジアと結託して稼いでいる東北部やカリフォルニアのリベラルへの反感があるわけです。中絶問題だけでなく、例えば同性婚への反発や、進化論への反対なども同じことです。

 どうして21世紀の今日に「進化論否定」なのか、どうして同性婚の合法化にあそこまで反対するのかというのは、文字通りの信念と言うよりも、それだけ宗教保守派の中には「グローバリズムから置き去りに」され「価値観として見下された」ことへの怨念が強いと理解すべきでしょう。

中略

そこには日本が戦前から戦後、高度成長から安定成長、そしてバブル崩壊後の「失われた10年、20年」の時代へと社会的にも、文化的にも激しい変化スピードで突っ走ってきたという問題があります。こうした戦後日本の猛スピードでの変化の反動としての疲労感という問題があるのではないでしょうか。

 日本の高齢者が時として、こうした社会価値観の問題に非常に頑固な姿勢を見せるのには「本当に苦労して人生を生きてきた自分は、もっともっと尊敬されていいし、もっともっと大事にされていい」という強い思いがあるからのように思うのです。それは、ある意味で彼らが現役世代の際に溜め込んだ疲労感がまだまだ癒されていないということではないでしょうか。

 そう考えると、例えば世代間の富の偏在という問題に関しても、自ら進んで「我々の世代は自分の人生と日本の成長が重なった幸福な世代だった」として若い世代に富を再分配しようなどという高齢者は非常に少ないのではと思います。「私たちは十分に幸福でなかった。私たちの努力はまだ十分に報われていない」という実感、そして「まだまだ長生きする中で将来には不安を感じる」という中で、蓄積した富を放棄するのは難しいと思われるからです。

アメリカの宗教保守派と、日本の「夫婦別姓反対論」の異なる点とは?
2012年02月27日(月)13時41分
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2012/02/post-404.php

なんでも合理的に、その時の環境の所与で判断したり行動できるわけでは人間はないんだろうと思う。アメリカでも日本でも、こういう世代が抱える感情の怨念を見ていないと、ダメなんだろうと思う。僕なんかは構造でものを見ようとする癖があるので、分が悪いならさっさと考え方を切り替えようと思うタイプなんですが、「そうとしかい切れれない」ようなシステムの奴隷として生きるのが、たいていの人間御宿命です。動きが早かったり、怨念を解消するほうが自由だとそれに邁進する人がいたとしても、それだってシステムの奴隷から抜け出ることができるわけではありません。人間の一生というのは、ナルシシズムが打ちのめされる、、自分の思いや夢が、マクロの環境に翻弄されて叩きのめされるのが、普通だと思ういます。なかなか、このあたりの怨念は、難しいよなぁと、最近思います。